#01 不思議なお姉さん
トゥウェンティ・ナイン、遂に連載開始しました! よろしくお願いしますm(_ _)m
響き渡る蝉の声。まだ朝にもかかわらず既に高い位置にある夏の日差しが、窓のサッシに反射して眩しく照り返す。
何げなく視線をやった先、枕元に置かれた目覚し時計が指す時間は七時半。
「早く起きないと遅刻するわよ!」
「……うん」
学校指定の白ワイシャツに着替えるのもそこそこにして、向かった食卓。ダイニングテーブルに用意されていた牛乳を立ったまま一気に喉へと流し込み、目一杯大きく開けた口に食パンをねじ込む。
「恭一、まだ進路希望の用紙提出してないんだって? 昨日先生から連絡来てたわよ」
冷蔵庫の扉の前で何やらごそごそと動き回りながら、話し掛けて来た母親。心配そうな口振りに若干の苛立ちを覚えながら、黙々と口内の食パンを咀嚼する。
「あんたもうすぐ高校三年生になるのよ? せめて理系に進むか文系に進むかくらい決めてくれないと、先生だって困るでしょう?」
「……だってやりたい事なんて無いし」
ずっとそうだった。教育熱心な母親の方針で、小学校の頃から水泳スクールやピアノの個人レッスンに通った。将棋教室や空手道場なんてモノにも通わされたけれど、全部すぐに飽きた。
地元の公立中学でもやりたい事は見つからず、母親の勧めるがまま、取り敢えず受験をしてそこそこのレベルの高校に行った。クラスメイトの真似をして適当な運動系の部活に入ったが、そこでも全く楽しさは感じられず、三ヶ月ほどで退部した。
特に勉強が嫌いという訳ではなかったが、大学に行ってやりたい事がある訳でもなかった。だから先月末に実施された大学進学調査の用紙を白紙のまま提出したら、その夜、家に電話が掛かってきた。
その一件は何とか落着したのだが、その日以来、母親はすっかり心配性になってしまい、「専門職を目指す訳でも無いのに高卒じゃあ、今時まともな仕事にありつけないわよ」というのが最近の口癖になっている。
「ねぇ、あんた本当に分かってるの?」
自分でも自覚はしているつもりだった。高校も残り一年と半分。本当に大学に行くつもりなら、そろそろ受験の前準備くらいは始めなくては間に合わない時期。
『自分探しの旅』だなんて悠長な事を言っている場合でもない。
焦る気持ちが無いはずはなかった。
「今日こそはちゃんと進路調査用紙、出してきなさいよ?」
再び母親の声。先程よりも少し語調が荒く、音程が高くなっていたそれが耳に届くのと同時に、自身の中でもやもやとわだかまっていた何かが、すっと溢れ出た。ゆっくりと僕を侵食していく、爆発的に弾けるのとは少し毛色の違う静かな感情の昂り。
どうしてこの人は毎日毎日、進路進路と騒ぎ立てるのだろう。
自分の進路くらい、ゆっくり自分で決めさせてくれたって良いじゃないか。
「……今日はもう、学校行くつもりないから」
自分の通っている高校は自宅から片道一時間以上も掛かる場所にある。もともと今から急いだ所で、かなりの無理があるのだ。ましてや、こんな茶番に時間を取られていては、到底間に合うはずなど無い。
「何よ、その言い草は! 親に対しての口の利き方っていうのを弁えなさい!」
一気にヒステリックの度合いを増す母親の叫び声。それを適当に聞き流して、昨日家に帰って来た時に脱ぎ捨てて以来、ツヤ木の床の上に放り出されたままになっていたネクタイをひっ掴む。
「って、ちょっとあんた、鞄も持たないでどこに行くつもりなのよ! 恭一!?」
逃げるようにして家を出た。
行く先も決めずに歩いていると大きな川にぶち当たり、そのままひたすら川沿いを歩き続けて、もうじき陽が頭上に差し掛かろうという頃。気がつくと、僕は郊外のそこそこ大きな病院の前に立っていた。
そこは風邪や骨折などの比較的軽く治りの早い体の不調から、呼吸器疾患や心臓疾患などの重い病気までどんな類の病気にも対応する事が出来る、いわゆる総合病院と呼ばれている場所。
けれど風邪やインフルエンザの時には近所の小さなクリニックで済ませてしまうから、実際に僕がこの病院を来た事は生まれた時を除けば中学の時、休日に体調を崩して当番医を尋ねた一回きりだった。
確かその時は母親の運転する車でここまで来たはずだ。徒歩なのにもかかわらず、どうやら相当離れた場所にまで来てしまっていたらしかった。
「暑い……」
今までぼーっとしていた頭が遅まきながらもようやく働き出すと、途端に暑さが体に堪えた。抱えるワイシャツの半袖から出た自分の痩せた腕に、うっすらと汗が滲んでいるのが見える。
辺りを見回すも、近くに見えるのは自分が入れそうな建物は壁が黄色く変色した小さな公衆便所と、黒々としたアスファルトが鈍く日射しを照り返す病院併設の駐車場のみ。エアコンの効いた涼しい空間など望むべくもない。
健常者である自分が何の用もなしに病院に立ち寄るのは心苦しかったが、この際そうも言っていられなかった。
「まあ、この場で自分が倒れたとしても、目の前のこの病院に運び込まれるんだろうから、結局は同じ事だろうし……?」
そんな、少々無理矢理すぎる理屈をぽそりと呟いて、僕は病院に入る事にした。
前に立つと、見ているのがもどかしくなるくらいのスピードで、ゆっくりと開いていく自動ドア。
一斉に視線がこちらへと集中する。平日のまだ午前中にも関わらず随分賑わっているようだったが、そのほとんどがお年寄り。視界の端に一人だけ、大きなお腹を優しげな手付きでさすっている女性が見えるだけ。
そんな中に一人だけ学生がいるというのは否応なしに目立つ。親への当て付けのつもりだったとはいえ、制服を来てきたのは失敗だったかもしれない。少し後悔した。
羞恥に耐えつつ、いかにも総合病院といった感じで何人もの看護士が忙しそうに動き回っている広い受付の前を足早に通り過ぎ、正面奥に設置されたエレベーターに乗り込む。
とにかく一刻も早く、この好奇の視線から逃れたかった。
何も考えずに、とりあえず一番上の階のボタンを叩く。数瞬の後、ロープを巻き上げるしゅるしゅる、という音と共にゆっくりと上昇を始めるエレベーター。
「へぇ……」
最上階は屋上になっていた。おそらくは貯水タンクなのであろう、大きな直方体の箱から伸びた幾本もの太い鉄パイプが所々に床を走り、その隙間を埋めるようにして小さめのプランターが置かれている。隅の方に、ガラスで囲まれた狭い喫煙スペースがあった。
病院の屋上は飛び降りを防ぐ為に、その多くは立入禁止になっていると聞いたことがある。けれどこの病院は珍しく、患者が自由に立ち入っても良いようだった。
「あら、珍しいわね。こんな所に人がいるなんて」
不意に後ろの方で、女の人の声がした。驚いているとでも言いたげな台詞にしてはひどくノンビリとした、その声へ反射的に振り返ると、アクリルホワイトの貯水タンクの上に、ピンク色のパジャマを着た一人の女性が座っていた。
透き通るような白い肌に、切れ目の長い二重瞼。自然な感じに後ろでアップに纏められた長い黒髪が、ハツラツとした雰囲気の中に清楚な淑やかさを醸し出している。
決して人目を惹くような華やかさがあるわけではないが、強風に揺られる一輪の白百合のような、どこか儚げな美しさを含む、そんな女性だった。
三十代……には見えない。二十代後半くらいだろうか? 屋上に人がいるというのも十分に衝撃的だったが、それ以上にまだこの病院内でお年寄りと妊婦さんしか見ていなかった俺にとっては、この病院に普通の若い女性がいるという事の方が驚きだった。
パジャマを着ているということは、この病院の入院患者なのだろうか? けれどそれにしては、入院患者お約束の、チューブや点滴がぶらさがっているスタンドがどこにも見当たらない。……ひょっとすると宿直明けの医者か看護師だろうか?
「ねぇねぇ、君、どうしてこんな場所に来たの? 見た感じ特に具合が悪そうにも見えないけど。学校サボリ?」
「別に大した理由なんてありませんよ。たまたま病院の傍を通りかかって、たまたま展望室へ寄りたくなったからこの場所に寄った、ただそれだけです。……それに、病人らしくないのはあなたも同じだと思いますが?」
どうでもよい思考に浸っていく中途の、ちょうど気の緩んだタイミングで話し掛けられて、つい刺々しいセリフが口を突いて出る。
どうやら僕の中では、まだ朝の母親との遣り取りを引きずっていたらしい。しまった、と思ったけれど、お姉さんが特に僕の口振りを気にした様子はなかった。
「あはは、それもそうねぇ。……でもね、私、こう見えてもれっきとした病人なのよ」
「……全くもって、そんな風には見えないんですが」
ひょっとして、自分はからかわれているのだろうか? 少しむっとしたが、そんな感情は次の瞬間に消し飛んだ。
「余命三ヶ月。それが医者から受けた宣告よ」
何の前触れも気負いもなく、その女の人は言った。
死ぬという事について、正直、俺はよく分からない。まだたった十六年しか生きていない自分に、理解出来ようはずもない。
けれど一つだけ俺にも分かるのは、死ぬという事が、未来を絶たれることだという事。生きていれば巡り逢えるかもしれない希望や可能性を、一つ残らず失ってしまうということだという事だ。
そんな重大なことを、日常の何でもないことを友達と話す時のような気軽さで告げた女の人。何と返せば良いのか分からなくなって黙り込んでしまった僕の耳に、再び女の人の声が聞こえた。
「……まあ、会った途端にこんな話されたって、困るだけだろうけどね」
「そんな事は……」
再び返答に窮する僕。正直に『ある』と答えるのは流石に失礼に当たるだろうが、『ない』と言えば嘘になる。世の中には一定数、このような人たちがいるという事は知っていたが、話に聞くのとこうして実際に会うのとでは大分違った。
けれどやはりというべきか、お姉さんが僕の不審な挙動を気にした様子はない。その代わりに一つ、質問を投げ掛けてきた。
「それよりさ。……君、将棋は指せる?」
「……一応は指せますけど、でも何故ですか?」
お姉さんの問いは、あまりにも唐突すぎるモノだった。
僕の持っている将棋のイメージは、伝統文化の中では比較的名の知れたボードゲームという程度。いかにもといった感じな中年のおじさん相手ならいざ知らず、少なくともスマートフォンとパソコンにどっぷり浸かった今時の学生に聞くような事では無いと思った。
「だって君、将棋の駒を身に着けてるじゃない。ほら、そのキーホルダー」
確かに僕の学生服のズボンのベルトには、将棋の駒の形を模したキーホルダーが付いていたけれど……
「……これは天童に遊びに行った友達から貰ったお土産ですよ」
「あら、そうだったの。私はてっきり彼女さんから貰ったものかと……」
「……彼女がいるような学生が、朝からこんな所で一人で学校サボッていると思いますか?」
「うん、思わないわね。全然思わない。思うワケないじゃない何言ってんの君」
「性格変貌しすぎだろッ!?」
「あはは、冗談冗談。……でもまあ、良いじゃないの。死にかけの人間の戯れに少しくらい付き合ってくれたってさ」
勘違いした照れ隠しのつもりだろうか、曖昧な笑顔でそう言われてしまうと強くは断れなかった。指せると言ってしまった事もある。
将棋なんて、小学生の頃、教室に置いてあったプラスチックのちゃっちい盤で二、三回遊んだことがあるくらい、基本的なルールは知っているという程度。
それにも関わらず将棋を指せると言ったのは、空気を読むことが苦手な僕にも、この気詰まりな状況を打開したいという気持ちがあったからなのか、或いは、単なる気まぐれだったのか──。
「やった! それじゃ、早速指しましょうよ」
余命三ヶ月という状況におかれながら、子供のようにはしゃぐ女の人。普通に考えれば同情すべき辛い事なのだろうけれど、その時の僕には何故か、お姉さんがとても眩しい存在のように思えた。眼を背けたくなるけれど、それと同時に羨ましさが湧いてくるような……。つい、意地悪をしたくなった。
「いいですよ。でも僕は何も旨みがない勝負はしない事にしているんです。僕が勝ったら、あなたは僕に何をくれますか?」
「そうだね……もし、君が私に勝ったら、その時は……」
顎に手を当てるという、いかにもなポーズで考え込む女の人。ややあって顔を上げると、僕に向かって静かに微笑んだ。
「──私の未来をあげるわ」
「将棋盤と駒は私の病室に置いてあるわ。さ、早く行きましょ!」
無邪気な笑みを浮かべ、僕に向かって手を差し出す女の人。少し気後れを覚えつつも、その手を取った。
こんなにも無邪気な笑い方が出来るのに、時折、翳りのある笑みを見せる、どこかミステリアスな女の人。余命残り一ヶ月だという彼女の手は、今にも折れてしまいそうなくらいにほっそりとしていて、けれど確かな温かみを持っていた。
気まぐれで訪れた病院で出会った、お姉さんの手を取った日。長い夏が、始まろうとしていた……。
次話の投稿は明日のこの時間帯を予定しています。