第20話:ドキドキの放課後!(その1)
「はあ……」
小鳥がさえずり、気持ちのいい陽光が降り注ぐさわやかな朝。この文句のつけようのないさわやかな朝の只中、俺の気分は奈落の底に突き落とされたがごとく、果てしなくブルーだった。
「ちょっと、隼人。早く出ないと遅刻するわよ」
気がつけば、リビングのテーブルの前に腰掛けているのは俺だけだった。親父も春姉も、とっくに朝食を取り終え、すでに家を出て行っている。しかし、俺はというと、いまだ朝食も摂らず、ひたすら一人で落ち込んでいた。その原因は、そう。昨日のあの出来事だ。
坂本の妹(現在俺が片思い中のエンジェル)に、勘違いから突如としてビンタを食らわされたあの記憶が、俺の頭から離れないのだ。あえてスルーしていたが、あの後、彼女はビンタされたこっちのほうが恐縮してしまうぐらい何度も申し訳なさそうに俺に頭を下げてきたのだ。それなのに、俺ときたら緊張のあまりまともに彼女の目を見られもせずに、ぶっきらぼうに「別に……」と返すことしかできない始末……。
ちくしょう! そんなのぜんぜん気にしてないのに! 「はは、この早とちりさんめー」とかなんとか言って明るく場を和ませつつ、自然な感じで彼女とお近づきになりたかったのに! あれじゃ「ウゼえんだよ、てめえ」って言ってるようなもんじぇねえか! そのせいで、彼女、気まずそうにさっさと帰っちまったし!
ま、まあ、すぐに帰ったのは家が花屋でその手伝いをしなければならないかららしいが、絶対、彼女に与えた俺の印象は最悪だ……。
ああ……。夢にまで見た最高の学生ライフだけでなく、初恋まで俺の手から遠のいていく……。もやは、生きてる意味さえ見失いそうだ……。
「――と。――やと。隼人ってば!」
「あ、あ……? 何だよ、お袋」
「何だよじゃないでしょ、もう! 一体今何時だと思ってるの!」
「何時って……まだ……」
そう言いつつリビングの壁にかけられた鳩時計を目にする俺。
「8時15分……って、ええ! いつの間に!」
「馬鹿言ってないでさっさと支度しなさい! 遅刻しちゃうでしょ!」
「あ、ああ……」
どうやら、考え事をしているうちに大幅に時間が経っていたらしい。もっとも、授業をサボりまくっている(決して本意ではなくて)俺からすれば、遅刻ぐらいどうってことはないのだが、悲しいかな、俺が学校で「死神」に祭り上げられている事実を知らないお袋に真実を語るのは忍びなかったので、とりあえず俺は急いで支度を済ませ、家を出た。
「はあ……こりゃ、完全に遅刻だな……」
この期に及んで、遅刻の一つや二つはどうってことないが、教室に俺がいないことで喜びやがるクラスメイトたちの姿がありありと浮かんできて、俺はため息をついた。そして、とぼとぼと一人さびしく、いつも通っている通学路を歩く。
商店街を通り抜け、いつも彼女が通っている交差点に差し掛かったところで、俺はふと足を止めた。気のせいか、道路を挟んだ向こう側の歩道に見知った人間を見たような気がしたのだ。
遅刻ぎりぎりのこの時間に、なぜか手持ち無沙汰に歩道の真ん中に立っている制服姿の女の子。足早に道を行くさまざまな人々があわただしい朝に追われている中、一人だけ時間に取り残されてでもいるようなその光景は俺の目を引くには十分だった。そして、目を凝らしてみてから、俺は呆気にとられ、文字通り言葉を失った。
肩辺りより少し長めに伸びたしなやかな黒髪。小柄でありながら、均整の取れた四肢はガラス細工の工芸品のような美しくも儚い印象を受ける一方、その発展途上の体つきは、少女ではなく女性としての魅力を控えめに主張している。制服を身にまとった、清純を絵に描いたようなその女の子は、間違いなく、俺の心を射止めた坂本早苗その人に間違いなかった。
「……!」
驚きを通り越した驚愕に、俺の意識は思わず意味もなく虚無の世界にヘッドスライディングをかました。危うくその世界の住人になりかけたところを、通りがかった散歩中のおじいさんの連れた犬にワンワン吠え立てられ、何とか目を覚ます。人間だけでなく、動物にまでも毛嫌いされる悲しき習性に救われはしたものの、やはり、神様は俺を救おうという気はまったくないらしい。
意識を取り戻した俺は、反射的に彼女に気づかれる前にこの場から逃げ出そうとしたのだ。しかし、道路を挟んだ向こう側に立っていた彼女が、犬の吠え立てる声にこちらに気づき、あろうことか彼女と目が合ってしまったではないか。そのまま、目を逸らして知らん振りをしてくれることを祈ったのだが(それもショックだが)、なんと、彼女は迷うことなく、横断歩道を渡り、こちらに向かって歩を進めてくるではないか!
「……!」
心臓が悲鳴を上げ、冷や汗が背中を伝う。なぜ、どうして彼女がこんな時間にここにいるのかも、俺の元へ歩み寄ってくるのかも分からない。今まで、朝、学校に向かう途中に彼女を見かけたことなんて一度もないだけに、この出会いが偶然であるとは考えにくい。もしかして、手持ち無沙汰に歩道の真ん中に立っていたのは、誰かを待っていて、その相手は他ならぬ……俺?
その考えに行き着いたとき、俺の心臓は歓喜のあまりひとりでに小躍りを始めた。おまけに、彼女が徐々に俺の元に近づいてくるプレッシャーもあいまって、小躍りからブレイクダンスにまでヒートアップした鼓動のせいで、うまく呼吸ができやしない。そうこうしている間に、心の準備もままならず彼女が横断歩道を渡りきってしまったではないか! 早く、彼女に声をかけるための絶好の朝の挨拶を考えなければっ!
「あれ? 君って確か坂本の妹の……サナちゃんだっけ? あ、ごめん。本名は早苗ちゃんか。おはよう。どうしたのこんな時間に? 急がないと学校始まっちゃうよ?」
よ、よし……!(脳内思考時間3秒)完璧だ。どさくさに紛れてちゃっかり「サナちゃん」なんて親しげな愛称で呼んじまえば、俺たちの距離も一気にムフフ……ってか!
そして、とうとう彼女が俺の前までやってきて足を止めた。うつむき加減に俺の前に立った彼女が、おずおずといった感じで顔を上げる。よし! このタイミングでぶちかましてやれ! と彼女の目をにらみ返す俺。しかし、彼女のつぶらでまっすぐな瞳と対峙した瞬間、火のついた俺の闘争本能は、頭から水をぶっかけられたがごとく、あっけなく鎮火されてしまった。
「……」
彼女を前にしながら、口を開かず仏頂面のまま彼女から目をそらす俺。やっぱ、こうなんのかよ……。
「あ、あの、おはようございます」
心なし、というか明らかに沈んだ声を発する彼女。そして「……ああ」と彼女に見向きもせずに小声でそっけない言葉を返す俺。声が震えて、それ以上言葉を交わせる状態ではないことはもやは言うまでもないだろう。手が震えて仕方なかったので、ポケットに両手を突っ込んで何とかそれをごまかす。しかし、そんな俺の態度に、明らかに彼女の声は曇っていった。
「あの、昨日のこと、どうしてもちゃんと謝りたくて……兄さんに聞いたら、金常時さんの家この辺だって言ってたから……迷惑だとは思ったんですけど……」
「それで……待ってたのか……」
「はい……」
彼女の言葉に「うほほい、うほほーい!」とはしゃぐ心情とは裏腹に、緊張のあまり俺は口から息を吐き出した。そして、それを迷惑に感じてのため息と受け取ったらしい。彼女は「ごめんなさい……」と消え入るような声を出して、そのまま黙り込んでしまった。
いかん……! このままでは、俺の初恋がまともに相手と口を聞く前に消滅してしまう! 今の俺の生きる希望は、もやは彼女しか残されていないのに! と心では思いながらも、体は俺の言うことを聞いてはくれない。どうして、俺は肝心なときにいつもこうなのだろうか。そうやって、今まで大切なものを何度もなくしてきたのに、一歩もそこからは動けない。変われない。そんな自分がどうしようもなく情けなくて、どうしようもなくやるせなかった。
やがて、気詰まりな沈黙を破ったのは彼女のほうだった。
「あの……本当にすいませんでした。初対面の人にあんなことして……私、てっきりあなたが兄さんにひどいことしてるんだと勘違いしてて……兄さん、学校でいろいろひどいことされてるみたいだから……私には、そんなことないって言うんですけど……」
「……」
「兄さんのこと……どうかよろしくお願いします……」
そう言い残し、彼女は俺の元から去っていった。