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婚約破棄された令嬢の私が、元婚約者に私の代わりを探すように頼まれたんですけど

作者: ふたーなる
掲載日:2026/10/12

「否定することで前に進むことが出来ても、世界を回すには否定してるだけじゃダメなんですわ」


 私は、王宮の大広間でそう言った。

 窓の外では、秋の終わりを告げる風が庭園の枯れ葉を巻き上げていた。

 天井から吊るされたシャンデリアは、昼間だというのに煌々と輝いている。磨き上げられた大理石の床には、私と、私の婚約者である第一王子ラウディス殿下の姿が映っていた。


 殿下は、ひどく不愉快そうな顔をしていた。


「……何の話だ、エルネア」


「婚約破棄のお話ですわ」


「それは、私が今、宣言しただろう!」


「ええ。ですから、その宣言について申し上げているのです」


 私は扇子を閉じた。

 殿下の背後には、彼の側近が三人並んでいる。そのさらに後ろには、王宮に仕える貴族たちが集まっていた。


 皆、私たちのやり取りを固唾をのんで見守っている。

 どうしてこうなったのか。

 説明するには、少々時間を遡らなければならない。

 もっとも、結論だけを申し上げれば、私が殿下の婚約者として不適格になったからである。


 理由は、いくつもあった。

 王太子妃としての振る舞いが堅苦しい。

 殿下の政策に反対ばかりする。

 新しいことを始めようとすると、必ず問題点を指摘する。


 おまけに、殿下が何かを提案するたびに、私は予算や実現可能性について質問した。

 どうやら、それが我慢ならなかったらしい。


「お前は、私の改革を何度も否定した」


 殿下は言った。


「民のために新しい制度を作ろうとしたときも、地方の税制を変えようとしたときも、軍の再編を進めようとしたときも、お前は反対した!」


「反対したのではなく、実施するための条件を確認したのですわ」


「同じことだ!」


「同じではありませんわ」


「そういうところだ!」


 殿下が声を張り上げた。

 私は、思わずため息をつきそうになった。

 この方は、本当に話を聞いてくださらない。


 新しい税制を作るなら、どの税を減らし、どの税を増やすのか。

 軍を再編するなら、誰がその費用を負担するのか。

 新しい制度を導入するなら、現在の制度で利益を得ている人々をどう説得するのか。


 そういった話をすると、殿下はいつも「後で考える」とおっしゃった。

 そして、後で考えることはなかった。


「私は、前に進みたいのだ!」


 殿下は拳を握った。


「古いものを壊し、新しいものを作る。そのためには、まず古いものを否定しな

ければならない!」


「ええ、それはその通りですわ」


「ならば、なぜ私を否定する!」


「否定すること自体が悪いとは申し上げておりません」


 私は一歩、殿下に近づいた。


「ただ、否定するだけでは世界は回らない、と申し上げているのです」


「……何?」


「何かを始める。そこに問題があると気づき、否定する。けれど、否定した結果、別の問題が生じる。すると今度は、その否定を否定しなければならなくなる」


 殿下は眉をひそめた。

 私は続ける。


「たとえば、殿下が古い制度を否定なさったとします。その制度をなくせば、確かに解決する問題もあるでしょう。ですが、同時に、それまで制度によって支えられていたものまで失われるかもしれません」


「だから、古い制度を残せというのか!」


「いいえ。だからこそ、何を残し、何を変え、何を新しく作るのかを考えなければならないのです」


「……」


「否定したものを再び肯定するだけでは、最初に戻ってしまいますわ。ですが、否定した結果を踏まえて、新しいものを作るのであれば、それは前進です」


 私はそこで、にっこりと笑った。


「どうですか? これで、最初に戻ってきましたよね?」


「何がだ!」


「最初の話ですわ。否定するだけではダメだ、と」


「お前は私を馬鹿にしているのか!」


「いいえ。殿下のお話を最後まで聞いて、最初の結論に戻ってきただけです」


「もういい!」


 殿下は、ついに堪忍袋の緒を切った。

「エルネア・ヴァルケン! 私はお前との婚約を破棄する!」

 大広間が静まり返った。

 貴族たちの視線が、いっせいに私へ集まる。

 私は扇子を閉じ、優雅に一礼した。


「承知いたしましたわ」


「……何?」


「婚約破棄をお受けいたします」


 殿下は、拍子抜けしたような顔をした。

 もっと反論されると思っていたのだろう。

 泣きつかれると思っていたのかもしれない。

 それとも、これまでのように私が問題点を指摘し、最後には殿下の計画を手伝ってくれると期待していたのだろうか。


 いずれにせよ、私はもう疲れていた。

 殿下のために考えることにも。

 殿下の代わりに問題を解決することにも。

 そして、殿下が考えたことの後始末をすることにも。


「それでは、失礼いたしますわ」


 私は踵を返した。


「ま、待て!」


「何か?」


「お前は……本当に、それでいいのか?」


 今さら何をおっしゃるのだろう。

 私は振り返った。


「殿下が望まれたことでしょう?」


「それは、そうだが……」


「でしたら、あなたが私にしたその否定を否定なさらないでくださいませ」


 私は微笑んだ。


「一度始めたことを、最後までおやりになってください」


 そうして私は、大広間を後にした。

 そのときの私は、これでようやく自分の人生を始められると思っていた。

 まさか、翌朝になって再び王宮へ呼び出されることになるとは、夢にも思っていなかったのである。


     *


 翌朝。

 私は父からの手紙で目を覚ました。

 正確には、手紙を持ってきた侍女に起こされた。


「お嬢様。旦那様から、至急お目通し願いたいとのことでございます」


「お父様から?」


「はい」


 私は寝台の上で上半身を起こし、手紙を受け取った。

 そこには、簡潔にこう記されていた。


『殿下が、お前に相談したいことがあるそうだ。今日の昼までに王宮へ行くように』


 私は手紙を裏返した。

 何も書かれていなかった。

 もう一度、表を見た。

 やはり、何も書かれていなかった。


「……お父様?」


 私は額に手を当てた。

 婚約を破棄された翌日に、元婚約者から呼び出される。

 これは、どういう状況なのだろう。


 まさか、婚約破棄を撤回するつもりなのだろうか。

 いや、さすがにそれはないだろう。

 昨日、あれだけ大勢の前で宣言したのだ。

 そんな簡単に前言を撤回できるものではない。

 できるものではないはずなのだが。


「……嫌な予感がしますわね」


 私はベッドから降りた。

 そして、身支度を整え、王宮へ向かった。


     *


「エルネア! よく来てくれた!」


 王宮の執務室に入るなり、ラウディス殿下が立ち上がった。

 その顔には、昨日の怒りはなかった。

 代わりに、何やら期待に満ちた表情が浮かんでいる。


「……何のご用でしょうか」


「うむ。実は、お前に頼みたいことがあるのだ」


「お断りいたしますわ」


「まだ何も言っていないだろう!」


「昨日、婚約を破棄されたばかりですので」


「それはそうなのだが……」


 殿下は咳払いをした。


「私は、お前との婚約を破棄した」


「ええ」


「そして、お前はそれを受け入れた」


「ええ」


「つまり、私たちはもう婚約者ではない」


「その通りですわ」


「ならば、お前に頼みたいことがある」


「……はい?」


 私は首を傾げた。

 殿下は、真剣な顔で言った。


「私に、新しい婚約者を紹介してくれ」


「…………」


 私は黙った。

 殿下も黙った。

 執務室の窓から、鳥の鳴き声が聞こえてきた。


「……殿下」


「何だ?」


「もう一度、お願いできますか?」


「私に、新しい婚約者を紹介してくれと言ったのだ」


「聞き間違いではありませんでしたのね」


「当然だ」


 私は椅子に座った。

 頭が痛い。

 昨日、婚約を破棄された。

 そして今日、元婚約者から新しい婚約者を探してくれと頼まれた。

 これは、どう考えてもおかしい。


「殿下。私が婚約者でなくなった理由を、覚えていらっしゃいますか?」


「もちろんだ! お前は私の改革を否定してばかりいた!」


「では、なぜ私に婚約者を探させようとなさるのですか?」


「お前は優秀だからだ!」


 殿下は、何のためらいもなく答えた。


「王宮の事情をよく知っているし、貴族たちとの関係も深い。何より、私の欠点をよく理解している!」


「……」


「お前なら、私にふさわしい相手を見つけられるはずだ!」


 私は窓の外を見た。

 青空が広がっている。

 天気はいい。

 庭師が花壇の手入れをしている。

 平和な朝だ。


 なのに、どうして私はこんな目に遭っているのだろう。


「お断りいたしますわ」


「なぜだ!」


「昨日、殿下が私を否定なさったからです」


「だからこそ、お前に頼んでいるのだ!」


「……どういうことでしょう?」


「私はお前を婚約者としては認めない。だが、お前の能力は認めている!」


 殿下は胸を張った。


「つまり、婚約者としてのお前は否定するが、仕事をするお前は肯定するという

ことだ!」


 私は、ゆっくりと扇子を開いた。


「殿下」


「何だ?」


「それは、否定の使い分けとでもおっしゃるおつもりですか?」


「何?」


「都合のいい部分だけ肯定し、都合の悪い部分だけ否定する。それでは、否定したことにも肯定したことにも責任を持っていないのではありませんか?」


「ぐっ……」


「それに、私はもう殿下のために働く義務がありません」


「報酬は出す!」


「お金の問題ではございません」


「では、何が問題なのだ!」


 私は立ち上がった。


「殿下がご自分で始めたことを、ご自分で最後までなさろうとしないことですわ」


「……!」


「婚約を破棄すると決めたのは殿下です。でしたら、新しい婚約者を探すことも、ご自分でなさればよろしいのではありませんか?」


 殿下は口を開いた。

 そして、閉じた。

 しばらくして、ぽつりと言った。


「……誰を選べばいいのか、わからないのだ」


 その声は、思いのほか小さかった。

 私は、思わず殿下を見た。


「私にとって、結婚とは国の未来を決めることでもある。家柄、財力、政治的なつながり、本人の能力……考えるべきことは山ほどある」


「……」


「だが、何を基準に選んでも、何かが欠けているように思えるのだ」


 殿下は机に手をついた。


「だから、お前に頼みたい。私の欠点を知っているお前なら、私に足りないものを持つ女性を見つけてくれるはずだ」


 私は、しばらく黙っていた。

 正直に言えば、少しだけ同情した。

 殿下は、決して愚かな方ではない。


 ただ、自分が正しいと思ったことを、正しいまま実現できると信じすぎているのだ。

 そして、間違いを指摘されることを、自分自身への否定だと感じてしまう。

 だから、私の言葉を聞こうとしなかった。

 そんな殿下が、初めて自分の判断に迷っている。


 それは、ある意味では前進なのかもしれない。


「……わかりましたわ」


「おお!」


「ただし、条件がございます」


「何でも言ってくれ!」


「私が候補を紹介したとしても、必ずその方と婚約しなければならないわけではありません。殿下には、最終的にご自分で決めていただきます」


「もちろんだ!」


「それから、候補の方が殿下を拒絶した場合も、受け入れていただきます」


「……拒絶?」


「ええ。殿下が相手を選ぶように、相手にも殿下を選ぶ権利があるのですから」


「そ、それは……」


「まさか、ご自分だけが選ぶ側だとお思いでしたか?」


「そ、そんなことはない!」


「でしたら、問題ありませんわね」


 私は微笑んだ。


「それでは、殿下にふさわしいお相手を探しましょう」


 こうして私は、元婚約者の再婚約先を探すという、人生で最も奇妙な仕事を引き受けることになったのである。




 最初に候補として挙がったのは、北方の小国、ルグニア王国の第三王女だった。


 名を、ミレヴァ・ルグニアという。

 彼女は二十歳。

 ラウディス殿下より一つ年下で、外交交渉に優れ、複数の言語を操り、国の財政事情にも詳しいという。

 何より、彼女の国は北方の交易路を押さえている。

 殿下が進めようとしている経済改革にとって、これほど都合のよい相手はいない。


 私は、王宮の会議室に候補者の資料を並べた。


「こちらがミレヴァ王女の経歴ですわ」


「ほう」


「外交経験が豊富で、財務にも明るい。隣国との関係を改善するための提案も、すでにいくつか発表なさっています」


「素晴らしいではないか!」


「ええ。申し分ありませんわね」


「ならば、彼女にしよう!」


「お待ちくださいませ」


 私は資料を取り上げた。


「まだ、ご本人とお会いしておりません」


「資料で十分ではないのか?」


「結婚相手を選ぶのですわよ?」


「うむ……」


 殿下は、少しだけ恥ずかしそうに頬を掻いた。

 まったく。

 自分が選ばれる立場でもあることを、少しは意識していただきたいものだ。


     *


 数週間後、ミレヴァ王女が我が国を訪れた。

 彼女は、資料に書かれていたとおりの女性だった。

 背筋はまっすぐで、言葉遣いは丁寧。質問には的確に答え、相手の話を遮ることもない。


 昼食の席では、殿下が最近考えている税制改革について話題が出た。


「なるほど。農村部の負担を軽減し、都市部の商業税を調整するのですね」


 ミレヴァ王女は頷いた。


「ただし、移行期間を設けなければ、商人たちが隣国へ移ってしまう可能性があります。そこで、最初の二年間は税率を段階的に変更してはいかがでしょう」


「素晴らしい!」


 殿下は目を輝かせた。


「そうだ、それだ! 私も同じことを考えていた!」


 私は、黙ってスープを飲んだ。

 同じことを考えていた。

 そうですか。

 ちなみに、私が半年前に申し上げたときは、「改革を遅らせるな」とおっしゃっていましたわね。


「エルネア嬢は、どうお考えですか?」


 ミレヴァ王女が、私に話を振った。


「確かに、税率を段階的に変更するのは有効でしょう。ただ、商人たちの移動だけでなく、地方の小規模な工房にも配慮する必要がございますわ」


「工房、ですか?」


「ええ。都市部の商業税を調整すれば、商品を扱う商人は利益を得るかもしれません。しかし、原材料を仕入れる工房の負担が増える場合もあります」


「なるほど。では、工房向けの補助制度を……」


「補助制度を作るなら、財源を考えなければなりませんわね」


「確かに」


 ミレヴァ王女は、すぐに手帳を取り出した。


「でしたら、税制改革によって生まれる増収分の一部を、期間限定で充てるのは

いかがでしょう?」


「その場合、想定される増収額を計算しなければなりませんわ」


「ええ。では、帰国後に試算してみます」


 私は、少しだけ驚いた。

 否定されたことを不愉快に思うどころか、彼女は私の指摘を受けて、さらに考えようとしている。


 なるほど。

 これは、かなり優秀な方だ。

 昼食の後、私たちは庭園を散策した。

 殿下とミレヴァ王女は、少し離れたところで二人きりで話している。

 私は侍女を伴いながら、彼女の人柄について考えていた。

 能力に問題はない。

 政治的な相性も悪くない。

 殿下の欠点を指摘することもできそうだ。

 ならば、彼女を候補として認めてもよいのではないだろうか。


 そう考えたところで、私は足を止めた。

 ……いや。

 何かが違う。


 私は、殿下とミレヴァ王女の方を見た。

 二人は、税制改革の話をしている。

 殿下が何かを言い、王女が頷く。

 王女が質問し、殿下が答える。


 その繰り返しだった。


 私は、眉をひそめた。


「……どうなさいましたか、お嬢様?」


 侍女が尋ねた。


「いえ。少し、気になることがありまして」


「何がでしょう?」


「ミレヴァ王女は、殿下のことをどう思っていらっしゃるのかしら」


「それは……」


 侍女は困ったように微笑んだ。


「お二人とも、楽しそうにお話しされているように見えますが」


「ええ。けれど、あれは政治の話ですわ」


「政治の話ができるのは、よいことでは?」


「もちろんです」


 私は、もう一度二人を見た。


「ですが、結婚とは、政治の話をするためだけにあるものではありませんでしょう?」


 その日の夕方。

 ミレヴァ王女は、私に礼を述べた。


「本日は、とても勉強になりました。ラウディス殿下は、改革に対する熱意をお

持ちなのですね」


「ええ。熱意だけは、誰にも負けませんわ」


 少しだけ、言葉に棘が混じった。

 王女は、気づかなかったようだった。


「私は、殿下となら良い国を作れると思います」


「……それは、殿下と結婚したいという意味でしょうか?」


 私が尋ねると、王女は少し考えた。


「そうですね。お互いに利益があり、能力を認め合えるのであれば、良い婚姻になると思います」


「殿下ご自身については?」


「ご本人、ですか?」


「ええ。ラウディス殿下という、一人の人間については、どのようにお考えですか?」


 王女は、今度こそ困ったように笑った。


「まだ、そこまではわかりません」


 私は頷いた。

 なるほど。

 それは正直な答えだった。

 だからこそ、私は彼女を否定しなければならなかった。


「申し訳ございません。今回は、候補から外させていただきますわ」


「……そうですか」


 王女は驚いたようだったが、怒りはしなかった。


「理由を伺っても?」


「あなたは、殿下と良い国を作ることができるでしょう。けれど、殿下と良い人生を送れるかどうかは、まだわかりません」


「……」


「それを確かめる前に、婚約を決めるわけにはいきませんわ」


 王女はしばらく私を見つめたあと、静かに頷いた。


「わかりました。もう少し、自分の気持ちについて考えてみます」


 そうして、ミレヴァ王女は帰国した。


     *


「なぜだ!」


 翌日、殿下は執務室で頭を抱えていた。


「彼女は完璧だったではないか!」


「完璧だからこそ、問題なのですわ」


「どういうことだ!」


「殿下は、ミレヴァ王女と結婚したいのですか? それとも、ミレヴァ王女の能力と結婚したいのですか?」


「……何だ、それは」


「彼女は殿下の改革に協力してくださるでしょう。ですが、殿下が彼女を一人の人間として愛せるかどうかは、別の話です」


 殿下は、黙った。

 私は続けた。


「結婚は、国同士の利益だけで決めるものではありません。少なくとも、私はそう考えています」


「……では、お前は何を基準に相手を選ぶつもりなのだ?」


「それを考えているところですわ」


「まだ決まっていないのか!」


「ええ」


 殿下は、天井を仰いだ。


「お前は……本当に面倒な女だな」


「よく言われますわ」


 私は微笑んだ。

 

 *


「……それで、殿下。次のお姫様をお呼びしてもよろしいでしょうか?」


 私は手元の書類をめくりながら、向かいに座る王子に尋ねた。

 王子の名は、レオニス・アルヴェルト。

 この国の第一王子であり、つい先日まで私の婚約者だった男である。


 そして、私の名はセレスティア・フォン・エルンスト。

 エルンスト公爵家の長女であり、つい先日まで王子の婚約者だった女である。

 大切なことなので二度申し上げた。

 私たちは、つい先日まで婚約者だった。


 しかし、今は違う。


「うむ。次を呼んでくれ」


「かしこまりましたわ」


 私は扉のそばに控えていた侍女に目配せした。

 ほどなくして、扉が開く。

 現れたのは、燃えるような赤い髪を持った少女だった。

 彼女は入室するなり、王子に向かって優雅に一礼した。


「お初にお目にかかります、レオニス殿下。私はベルティーヌ王国第三王女、アデライードと申します」


「うむ。よく来てくれた」


 王子は満足げにうなずいた。

 私もまた、満足げにうなずいた。

 これで五人目である。


 最初に訪れたのは、隣国の第一王女。

 二人目は、芸術に秀でた侯爵令嬢。

 三人目は、魔法学の天才と呼ばれる王女。

 四人目は、王子の幼馴染みである伯爵令嬢。

 そして五人目が、このアデライード王女だ。


 いずれも素晴らしい女性であり、王子の新しい婚約者として十分な資質を備えていた。

 しかし、

 私は誰一人として、王子の新しい婚約者として認めなかった。


「セレスティア」


「はい、殿下」


「そろそろ、誰かに決めてくれないか」


「何をおっしゃいますの。私は殿下に最もふさわしいお相手を選んで差し上げているのです。慎重になるのは当然でしょう?」


「五人目だぞ」


「まだ五人目ですわ」


「まだ、だと?」


 王子の顔が引きつった。

 私はにっこりと微笑んだ。


     *


「それでは、アデライード王女。まずは自己紹介をお願いできますか」


「はい」


 私は書類を机に置いた。

 アデライード王女は、背筋を伸ばして話し始めた。


「私はベルティーヌ王国にて、主に外交と軍事政策を学んでおります。父王の許可を得て、国境付近の交易路の整備にも携わってまいりました」


「ほう。交易路の整備か」


 王子が身を乗り出した。


「はい。隣国との交易を活発にすることで、両国の利益を増やせると考えております」


「素晴らしい!」


 王子は手を叩いた。

 私も同意した。


「確かに素晴らしいお考えですわね。実際、我が国でも交易路の整備は重要な課題となっております」


「ありがとうございます」


「ただ、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


「はい、何でしょう?」


「交易路を整備する際、既存の街道を利用する商人たちの利権については、どの

ように調整なさるおつもりですか?」


 アデライード王女は一瞬、考え込んだ。


「それは……新しい街道を整備することで、既存の商人たちにも利益が生まれる

ようにするべきでしょう」


「具体的には?」


「新しい市場を設けるなどして……」


「その市場に商人たちが移動する保証はございますか?」


「それは……」


「既存の街道を使う商人たちが新しい市場へ移れば、今度は古い街道沿いの宿屋や商店が困ることになりますわ。かといって、古い街道を優遇しすぎれば、新しい街道を整備する意味が薄れてしまいます」


「なるほど……」


「もちろん、だからといって計画そのものを否定するつもりはございません。ただ、反対する方々の事情を理解し、そのうえで利益を分配する方法を考える必要があると思いますの」


 私は微笑んだ。


「それができれば、殿下を支える立派な王妃になれるでしょうね」


「本当か!」


 王子が歓声を上げた。

 アデライード王女も、ほっとしたように微笑んだ。

 しかし。


「ですが、今回はお断りいたしますわ」


「なぜだ!」


 王子が叫んだ。


「今の話を聞いてお分かりになりませんでしたか?」


「まったく分からん!」


「殿下は、彼女の考えを素晴らしいとおっしゃいました。しかし、彼女の考えが素晴らしいことと、彼女が殿下にふさわしいことは、別の問題です」


「それは……そうかもしれないが……」


「アデライード王女は、ご自身の国で重要な仕事をなさっているのでしょう? でしたら、無理に我が国へお迎えする必要はございません。むしろ、今のお立場で力を発揮していただくほうが、両国のためになるかもしれませんわ」


 アデライード王女は、しばらく私を見つめていた。

 やがて、彼女は静かに笑った。


「なるほど。セレスティア様は、私を評価してくださったのですね」


「ええ」


「それなのに、選ばない」


「はい」


「面白いお方ですわね」


 王女は立ち上がり、王子に一礼した。


「レオニス殿下。お会いできて光栄でした。ですが、私も自国でやるべきことが

ございます。今回のお話は、辞退させていただきます」


「ええっ!?」


 王子が椅子から立ち上がった。


「いや、待ってくれ! 私はまだ何も……」


「殿下」


 私は静かに呼びかけた。


「ご本人がお断りになったのです。潔くお受けになってはいかがでしょう?」


「君が言うのか!」


「私が言っているのですわ」


 アデライード王女は笑いながら部屋を出ていった。

 私はその背中を見送り、書類に一つ、印をつけた。

 候補者第五号。

 辞退。

 これで五人目も終わりである。


「セレスティア……」


 王子の声は、もはや悲鳴に近かった。


「私は本当に、新しい婚約者を見つけられるのだろうか」


「もちろんですわ」


「本当か?」


「ええ。殿下が諦めない限り、道は開けます」


「では、次を!」


「かしこまりました」


 私は侍女に合図した。

 さて。

 次はどのような方がいらっしゃるのだろうか。

 私としては、そろそろ王子にも自分で考えていただきたいところなのだが。

 もっとも。

 私がそれを口にしたところで、王子はきっと否定するのだろう。

 そして、否定したことを否定するために、また私のもとへ戻ってくる。


 ……あら?


 これは、なかなか興味深い構造ではないだろうか。

 私はペンを持ち直した。

 次の候補者が来るまでに、少し考えてみることにしよう。


     *


 その日の夕方。

 私は王宮の庭園を歩いていた。

 候補者の選定は、思った以上に時間がかかる。

 誰もが立派な人物である一方、誰もが王子にふさわしいとは限らない。

 それに、王子自身が何を求めているのか、私にはいまひとつ分からなかった。


「セレスティア様」


 声をかけられ、振り返る。

 そこにいたのは、王宮で文官を務める青年だった。

 名前は、まだ覚えていない。


「少し、お話をよろしいでしょうか」


「ええ。構いませんわ」


 青年は、少し言いにくそうに口を開いた。


「殿下の新しい婚約者を探していらっしゃるそうですね」


「そのとおりですわ」


「……本当に、必要なのでしょうか」


 私は足を止めた。


「それは、どういう意味ですの?」


「いえ、その……殿下は、セレスティア様との婚約を破棄されたのでしょう?」


「ええ」


「それなのに、なぜセレスティア様が、次の婚約者を探していらっしゃるのかと」


 なるほど。

 もっともな疑問である。


「簡単なことですわ」


 私は庭園の噴水を眺めた。


「殿下が私との婚約を破棄した。それは、殿下が私を否定したということです」


「はい」


「しかし、私が婚約破棄を受け入れたことで、殿下は今度は私との婚約を継続したいとおっしゃった」


「……はい」


「つまり、殿下はご自身の否定を否定なさったわけですわね」


 青年は、首をかしげた。


「そうなりますね」


「では、考えてみてください。何かを始めるということは、ある状態を肯定することです」


 私は指を一本立てた。


「たとえば、殿下が私と婚約する。これが最初の状態です」


 もう一本、指を立てる。


「ところが、殿下はその状態を否定した。婚約破棄です」


 さらに、もう一本。


「しかし、婚約破棄したことによって、殿下は新たな問題に直面なさいました。王妃となる人物を、改めて探さなければならなくなったのです」


「確かに……」


「そこで殿下は、最初の状態をもう一度肯定しようとなさった。私と婚約を継続したい、と」


 私は三本の指を下ろした。


「つまり、最初の状態に戻ろうとしたのですわ」


 青年は、しばらく考え込んでいた。


「……ですが、それでは何も進んでいないのでは?」


「ええ。そこが重要なのです」


 私は微笑んだ。


「否定することで前に進むことができても、世界を回すには否定しているだけじゃダメなんですわ」


 青年は、目を丸くした。


「世界を回すには、否定を否定しなければいけないんです。どうですか? これで、最初に戻ってきましたよね?」


 噴水の水が、夕日に照らされてきらきらと輝いていた。

 青年は、ゆっくりとうなずいた。


「なるほど……」


「もちろん、ただ元に戻ればよいという話ではございません。最初の状態に戻ることで、最初には見えていなかった問題が見えてくることもあるのです」


「最初には見えていなかった問題……」


「ええ。殿下は私との婚約を破棄なさったことで、私がいなくなったあとの生活を知りました。そして、もう一度婚約を望むことで、私が殿下にとってどのような存在だったのかを考える機会を得たのです」


 私はそこで、少しだけ言葉を切った。


「ですが、それは殿下が私と婚約し直すべきだという結論にはなりません」


「……なぜですか?」


「否定を否定した結果、最初に戻ることができたとしても、最初の状態が正しかったと証明されたわけではないからですわ」


 青年は、今度こそ黙り込んだ。

 私は満足した。

 そう。


 元に戻ることと、元に戻るべきであることは違う。

 それは、婚約に限った話ではない。

 国の政策も、商人の取引も、人間関係も。

 一度始めたことを否定するのは、決して悪いことではない。


 しかし、否定するだけでは何も生まれない。


 否定したものを、もう一度見つめ直す。

 その結果、元に戻ることもあるだろう。

 あるいは、まったく別の道を選ぶこともあるだろう。

 大切なのは、否定したという事実そのものに満足しないことだ。


「……ところで」


 私は青年に尋ねた。


「あなたは、どうしてこのようなことを私にお尋ねになったのですか?」


「えっ?」


「先ほどから、ずいぶんと熱心にお聞きになっていたでしょう?」


 青年は、困ったように笑った。


「実は……殿下の婚約者選びについて、文官たちの間でも話題になっているのです」


「まあ」


「皆、セレスティア様が何を考えていらっしゃるのか、不思議に思っておりまして」


「それで、直接聞きにいらしたのですね」


「はい」


 私はうなずいた。


「よろしいことですわ。分からないことを分からないままにせず、尋ねる。それもまた、何かを前に進めるための方法ですもの」


 青年は深く頭を下げた。


「ありがとうございました。大変、勉強になりました」


「どういたしまして」


 彼は去っていった。

 私は再び歩き出した。

 さて。


 次の候補者の選定を進めなければならない。

 今度こそ、王子にぴったりのお相手が見つかるとよいのだが。

 ……いや。

 そもそも、私が候補者を選び続ける必要があるのだろうか。

 私はふと、そんなことを考えた。

 王子は、私に婚約破棄を告げた。

 私はそれを受け入れた。


 だからこそ、今の状況がある。

 もし、私が最初から王子の申し出を断っていたら?

 もし、私が婚約破棄を受け入れず、王子に抗議していたら?

 そもそも、私が王子の婚約者でなかったら?


 考え始めると、きりがなかった。

 私は空を見上げた。

 夕暮れの空には、細い雲が一本、横たわっていた。

 世界は、何かを否定しながら回っている。


 しかし、否定したものを否定することによって、世界は再び同じ場所へ戻ってくる。

 それでも、世界は完全に同じ場所へ戻ってきたわけではない。

 人間は、否定する前には知らなかったことを知っている。

 だからこそ、同じ場所に戻ってきたとしても、そこから先の選択は変わるかもしれないのだ。


「……ふふっ」


 私は思わず笑った。

 なるほど。

 これは、案外面白いことになりそうだ。


 王子が私との婚約を破棄したこと。


 私がそれを受け入れたこと。


 王子が再び婚約を望んだこと。


 私がそれを断ったこと。


 そして、私が王子に新しい婚約者を探していること。


 すべてが、ひとつの輪になっている。


 ならば。


 この輪を、もう少しだけ回してみるのも悪くないだろう。

 私は屋敷へ戻るため、庭園の出口へと歩き出した。

 そのとき、背後から聞き慣れた声がした。

「セレスティア!」

 振り返る。

 そこには、レオニス殿下が立っていた。


「殿下?」


「君に、話がある」


「新しい婚約者の件でしたら、明日またご報告いたしますわ」


「違う!」


 王子は、息を切らしていた。


「私は……私は、もう君に婚約者を探してもらうのをやめたい」


 私は目を細めた。


「それは、どういう意味ですの?」


「私は、自分で探す。自分で考える。君に頼ってばかりでは、何も変わらないと分かったのだ」


 ……ほう。

 これは、予想外の展開である。


「それは、よいことですわね」


「だから、君にはもう頼らない」


「かしこまりました」


「……え?」


「殿下ご自身でお決めになるのでしょう? でしたら、私は口を出しませんわ」


 王子は、少しだけ困った顔をした。

 そして、何かを言おうとして、口を閉じた。

 私はその様子を見て、微笑んだ。


 否定を否定する。


 元に戻る。


 しかし、元に戻ったあとには、必ず選択が待っている。


 王子は今、自分で選ぶという道を選んだ。

 それならば、私はその選択を尊重しよう。


「殿下」


「……何だ?」


「どうか、ご自分にふさわしいお相手をお選びくださいませ」


 王子は、ゆっくりとうなずいた。


「ああ」


 そして、彼は去っていった。

 私はその背中を見送った。

 ようやく、話が前に進み始めたようだ。

 ……もっとも。


 ここで物語が終わるのであれば、少々物足りない。

 私は、そう思った。が、最後はいつだってこちらが否定したものが否定されて終わるものだ。

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