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 その人は、額にサングラスをしていた。


 中学に向かうために商店街を通っていた時、僕はその人と目が合った。

 額の中央に、サングラスの片目部分をひもで固定していた。さながら幽霊が額に付けてる三角の布みたいだった。

 すらりとした長身で、モデルかと思うくらいに整った顔のすごい美人。黒のコートに黒のパンツ、黒の手袋と全身黒づくめでも、全然おかしくない。似合いすぎているというほうが正しいかもしれない。

 だから、額のサングラスだけが異様だった。コートには白いペンキか何かで書かれたいくつかのバツ印があったけど、サングラスに比べたら全然目立たなかった。

 まさか漫画のキャラじゃあるまいし、その下に目があるわけじゃないだろうけど、ファッションにしては奇抜すぎる。

 かかわり合いになりたくなかったので、僕はすぐに目を逸らした。

 でも、その人はこっちに向かってすたすたと歩いてきた。

 ヤバい。

 目が合っただけで因縁をつけてくる奴は世の中いくらでもいる。ただの不良なら、脅すかカツアゲくらいだろう。

 でも、あんな格好してる人からは、何をされるか想像もつかない。

 僕は走り出した。正面から向かってくる例の人を避けるように斜めに走る。

 と、その人も走り出した。

 冗談じゃない。

 何なんだよ。目が合っただけじゃないか。

 嫌だ。面倒なことに関わりたくない。

 僕はもう周りを気にせず全力で走った。正面には相手がいるから――遠回りとか思い浮かべる余裕はなかった――小路に飛び込むように入った。

「……!?」

「逃げることはないだろう?」

 その人は、小路の中で仁王立ちしていた。

 そんな一瞬で先回りできるはずないのに。確かにさっきの道の正面にいて、僕の方が先に小路に入ったはずなのに。後ろから来るならともかく……なんで前から……!?

「何、取って喰おうってわけじゃあない」

 言って、ぺろりと舌舐めずりをする。

 説得力、ゼロ。

 逃げないと。

 でも、逃げるってことは後ろを向くってことで……。背中を向けるのが怖い。

 迷ってる内に、相手はどんどん近付いてくる。

「これはキミにとっても悪い話じゃあないんだヨ?」

 その人は笑ったけど、とてもぎこちない。

 多分、笑ったことがあんまりないんだ。

 引きつった顔と、やけに明るい言葉がちぐはぐで……怖い。

 足が震えて動かない。

「怖がらせるつもりはないんだがねえ。少年、私はキミに危害を加える気はないヨ」

「う、嘘……」

「何を根拠に? むしろ守ってやろうって言うんだヨ」

「え?」

 守ってやる? 誰から?

 今守ってほしいとしたらあんたからだよ……とは口が裂けても言えないけれど。

「私は豆の龍と書いて豆龍(トウロン)。私をボディーガードとして雇わないかい? ああ、お代はいらないヨ。いわゆるボランティアってやつだネ」

 そう言ってまたぎこちなく笑ったけど、信用できるはずがない。

「あ、あの、間に合ってるんで……」

 勇気を振り絞って、その場を逃げ出した。

 一心不乱に走って、暫くして振り向いて見たけど、そこにトウロンなる人物はいなかった。




 僕の名は生島狩(いくしまかる)

 自分で言うのもなんだけれど、何の変哲もない中学三年生だ。

 もし他の中学生と違うところがあるとすれば、いつも生きる意味とか死について考えてることくらいだろうか。

 正直、みんなが何であんなに何も考えずにはしゃげるのかわからない。

 生きてたって大していいことがあるわけじゃないけど、死ぬのだって面倒だ。

 だから、今日も意味もなく学校に通ってる。

 クラスは高校入試をひかえて朝からピリピリしたムード。単語帳を開いたり、赤いクリア下敷きで答えを隠した問題集なんかで勉強しているクラスメートたち。

 僕はそれを横目に教室でぼんやり太宰の小説を読んでいた。

 すると背後から急に背中を叩かれた。

「あんた、余裕ね狩」

「……なんだ二宮か」

「なんだはないでしょ」

 二宮(にのみや)かぼす。

 ショートカットに猫を想像させる大きな目のこの女子とは、小学校からの腐れ縁だったりする。バレー部のキャプテンだけど背は低い。リベロだそうだ。当然体育会系であるから、インドア派の僕とは相性がいいわけはないんだけど、事あるごとにこんな感じで絡んでくる。

 こうして小学生みたいに男子と普通に接するから、女子からはしょっちゅう変な噂を立てられて本人は憤慨しているらしい。

 だったら僕なんかに構わなきゃいいのに。

「もうちょっと愛嬌出したらどうなのよ」

 いー、と口を真一文字にして言ってくる。

「うるさいな。こっちは朝から変なのに絡まれてブルーなのに」

「変なの?」

 二宮はきょとんとする。

「……ああ。何か額にサングラスかけた変な女の人」

「額にサングラス? ずれてたんじゃないの?」

「そうじゃなくて、眼帯みたいな感じでレンズの片目の部分だけ額の真ん中につけてたんだ」

 上手く説明しにくいので身振り手振りも交えながら伝える。

「なんだろ。額に目でもあるの?」

「こっちが聞きたいよ」

「あ、でも……何か今ネット上で変な噂が流れてたよね。三つ目伝説とか言って」

「はぁ?」

「何だったかな? 額に第三の目を持つものは魔獣である……とかなんとか。まぁ、あたしも小耳に挟んだだけだからよく知らないんだけどさ」

「何だそりゃ」

 魔獣? ダサ。今どき小学生だってもっとマシな噂してるよ。

「……あれ? 何を話そうとしてたんだっけ? 三つ目の話がしたかったわけじゃないんだけど……」

二宮は頭を抱えて考え込みだした。相変わらず表情がころころ変わるなぁ。

時間がかかりそうなので、放置して太宰を再び読む。

「あ、それそれ!」

「ん? 太宰? 『人間失格』だけどどうかした?」

 二宮が興味あるとも思えないけど。有名な漫画家がカバーを描いているから気になったのかな?

「じゃなくて。みんな入試の勉強してるのに、あんただけしてないって話」

「ああ……」

 そういえば「余裕ね」とか言ってたな。

「あんたって昔からテスト勉強すらしたことないよね。それでいい順位なんて納得いかないわよ」

「ちゃんと授業を聞いてたら十分でしょ」

「いーわね、頭のいい人は」

「授業中寝てるくせに」

「ぐっ……」

 二宮は言葉に詰まる。

 先生に注意されたり、額が真っ赤なってることもしばしばで、たまにいびきまでかいていることすらある。

 女子としてそれはどうなんだ。

「……って、そんなことを話そうと思ったわけじゃなかったんだった。ねえ、今度勉強教えてくんない? ちょっと志望校ヤバいのよ」

 すりすりと両手を合わせて頼んでくる。

 ん、まあ……悪い気は、しない。

「どうしようかな……」

「スポっとのチケットあげるからさー」

 スポっととは、近所の総合スポーツ施設だ。フットサルやボウリングなんかが三時間千円とかで出来る……が。

 僕にそんなの興味があるわけもなく。

 面倒だけど、断るのもいろいろ面倒。

「う~ん……」

 悩んでいると、チャイムが鳴った。

「考えといてね!」

 そう言い残し、二宮は去って行った。

 ちなみに、やっぱりかぼすは授業中眠って、後の席の友人からシャーペンでつつかれたりしていた。


 授業が終わったので、二宮が来ると思ったんだけど、意外にも来なかった。ベランダにみんな集まって騒いでおり、どうやらその中にいるようだった。

 こういうバカ騒ぎは嫌いだから放っておこう。

「誰だアイツ」

 クラスメートの一人が言った言葉が聞こえてきた。

 イヤな予感がした。

「あの女、ずかずか入ってくるそ」

 女。

 イヤな予感は更に強まる。

 まさか……。

 いや、いくらなんでも学校まで乗り込んでくるわけない。

 とにかく、確認しないと……。人垣の後ろからそっと顔を出し、校庭を覗き込む。

「あっ……」

教室は三階だから、校庭に人が居ても豆粒くらいにしか見えない。おまけに体育があったようで、体操服の生徒も結構居る。

 それでも、一目で誰のことで騒いでいたかわかった。

 トウロンじゃあなかった。

 だけど――

 トウロンの時とは比べ物に程の嫌な予感がした。

 背中の中心から首の後ろまで氷の塊が抜けていくような、全身に鳥肌が立つ感覚……。

 気持ち悪い。

 ……何で?

 校庭にいるのは、テレビに出てくるキャバ嬢みたいなド派手な真紅のドレスを着てる女性。

 確かに異様な光景だった。

 でも、だからといってここまで悪寒がするようには見えない。

 見えないのに。

 逃げよう、そう思って振り返ろうとしたその瞬間、

「……!」

 はっきりと、校庭の女性と目が合った。距離は関係なかった。その口もとの笑みすら見えた。

 気がついた時には、もうベランダから逃げてた。

「ねぇ、急にどうしたのよ狩!」

 背後で二宮の声が聞こえた。

 だけど振りかえることすらせずに、今度は教室から飛び出した。

 逃げないと。

 今すぐ……!

 廊下を全力で走る。

「はぁはぁはぁ……」

 どこに行けばいいかはわからない。

 でも、教室に残ってたらダメだ。

 とにかく、少しでも校庭から遠いところに……!

 屋上は閉鎖されて行けない。今居る三階が一番高い。

 数秒ごとに悪寒は激しくなる。早く……早く……どこかに……

 根拠のない恐怖だけど、全身が逃げろって言ってる。

 『あいつは僕を狙っている』。

 理由のわからない確信が、僕を突き動かす。

「うぷ……」

 嘔吐感すらこみ上げてきた。

 廊下ですれ違う生徒が怪訝な顔でこっちを見てくる。そんなのには構ってられない。

 丁度正面に音楽室が見えた。

 僕は迷いなくそこに駆け込む。更に奥の準備室に入り、中から鍵をかけた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 心臓がバクバクいってる。

 カーテンが下りてて夜でもないのに薄暗い準備室で、楽器の棚の隅に丸まって隠れる。

 情けないことこの上ない姿だ……。

 やがて息も整い、心拍も収まって来た。悪寒の間隔も開いて弱くなってきた。

 そうこうしているとチャイムが鳴った。二時間目が始まったんだ。

 それでもしばらくそこから動かなかった。

 カビ臭い準備室には、教室ではないから当然時計もなくて、どれくらい隠れていたかもわからない。

 もう大丈夫かな……。

 気のせい――それを否定する本能の恐怖感があったけれど――かな。

だと、思いたい。

「……ちょっと確認してみよう」

 準備室のドア、その下半分は木製のスリットになっていて、しゃがんで覗くと少しだけ向こうが見える。

 僅かな視界だけど、特に異常は感じられない。

「大丈夫……ぽい?」

 とりあえず音楽室に出てみよう。慎重に、音をたてないようにゆっくりドアを開ける。

 音楽室はしんと静まり返ってた。外からもこれといって音が聞こえてこないし、取り越し苦労だったのかも……しれない。

 と、そこで、違和感を覚えた。

 静まり返ってる?

 いくらなんでも、静かすぎないか……?

「……確認……したほうがいいかな……」

 嫌な予感がしつつも、音楽室のドアの前に立つ。

 指先が震えてる。

 ドアに手をかけた、その瞬間――

 がらっと音がしてドアがスライドした!

「うわっ!?」

「助け……て」

 ドアを開けたのは、同じクラスの後藤幸助(ごとうこうすけ)だった。普段はお調子者で笑ってばかりの顔を苦しそうに歪めて、弱々しく右手を伸ばして……

「ど、どうし……」

 どうしたと聞こうとして、言葉が止まる。

 後藤の左半分が、金色になっていた。

「……え?」

 どういうこと?

 金粉……?

 いや、違う。塗りつけたような感じじゃない。

 肌全体が金になってるんだ。それに、服まで金になってる。

 こんなことって……

「あがっ……」

 後藤は低く呻き、それに合わせるように金の範囲が広がっていく。

「おい、後藤! 後藤!」

「たす……」

 後藤は哀願の目を向けて来たけど、僕には何も出来なかった。

 すぐに後藤は金の彫像になって、最後に流した涙すら金になって床を転がった。

「なんだよ……これ」

 わからない。わからない。こんなことあるわけない。

 何で? 何で? どうしよう?

 また準備室に隠れる?

 ダメだ。後藤がドアを開いたまま固まってるから、音楽室のドアが閉められない。

 かなり目立つ。すぐに準備室にも気づかれる。

 ……くそっ! 何なんだよ僕は!

 後藤が固められたってのに、自分が逃げることばっかりかよ!

 最低の人間だ。後藤とは別に親しかったわけじゃないけど、普通なら助けようとか考えるはずだ。

 それなのに僕は……。

 でも……

 死にたく、ない。

 死にたくないんだ!

 僕は後藤の股の下をくぐって音楽室から廊下に抜け出した。

「あっ……」

 そこで見たのは、廊下じゅうに立ち並ぶ金の彫像だった。

 どれも、見たことがある顔だった。

 クラスメート、同級生、先生――

 ほとんど全員、恐怖に顔を歪めていた。友人たちを押しのけて逃げようとして固まっている生徒もいた。

 僕も、同じだ。

 僕はそれらを無視して、奥に進んだ。逃げたまま固まってる方向からして、多分最初に襲われたのは僕のクラスだ。

 だとしたら襲撃済みのそこは逆に安全なはずだ。

 見慣れた顔の像の横を通っていく。

 その度に罪悪感で胸がズキズキする。

 違う。

 罪悪感なんてあるはずない。僕が悪いんじゃないだから。

 あいつが僕を狙ってきた?

 そんなの……そんなの僕の妄想だ。

 何の根拠もない。それにあいつが金に変えた証拠なんてない。

 ほら。

 僕は悪くない。

 確かに後藤を見捨てたけど、僕に何が出来るって言うんだ。

金になった人間を治せる? そんなわけない。

たとえあの女が僕を狙って来たからこうなったとしたって、僕が悪いんじゃない!

 そうだ。僕は悪くない。むしろ被害者だ。

 だから、逃げたって……

 ?

 あれ?

 今、視界の端に。

 何か、見なれたような。

 あの金の彫像は。

 セーラー服の女子生徒。

 小麦畑のように金色に輝く短髪。

 そして。

 猫のような瞳。

「……」

 それは間違いなく。

「にの……みや……」

 二宮かぼすだった。

 ぺたん。音がした。

 それが自分の膝が地面についた音だと気付いたのは、一瞬遅れてだった。

「僕が……」

 二宮を……

「巻き込んだんだ……」

「そうだネ」

 突然背後で声がした。

 慌てて振り向くとそこには、

「やあ少年。また会ったネ」

 ひらひらと手を振る黒ずくめの女性。額には、サングラスのレンズ。

「トウ……ロン」

「嬉しいネ。覚えてくれてたみたいで」

 トウロンはやっぱりぎこちなく笑った。

「何で、ここに……」

「さぁ、なんでだろうネ? ああ一つ言っておくけど、金の像にしたのは私じゃあないヨ」

 言ってトウロンは近くの金になった生徒の頬をさする。

「純金だネ。いいのかい? ぐずぐずしてるとキミもこうなっちゃうヨ」

 またぎこちなく、今度はけたけたと笑い出した。

 わからない。何なんだこの人は。

 でも、もしかして……

「僕をボディーガードしに?」

 朝会った時に言ってた。

 『守ってやろう』って。

 だとすれば、このことも予見してたんだ。

 だったら助かる……?

「違うヨ」

「えっ!?」

「人生チャンスは一度きりだヨ。あ~あ、あの時素直に受けとけばよかったのにネ」

 ぎこちない笑い方ながらも、その声は明るく、楽しんでいるようだった。

「そんな……」

「だから、早く逃げた方がいいんじゃないかい? へたりこんでる暇なんかあるのかなぁ?」

「く……」

 こんな奴に頼ろうとした僕がバカだった。

 まだ震えてる足で何とか立つ。それをトウロンはずっと見下ろしていた。

「ホラ、向こうから人影が来たヨ? ははあ、なるほどネ。やっぱりアイツの仕業か」

 トウロンが指差した先には、一人の女性がいた。

 ウェーブのかかった長い栗色の髪に、豪奢な真紅のドレス。日本人離れしたグラマラスな体。首や腕、指など体のいたるところをジュエリーで飾っていた。金や銀、それから色とりどりの宝石がきらきら光って目に痛い。

 本当に芸能人みたいなんだけど、一つだけ違和感を覚える部分があった。

 それはスカーフ。相当昔の女優か、農家のおばちゃんみたいにスカーフを頭に巻いていた。

 でもそんなことより――

女は壁を触りながら歩いて来ていた。

 その壁が、触られたところから金になっている!

 やっぱりこいつが……みんなを金にしたんだ!

 女はこっちを値踏みするように見て、にたあ、と笑った。

 ぶわっと全身から汗が噴き出す。さっきまでとは比べ物にならない悪寒。背骨が氷の柱にでもされたんじゃないかっていうくらい。

 殺される。

 確証はなにもない。だけど直感がそう告げていた。

 すがるようにトウロンの方を見たけど、笑ってるだけだった。

「じゃあ、がんばってネ」

 そう言い残し、トウロンは窓から飛び降りた。

 ってここ三階だろ!?

 窓の下を確認してみたいけど、今はそれどころじゃない。

 とにかくあの女から逃げなきゃ……!

 僕は踵を返し、階段の方まで走り出した。

 振り返ると、あの女もにやにや笑いながら走って来ていた。

「ううっ」

 怖い。

 何で僕が、そればかりが頭に浮かぶ。そんなことを考えてる場合じゃないのはわかってるけど、それでも考えずにはいられない。

 危険だとか考える余裕もなく階段を数段飛ばしで降りて行き、最後の方は五、六段まとめて飛び降りる。

 そうして階段を、踊り場を越えて、次の階段へ。

「待ちなさい!」

 後ろからハスキーな声が響いてきた。あの女に間違いない。

 待てと言われたからって待ったら死ぬ。僕は振り向きもせずに階段をひたすら駆け降りた。

「待ちなさいって言ってるでしょ!」

 声がさっきより近い。

 ということは……

 ぶんぶんと首を振って嫌な予感を誤魔化す。

 外まで、外まで逃げれば助けを呼べる。だから余計な事は考えずにとにかく外まで逃げるんだ!

 階段を降り切り、やっと一階へ。

背後に足音が迫ってくる。急いで廊下を走るけれど、それはどんどん差を縮めてくる。

「はぁはぁはぁ」

 ゲタ箱が見えてきた。

 上履きなのも構わず、僕はそのまま外に飛び出した。

 室内から急に飛び出したので日光が眩しい……なんて息をつく間もなく、

「いい加減に待てって言ってるでしょうクソガキがーーっ!」

 頭の上を何かが通り過ぎた。

 それはあの女だった。校庭に回り込み、僕の行く手を塞ぐように両手を広げる。

「どうするの? まだ鬼ごっこする気? まぁ、その様子じゃ無理っぽいけど」

 女は肩で息をする僕を嘲るようにアハハと笑った。

「抵抗すれば金になる程度じゃ済まないわよ?」

「なん……で……僕が……?」

 荒い呼吸で、何とか声を絞り出す。

「何であんたに言わなくちゃいけないわけ? あんたこれから死ぬのに」

「!」

 やっぱり、殺す気なんだ。

 もう逃げられないのか。

 何か、何か手は……。

「キョロキョロしないでよね。みっともない。ムダよムダ。さっさと諦めちゃえば?」

 ムダ。

 そうだ。どうせムダなんだ。

 人間いつかは死ぬんだ。

 生きてたって意味なんて……

「うんうん。諦めが肝心よ。じゃ、早速……」

 女は手を伸ばし……

 イヤだ。

 やっぱりイヤだ! 死にたくない!

 まだ十五年しか生きてないんだぞ! やりたいことだって……

 でも、逃げるだけの余力が……。

 なんとか、なんとか時間を稼がないと。せめて、呼吸が整うくらいには……。

「あ、あんた誰だ……?」

「はぁ? だから死ぬあんたに教えても意味ないでしょ?」

「そいつの名前は湯上祥子(ゆがみしょうこ)だヨ。会社が倒産して落ちぶれた元社長令嬢で、それでも生活レベルを落とせなかった欲の塊だネ」

 声がした。

 その方向――グラウンドからすたすた歩いてくるのはトウロンだった。

「誰よあんた? 何であたしの事を……」

他人(ひと)には教えないくせに自分は知りたいのかネ?」

「チッ」

 苛立たしげに湯上は舌打ちした。

「額にサングラスなんかかけて、イカレてんの? 誰だか知らないけど邪魔するならあんたも金に変えるわよ」

「生憎私の趣味は嫌がらせだからネ。無理な相談だヨ」

 トウロンは頬を引きつらせるように、にい、と笑った。

「もういいわ。あんたもさっさと金になりなさい。そんなダサい黒ずくめなんかよりもっと綺麗になれるからっ!」

 湯上は走ってトウロンの方に向かう。

「生島狩!」

 トウロンが叫んだ。

 なんで、僕の名前を……

「こいつを倒したら私の言うことを聞くかネ!」

「え……?」

「今すぐ決めろ! でなければ見捨てるまでだヨ!」

 その声には、有無を言わせない迫力があった。

 どうしよう。どうしよう。どうしようどうしよう。

 誰か教えて……

「じゃあ、もう私は知らん! 勝手に金にでもなるがいい!」

 トウロンは背中を向けて逃げだそうとした。

「ま、待って! わかった! 言う通りにする! だから……助けて!」

叫んだ。

 追いすがるように手を伸ばして、何度も何度も「助けて」と叫んだ。

 だけど、トウロンはそのまま走って行った。

「あ……」

 涙が零れた。

 もう、ダメだ……。

 殺される……。

 僕はなんてバカなんだ。すぐに決断してれば……

「なーんてネっ!」

 トウロンが急に振りかえった。

「いいでしょう! これで契約成立だ。じゃあこのエセセレブの相手をしようかネ!」

 笑いながら、トウロンは迫り来る湯上に向かってすたすたと歩いていく。

「助かった……の?」

 僕はぺたんとその場にくず折れた。

 今日二回目だったけど、今度はもう動ける気がしなかった。

 だけど、トウロンはあいつに勝てるんだろうか。それに、本当に信用していいんだろうか。

 そんな心配をよそに、トウロンは湯上の攻撃をのらりくらりとかわしながら哄笑する。

「バカにしないでよっ!」

 湯上は血管が切れんばかりに怒って掴みかかろうとするけど、トウロンに触れることも出来ない。

 僕は素人だからよくわからないけど、トウロンは武術の心得があるように見える。

一方の湯上はそれこそ素人に毛が生えた程度みたいだ。ただ、時折人間離れした動きで飛びかかったりしている。

トウロンは最小限の動きで敵の攻撃をかわしながら、猫だましをしたり、膝カックンをやったりしてとにかく相手をからかっていた。

強い……のか?

とにかく、これならいけるかも……。

「狩少年! サービスにレクチャーしてあげよう」

 急に何を?

「まず人間を器として考えてみなヨ。それに人間という中身が入ってぴったりの大きさって器だ。想像できたかネ?」

 とりあえず、頷く。

「OK。じゃあ、中身が多かったらどうなるかネ?」

「あんたいい加減に……!」

「うるさいネ。ちょっと黙ってろ」

 トウロンは湯上の額を掌底で小突いた。

「きゃああっ!?」

 本当にちょっと小突いたようにしか見えなかったのに、湯上は思い切り吹き飛んだ。カンフー映画みたいだった。

「溢れ出した中身はネ、特殊能力の源になるんだヨ。形を持たない万物の素みたいなものだからネ。それをアマリという」

 それで、と付け加え、湯上の方を指差す。

「あいつのようにその特殊能力を使う者をアマリ者って言うんだヨ」

「きいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」

 起き上がった湯上がヒステリックに叫んだ・

 何度もあしらわれたため、顔を真っ赤にして怒り心頭という具合だった。

「おやおや、カルシウムが足りないんじゃないのかネ?」

 一方のトウロンはどこ吹く風で。

「殺す。あんただけは絶対に殺す!」

「アマリは本人の願望を映してそれに見合った特殊能力になる。……まぁ彼女の場合は見ての通りの派手好きだから、触れたモノを金にする力が発現したわけだネ」

 アマリ、アマリ者。

 アマリを持つ者がアマリ者。人を小馬鹿にしたような話だ。

 でも、実際に湯上は触れたものを金に出来るみたいだし……

 何なんだ。

 これが現実か?

「これは現実だヨ」

「ひっ……!?」

 こっちの心を読んでるのか!?

「別に心を読んだりはしてないヨ。キミの顔に書いてあるだけさ」

「あたしを無視するなぁーーっ!」

 湯上は絶叫しながらトウロンに飛びかかる。

 それをトウロンは難なくかわし、湯上は地面に突っ込む。

 が。

「危ない!」

 思わず声が出た。

 湯上はそのまま地面を掴むと、砂をトウロンに投げつけたのだ。砂は金粉となり、世界一高価な眼つぶしになった。

「くっ……」

 トウロンは咄嗟に両手で顔をかばった。

 その隙をついて、湯上はトウロンの両腕を掴んだ。掴まれた部分から、両腕が金に変わっていく。

「これであんたもお仕舞いね。あはははははは!」

 金に変わった腕が動くはずもなく、あとはこのまま全身が金になるのを待つばかり。

 ダメか……。

 トウロンでも勝てないのか……。

 と、次の瞬間――

「ぎゃあっ!?」

 湯上の悲鳴が上がった。その体が吹っ飛ばされていた。

「え?」

 一体何が起こったのかわからなかった。

 両手は金にされて、足だって動かした様子はなかった。もちろん頭突きとかそういうわけでもない。

 でも、湯上は吹っ飛んでる。

 それはさっき掌底で額を小突いた時によく似た吹っ飛び方だった。

「あ……」

 それも……そのはず……。

 トウロンの脇から……もう一本の「右手」が生えていた。

 右手が二本あるんだよ!

 馬鹿げてる。

 でも事実なんだ。もう、ここまで来たら受け入れるしかできない。

 その手は掌底の形になっていた。だからさっきと同じように吹っ飛んだんだ。

「あんた……何よ……それ……」

 湯上がよろよろと起き上がり、呻きながら言う。

「驚いたかい?」

「化け物……」

「あなたには言われたくないネ」

 トウロンは湯上に近づいていくと、素早くそのスカーフに手をかけた。

「イヤ、やめっ……!?」

 スカーフが宙を舞う。

 その下から現れたのは――

「馬の……耳?」

「ロバの耳だヨ」

 トウロンは嘲るように言った。

 湯上はスカーフをかぶりなおそうとしたけど、金の板になってしまいかぶれないようだった。

「アマリ者は能力に合わせて肉体も変容するのさ」

「え? でも何でロバの耳……」

「知らないかい? 王様の耳はロバの耳。あの王様はミダス王と言ってネ、神に触れたモノを金に出来る力を得たんだが、食べ物なんかも金になってしまって、神に頼んでまたもとに戻してもらったって話だネ」

「……そうなの?」

 ロバの耳はもちろん聞いたことあるし、たぶんその触れたモノが金になる王様の話も聞いたことがあると思う。

 でも、同じ王様だったって知らなかったな……

 じゃなくて!

 こんなことがあっていいの?

 『触れたら金になる』から『耳がロバ』?

 無茶苦茶だよ。順序がおかしい。何なんだよこれは! ここは!

「あたしを……見下すな!」

 呪詛を吐き、湯上がトウロンをねめつけた。

「これで、勝ったつもり? ……あたしに触られたんだ。一般人より侵食が遅いみたいだけど、あんたもすぐに金になるんだ!」

 その言葉通り、さっき掴まれた腕を中心にトウロンの体に金の侵食が進んでる。もう両肩や胸のあたりまで金になっていた。

 だけど、トウロンは平然としていた。

「その前に倒せないと思うかい?」

 もう一本の右手で握り拳を作る。

「……ふん。あまりなめないことね!」

「えっ……?」

 湯上は自分の頬に触れた。

 すると、その部分からみるみる金に変ってく。

「……まさか! 自殺して金化が止まらなくするつもりとか!?」

「あはははははは! 外れ~!」

 全身金に変わった湯上が異常なほど高らかに笑いだした。

「これであたしの体は金属の硬さを得たわ。あんたがどんな拳法使ったとしても無駄なのよっ!」

 そんな……これじゃ金属の壁叩くようなもんじゃないか。

 いくらトウロンが強くても……

「で?」

 トウロンは涼しい顔を崩さない。その首筋にまで金が迫っているのに。

「じゃあ、仕舞いにしようかネ」

 トウロンは、まるで仕事を切り上げでもするかのように、さらりと言った。

 しゅっ、空気が漏れるような音がして、

「へ?」

 それからかつーん、という乾いた金属音が響いた。

 トウロンの拳が湯上のお腹に命中していた。

 でも、さっきみたいに吹っ飛ぶこともなく、殴られた当人の湯上さえ間抜けな声をもらすくらい、あっさりしていた。

 あっさり、その全身にひびが入ったんだ。

「う、嘘。そんな……いやああああああっ!?」

強欲王(ミダス)・湯上祥子撃破だネ……これで一二人目、と。小物なのが残念だがネ」

 絶叫する湯上をよそに、トウロンは白いポスターカラーマーカーを取り出すと、コートのバツ印を一つ書き加えた。

 その数は一二。

 ってことは……もう十二人もアマリ者を倒したってこと……!?

 す、すごい……。

「いやだ……死にたくないぃ……」

「無理だネ。あなたは相手を間違えたんだヨ。たかが触れたものを金に出来る程度の能力で、私に戦いを挑むなんてネ」

 トウロンはまたひきつったような笑いを浮かべた。

 その間も湯上の体はひび割れが広がって、そこからぽろぽろと崩れていく。

「あんた……一体……なん……なのよぉ」

「噂を知らないのかい? 額に第三の目を持つ者は魔獣である。『そして』、魔獣はこの世の理を外れたものを断罪する」

 あの噂には続きがあったのか……。

「狩少年!」

「は、はいっ」

 急にトウロンに呼ばれて、僕は声を引きつらせてしまった。

「君は目をつぶっていたほうがいいヨ。これから起こることは見ない方がいい」

 額のサングラスに三本目の手をかけながら、その下の両眼で射抜くようにこっちを見てきた。

 冷たい目。一瞬で全身が総毛立った。

 僕はすぐに目をつぶった。

「ひいっ、なによそれぇっ!?」

 声だけが響いてくる。

 湯上の声はおびえきってた。

 何が起きてるんだろう。愉快なものじゃないことだけは確かだ。

「あんたの能力は三本腕じゃ……」

「そんなこと一言も言ってないんだがネ。さぁ観念しなヨ」

「ひっ、お金ならあげるから! あげるからぁ!」

 泣きじゃくる湯上の声。

「いらないヨ。欲しいのは……別のものさ」

 じゅるり、と舌舐めずりの音がした。

「いただきます」

「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ……」

 かん高い絶叫が校庭に響き渡った。

 その後、

 べきべき。ごりっ。がりがり。ぐしゃ。ずるずる。

 正体を想像したくない耳障りな音が聞こえてくる。

 僕は耳をふさいだ。いや、気づいたらふさいでいた。それでも異音は耳に入り込んでくる。

何でサングラスを外しただけなのに、あんな音が?

 ダメだ。

 考えるな!

 僕は何も見てない。何も聞いてない!

 そう信じることが現実に戻れる唯一の方法だと自分に信じ込ませるように、何度も何度も心の中で繰り返した。

 そのうち、今度は急に異臭が漂ってきた。ドブのような淀んだ悪臭だった。

 それでも僕は目をつぶったままだった。怖くて、目を開けられなかった。

 ただ震えてた。

「もう目を開けていいヨ」

 その声を聞いて、恐る恐る目を開けると、

「……わぁっ……!?」

 グラウンドに金粉まみれのヘドロがぶちまけられていた。

「何……これ」

「湯上祥子だヨ。いくら外見を金で飾っても中身はヘドロだってことだろうネ。それに……」

 既に金の侵食がなくなり元の体に戻っていたトウロンは、鼻をつまみながら金のかけらを一つ掴み上げた。

「メッキだヨ。学校のみんなは純金だったのに、本人はメッキ。皮肉なもんだネ」

「……そうだ! みんなは!?」

「心配ないさ。本人が死ねば能力も消滅する。私が元に戻っているのがその証拠だヨ」

 トウロンは校舎を指差した。

 窓から動いてる人の姿が見えた。

「あまりにも異常な事態だからネ。忘れはしないだろうが、おのおのに理由をつけて納得して現実に戻っていくだろうヨ。集団催眠だとか幻覚だとかネ。メディアのおかげだヨ」

 トウロンは相変わらず引きつった笑みを浮かべてた。

 でも、僕は笑えなかった。

「どうしたのかい? 狙われた理由でも気になるのかネ?」

 トウロンが言ったけど、そんなことは今はどうでもよかった。

 そんなことより、僕は……。

 僕はみんなを見捨てて……

「つまりだ。キミは誘蛾灯みたいなものなんだヨ。アマリ者を引き寄せるのさ」

 ……やっぱり……僕のせいで……?

「うーん、暗いネ。なぜだい? キミは常々思っていたんじゃないのかい? 自分は他の奴らとは違う、他の奴らはバカだってネ」

「そ、それは……ち、違う……」


 それから、トウロンは酷く邪悪に笑い、こう言った。


「よかったネ。キミは特別だった」

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