第9話:初恋……!(その2)
はっきり言って、俺は女の前に美人とかかわいいとかいう単語がつく異性が苦手だ。もちろん、嫌いな訳じゃない。でも、見近にいる女の前に美人とかかわいいとかいう単語がつく異性をずっと見てきているので、どうしても警戒してしまうのだ。
そんな可愛い顔して、実は金にがめついんじゃないかとか。
そんな華奢な体して、実は素手でコンクリートブロックを軽々と打ち砕いてしまうんじゃないかとか。そんな愛くるしい笑顔して、実は兄弟だけにはその本性をあらわにし、自分のストレス解消の道具に利用しているんじゃないかとか。つい、そんな現実離れした疑い(そんな女が現実に存在しているが)をかけてしまうのだ。つまり、俺は外見だけで人を判断するような人間では決してない。自分がそれで苦労してきて、軽い人間不信に陥っているということもあるが、外見だけで俺が誰かに惹かれるなんてことはまずあり得ないのだ。
そう……。つまり、こうなったことにはそれなりの理由があるのだ。
それは悲劇の初登校から一週間。停学が解けた翌日のことだった。
「うわあ、金常時だ」
「停学解けたのかよ」
「ねえ、あの死神もしかして今日から毎日学校出てくる気かな」
「げえ……」
教室に入った瞬間注がれる、クラスメイトたちの冷たいまなざし。俺を遠巻きにして聞こえてくる、ひそひそ話。俺のいない間に、どうやら俺の愛称は
「死神」
に決まったらしい。その意味は知らないが、どんな意味を込めてのものなのかは大方想像はつく。
っていうか
「げえ………」
って……。そんな人の顔見てあからさまに嫌そうな顔して、嫌そうな声だすなよ。どんな言葉より、なにげにそういうのが一番傷つくし……。
登校初日、いきなり暴力沙汰を引き起こしてしまった以上、ある程度の覚悟はしていた。でも、現実にもう夢に描いた学生ライフが2度と夢の世界から舞い降りはしないことを痛感すると、俺の目から自然と涙がこみ上げてきた。俯いて、肩を震わせながら涙を堪える。そんな俺を見て、クラスメイト達がまた怯え出す。
――ちくしょう!
俺はいたたまれなくなって、悠然と教室から出ていった。例え、忌み嫌われている状況でも、30人以上の人間に注目されては緊張してまともな弁解なぞできるはずもない。ってか、あの時助けた女子生徒が
「金常時君! あの時はどうもありがとう! 金常時君って、見た目はちょっと怖いけどとても優しい人なのね! お友達になりましょう!」
なんて申し出てくれることを密かに期待していたのだが、俺と目が合うなりその女子生徒は俺からすかさず目をそらしてしまった……。まあ
「暴力を振るう人間に優しいもくそもない」
と言われればそれまでだが――。
それにしたって……。
……駄目だ。もはや、文句の一つも浮かんでこない……。
行くあてをなくした俺は、一人寂しく屋上へ続く扉を押し開けた。夢も希望もなく、時間だけが過ぎていく。屋上の片隅に寝っ転がりながら、俺は目を閉じてなにもかも忘れようとした。それから、いつの間にか眠りについていた俺が目を覚ましたのは、顔になにか冷たいものが当たったからだった。なんだ?
まさか、クラスメイトの誰かが居眠りををしている俺にいたずらをして
「こんなとこでサボってんじゃねーよ、金常時。ほら、教室に戻ろうぜ」
なんて言って俺を呼びにきてくれたのでは! などと寝ぼけながら考えもしたが、すぐにその考えは俺の思考が目を覚ますとともに虚しく消え去った。
周りには人っ子一人いやしない。俺の顔に当たった冷たいものの正体はただの雨だった。
「なんだよ……」身を起こしてがっくりと肩を落としながら、次第に雨足が強くなってきたので俺は枕代わりにしていた鞄をひっつかんで、慌てて屋内に避難した。自分がどれだけ寝入っていたのか確かめるために、ポケットから携帯を取り出す。
――4時30分。
……もう授業終わってんじゃん。ってかほったらかしかよ……。
俺はため息をついて、とりあえず教室へ足を運んだ。案の定、教室はすでに戸締まりがなされた後でクラスメイトもみんな出払った後だった。
仕方なく、家に帰るために下駄箱へ向かう。と、たどり着いたそこには、降りしきる雨を前にいかにも傘を忘れて困っていそうな女子生徒が、下駄箱の前で立ち往生しているではないか。今日の天気予報は晴れのち曇り。しかも、降水確率は20パーセントだったので相当神経質な人間か用心深い人間ではない限り、傘は用意していないだろう。俺は少し離れた廊下の先から、その女子生徒を観察した。さして特徴のない、真面目で純朴そうな女子生徒だった。派手に着飾ることもなく、化粧もしていない。この手の人間なら、もしかしたら大丈夫かもしれない。
俺はゆっくり下駄箱に近づいて、上履きから靴にはきかえた。鞄からもしもの時に備えての折りたたみ傘を取り出して、女子生徒の後ろに立つ。女子生徒はすぐに俺の気配に気づいたらしく、びくっと肩を震わせたかと思うと、ばっと後ろを振り返った。
身長差の関係で、女子生徒の目は俺の胸元辺りに注がれていた。それから、女子生徒の目がいかにも恐る恐るといった感じで、ゆっくりと上へと這い上がってくる。
「ヒッ!」
俺と目が合うと、女子生徒は短い悲鳴をあげて、大雨の中を一目散に走り去っていってしまった。
別にとって食おうってわけじゃないのに……。そりゃ、確かに無言で背後に立ってた俺も悪いけど――ってか、俺はそんなに怖いのだろうか? 雨の中に身を投じることを迷っていた人間に、なりふり構わず大雨に自分の身をさらすことを選択させてしまうほど、俺は恐ろしく見えるのか?
いつものことながら、軽く傷つきながら折りたたみ傘を開いて学校を出る。いっそのこと、この雨に身をさらしてしまいたい気分だったが、いちいち落ち込んだ気分につき合っていたらきりがないので、止めておいた。
学校を出て5分ほど歩くと商店街が見えてくる。そこを抜けて、その通りをまっすぐ10分ほど歩いたところが俺の自宅だ。
こっちに越してきたときは、雨の中を一人寂しくとぼとぼ歩く自分なんて想像もしていなかった。というより、考えようとしなかった。
自分はきっかけさえあれば変わることができる。俺はそう信じていたんだ。だが、現実はそんなシュークリームのようにおいしくも甘くもなかった。
「はあ……」
ため息を一つ吐き出したちょうどその時、不自然な光景が俺の目に映った。
この大雨の中、しかも道路の真ん中に傘もささずに一人の少女が突っ立っていたのだ。こちらからは後ろ姿しか見えないが、その人物が女であることは間違いなかった。背はあまり高くないが、身に着けている制服からは高校生か中学生らしいことぐらいしか判断できない。俺は足を止めて、少し先にある少女の後ろ姿を見守った。
この雨の中、傘もささずになにやってんだ?
しばらく様子をうかがっていても、少女はぴくりとも動く素振りすら見せずにその場にたたずんでいた。少しうつむき加減にたたずむ少女の後ろ姿は、まるで大雨の線に紛れてそのまま消え入ってしまいそうなほど弱々しいものだった。
「……くそ」
やめておけばいいものを、俺はつかつかと少女のもとへ近づいていった。それで、さっき痛い目をみたばかりなのにこういうときにどうしても無視を決め込むことができない自分の性格が恨めしい。
俺は手を伸ばせば届くぎりぎり離れた距離まで少女に近づくと、背後から少女の頭上に傘を持っていってやった。ある程度距離を置いたのは俺の気遣いだ。もっとも、それも気休めにもなりはしないだろう。この少女もきっと、振り返って俺と目が合った瞬間悲鳴をあげるに決まってんだ。ちくしょうめ。――と心の中でヤケクソになっていると、少女がゆっくりと俺の方を振り返った。
例のごとく、その視線は俺の胸元に注がれ、それから恐る恐るといった感じで上へと這いあがってくる。ああ、やっぱり同じパターンだよ。くそ。次は悲鳴をあげて俺の元から逃げていくんだ。
パッチリと開かれたつぶらな少女の瞳が、俺の目を捉えた。だが、少女の瞳に恐怖の色は浮かばず、それどころかそこには感情そのものも感じることができなかった。その少女のきれいに整った顔立ちからのぞく不思議な印象の瞳は、確かに俺の心を惹きつけていた。――が、ちょっと待て。待ってくれ。
な……なんで、逃げないんすか?
予想外の事態に俺はうろたえるしかなかった。
なんと、その少女は俺と目を合わせても、逃げ出すどころかじっと俺の目を見つめ返しているではないか。悲鳴の一つもあげもせずに。 ありえない状況に、俺は金縛りにあったがごとくピクリとも体を動かすことができなかった。それでも、さすがにこの状況でいつまでも無言でいるわけにもいかず、俺は意を決してのどの奥から声を吐き出した。
「か、かかかかかかか――」
訳すと
「傘持ってないの? 無理ないよね。今日天気予報じゃ雨降らないって言ってたからさ。でも、このままじゃ風邪ひいちゃうよ? 俺の家すぐそこだからさ、よかったらこの傘使ってよ。ね?」
となる。
降り注ぐ雨の冷たさと極度の緊張のせいで、俺の口は冒頭の1文字をひたすら連呼することしかできなかった。
――うん。明らかに怪しい男だ。こんな男に意味もなく優しくされるのは、もはや嫌がらせ以外のなにものでもない。ってか、この手の俺の行動を優しさと受け取ってくれた人間など、今までいたためしがない。しかし、少女はまるで俺の言葉の意味を分かってくれたみたいに、可愛らしい顔を柔らかく微笑ませて
「ありがとう」
と言葉を発したではないか。俺はあまりの出来事に、完全にフリーズ(行動不能)してしまった。
差し出した傘は少女だけを守って、大粒の雨は容赦なく俺の体を濡らしていた。少女はそんな俺をしばらく見つめてから、小さく会釈をすると傘から出ていった。
「……!」
誰もいなくなった空間に傘を差し出したまま、少女の後ろ姿が雨の線の中に消えていくのを俺はじっと見守った。
――これは、夢か? ……ああ。夢だな。夢に決まってる。俺はほっぺたを思い切りつねってみた。そんなベタな方法しか取れないほど、俺は動揺していたのだ。
道路の真ん中で、広げた傘を使いもせずにほっぺをつねって
「いて!」
と声をあげている。どこからどう見ても、おかしな人間だ。この瞬間をクラスメイトに目撃されたなら、おそらく明日から俺の愛称の前に
「変人」
という単語が加えられることだろう。と、まあそんなことは置いといて、確かな痛みとともに俺はこれが夢じゃないことを痛感した。
まさか、こんな冷たい世界の中に俺に微笑みかけてくれるような人間がいたなんて……。
俺を見ても、怯えずに
「ありがとう」
なんて言ってくれる女の子がいたなんて……!
俺は感動にうち震えた。あの娘は、この冷たすぎる社会に舞い降りた、たった一人の天使だ。いや、人間であることに違いないが、とにかく天使だ。マイ、エンジェルだ!
幸福を感じることに慣れていないせいか、こんなときにいい例えも思い浮かばない。
と、とにかく……!
あ、あの娘とお近づきになりてえええ!