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第15話「欠けの主」

 評定の間を出ると、王都の朝はまだ浅く、祈祷所の鐘が一打 深く落ちただけだった。胸の内では、昨夜置いた一行が針簿の頁を軽く押す。

『明日の机は、欠けの主の座の上に』


 縫い所へ戻ると、黄銅の秤が短く歌い、太鼓は黙って皮を落ち着かせた。机の上には『四脚机式』の図、座札の束、橋から借りた小石、門の扁額の写し、関から届いた息帳の控え――それから、昨夜上席で座らせたばかりの右上の輪を移した結び印。

 ルシアが筆巻きをほどき、セヴランが糸張り器を肩から外す。ミラは粉袋を叩いて角の白粉を確かめ、エリナは杖先に拍の灯を微かに乗せた。ヘイルは槍の石突を一度だけ床に鳴らし、ガロウは戸口の抜けを椅子で塞ぐ段取りに目を走らせる。老司は祈祷書の角を撫で、ゼンジは小錘の袋の口を締め直した。


「欠けの主を椅子に座らせるなら、塔の欠番庫だ」セヴランが言った。「白地が棚の裏で風に鳴る。右下が食われた頁の歯形が残っている」


「塔は礼の棚を開いた。なら、欠番庫も礼で開くべきだ」俺は頷き、机の端に一行座りを置く。


『欠番庫は、礼で開く(王名を遠ざけ/秤で支える)』


 塔の根へ向かう道は、石畳が低く歌った。青棚の余白に白地の隙間が挟まる音が、足の裏から登ってくる。塔の入口の石扉は、昨夜右上にほどくを座らせた扉とよく似ていた。王名の円は薄く、礼の折り目が深い。

 塔守の老人が現れ、俺の胸の保護章と四脚の図を見比べて頷く。「……欠番庫は、右下が食われたままだ。礼の折り目で開けるなら、礼の折り目で閉めねばならん」


「命令は最後。礼を先に」

 俺たちは扉の右上に結びの輪を薄く置き、左上に息の短い節を呼び、左下に小錘を二つ吊って重を出し、右下に座札の脚を押し当てた。

 石の歌が低く丸くなり、扉は音を立てずに開いた。


 欠番庫は冷たい。棚は無数の白と青で並び、白地の背はどれも右下が薄く痩せている。棚の合間に風の廊が走り、椅子狩りがそこを道として使った気配が古い布埃の匂いに混じっていた。

 最も奥――白地がまとまって積まれた区画に、板を四角に渡してある机があった。角は一つずつ異なる歯形で食われ、特に右下はぽっかり欠けている。

 板の上には古い刺繍の切れ端。縫い師イェル・ラドンの名と、そのすぐ下に薄い手の跡――リェナ。右下は、やはり食われていた。


「座らせよう」俺は言い、四脚机式をここに“置く”段取りを仲間と分けた。「右下=礼の脚、左上=拍の息、左下=重の座、右上=技の結び。……主は“食われた角の反動”で来る。命令は抜かない。礼で回す」


 ミラが粉で四隅に印を置き、老司が頼み言を低く落とす。ゼンジは秤石を四隅に並べ、セヴランは糸を棚から棚へ渡し、ルシアは筆を握ったまま書かずに視で青棚の段を決める。エリナは杖で一打 深く、二打 低くを床へ刻み、ヘイルは扉と抜けに結びの支点を見つける。ガロウは廊の風を椅子で分け、道を丸くした。


 俺は机の空白へ座りを一行、置く。


『欠けの主よ、机の上で座っておくれ(命令にしない/旗と秤と祈祷が見ている間)』


 風が逆から来た。棚の間の白地が一度に鳴り、右下の空白がひときわ冷える。理喰いの口より深い、道でも名でもない**“欠け”そのものの気配。

 机の右下の縁が、外へ向かってひとくち欠け――そこに、指が置かれた。

 人の指ではある。だが、指先に綴じ針の影が宿っている。

 板の向こうから、声がした。男とも女**ともつかない、座らない声。


「座らせる、か。道より重く、命より遅い。……王都は、速さを買ってきたのだ」


「買った速さの反動で、角が食われた」俺は答える。「返せる。椅子で」

「返されるのは“名の道”だけだ。欠けは穴だ。穴は座らない」


 声の縁が、右下を狙って滑る。俺は右下の前へ座札の束を置き、礼の脚を先に座らせた。

『右下=礼の脚/名は椅子に/道にならない』


 空の歯が、粉の脚に当たって鈍る。

 左上でエリナが短く拍を打ち、子どもの童歌の輪の一節を老司が息で添えた。

『左上=拍の息/一打 深く/二打 低く』


 棚の白地の鳴りが、わずかに丸くなる。

 ゼンジが秤石を左下で組み替え、黄銅の皿が低く歌った。

『左下=重の座/秤は嘘を嫌う』


 声の軽さが抑えられる。

 ミラが右上の空へほどくための輪を置く。

『右上=技の結び/先に解の道を座らせる』


 廊の風が折れ、机の四角に座が入る。

 ――そこで、主は姿を見せた。


 棚の合間から現れたのは、外套も面もない影だった。刺繍の糸が膚の下で網のように走り、ところどころが食われた跡で白く光る。胸のあたりに縫い師の印があり、名の最初の一画だけが椅子に座って、残りは道に落ちていた。

 影は机の端に膝をつき、右下の欠けを指で撫でた。

「欠けは道に似る。道は立たせられるが、欠けは座らない。……だが、お前は机に脚を四本立てた。なら、試してやろう。四脚の反動を」


 影の指先に綴じ針の影が浮き、四つに分かれた。右下へは名の道、左上へは息抜きの薄笛、左下へは値の式を偽る軽い歌、右上へは扉と封に詰める命。橋/門/市/上席で見た狩りが、一つの手で同時に走る。

 俺は命令を抜かない。礼を先に増す。


「右下――座札!」

 ミラが束を欠けの前に滑らせ、粉の脚を重ねる。

「左上――関太鼓!」

 エリナが二打 低く伸ばし、老司が童歌を丸くつなぐ。

「左下――錘歌!」

 ゼンジが秤石で歌を組み、ルシアが重さの譜を視でなぞる。

「右上――ほどく!」

 ミラが輪を二重にし、俺は胸の中の針簿へ縛りを一行刻む。


『命令は最後/礼を先に――右上は余白で受け、右下は脚で受け、左上は息で受け、左下は重で受ける』


 刃の四走は座に当たり、輪に触れ、歌に絡み、脚に引かれて鈍った。

 影の胸がわずかに上下する。人の息だ。

「……縫い師、か?」ヘイルが小声で言い、老司が頷いた。「座らない礼を縫う者だ。昔、“急”の命を礼でほどき、角を代わりに食って反動を消した者がいた」


「イェル」ルシアが囁く。「ラドン。そして――リェナ」


 影の肩が微かに震えた。指先の針が右下で止まり、左上を一瞬だけ見た。

「椅子は貸し借りができる。――お前たちはそう置いたな」


「置いた」俺は言う。「河/橋/門/市/関の椅子は、貸し借りの記録を座らせた。借りた息は童歌で返し、借りた名は座札の右下で返す。道でなく、座で」


 影は机の上に掌を開いた。そこに、ぼろぼろの札が重なっていた。扁額の欠け、台帳の欠け、値札の欠け、要石の欠け――右下ばかり。

 影はそれを秤の皿の上にそっと置いた。黄銅が低く歌い、薄い札が重さを取り戻し始める。


「欠けは借りでもある。急の命の反動を、右下で受けた借り。……お前たちが返すというのなら、座で受けよ」


「受ける」俺は太鼓を低く一打し、息帳と座札を開いた。ミラが結びを二つ、右上と右下の隅に置き、老司が返礼の節を落とす。

返礼座へんれいざ:右下=受け/左上=返し/左下=計り/右上=解く』


 返しの流れが机の上に座り、札の薄い傷がひとつずつ丸くなる。欠けは穴だ――影の言葉は正しい。だが、穴の縁は座り得る。縁が座れば、穴は道ではなく器に変わる。

 影の胸の刺繍が、ひと針だけ光って座った。名は道にならず、椅子に接した。


 そのとき――塔全体が、右下へ引かれた。欠けは主だけではなかった。棚に積まれた白地が一斉に右下へ滑り、床の隅が薄くなる。廊の風が道に変わり、王都へ右下の穴が伸びる気配。

「食い越しだ!」セヴランが糸を見て叫ぶ。「欠けが塔の外へ道を――」


「四座で止める!」俺は即答した。「河/橋/門/市、東州関――鐘四打で同拍、右下に脚を座らせる!」


 ガロウが戸口へ走り、見張り台の商人旗へ合図の結びを投げる。ヘイルは祈祷所へ走者を放ち、老司は鐘打の節を短く深く唱える。ミラは窓枠に粉で小さな椅子印を描き、ルシアは筆を握ったまま四座の名を口の中で丸く回す。

 ――一打、深く(河)。

 ――二打、低く(橋)。

 ――三打、深く(門)。

――四打、低く(市)。

 そして返しの拍を東州関が落とす。


 王都の空気が折れ、遠くで祈祷所の鐘が重なって四に座った。橋の要石の錘歌が深く、門の扁額が丸く、市場の座札が右下で息を吸い、関の息帳が返しの結びを強める。河の太鼓は低く丸い一で応えた。

 道は丸くなり、棚の白地は滑り止めを得たように座る。右下の穴の縁に脚が四本――礼/拍/重/技――が入り、塔全体がふたたび机の上へ戻る。


 影は、その座りを膚の下で見たかのように、静かに息を吐いた。針の影が薄れ、指先の人の温度が戻る。

「……返して、受ける。受けて、返す。借りは“座の数”で歌える」


「秤は数を歌う」ゼンジが黄銅に小錘を落とす。「欠けは返せる。礼の脚で」


 影は掌の札をひと束、俺の前へ置いた。扁額、台帳、値札、要石――右下に歯形。

「これは『欠けの前借り』だ」影は淡々と言った。「急の命の反動で、座を食って道を補った借り。……返すなら、“王都の上席の右下”に脚を座らせるとき、一緒に返せ」


「上席の右下?」ルシアが眉を寄せる。「昨夜、右上は座った。右下は――」


「食われている」影は机の下――王の机の写しの裏に指を差す。「玉座ではない。王が机を置く前の古い台。縫い師が脚を刺した場所。……そこが最初の欠けだ」


 イェル・ラドンの刺繍の切れ端が、黄の光を受けて丸く光る。リェナの薄い手の跡が、その上に重なる。

 影は一歩下がり、礼で立礼した。王名の円ではなく、机への礼だ。

「主は私ではない。主は“返らぬ借り”だ。欠けは返らぬ借りが集まってできる。お前たちは返礼座を置いた。――なら、王都の最初の借りを返してみせろ」


 影の輪郭が風に薄まり、廊の丸い風へ座のまま溶けた。道にならない。椅子で消えた。

 塔の欠番庫は静かに座り、棚の白地はさっきより青に近い薄を湛えた。老司が祈祷書の端に小さく返礼座の節を縫い付け、エリナは杖先の拍を低く落とした。ミラは結びを一つ、右下へ本座にし、ゼンジは黄銅の皿に数珠錘をひとつずつ落として数を唱えた。

 セヴランは糸を巻き取りながら、目尻に笑いを寄せる。「主は仕組みだった。人ではない。返らぬ借り。……棚は数で青くできる」


 ルシアは青棚の端に新しい見出しを書き込むふりをして、口だけで読んだ。「『返礼座:右下 受け/左上 返し/左下 計り/右上 解く』――王の上席に右下を」


 縫い所に戻る道すがら、商人旗が深く鳴り、祈祷所の鐘が低く応えた。王都はわずかに丸い。座札の右下は重く、門の扁額は丸く、橋の要石は歌い、東州関の息帳は返しの結びを覚えている。

 机の上に、影が置いていった札の束を並べる。歯形はどれも同じ方向――右下へ引く。王の机の写しを裏返し、右下の脚に当たる位置へ座りの粉を一つ置く。


「上席の裏へ行く」俺は言った。「四脚の脚のうち、最後の一本――右下=礼の脚を王の机の下に座らせる。返礼座で前借りを返す」


 ミラが粉袋を叩いて笑い、エリナは「二打 低く」とつぶやいて杖先に拍を貯めた。ゼンジは数珠錘を数え、ヘイルとガロウは門の見張りに段取りを渡す。老司は祈祷書に返礼の節をもう一段縫い足し、セヴランは塔の青棚に『返礼座』の札を差し込む位置を決める。ルシアは筆を握ったまま、書かない場へ向けて視だけで図面を写した。


 俺は針簿の最終頁に、短く一行座りを置いた。


『明日の机は、上席のうらの右下に』


 正解は、置くもの。

 礼で受け、拍で返し、重で計り、結びで解いて。

 ――そして王の机の下で、最初の借りを返すために。

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