第14話「上席の右上」
東州関の土塁に夜風が丸く当たり、鐘が一度だけ低く返した。俺たちは関尉ナサに見送られ、夜のうちに王都へ引き返した。胸の内では昨夜の一行が、ずっと右上を指している。
『明日の机は、王の上席の右上に』
夜明け、王都の門は丸い光を返し、椅子道は門影から内へ続いていた。書かない場だ。紙に頼らず、礼の折り目だけで行く。
秤の間に入ると、王都使オルドランが立っていた。封蝋の椅子印は新しく、外套の裾は皺ひとつない。
「上席が用意された。評定の間――王は姿を見せないが、王名はそこに座る。四脚机式を“右上から”置け」
「命令は最後。礼を先に」俺は答え、胸の保護章を指でなぞった。
評定の間は冷たく静かだった。柱は黒、床は磨かれ、扁額は丸く光る。玉座は薄い緞子の帳の奥――書かない場のさらに奥。手前の上席には、王の机がある。角が三つは座っているのが皮膚でわかる。
――右下=礼の脚、左下=重の座、左上=拍の息。
右上だけが空席のまま、薄く風が通っていた。
「技の結びを置く」俺は仲間に目で合図した。
ミラは粉袋を開き、王の机の右上の天板に触れない距離で四分の輪を描く。ほどくための形を、先に座らせる。
老司は祈祷書を閉じたまま、息の短い節を口の中だけで回し、書かない場を壊さずに礼の折り目を深める。
ゼンジは黄銅の小錘を二つ、机から腕一本分離れた右上の空へ吊り、重さで座りの影を支える。
エリナは杖先を床に低く触れ、二打目が”ここに伸ぶ”ことだけを布へ伝える。
ヘイルは槍を壁に預け、左右の扉の蝶番を観て、命令の刃が潜んでいないかを確かめる。
ガロウは抜け道になりそうな廊の影を椅子で塞ぐ段取りに移った。
セヴランは糸張り器で震えを測り、ルシアは筆を握ったまま――書かない――視だけで青棚の位置を決める。
俺は羊皮紙を出さない。代わりに、胸の内の針簿へ座りを置いた。
『右上=技の結びを借りる。――扉と筆と封に、先に解の道を座らせる(命令にしない/王名を遠ざけ、秤で支える)』
空気の布が折れ、右上に椅子の気配が立った。
その時、評定の間の脇扉が音もなく開き、猫背の男が現れた。墨で黒くなった指、片眼鏡、胸には細長い鞘。
**上席書官長**パシェル。命令の筆の束ね役だ。
「結びを置くと聞いた」パシェルは唇だけで笑った。「王名は道だ。扉は封じ、筆は走る。解など、命には不要」
オルドランは眉を上げたが、王名の円を乱さなかった。
俺は礼で返す。「右上は技――命を軽くするための結び。押すためではない。ほどくためだ」
パシェルは肩の鞘を指で叩き、脇の扉に細い印を描いた。右上の角だけが濃く、残り三隅は薄い。
扉は閉まる――解の道を欠いたまま。
理喰いが道に寄る気配が、冷たく膝に触れた。
「試そう」パシェルは言った。「結びとやらが“上席”に似合うか」
俺は命令を抜かない。座りを深くする。
ミラ、結び。
ミラは右上の空に、ほどくための輪を二つ、重ねて置く。結びは扉に触れていないが、扉の右上に影が宿り、解の道がうっすら現れる。
老司が短く頼む。
『扉よ、開くときは礼で。――閉じるときも、礼で』
扉の右上が丸くなり、重しがわずかにずれた。パシェルの唇が片側だけ下がる。
「礼で扉を扱う? 王は急を好む。命は速い」
「速さの反動は、理喰いを呼ぶ」俺は太鼓を見ずに、胸で黙礼の一打を落とす。二打目は低く。左上が座る。右上はほどく。
セヴランの糸が青に震え、ルシアが視線だけで「右上:上席版」と書く手つきになった。
パシェルは筆を抜いた。竜骨の柄に金泥の穂。机上の奏状に筆先を置くと、文字は左上を欠いたまま走り出す。二拍目が切れている命令文。命の刃が道を拓く速度で紙を進む。
書かない場だが、王の机の右上はまだ空だ。ここなら座りを増せる。
『筆よ、先にほどく余白を座らせておくれ(命令にしない/奏状の右上だけ)』
紙の右上に椅子が現れ、命令文の刃が角で一度丸くなる。再審、猶予、礼の机。――解の言葉が、右上の余白に座る。
パシェルの片眼鏡がかすかに揺れた。「余白は無駄だ。命は詰める」
「詰めた命は椅子を壊す」ミラが静かに言い、結びの輪を指で一度撫でた。「ほどくための道が先にあれば、命令は最後に軽く置ける」
そのとき――帳の奥で、風が逆に吹いた。
王名そのものの道が、右上にたわんだ。
椅子狩りの影が、上席の柱の陰から立ち上がる。欠けの鞘――右下を食われた印。面はない。肌に刺繍の跡。
「王の右上は、道にしておくほうが楽だ」影は低く言い、扉と筆と封に同時に刃を当てる構えを見せた。「礼は棚の外へ」
三手同時。
ヘイルが扉へ出て、槍を支点に蝶番を押さえ、ガロウが封箱を背で庇う。
俺は右上だけを見る。ここを座らせれば、道の刃は輪になってほどける。
老司、息。エリナ、拍。
――一打 深く。二打 低く。
ミラ、結び。
――ほどくため。先に座る。
ゼンジ、重。
――小錘、二。
セヴラン、ルシア、見る。
――青棚へ。右上に標を。
俺は胸の中の針簿へ短く縛りを置いた。
『王名は椅子に座る/右上にほどくを先に――命令は最後』
右上が座った。
扉の右上で重しが丸く転がり、封の口に余白が生まれ、筆の右上の余白は再審の椅子になった。
椅子狩りの刃は輪に引かれ、式は座に吸われ、札は足を取られた。影の手首に結びの輪がひとつ、見えない角度で掛かった。
「上席は座った」オルドランが封蝋の椅子印を右上にひとつ押し、低く言う。「王名は遠ざけられ、秤で支えられた」
パシェルは沈黙したまま、机の右上の余白を見つめた。彼の命令の筆は、二打目で短く躊躇い、その躊躇い自体が礼の座になった。やがて彼は筆を置き、片眼鏡を外し、短く頭を下げた。
「右上に余白を置く。封にほどくを刻む。――王の机は四脚で座る」
帳の奥で、風が一度深く通る。王は声を出さない。だが、王名の道が丸くなったのを、皮膚の内側で感じた。命の重さが、礼の脚で支えられる感触。
椅子狩りの影は踵を返そうとした。だが結びはほどくための形で、ほどけない。ミラが輪を指で摘まみ、静かに一言だけ置く。
「座ってから行け」
影はしばらく、言葉の椅子に座っていた。やがて立ち上がり、欠けた鞘を懐に戻し、柱の陰の道へ溶けた。
「右上が座ってしまえば、椅子狩りは道を選びにくい」ゼンジが皿に小錘をひとつ落とし、黄銅の歌を短く鳴らした。
評定は礼のまま閉じた。
パシェルは右上の余白に結び印を細く描き、書官へ向けて短い口上を残した。
「奏状には余白を。封にはほどくを。扉には礼を。――命令は最後」
書官たちの背筋に、座りの影が走る。右上の角が王都中の机に増えていくのが、遠くで見えるようだった。
秤の間へ戻ると、セヴランが糸を外套の内側にしまいながら言った。「四脚は座った。……次は“誰が角を食んできたか”だ」
ルシアは欠番の写しを二つ広げ、右下の歯形を指で追う。「塔の棚、王の机、市の札。そこに縫い師の刺繍の跡が残っている。イェル・ラドン、リェナ――名は読めるのに、道にして辿れない」
オルドランが封蝋の椅子印を押し直し、低い声で言った。
「王は答えを置く“枠”を受け取った。諮問の残りは三。――角を食う主を椅子へ座らせ、棚の欠けを青で埋めよ」
市座頭アザミがその場に顔を出し、座札を一束机に置いた。「右上の余白、市でも刷る。値にほどくを添える札――駆けすぎる値は座りでほどけ」
ライサは門の椅子道の地図を広げ、「右上の印を門の台にも付けた。筆が走る前に止まれるように」と短く言った。
関尉ナサからの短い木札も届く。
――『駆け足、一打の後。息帳、右上に返しの結び』
俺は針簿の余白に清書し、四脚の図の右上に小さな輪を縫う。
『右上:技の結び――扉・筆・封に先の解。命令は最後/礼を先に』
頭痛は来ない。礼は反動を薄くする。黄銅の秤が短く歌い、祈祷所の鐘が深く応え、商人旗が遠くで丸く鳴った。
ただ、机の端で針簿がひとりでに冷えた。最初の頁――縫い師イェル・ラドンの名。その下に、微かな追記の跡。
――『正解は、置くもの。……欠けは、座らせるもの』
その行だけ、糸が途中で切れ、右下が食われている。
「角を食う主」は、名を道にしない。右下を食って、椅子の脚を狙う。
俺は胸の内で針を押さえ、最終頁に一行だけ座りを置いた。
『明日の机は、欠けの主の座の上に』
正解は、置くもの。
四脚を揃えた机の上に。礼の上に。拍の上に。重さの上に。結びの上に。
――次は、欠けを食うものを椅子へ座らせに行く。