生まれ変わりのスープ
花畑から起き上がると、優しそうな腰の曲がったおばあさんが、スープを掲げて持ってきてくれた。
ノドが乾いていた。
ごくりと唾を呑み込もうとする。
でも、呑み込むつばもない程、喉が渇いていた。
おばあさんがスープを差し出す。黄金というより、琥珀色の、透き通った色合いのスープ。とても美味しそうだ。
「さあ、このスープをお飲みなさい。飲んで、今の自分を忘れて、新しい自分に生まれ変わる準備をするの。そしたらね? あの門から次の生に生まれ変わってお行き」
おばあさんは、そういって、骨と皮ばかりの指で、花畑の先の小川を超えた反対側、小道の先の浮島に建つ、真っ白い大きな門を指し示す。
「おばあさん、あの門から出て行くと、どうなるの? 今いる私はどうなってしまうんだい?」
おばあさんは口元を手で隠し、肩を揺らしてほがらかに笑う。
「おかしなことをいうねえ。だってあなたは死んでしまったじゃないの。死んだ者は生前の罪状を閻魔さまに捌かれて、罪の軽いか、ないひとは、生まれ変わるのが道理でしょう? なんであなたは、死んでしまった今の自分の心配をしているの? 死んでしまったら、人間はそこまで。そのスープを飲み干せば、また新しいあなたが生まれるのよ。まっさらな赤ん坊の、あなたじゃないあなたがね?」
わたしは考え込む。
おばあさんの顔を見上げる。茶目っ気たっぷりにウィンクをされた。不思議なおばあさん。わたしにスープを飲めと仕草で催促する。
「ちょっと、考えさせて下さい。現世に残してきた家族がいるのです。忘れることなんてできない! だから少し、……すこし、わたしがスープを飲むのを、待ってください」
男は土下座をして、おばあさんに頼み込んだ。
「ああ、いいよ。ただし、葬式の四十九日が済むまでには飲み干しなさい。そうしないと、どこにも行く宛のない浮遊霊としてあなたは現世に堕ち、二度と生まれ変わる機会を失うのよ。そして、自分という存在をゆっくり忘れ、大事だと思っていたものを襲うようになり、最後には、塵ひとつ残さず、文字通り、消えてなくなってしまうからね。―――いいかい? あなたの魂の期限は、あと三十日だ」
私は繰り返す。
「三十日。一か月」
お婆さんが険しい顔をして、注意する。
「そう。一ヶ月の間にこのスープをお飲み。さもないと」
「さもないと?」
私は彼女のしわくちゃな顔を覗き込んだ。
「な、なんですか? 私が行き場のない浮幽霊になっちゃうんですよね?」
「いんや。あたしが死神の役目をはたして、あんたの命魂を狩り取ることになるんだよ」
そういうと、やさしそうなおばあちゃんは、西洋風のタロットカードに描かれたような、黒いボロ布の外套に、髑髏の頭、死神の鋭利な鎌を持った姿に変化する。
シュンッ!
大鎌が素振りされた。
よく使い込まれている気がするイイ鎌捌きだ。あの鎌が、私に向かって振るわれなぞしたら、私は逃れられまい。
程よい殺気、狩る気? というか、ピリピリした痛い空気が、わたしの五感を刺激した。
アレのお世話には、なりたくないなあ。
「わかったね? 一ヶ月。三十日。今、食っちゃべっている間にも、日付が変わったから、あと二十九日しかないよ。早く考えを纏めてスープをお飲み。天国の時間の流れは、意外と早いんだよ」
「わかりました。三十日、いや、二十九日が過ぎるまでに、このスープを飲みに戻ります。ですから、家族の元に戻ることは可能ですか? わたしが亡くなった日、娘の誕生日の前日だったんです。どうしても、おめでとう、を言いたい。それと、ごめんなさいも。妻と子供と親戚に」
「ダメだよ」
「え?」
私は呆然と老婆の顔を見た。
おばあさんは、聞き分けのない子を諭すような年長者の顔をして言う。
「家族の元に戻って、あんたはどうするんだい? どうやってその言葉を伝えるんだい? 見えないのに。触れないのに。相手にあんたの声は聞こえないのに。ペンも持てないのに。どうやってあんたは、その言葉を伝える気でいるんだい?」
言われて気付いた。
自分は幽霊、になってしまったのだ。
当然ながら、家族には死人は見えない。死人の霊魂である幽霊も見えない。幽霊は生者に話しかけても、言葉が返ってこないか、胡散臭いと信じてもらえないのが通例だ。
―――……諦めた方が良いだろう。諦めた方が良いのはわかっている。だが、……――諦めきれない。
なんとしても、男は再び、家族の元へ、口うるさい奥さんと可愛い娘に、もう一度、もう一目だけ、会って話がしたかった。
だから、男はハゲた頭をかき、曖昧にその場しのぎのお愛想を笑って、こうのたまった。
「………えっと……………なんとか、します。なんとか―――」
「なんとかって、いったいどうするんだい……?」
男に呆れた死神は、元の朗らかで優しそうな老婆の姿に戻った。
袖から真白の紙束と筆を取り出して、男の眼前につきつける。
「手紙を書きなさい。あんたがスープを飲んだら、届けてあげるよ」
「せめて、せめて、妻と娘の姿だけでも、見せてくれませんか? 会いたいんです。本当は、手紙とか、そういうのじゃなくて、直接、会いたいんです」
男は手紙を受け取らず、おばあさんに追いすがるが、相手の返事はすげない。
「無理だよ。だってほら。あと二五日しかない」
男はがっくりと諦めて、返事を便箋に綴った。
作者、創作メモ。
(娘が母から言い伝えを教えられている。娘、自分の幸せを願ってくれている。いい子やと感動。涙を流して生まれ変わる決心をし、男はスープを飲み干した。完)
(死後の世界には生まれ変わりのスープなるものがあるらしい。橋のたもとでおばあさんが配っていて、それを飲むと前世の記憶を全て失ってしまう。まずくて臭いスープだけど、亡くなった人はとても喉が渇いているためそのスープを飲んでしまうのだとか。)
(男、飲んだ後に白目を剥いて倒れる。おばあさん、自作のスープ。次の方。と取り次ぐ声を最後に、男の意識は消えた。そして白い空間の中、男は生まれ変わる)