第16話「上席の裏の返礼」
縫い所の黄銅の秤が、夜と朝のあいだを一度だけ歌い、黙った。机の端で針簿が冷たく座り、昨夜の一行が胸の内を右下へ引く。
『明日の机は、上席の裏の右下に』
評定の間の裏口は、書かない場のさらに下――石の梁と梁のあいだ、声を吸う空洞の廊だった。王都使オルドランは封蝋に椅子印を押したまま、短く言う。
「王は姿を見せない。だが、机は座っている。……右下は最初に食われ、最後に返される。命令は使えない。礼で潜れ」
「命令は最後。礼を先に」
俺たちは荷を軽くし、太鼓は黙礼の皮だけを抱えて降りる。ミラが先導し、ほどくための結びで梁と梁の間に細い椅子の足場を先に座らせていく。エリナは杖先の灯を低く丸め、老司は祈祷書を閉じたまま息だけ運ぶ。ゼンジは小錘を袋ごと胸に抱え、ヘイルとガロウは抜けを塞ぐザイルの角度を決める。セヴランは短い糸を風へ晒し、ルシアは――筆を握り、書かずに見る。
上席の真下、梁の交わりに古い台の腹があった。黒い木肌は右下だけが薄く痩せ、そこから白地のような風が細く出入りしている。欠けは、穴だ。だが、縁はまだ座れる。
木肌には微かな刺繍の跡――イェル・ラドン、その隣にリェナ。名は道にされていない。最初の脚を刺した者たちの座りの筋だけが、細く残っていた。
「返礼座を置く」俺は囁き、四隅へ役割を配る。
「右下=受け」――ミラ、座札と粉。
「左上=返し」――エリナ、一打 深く、二打 低く。老司、返礼の息。
「左下=計り」――ゼンジ、秤石と錘歌。
「右上=解く」――ミラのほどく輪、俺は余白の座を胸で刺す。
セヴランは震えを測り、ルシアは青棚に起こす見出しだけを視で刻む。ヘイルとガロウは両端の抜けを椅子の印で塞ぐ。
まず、右下。ミラが粉で木肌に四角を描き、座札を薄く重ねて脚の形を座らせる。
『右下=礼の脚/名は椅子に/道にならない(命令にしない)』
左上。エリナが杖先で梁を一打 深く、二打 低く。老司が息で返礼の節を短く落とす。
『借りは息で返し/童歌は丸く繋ぐ』
左下。ゼンジが秤石を梁の節目に吊り、黄銅の歌で数を起こす。
『秤は嘘を嫌い/返りを数で座らせる』
右上。ミラのほどくための輪が二重に重なり、俺は胸の針簿へ余白の一行を置く。
『先に解く道を座らせる/命令は最後』
――その時、上から金泥の雨が落ちた。命令の筆が机上で走り、右上の余白を詰めようとする圧が、木の腹へ浸みてくる。王名の道は速い。余白は嫌う。
パシェルの筆だ――ではない。筆吏たちが右上を忘れ、紙を埋めにかかっている。右下が空なら、右上の余白は滑る。
俺は太鼓を鳴らさず、胸で黙礼の一打。二打を低く。左上が座り、右上の結びが余白を受け止める。ミラが輪を一度撫で、老司が「余白は礼」と息で添える。
金泥の雨は丸くなり、梁の上で止まった。
右下が微かに吸う。――借りが来る。
木の腹から、札が四種、ぼろりとこぼれた。扁額、台帳、値札、要石。どれも右下に歯形。欠けの前借りが、ここへ返りに来た。
ゼンジが秤に載せ、黄銅が数で歌う。ミラが座札の角で受け、エリナが返しの拍を合わせ、老司が返礼の節を結ぶ。
『返礼座:右下=受け/左上=返し/左下=計り/右上=解く』
梁の上の風が丸く、欠けの縁が座る。
――だが、返りの列の最後尾に、見慣れない札が一枚混じっていた。白く、薄く、右下だけがやけに深い。印字はなく、角の縁に綴じ針の影。
返らぬ借り――主が言っていた核だ。
「数が取れない」ゼンジが眉を寄せる。皿が歌わない。「重さが嘘をつかないのに、数が座らない」
ミラが札の右下に指を置き、すぐに顔をしかめる。「座がない。道でもない。……空の脚」
右下の空脚。――最初に脚を差した縫い師が受けた反動の跡か。返し先が無い借り。
俺は胸の中で針簿を撫で、縫い師の刺繍の筋を思い起こす。机は四脚。右下は礼の脚。
返り先が無いなら、今、ここに脚を置く。座で受け、拍で返し、重で計り、結で解く。
俺は太鼓を低く一度打ち、仲間に短く合図した。
「脚を刺す」
ミラが粉で右下の輪郭を濃くし、座札を三枚重ねて脚の芯にする。
エリナが一打 深く、二打 低く――返しの息を脚へ通す。
ゼンジが秤石を脚の根に吊り、重で根止めをする。
俺は胸の針簿へ一行。
『右下=礼の脚、本座。――返礼座で受ける』
木が低く鳴り、梁の歌が一段深くなった。空脚の札は、初めて座りを得て重さを持つ。ゼンジの皿がようやく歌い、数珠錘が数で応える。
「数が立った。――返り先は“ここ”だ」ゼンジが頷く。
その刹那、下から冷えた風。椅子狩りの刃ではない。返らぬ借りが道へ落ちる癖が、最後のあがきを見せる。机の右下から王都の路地へ細い道が走り、座札の右下を噛もうと伸びる。
ヘイルがザイルを支点に梁へ体を固め、ガロウが抜けの角を椅子で塞ぐ。老司が息を深くし、エリナが二打を低く伸ばす。
ミラの指が結びを一つ、空中に座らせた。ほどくための形で――ほどけない。
『右上:解の輪――道は輪に、輪は座に』
道の細糸が輪で丸くなり、札は右下の脚へ自ら戻る。返るべき場所が座ったからだ。
札が秤へ戻り、黄銅が短く歌った。返りは完い。借りは数で零へ落ち、座だけが机に残る。
そのとき、上で微かな衣擦れ。上席の帳の奥で、王名の道が一度だけ深く息をし、余白が右上で丸くなる気配。
パシェルの筆が止まり、奏状の右上に小さな結び印。――解の道は先にある、と。
オルドランの封蝋が椅子印で重なり、静かな礼が梁を通る。
返礼座は座った。上席の裏に右下の脚が本座し、王の机は四脚で座り直す。速さの反動は脚で受け、命令は最後へ引かれて軽く置かれる。
セヴランの糸は青に震え、ルシアが視で見出しを刻む――『上席裏:返礼座 成立』。ゼンジは皿を撫で、数珠錘を袋に戻す。老司は祈祷書の端へ小さく返礼の節を縫い足し、エリナは杖先の灯を消して丸い闇を置く。ミラは結びを二つ外し、一つだけ梁に残した。ほどくための形で――印として。
再び上へ戻ると、評定の間は静かだった。扁額の光は丸く、王の机の四角は皮膚でわかるほど座っている。右上に余白、右下に脚。
パシェルが片眼鏡を外し、短く言う。「奏状に余白、封にほどく、扉に礼。――そして机に脚。……命令は最後」
オルドランは封蝋の椅子印を右下に押し、「王名は遠ざけられ、秤で支えられた」とだけ言って外套の裾を正した。
俺は針簿の余白へ清書する。
『上席裏:返礼座――右下 受け/左上 返し/左下 計り/右上 解く。空脚は座で受け直す』
黄銅の秤が短く歌い、祈祷所の鐘が深く応え、遠くの商人旗が丸い拍で揺れた。王都の空気は少し重く、しかし軽い――座が重く、反動が軽い。
縫い所に戻ると、門尉長ライサから木札、市座頭アザミから座札の新刷、関尉ナサから息帳の束が届いていた。それぞれの右下が太く、左上が息を通す。
そして、塔守から欠番庫の紙片。刺繍の薄い跡に、リェナの短い書き置きが挟まっていた(書かない場の外で見つけられたもの――礼で写す)。
――『返らぬ借りは、座に返る。道へ返さないで』
俺は机の角にその紙片を椅子で押さえ、最終頁に一行だけ座りを置いた。
『明日の机は、祭場の声の上に』
王都祭が近い。名と値と命令が一度に駆ける日。椅子狩りは群れで来る。
正解は、置くもの。右下で受け、左上で返し、左下で計り、右上で解いて。
――次は、祭場の声を座らせ、机を広場へ運ぶ。