世界が終わる日
雨模様の空。僕は赤点対策には傘だな、と、ゆるりと傘を差した。
ぽたぽたと粘着質な雨が傘へと零れ、滴り、辺りに生臭さを充満させる。
全く、こんな世界じゃあ、明日が見えない。
「あら、お腹の空く香りね」
「そうだね」
僕は、僕の隣で傘を差した女性に相槌を打つ。
本当は空腹感よりも、痛烈な喉の渇きの方が近いのだが、その辺は個人差なのだろう。
彼女の白いワンピースには、赤い点がいくつも付着している。折角の赤点対策の傘も、意味を成してはいないようだ。
「いつまでこんな生活を続けるのかしら」
「さあね」
僕が肩をすくめて見せると、彼女はそっと傘を畳み、僕の方へとすり寄った。
赤い雨が降る中での相合傘。少々ロマンチックかもしれない。
「ねぇ、始祖様。部屋に行ってもいい?」
「いいよ。ここはとっても……血が充満しているからね」
一つの傘に二人で入れば、折角の対策も何の意味も持たず、互いの肩を赤く濡らした。
漂う香りが僕たちから放たれているのか、それともこの世界から放たれているのか、全くもって分からない。
ただ分かるのは、何が原因だったか、だけだ。
部屋の暖炉に火を入れる。
窓越しに見える筈の外は、雨により、完全に遮断されていた。何しろ、最近の雨は赤いのだ。それも時間が経てば黒くなる。
こんな雨が窓を叩けば、じっとりと張り付き、色を変え、外と内を隔離してしまうのである。
「寒いね。今お茶を淹れよう」
「いいのよ、始祖様。ここで一緒に温まりましょう」
「……それじゃあ、そうしようか」
基本的に、僕は彼女に対して抗わない。僕を始祖と呼ぶ彼女を、僕は嫌いになれないからだ。
二人並んで暖炉の前に座り込めば、オレンジ色の炎が僕たちを照らす。
「温かいわ」
「そうだね」
「私、昔は家族でこうして暖炉の前で温まっていたの」
珍しく彼女が、昔話を口にした。僕は黙って頷いて続きを待つ。
「……私が、食べてしまったのよ。我慢できずに」
「そう。辛かったね」
僕は適当な相槌を打つ。
かつては僕も彼女も、人間と呼ばれていた。
それが今はどうだろう。僕は始祖と呼ばれ、彼女は吸血鬼だ。
「僕は、知っての通り始祖……最初にウイルスにかかって吸血鬼になった人間なんだけどさ」
なんとなく。ただ雰囲気に飲まれただけ。
僕もぽつりと過去を語る気分になった。隣で彼女が「うん」と頷いた。
……数年前、とあるウイルスが発生した。
やれ、新型インフルエンザだ、やれ新型ノロウイルスだと騒がれていた中で、完全に新しい、特効薬も何もないウイルスが現れ、罹った人間は次々に倒れ、高熱を出し、八割が死んだ。
生き残った二割は、血液以外を栄養として受け付けない身体になった。血を飲まなければ喉がひりつく。耐えられない。
その衝動から、残りの二割は、自分に一番近い人に噛みついた。
「まずは母を噛んでね。母に感染してしまったんだ」
どうやら生き残った人間が噛みついた人間にもそのウイルスは感染してしまうようで、全員もれなく高熱を出し、七割が死に、三割が血を求めるようになった。
「母は次に父に噛みついて、父は死んでしまったよ」
こうして、どんどんウイルスに感染する人間が増えていく。
父は死んでしまったが、父以外の三回目に噛みつかれた人間の四割は生き残り、血を求めるようになったのだ。
ただ、最初に感染した人間から、四回目、五回目と離れていくほどに、理性を失くし、血を求める獣となる。
そしてすっかり人間の少なくなった今の世界で、僕たちは吸血鬼と呼ばれ、その中でも最初に感染した僕達を始祖と呼ぶようになっていた。
「母は、色々と耐えられなくなったようでね……。血を求めずに、死んでしまった」
「そう、だったの」
外から悲鳴が聞こえる。
また飢えた獣の吸血鬼が人間を襲い、血肉を貪っているのだろう。
こういう事が多くなったから、外に出る時は汚れないように傘をさす必要があるのだ。
「あぁ、死にたいな」
「血を求めなければ死ねるわ」
「そうだね」
吐露した心情、隠した事実。
死にたいのは事実だが、本当はいつだって死ぬことが出来る。
けれど僕は、彼女にもっと隠している事がある。
このまま血を吸い続けようが、吸わないでいようが、結果が同じ……死であることを、僕は知っていた。
「ねぇ、始祖様」
「何?」
彼女が僕の肩に凭れ掛かる。
「愛しているわ」
「ありがとう。僕もだよ」
甘い告白。こんな吸血鬼になり、被害を拡大させた僕が、こうして恋人ごっこをしているのにも理由がある。
もうすぐこの世界が終わる事を知っているからだ。だったらせめて、人間らしく終わりたい。
たったこれだけの理由だが、僕はこの関係を止める事は出来なかった。
……吸血鬼の数が増え、人間がいなくなる。つまり、餌が無くなるのだ。
後はもう、共食いを始めて、いずれはこの世界からは何も無くなる。きっと最後は、砂の一粒も無くなって、文字通りリセットされるのだろう。
「ねぇ、始祖様」
「なに?」
彼女は肩に凭れながら、僕の手を握る。
「我慢できなくなっちゃった」
「そう……。うん、いいよ」
僕が頷くと、彼女は握った僕の手を口元へと運んだ。儀式めいたキスを落とし、それから鋭い牙で噛みつく。
不思議と痛みは無い。これが人間ではない証拠。
僕は噛みつく彼女の頭を撫でながら、小さくため息を吐いた。
「空しいね、こんな世界は」
彼女の目は、僕の手しかもう見えていないだろう。ぐちゃぐちゃの、肉塊と化している僕の手しか。
そもそも、先程血を浴びてしまった。この匂いが部屋に充満していたのだ。
始祖ではない彼女が、我慢できなくなって当然だ。
けれども僕は、昔の幸せだった時代を思い出し、それからまだ見ぬ終わりへと思いをはせた。
早くこの世界が終わればいい。
僕はもう、自ら死を選ぶ気力すらなくなってしまったから……。