#10 私の分も、生きて。
それから三日ほどして、約束通り、沙恵さんは病室に現れた。
双方俯いて視線を合わせないまま、どちらともなくぽつりぽつりと話し始めるナツメさんと沙恵さん。将棋の話なら多少は理解出来る事があっても、昔の思い出話には到底、ついていけるはずもない。
久方ぶりの語らいを邪魔しても悪いと、僕は部屋の隅っこのカーテンの陰に座り込んで詰め将棋の本を開き、ひっそりと手持ちぶさたを潰す事にした。
した……けれど、薄い壁一枚すら隔てていないこの状況では、会話の内容なんて筒抜け。本に集中出来るはずもない。
行儀が良くないと分かってはいたが、ついつい僕は二人の会話に耳を傍立ててしまっていた。
「ごめんねナッちゃん、本当は私もナッちゃんが努力してた事、知ってたんだよ……」
初めて耳にする、沙恵さんの心底すまなそうな声。
「私が怒って出て行った後、ナッちゃんが倒れたって聞いて。きっと私のせいだって、私があんなこと言ったからナッちゃんは具合が悪くなったんだって、ずっと悔やんでたの」
「でも意地になって謝れなくて、この前ナッちゃんが将棋会館に来た時だって意地悪言っちゃって……そんなを事しか出来ない卑屈な自分が嫌いだったの」
僕に対しては冷淡でいつも挑発的な態度だったけれど、恐らくは、これが、本当の沙恵さんなのだろう。誰よりも信頼しているナツメさんにだけ見せる、臆病で気の小さい、沙恵さん本来の姿。
「ナッちゃんに言ったことが心のどこかに棘みたいな感じでずっと刺さってて。友達にあんな事を言っちゃった自分に、女流棋士になる資格があるのかなって、ずっと思ってた」
「何言ってんのよ……」
言葉上は呆れているようだったけれど、ナツメさんの声は笑っていた。
「良いに決まってるじゃない。サッちゃんがどんなに努力してきたのか、私は他の誰よりも知ってるつもりよ?」
「周りの才能のある男棋士達が酒に酔い潰れている時だって、私達、歯を食いしばって一緒に研究したじゃない。スマートフォンなんて便利なモノがまだ普及してなかった頃だって、私達、夜遅くまで電話口に立って空将棋を指したじゃない」
今はもう何も乗っていない机に、十センチほど開けられた窓。入り込んで来た風がふわりとカーテンを舞い上げ、一瞬、その向こうに二人の姿が見えた。
シーツに顔をうずめた沙恵さんの頭を、穏やかな微笑みを浮かべたナツメさんが優しく撫でている。白くほっそりとした腕が、沙恵さんの茶色がかった黒髪をそっと梳る。
「だから、これは私からのお願い。サッちゃん、女流棋士になって。私の事で悔やんでいるって言うなら、棋士になれなかった私の分も頑張って。ね?」
「ナッちゃん……ナッちゃん……」
それから先は、もう声は聞こえなかった。静かな病室の中で、ただ沙恵さんの嗚咽だけが響いていた。
† † †
ようやく落ちついた沙恵さんが病室を去った後、病室は再び僕とナツメさんの二人だけになった。
もう幾度となくも繰り返してきた状況、でもそれが静寂で満たされているのは今日が初めて。
居心地の悪さに身じろぎしながら、けれどどうする事も出来ず、僕は詰め将棋の本を睨み続ける。印字された白黒の盤と文字の羅列の表面をただひたすら、機械的になぞり続ける。ページを繰る音がやけに大きく響いて聞こえた。
「屋上、行きましょ」
ぶっきらぼうに一言だけ言い放って立ち上がったナツメさんの後を、神妙な表情を浮かべ、黙ってついていく僕。
「……………………」
「……………………」
大きな直方体の箱から伸びた幾本もの太い鉄パイプ。その隙間を埋めるようにして置かれている小さめのプランター。隅の方に設置されている、ガラスで囲まれた狭い喫煙スペース。
いつぞやと何一つ変わらぬ光景。あの時と同じように、アクリルホワイトの貯水タンクの上に腰掛けても尚、ナツメさんは一向に話し出す素振りを見せない。
所在なく、僕も貯水タンクの脇に座り込んだ。
時折吹き付ける風が思い出したように薄いパジャマの裾を揺らす瞬間だけ、僅かに静寂が破られ、そしてまた二人きりの屋上に静けさが戻る。
そうしてお互い無言のまま、五分くらいが経過した頃だろうか。ナツメさんは再び立ち上がった。
「……、あの」
「はぁぁぁああ…………!」
いい加減沈黙に耐えきれなくなって話しかけようとした僕をちょうど遮るかの如く、思いっきり空気を吸い込んだナツメさんは、次の瞬間、盛大に息を吐き出した。
「全くもう、余計なことしてくれちゃってッ!!」
「まだ将棋を始めたばかりの素人が、よりにもよって研修会員相手に『真剣』を挑むとか、一体どんな神経していたらそんな発想になるのよ!? 今回はたまたま勝てたから良かったようなもので……」
「……すみません」
大量に飛んで来る言葉の礫を素直に受け続ける。
確かに今回の事は一切ナツメさんに相談せずにやったことだ。沙恵さんの訪問には驚かされただろうし、予期せぬ事態による混乱は体にも結構な負担を掛けただろう。迷惑を掛けた事は謝らなければならない。でも、後悔はしてはいなかった。
――だって、ほら。
僕を責める台詞の内容とは裏腹に、ナツメさんの声の調子は無邪気な少女のように弾んでいたし、その端正な顔の上には、確かに清々しい笑みの形が浮かんでいる。
ひとしきり文句を言ってようやく気が落ちついたのか、再び貯水タンクの上に――今度は乱暴に腰を落とすナツメさん。ボゴンッ、と音を立てて盛大に凹んだ貯水タンクに、自分がやった事のくせをして小さく肩を跳ねさせ、その様子を見られていた事を思い出して、慌ててそっぽを向く。
……何というか、いつものナツメさんだった。
破天荒だけれど優しくて、頼りがいがあって、そのくせ、変な所で抜けていて。そんなナツメさんが、僕は好きだった。
再び静寂が訪れる。でも今度の静けさは全く居心地が悪くない。
「……ありがと」
耳を澄ましていなければ聞こえないほどの微かな声が聞こえた。
「恭一が居てくれなかったら、きっと私、死ぬまでサッちゃんとの事、引きずったままだったと思う」
「あの時こうしていたら、こうしていなかったら。そうやって悔みながら、きっと死の瞬間を迎える事になっていたと思う」
ナツメさんはそっぽを向いたままの姿勢で、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「……そうですか」
「ええ、そうなのよ。だからね、私が安らかな気持ちで死ぬ事が出来るのは、キョウイチのお蔭」
「……ナツメさんの役に立てたなら本望ですって」
「本当に……ありがとう」
再び訪れた心地の好い静寂が、ほんわりと屋上を支配する。秋の訪れを感じさせる清々しい風が、時折、二人の周囲をさぁーっと吹き抜ける。
「あー全くもう、ずっと変な姿勢してたら首が痛くなっちゃったじゃない! 一体どうしてくれるのよ!」
「……いや、それ僕の所為じゃないですからね?」
「ッ、良いからキョウイチは黙って私の言う事を聞いていれば良いのよ!」
「はぁ、だからどうしてそうな……」
「おんぶ、おんぶぅーッ!」
「もうそれ首が痛いのと全く関係ねぇッ!?」
仕方なく、すっかり幼児退行して駄々を捏ね始めてしまったナツメさんを背中に負ぶる。
ナツメさんの身体は驚くほどに軽かった。
「余命一ヶ月で具合が良いも悪いもないんだろうけど、でもやっぱり、自分より年下の男の子に弱っていく姿を見せたら『負け』な気がしたのよねぇ」
「何ですかそれ」
背負われて、いつぞやのようにじっと遠い空を見つめるナツメさん。でも今度は、どこかに行ってしまいそうな不安は無かった。ナツメさんはこの場所にいる。死の一歩手前にいる病人だなんて関係なく、そこには確かな存在感があった。
「そう言えば、今回の賭けのご褒美はどうしようかしらね」
「……あれ、賭けなんてしてましたっけ?」
「ええ、してたわ。しかもねぇ、今回の勝者はキョウイチなのよ」
「――誰もが『不可能』に賭けていた局面を、当人達の意向なんて全部無視して暴れ回って、とうとうたった一人で引っくり返しちゃったんだもの。そりゃあ、キョウイチの一人勝ちに決まってるじゃない」
「……何の話ですか?」
「良いの良いの。それで、キョウイチ君は一体何が欲しいのかな? お姉さん、今なら何でも聞いちゃうわよ?」
芝居がかった台詞を僕の耳元で囁くナツメさん。生温かい吐息が鼓膜をくすぐる。
当たり前のように言葉を発して、冗談を言って笑い合って。だからこそ、ナツメさんが死んでしまうなんて事は、どうしても信じられなくて。
――僕は、一番言ってはいけないことを言ってしまった。
「それじゃあ……生きてください、ナツメさん」
「ッ……………………ごめんね」
表情に暗い影を落とし、そっと目を伏せるナツメさん。
叶うはずの無い願いだなんて事は最初から分かっていたのに。でももう、耐えられなかった。
ナツメさんを下ろすなり、その場で座り込んで泣き出してしまった僕を、柔らかく、そして温かな感触が包み込んだ。
ひたすら泣いた。『悲しい時は泣く』なんていう年齢は、もうとっくに卒業したはずなのに、僕は幼い子供みたいに泣きじゃくった。薬の匂いが染みついた淡いピンク色のパジャマを、力の限り抱き締め続けた……
いよいよ次の話で最終回です。