プロローグ
ザーザーと音を立てて、雨が降りしきる。
ーー何で自分はこんな所にいるんだろう。
そう、少女は自問自答した。
少女が纏うその服は、身の丈に合っておらず、ぶかぶかとしており、例えて言うのならーー大きかった『何か』が小さくなった、と言うべきなのだろう。
そんな少女の肩には大きなカバンが掛けられており、背の低い彼女は、ずるずると引きずっていた。
少女の瞳は何も映していなかったーーいや、映さなくなった。水溜まりで己を見て、周囲を見て、判断したのだ。
ーーああ、そうか。
と。少女の中にあるこの姿になる前の記憶は酷く曖昧で、無理して思い出さない方がいいと、彼女はすぐに理解した。
それだけではない。
少女が覚えていたのは、十七歳という実年齢と、今いる場所が自分の良く知る場所じゃないこと。そして、名前。
時折、雨の中を走っていく者もおり、少女はそれを淡々と見ていた。
「ん?」
だが、そこで一人の男が少女に気づく。
「君、一人なのか? 両親は? 一緒じゃないのか?」
少女は、両親は、という問いに首を横に振り、一緒じゃないのか、という問いに、首を縦に振った。
「とはいえ、勝手に連れて行くわけにもいかないしなぁ」
困ったように唸る男に、少女はじっと見つめる。
《ロイド・ディライト 職業:商人》
男の近くに表示された『ステータスのようなもの』に、それを見た少女は自分の目を疑ったが、そんなことよりも彼女の中にあったのはーー
(私は、この人のことを知っている)
初対面のはずなのに、少女は男ーーロイドのことを知っていた。
知識から言えば、信頼しても問題はない。
だが、人間というのは本性を隠すのが上手いので、その知識を鵜呑みにするわけにはいかない。
「うーん……」
こんな大雨の中、人の目の前で迷わないでほしい。
「……ここから、連れてって、くれるの?」
少女は、半分期待の眼差しを向けながら問う。
「……うん。やっぱり、このままだと風邪を引くし、自警団に届け出とけば大丈夫だよな」
決意したように頷くロイドに、少女は溜め息を吐きたくなったが、助けてくれなくなる可能性もあったため、何とか耐えた。
「ほら」
差し出されたロイドの手に、少女は戸惑いながらも手を重ねた。
☆★☆
数年後。
石畳の上を、地図が書かれた紙を左手に、やや大きめのバッグと旅行用かばんを右手に持ちながら歩いていく。
「ったく、何で一人で行かせるかなぁ」
そう愚痴りながらも、地図にある店名と建物の看板を確認しつつ、ユイは一人歩いていく。
実はこのユイ、数年前に商人の男に助けられた少女でもある。
「にしても、よくもまあ、得てきたよなぁ」
この地に来るまで、ずっと思い、何度も言ってきたことだが、やっぱり不思議でしかない。
「つか、目的地に着かないって……」
方向音痴ではないから大丈夫だと思っていたのだが。
「だーいーたーい、買い物ぐらい俺だって出来るっつーの!」
「そうは言うが、お前、途中で買う物忘れるし、自分の欲しいもの、買おうとするだろうが」
「それの何が悪いんだよ」
そう言い合いながら、金髪の少年と黒髪の青年がユイの横を通り過ぎていくのだがーー
「ん?」
「何?」
「うん?」
先に気づいたのは少年と青年であり、数秒遅れてユイも気づいた。
「アヒァッアヒァッ! ヒァッハー!!」
「チッ、こんな時と場所で現れやがったか!」
何かが爆発したかのような音がした後、立ち込める煙の登る方向から来た存在ーー目を赤く光らせた、狂ったかのように奇妙な声を上げる男に、少年が舌打ちし、青年は顔を顰めた。
「……避難誘導してくる。こっちが完了するまで、お前は奴の相手をしてこい」
「ああ!」
即座に役割分担をした二人を、ユイは何の感情も浮かべずに見ていた。
「少しの間、俺と遊んでくれよ?」
にっと笑みを浮かべた少年はそう告げると、身軽であることを教えるかのように、器用に相手の周囲を舞いながら、上手く翻弄し始める。
「まさか、この程度じゃねぇよなぁ?」
先程までのテンションはどこへやら、静かになった相手に対し、ニヤリと笑みを浮かべる金髪の少年。
「随分と余裕だなぁ」
ユイはぽつりと呟くと、目をやや細める。
《ルーク・ヴェルド 職業:守護者》
「……守護者、ね」
続いて、ユイが目を向けたのは、黒髪の青年。
《ユーリ・ランドロス 職業:守護者》
「あの二人、同業者だったのか」
一人納得するユイだが、目を向ける度に情報を与えてくるため、ユイ自身が耐えきれず、ロイドに引き取られてから、この能力をコントロールしきるのに、一年近く掛かっていた。
ユイにしてみれば、正直、二人の職業などどうでもいいのだが、狂ったかのような男は無視できない。
(少しだけ手助けしてやるか)
一度旅行用かばんから手を離し、手を下げたまま、小さく指を鳴らす。
「後はまあ、頑張れ」
そう言って、誘導している青年ーーユーリの方に向かおうとしたときだった。
「ーーッツ!!」
「っ、」
吹っ飛ばされてきたのか、金髪の少年ーールークがユイの目の前に飛んでくる。
さすがに、そのことには驚いたユイだが、ハッと彼が来た方を見てみれば、狂ったかのような男がこちらに向かってきていた。
「ちょっ、君!」
慌ててルークに声を掛けるが、返事が返ってこないことから、それなりにダメージがあったらしい。
「ああもう!」
ユイが叫ぶ。
ルークの代わりに戦うことは可能だが、来て早々悪目立ちだけはしたくないという思いが、ユイを動かさなかった。
「ヒヒッ」
どうやら男は、ルークだけではなく、ユイの姿も捉えたらしい。
「っ、マズーー」
男が手にしていたナイフを振り下ろそうとするが、ユイに届くことはなかった。
ユーリが男を蹴り飛ばし、ルークがユイを突き飛ばすような勢いで、抱きしめるように助けたからである。
「……全く。俺、避難誘導が終わるまではこいつの相手してろ、って言ったよな?」
「すまん。正直、油断した」
そう話す二人だが、服を引っ張られ、ルークがそちらを向く。
「そろそろ、放してもらっていいですか?」
「あ、ああ……」
ユイの言葉に、ルークは彼女を解放する。
ただ、角度のせいで上目遣いみたいになったからなのか、ルークはやや照れていた。
「ヒャッヒャッヒャッ」
その声に反応して、三人はそちらを見る。
「ルゥジュ~」
「え?」
ユイを見ながら誰かの名前を呼ぶ男に、ユイは思わず声を洩らし、ルークとユーリはユイを見る。
「何でだよォ。何で……」
顔を伏せたかと思ったら、バッと顔を上げーー
「俺を捨てたァァァァアアアア!!!!」
そう叫びながら、ユイに切りかかる。
「悪いが……今のお前に、この子は渡せない」
ルークがユイを背後に回して場所を入れ替わり、ユーリがさらに前に出てそう告げる。
「お前、あいつと知り合い……なわけないか」
「知りませんよ。ついさっき、この街に着いたばかりですから」
ルークの確認するような問いに、ユイはそう返す。
「それに、『ルージュ』なんて名前でもありませんし」
男のデータを読み取ろうと目を細めるユイだが、ほとんどが文字化けして解読不可能だった。
「嘘ダァァァァ! ルゥジュゥゥゥゥ!!!!」
男は叫ぶ。
「そもそも、その『ルージュ』って人、私と似たような見た目の人なら、マズくないですか?」
ユイの見た目は十代前半、対する男は二十代後半から三十代前半ぐらいである。
「人の好みに文句を言うつもりはないですけど、公の場で言うのはどうなんですかね」
「あー、うん。そうだね……」
ユイの言葉に、ユーリは苦笑する。
「まあ、似てるだけで見間違えてる可能性もあるがな」
「そうだといいんですけどね。……そもそも、最初に私を見て、切りかかってきた時に、今みたいに『ルージュ』って人だと、気付かなかったというのもおかしいですけど」
気になることを含めながら、そう返しつつ、ユイは二人から少しずつ距離を取る。
助けてもらったお礼を言えないのは残念だが、これ以上関わると色々とマズいと判断したのだ。
『グルルルル……ルゥジュゥゥゥゥ!!!!』
ミシミシと音がした後、男は叫び、その姿は獣のようなものへと変化していく。
「とりあえず、どこかに……って、いない!?」
「ルーク、余所見するな!」
ぎょっとするルークに、ユーリが声を掛ける。
「ったく、こっちは助けてやったっつーのに、礼の一つも無しかよ!」
そう言いながら、ルークは獣と化した男の攻撃を避ける。
「文句を言いたいのは分かるが、さっさと片付けて、頼まれた買い物を再開させるぞ」
「だな。まだ何も買ってなくて、良かった。もし何か買ってたら、買い直す必要があったかもしれないからな」
にっ、と笑みを浮かべて、ルークは言う。
そして、先程と同様に、相手を翻弄するために走り出す。
(買い物ついでに、あの子も捜してみるか)
来たばかりだと言うのなら、日が落ちる前までは捜せるだろう、と思いつつ、ユーリも駆け出すのだった。
☆★☆
「やれやれ。避難してきて正解か」
位置を移動したユイは、そう告げながら、ルークたちの戦いを見る。
「けど、まさか獣化するとは。サポートのために掛けた奴、解除されちゃったなぁ」
だが、ユイに困った様子はない。
「……」
無言で戦闘の様子を少し眺める。
「……お礼は、するべきだよね」
ユイは旅行用かばんとは別の、もう一つ持っていたバッグから、やや曲がった棒を取り出す。
「また後で会うことも想定するのなら、避けるべきなんだろうけど……」
棒に付いたスイッチを押せば、巨大化した上に曲がっていた部分が伸び、大きな弓のようになる。
そこに矢は無いものの、ユイが放つための構えを取れば、光の粒子が矢の形となり、放つ準備は整えられた。
「獣化は解いても、解決するわけじゃないから、後は頼むよ。守護者さんたち」
タイミングを計り、ユイは矢を放つ。
放たれた矢は、きちんと獣化した男に当たり、それと同時に光の粒子となって消えた。
『グググ……ギャアアア!!!!』
「何だ!?」
苦しそうに声を上げた男に、ルークたちは警戒して距離を取るが、攻撃してくる様子はない。
「なっ!?」
だが、それと同時に驚きの光景を目にすることになった。
「獣化が、解けた……?」
顔を見合わせる二人だが、油断せずに相手を観察する。
「何で……何でなんだよォ、ルゥジュゥゥゥゥ!!!!」
再び声を上げる男だが、獣化はしなかった。
「とりあえず、今のうちだな」
そこからはこういうことが慣れているのか、手際が良かった。
「けど、一体何があったんだ?」
「獣化が解ける直前、矢のようなものが当たったように見えたんだが……」
「矢? けど、そんなもん無いだろ」
拘束した男を見ながら、二人は話し合う。
「ま、こんなこと、ずっと起こるとも限らないし、今回のことはラッキーってことにでもしとくか?」
「……そうだな……」
考え込むユーリに溜め息を吐くと、ルークは「こいつ、一旦連れてくからなー」と告げるが、ちゃんと聞いているのかどうかは怪しい。
そんなルークが男を回収したのを見て、ユイは巨大な弓を元の棒にまで戻し、バッグにしまう。
「さて、それじゃ私も行きますか」
そう告げると、ユイはその場から去っていった。