窮鼠
蓮華草の庭で膨らんでは弾ける恋の花弁。私は君と縁側に座り、蝉の音が陽炎に滲むのを感じていた。太陽が容赦なく照りつける夏の日。それは君がお国の為、白兵隊として戦争に駆り出される日でもあった。
「こうして居られるのも今日が最後か……」
君が呟くように言った。私はそうだね、と愛想のない返事しか出ない。
これはどうしようもないことなんだ。それが分かっていても離れたくない。きっと、出兵してしまったら君には会えないから。あなたはもう帰ってこない……。
君は青春に触れて、私に触れた。私も君と一緒に愛の温かさを知っていった。時に私は君のことで盲目になった。君しか見えなくなった。これが世間でよく聞く「恋は盲目」なんだと知ったよ。
どうも私の性格はひねくれているようだ。君が好きだと言うのに、正面切って言葉で伝えることが出来ない。細い指とか汗が滴るうなじとか、女の子みたいに長いまつ毛も綺麗で可愛くて、どうしようもなく好きなんだ。そんな君に嫉妬心を抱いてしまったのは嘘でありたいと今でも思うばかりで……。
身体しか繋がれない生き物だけど、君は私を理解してくれたよね。私も君の心に触れることが出来たよ。だから今のふたりがあると思うんだ。
遠くを見つめながら水出しの麦茶を飲む君。どこか儚げな目をしている。君はこれからどんな世界を見るんだろうね。きっとそれは子供の頃、読んだ絵本に書いてあったことだ。もう忘れてしまったけどね。
「そういえば、君が植えた蓮華は綺麗に咲いたね。どうしてまた、ガーデニングなんてしようと思ったんだ?」
「んー、特に理由はないよ。ただの気まぐれだよ」
君はきっと知らない。蓮華の花言葉が何を意味するのか。たぶん、君のことだから知ろうともしないんだろうね。まぁ、いいよ。私はここで愛する君の帰りを待つだけだ。あなたとならこの心の苦痛もやわらぐはずね。
君に手を振り別れた。いや、見送った。君がもしかしたら帰ってくるかもしれないだろうってまだ、心の底で諦めてないんだろう。
君の軍服の後姿はとても良かった。最期の場所へ向かうのにこんなにも胸を張って歩くことが出来るんだ。私と出会った頃の君は気弱だった。強くあたってしまえばぽっきりとすぐ折れてしまいそうな、もやしみたいな人だったのに。君の変化に何故か母親の気持ちを理解出来るような気がした。愛していたからきっと小さな変化にも気付けたし、大きな変化には目を丸くした。また会えるといいな、私の愛した人。
これはよくある話だ。よくある話だけど、みんな知らない。いや、誰も知ろうとしない。知ったところで悲しくなるだけだから。
爆撃機の轟音に耳を塞ぐ毎日に私はただひとりで飢え堪えていた。思い出のあるこの家は半焼し、屋根は焼け落ちた。残るものは何も無くなってしまった。
畳床で横になりシラミを潰す。惰性な日々は生気が無い。いつの日か哀れんだ浮浪者の姿を自分に重ねる。酷いにおいには自分でも気付いている。シャワーを浴びることも出来ないからこれはもう仕方ないと諦めている。髪もべたべたで下着も何日変えていないか忘れてしまった。私はどうせ誰かに見られるわけでもないしいいか、と適当な性格が悪化していた。今の君がこのだらしない私を見たらため息をつくと思う。きっと呆れ眼で私をお風呂で泡だらけにするんだろう。
生きるための理屈とか常識とかは嫌でも覚えた。それをするかしないかは私次第だったけど、生きることに必死なのは確かだ。今この時に空襲が始まって金属音と共に私の身体が蝋燭みたいにどろどろに溶けてしまうかもしれない。でも、だからといって逃げてもたぶん意味が無い。死ぬ時は呆気なく死んでしまうし、そうなら理屈や常識はきっと必要ない。
空のカンパンの缶をただ眺める。お腹がすいてしまって腹の虫が訴え掛けている。
「なにか、食べ物……」
探してもどこにもない。私は外を歩くことにした。もしかしたらなにか見つかるかもしれない。重たい腰をめいいっぱいあげて、埃まみれの玄関を抜けた。
外は一面灰色の世界で、二人で歩いた河川敷には横たわる人たちが並べられている。その中には見知った顔がいくつもあって、思わず口を塞いだ。吐くものもないくせして無理に嘔吐こうとした。残酷な光景を身体じゃなく心が許さなかったのだ。私は脆く弱くて、無力で、無謀な人間だったんだ。だからこんなにも涙が溢れ出てしまうんだ。この情けない姿が私の望んだ自分だったのだろうか。
「本当に、情けない」
十年ほど前のことだろうか、君と私が出会ったのは。先の見えない世界で私たちは反省小屋みたいな小さな学び舎で出会った。お互いが運命の人だと感じたんだ。私たちは縋りあっては共に生きた。そして、大人たちが押し付けてくる課題にうんざりして私たちは逃げた。町を抜け出して大通りに出れば憧れた都会の店たち。君との逃避行はとても楽しかった。逃げる私たちは鼠で、迫りくる魔の手は社会。あの時は結局呆気なく二人とも捕まってしまった。それでも、あのふざけあって笑いあった日々が翳りゆくことはないだろう。
もうどのくらい時間が経ったのだろうか。ラジオから流れる玉音放送が終戦を告げてから町は復興を掲げるも、町は焼野原で死体がいくつも転がっている。もちろん食糧も底を尽きていて、お国からの支給も期待は出来なかった。
君はどうしているだろうか。名誉ある死なんて言われているのだろうか。もうひとりで寂しくならないで、私ももうすぐ君へ会いに行くからさ。
私は君と過ごしたあの家で君の帰りを待っていた。何日もものを口に入れてないし、見える景色はぼやけていて気持ちが悪い。蓮華は枯れて、乾ききった世界ではすることもない。横になって、ただその時を待つだけ。
「単調すぎる生活だ」
戦争に行った勇士は何度も引き金を引いて、何百、何千人もの命を奪う惨い夢を見せられていたんだ。兵器がそんな夢を現実にすることを望んで、きっと彼らを苦しめていたんだ。私たちは兵器に正義を見せられていたのだろうか。武力で武力に対抗して、血を流すことは大儀であると、それがお国の言う「正義」で正しいことなのか。いや、それは違う。正義が必ず私たちを助けるものとは言えないし、無作為に行われる殺戮が正義によるものであればそれはきっと本物の正義への侮辱恥辱にあたるのだろう。誰かの発言で人種差別が始まって、社会が無慈悲な独裁者をつくった。そうやって、私たちは何度も間違えて、正義を本物の正義へと近付けていく。何が正しくて間違えているかなんて誰にも分からない。だから人は信じるものを貫き通すんだ。
ドアが開いた。軍服を着た男の人。
その人は火傷をしているのか顔半分が包帯で巻かれていた。きっと戦争のせいだろう。戦って、戦って、疲れているんだ。
その人は私の姿を見ると一目散に駆け寄り私の近くに座った。そして、埃まみれの私の頬を撫でると誰にも聞こえないような掠れた声で呟いている。
「なんで、逃げなかったんだ。山脈地からの連絡バスがあっただろう」
たしかに状況通達という名目で疎開用のバスが来た。でも、私は乗らなかった。あの人と過ごした家がとても愛しかったから。あの人の好きだったものとか匂いが残っていて、命が溶けてしまうその時まで一緒に居たかったんだ。もしかしたら愛しかった人が帰ってくる、なんて叶わない想像をしてしまったこともここを離れなかった理由のひとつかもしれない。
その男は片方しかない腕で私を抱きしめた。細い指で体を伝うように強く。そして、震えていた。数え切れないほどの命を奪ってきたとは思えないその震える腕が何故だか可哀想に見えて仕方ない。
きっとこの人は私のことを知っている。私もこの人のことを知っているはずだ。
誰もが欲している幸福とか大切を理不尽に壊したのは何のためだったの?
たった私ひとりのためだけの理不尽だったの?
本当は私も、君も、悲しいだけの暴力だったんだ。ただ君はお国のために戦っていただけなのに、それが悲しい結末だとしても武器を捨てることは出来なかったんだろう。でしょう、私の愛した人……。
君は軍服で大人っぽく見えたけど、まだ泣き虫なところは治ってないみたいだね。まぁ、それが君だし私が好きなところだから治らないほうがいいな。
私を抱きしめる君は離れようとしない。くっついたままで泣きじゃくるから私はまるで大きな赤ん坊を抱えているようだった。
私は崩れ落ちている君の背中にそっと手を回して撫でてあげた。その瞬間、君の身体の震えが収まった。そして声をあげていっぱい泣くものだから、私もつられてかわいた瞳を潤した。
私はぼやけて無くなってしまいそうな視界から君が消えてしまう前に伝える言葉があったのを思い出した。それは何度も、何度も君におくった言葉。そして君が好きだった言葉。掠れた声で私は告げた。
「おかえり」
待っていたよ。君と出会った時からずっと忘れない。君のにおいがするこの場所で、いくつもの思い出ができた。
私はとても幸せだった。君のおかげで私は人を愛することができた。些細なことでもずっと残っていく思い出だ。戦争に苦しめられた鼠は最後に幸せを感じたよ。
観測しているのはあなた。あなただけが生きる意味を知っている。教えるのもあなたの自由。見捨てるのもあなたの自由だ。でも、これは私のわがままで、私にこれを強いる権利も、義務もない。ただ、疎開先の子供たちに未来を見せてほしい。それだけで、それ以上は望まない。
たとえば私の知っている物語が全て偽りだったとして、あの時私と出会ったことも嘘だったとしたらあなたは今まで通りの生き方を続けていける?
曇りのない快晴の下、平和を唄う世界が来るのだろう。そして永遠が復興を見守る中であなたは気ままに生きていく。誰の心にも残る傷は決して嘘だったなんてことはない。痛々しいちぎれた左腕と火傷がある、あなたが一番分かっているはずだ。
今もこうして新しい命が生まれることで戦争の無惨さが薄れていく。語り継ぐのは酷かもしれないけど、それが出来るのはあなたなんだよ。
私は忘れない、無邪気に過ごしたあの日々を。
季節はめぐり、あの鮮明に見えた戦争から30回目の夏がやってきた。今年もつんざく蝉の音と陽炎に踊らされている。
蓮華草が咲く墓石の前にあなたは座った。
「ただいま」
そう言うとあなたは私の汚れた身体を洗い始めた。冷たい水を頭から足の先までかけるもんだから驚いた。小学校のプールに入る前の冷たいシャワーを浴びる時を思い出した。上等じゃん、受けて立つさ。昔みたいに泡だらけにはならないけどあなたは優しく丁寧に私を擦った。毎年墓参りなんて律儀になったよね。
あなたは洗い終えると線香をたいた。そして私の大好きだった梅酒を湯呑みに注ぐと墓石にコツンと当てた。
「元気にしているかい、これ好きだったよな」
あなたがつくっていた梅酒。酸味が強くて甘くないけどすごく美味しかった。そして怖いくらいに中毒性があったな。毎日のように一緒に飲んでいたのを思い出す。
あなたはその梅酒を一気に飲み干すと、そろそろ行くよと言って立ち上がった。
一瞬、私から離れていくあなたの姿が軍服を着て別れたあの時に似て頭を横切った。そして私はまた言いそびれてしまうんだ。あなたが好きなこと、私から離れていかないでと。もっと触れて居たかった。わがままを言って困らせてみたかった。
私はばかだ。こんなに後悔するなら疎開用の連絡車に乗っていればよかった。死んだら本末転倒じゃないか。
どうか知らせてほしい。あなたに伝えたかった思いがこんなにも溢れていたのに、言葉に出来なかったことも。お願いだからその寂しそうな背中を私に向けないでほしい。
「いかないで……」
突然、南風が強く吹いてあなたの髪をなびかせる。そしてあなたは振り返って私を見た。私を、見てくれた。
傷つけては傷ついて私たちは間違いばかりだけど、きっとまた会うことができるだろう。照りつける太陽の下で。




