第11話:初恋……!(その4)
春姉が帰って来て2時間後。ちょうど春姉が入浴を済まし、部屋に戻るのを見計らってから、俺は姉の部屋のドアをノックした。
それまでに充分モチベーションを高めていた俺だったが、ドアを開けると同時にそのモチベーションは、見事に打ち落とされることとなった。開いたドアのわずかな隙間を縫って、謎の高速飛行物体が俺の顔面を直撃したのだ。
「ちょっとあんた! なに勝手に部屋に入ろうとしてんのよ!」
頭の芯にまで届く衝撃にクラクラしている俺にお構いなく、春姉の怒鳴り声は俺の三半規管を激しく揺らした。俺は、床に落ちた謎の高速飛行物体に目を落としてから、ベッドにうつ伏せに転がって、俺をにらんでいる春姉に目をやった。
ああ……。つまり、一番手近にあった枕を俺の顔面めがけて投げつけたというわけか。だが、ちゃんと俺は部屋に入る前にノックはしている。
「ちゃんと……ノックしただろ」
俺はまだクラクラする頭を抑えながら、できるだけ不満が相手に伝わるようにしかめっ面をしてみせた。すると、春姉は俺以上のしかめっ面で切り返してきた。
「あんたねえ、ノックの後に声ぐらいかけらんないの? いくら、姉弟だからって私は年頃の女の子なのよ。そうでなくても凶暴な弟をもって気苦労が耐えないってのに、こんなことでいちいち神経使わせられちゃたまんないわ。っていうか、あんたこういうことに無頓着すぎんのよ。よく、女の子の気持ちぜんっぜん考えようとしない図々しいバカ男がいるけど、あんたはその典型ね。一回死んでみたら?」
「……」
まさに、その女の子の気持ち、というやつを知るためにここに立っているのだが、やはり俺は大きな間違いを犯そうとしているのかもしれない。少なくとも、俺が知りたい女の子の気持ちというものは、容赦なく弟の顔面に枕を投げつけたり、平気で死ぬことをお勧めしてくるような女の子のものとは、180度違うのだ。
「なに、その目。なんか言いたそうね」
無意識のうちに、俺は春姉をじっとにらんでいたらしい。俺は慌てて
「別に」
と言って目を逸らしてから、足下に転がった枕を拾って春姉に放った。春姉は身を起こして枕を受け取ると
「で?」と面倒くさそうに声を出した。
「なんの用? あんたが私の部屋に来るなんて珍しいわね」
――ああ。まだこっちに引っ越してくる前、あんたの失恋のヤケ酒に無理矢理付き合わされた挙げ句、高速上段回し蹴りを側頭部に見事にキメられて天国の階段を昇りかけた時以来だよ。もっとも、酔っぱらってたあんたの記憶には、カケラもそのことは残ってないだろうから、よけい珍しく感じるだろうね。などと思いつつ、俺は早速話を切りだした。
「ちょっと、相談したいことがあるんだ」
「なによ。金だったら貸さないわよ」
この金の亡者め……。
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、なんなのよ。どうでもいいけど手短にしてよね。私も暇じゃないんだから」
ベッドの上で開かれているファッション雑誌。その横に転がっている食べかけのスナック菓子の袋。テレビから漏れてくるバラエティー番組の派手な笑い声。
もし、お笑い芸人のツッコミ担当ならば
「アホ! どっから見ても暇やろが!」
などと関西弁を用いて躊躇なく頭をひっぱたく場面だろうが、もちろん俺がそんな行為に及ぶことはない。受けを取るために命を取られるなんて、真っ平ごめんだ。
とりあえず座りなさいよ、との春姉の言葉に促されて、俺は花柄のレースのテーブルクロスがかけられた背の小さな丸テーブルの前に腰を下ろした。その凶暴性はともかくとして、春姉も一応は女の子なのだ。部屋はある程度綺麗に掃除されているし、部屋の中に置かれているものの多くも
「かわいい女の子」
をイメージさせるものばかりだ。まあ、これで部屋の中まで男勝りなら、正真正銘、男の出来上がりだ。
「で? 相談って?」
そう言って、春姉はベッドの上で胡座をかいた。
「ああ……」
「なによ。ずいぶん深刻そうじゃないの」
そう思うなら、うかれた顔するのはやめてくれ。ってか、その元凶は他ならぬあんただ。
「なに遠慮してんのよ、水くさい。一応姉弟なんだから、お金以外のことならなんでも相談に乗ってあげるわよ」
正直、その優しさは見当外れだが、ここまで来た以上もう引き返すこともできない。俺は決死の覚悟を決めて春姉に目を向けた。
「と、友達に相談されたことなんだけど、正直、俺にはよく分からないことなんだ」
「へえ! あんた友達できたの?」
「え? あ、ああ……」
「ふうん。よかったじゃん。――にしても、世の中には物好きな人間もいるのねえ。今だから言うけど、実は私あんたには一生友達できないと思ってたのよ」
「……余計なお世話だ」
そういうことは思ってても口に出すんじゃねえ。
「――で? その友達になにを相談されたって?」
「ああ……。実はそいつ好きな女の子がいてさ」
「へえ」
春姉の目に、好奇心というたちの悪い光が宿り出す。俺は背筋に冷たい汗を滴らせながらも、それを気取られないように努めて冷静に先を続けた。
「正確には、最近好きになったってことらしい。相手は他の学校の子(多分)で、そいつのことは知らないらしい。同じ学校じゃない以上接点もあまりないし、どうすればいいのかって。正直、そういう話、俺苦手だから」
「なるほど? それで、そのあんたの友達はどうしたいって言ってんの?」
「どうしたいって――それは、まあ……とりあえず、相手に自分の存在を知ってもらうところから――」
「なに弱気なこと言ってんのよ。そんなんじゃ他の男にその娘取られちゃうわよ」
「……じゃ、じゃあ、どうしろってんだよ」
「そんなの決まってんでしょ。告白よ。こ・く・は・く」
「な! なに、突拍子のないこと言ってんだ! それじゃ、俺がここに来た意味ないだろが!」
「ばーか。なに本気にしてんのよ。知らない男にいきなり告白なんかされたって気持ち悪いだけだっての。冗談よ。じょ・う・だ・ん」
こ、こいつ……!
「ほんっと、あんたって分かりやすい性格してるわね」
「……」
「で? あんたはどうしたいんだっけ?」
「だ、だから……! とりあえず俺の存在をその娘に――」そこまで言って、俺ははっとして言葉を止めた。
ちょ、ちょっと待て……。
あんたは、どうしたい? 俺の……存在?
恐る恐る春姉の顔をのぞくと、春姉はその愛らしい顔に不気味な薄ら笑いを浮かべて、俺を見下ろしていた。そこから感じ取れるのは、もはや悪意以外のなにものでもなく、間違いなくそれは俺の恋の行方を暗示している。
かつてない恐怖と焦燥感に、俺の意識は一瞬どこか別の世界にジャンプした。
と、とにかく……! ごまかすしかねえ!
「あれー? どうしたの、隼人君? 俺の存在をその娘に――どうしたいのかな?」
「な、なんのことだ?」
「なんのことって、あんたが恋しちゃってる女の子のことよ」
「ち、違う! それは俺の友達だっつってんだろ!」
「ばーか。自分から墓穴ほっといて、今更ごまかすんじゃないわよ。大体、あんたに友達なんてできるわけないでしょ。こっちはハナからそんなホラ話信じちゃいないのよ。ってか、その手の嘘ってついてて虚しくない?」
「ぐ……」
こっちだって、好きでこんな嘘ついてたわけじゃねえ! などと噛みつくこともできず、俺は弱々しく春姉からそっと目を逸らした。
――まさか、こうもあっさり嘘を見抜かれてしまうとは思ってもみなかった。こうなってしまう事態も充分考えられたはずなのに……!
どうやら、俺の考えは相当に甘かったらしい。あの何でもなさそうな冗談も、俺を興奮させて気を散らす為の伏線だったのか? ちくしょう! なにが
「冗談よ。じょ・う・だ・ん」
だ! 素知らぬ顔して、とんでもねえ罠しかけやがって! 春姉が俺の相談に素直に乗ってくれる、と申し出ている時点でおかしいと気づくべきだった。いや、この部屋を訪れること自体がそもそもの過ちだったのだ。 絶望感に打ちひしがれていると、やがて
「ちょっと」
と春姉の声が俺の耳に入り込んできた。俺は絶望感に苛まれながらも、なんとか、絶望のふちから顔を上げて春姉に目を向けた。
「あんた、なに勝手に一人で落ちこんでんのよ」
「……」
「なによ、その顔。言っとくけど、私はあんたが相談したいことがあるなんて言いながら、嘘ついてたのが気に入らなかっただけよ。別に、あんたの好きな娘見つけだそうとか、その後あんたの気持ち本人に暴露してやろうとか思っちゃいないわよ。まあ、あんたがボロ出さずに最後まで嘘通してたら、そうしてやるつもりだったけど」
「ふ、ふざけんな!」
「あら、真剣よ私は。まあ、あんたが私に嘘つこうなんて100年早いってことよ。ってかさ、いいじゃん別に。好きな娘の1人や2人知られたからって、どってことないでしょ?」
それは、俺だからということか? どうせ俺だからというわけか? ふざけんじゃねえ! 俺にだって、好きな娘がいて誰かに相談したいけど、恥ずかしいから
「実は友達に好きな娘がいてさ」
なんて、かわいい嘘をつく権利はあるんだよ! ってか、それが嘘だと分かってても気づかない振りして弟の相談に乗ってやるのが姉としての務めだろうが! などという俺の悲痛な心の叫びは、もちろんこの自己中心女に届くわけもなかった。
「さて、隼人君。姉さん、恋する君にお願いがあるの。聞いてくれる?」
にっこりと笑う春姉の笑顔を前に、俺は心の底から思った。――やっぱ、来なけりゃよかった……。