第13話「東州関の息」
東州関へ向かう街道は、灰走河の川上を離れるほどに音が乾く。風が草の穂を撫でても拍が立ち上がらず、靴底は砂に遅れを滑らせた。胸の内では、昨夜置いた一行がひたすら左上を指している。
『明日の机は、東州関の息の上に』
丘を一つ越えると、関の土塁と木柵が現れた。門扉は厚く、扁額は鉄に金の文字――だが、門とは違う。扁額の右下は重く、左上が抜けている。そこにこそ、息売りが棲む。
関番所の前で、槍を肩にした女が立ちふさがる。顔の半ばに日焼け、目には命令の硬さよりも現場の礼があった。
「関尉ナサ。王都使から“四脚机式”の通達は受けている。……が、息は売買になっている。行軍に息を『貸す』商いだ。兵は早く運べて、税吏は列を短くできる。拍は縮んだまま戻らない」
彼女の声そのものも、ほんの少し短い。二拍目に伸びず、息が切れて落ちる。
「息は貸しても売らない」俺は保護章を示し、机の端の白紙へ座りを置く。「四脚のうち左上を起こしに来た。一打を深く、二打を低く。借り息は椅子で返す」
ミラが粉袋を取り出し、関の地面に椅子の四角を描く。老司が頼み言を載せ、ゼンジの代わりに俺が小錘を四隅へ置く。エリナは杖先で拍を一度深く打ち、ヘイルは槍尻で土を軽く鳴らした。ガロウは柵の隙間を見て、抜けの道を椅子で塞ぐ段取りを考える。セヴランは糸張り器を風に晒し、ルシアは筆を持って青棚の余白を用意する。
『この四角で交わす息は、今だけ椅子に座る(命令にしない/左上に拍の息)』
空気が折れ、ひとつ椅子が置かれた手触り。だが、すぐに薄い歌が逆から差し込んだ。関の南側、野営地の端に白布の幕。ゆるやかに膨らみ、吐くたびに香の甘さが漏れる。幕の前に木箱。その表に「息札」の文字。
――息売りだ。
幕の陰から、痩せた影が出てきた。面はない。唇の端に笑いを湛え、手のひらに薄い紙を一枚載せる。紙には左上へ上がる矢印の印――だが、その先が切れている。
「息を貸そう」影は囁く。「一隊分の息を。一打は短く、二打は駆け足。童歌は省略。早く運べる。関尉殿、ここの列が半分になる」
ナサの眉が動く。関の現場の苦さがそこにあった。俺は秤の代わりに太鼓の胴へ掌を置き、座りの一行を低く打つ。
『息は売らない。借りは椅子に座って返す』
影は肩をすくめ、息札を一枚ひらひらさせて見せた。紙の左上に小さな穴。拍が抜ける虫喰いだ。
「椅子は遅い。道は速い。――アレン、君の名も息で軽くできる」
名を道にする呼び方。俺は名を返さない。胸の椅子を押さえ、左上を深く座らせる。エリナが杖先を二打低く打ち、老司が息の節を短く深く唱える。ミラは紐を拍紐にして柵から柵へ渡し、童歌の間を先に置く。
『童歌は丸く繋ぐ/途切れたら一手の拍手』
関の外れで遊んでいた子らが、ミラの手で輪になる。ぱん――ぱん。一打は深く、二打は低く。童歌が関を横切る橋になっていく。
幕の白布の前で、影が舌打ちを呑んだ。「子の息は高く売れる。よくも邪魔を」
「借り息帳だ」俺は紙束から一枚抜き、縛りを置く。「息の貸し借りは椅子に記す。名は座りだけ写す。道にしない」
『息帳:借りは左上、返しは右下。――礼の脚が受け、拍の息が返す』
ルシアが素早く筆で息帳の枠を描き、セヴランが糸で震えを測る。糸は白から青へ、微かに色を変えた。借りは座に記され、返しの席が自然と作られていく。ナサが息札と息帳を見比べ、短く息をついた。「……道の札より、こっちのほうが嘘が軽い」
影は息札の束を軽く打ち合わせ、香を強くした。甘い香に、細い針が混じる。息の入口――鼻と喉へ道が伸びる。兵士らの肩が一斉に上がり、童歌の輪の拍が遅れる。
「息は嗜みだ。香で整えれば、拍は省略できる。――試すか?」
ヘイルが半歩出て槍を横にし、ガロウがザイルを低く構える。俺は太鼓を黙礼の一打だけ深く叩き、灯ではなく風へ頼みを落とす。
『風よ、香に礼をさせておくれ。低く、丸く、息の椅子に座るように』
甘い匂いの角が落ち、針は丸くなる。兵士らの喉は咳で返し、童歌の輪が一手で拍をつなぐ。息売りの影の肩が、目に見えぬほど短く上下した。
「……香狩りの手は効かない、か」
「左上は祈の角だ」老司が言う。「香で道を描けば、息は椅子を探す」
影は次の手を出した。幕の奥から、小さな笛――薄笛。音にならない拍だけが喉の奥へ入る。行軍の足が駆け足の刻みに引かれ、二打が失われる。左上が削られる音。
俺は縫い所で練った息の錘歌を礼で置いた。
『足拍は一打 深く/二打 低く。――薄笛は座りで丸く折る』
太鼓は鳴らさず、座りだけを広げる。薄笛の影が息を吸うたび、左上に椅子が一脚、また一脚と現れ、二打目の伸びが勝手に座る。影の指が笛の孔で迷い、音にならない拍が遅れる。ナサが短く命じた。「駆け足をやめ、二拍目で伸べ!」
兵らの足拍が座り、行は道から机へ戻る。影は舌打ちし、息札の束を裏返した。裏には名の枠。――左上が欠け、右下だけが太い。礼の脚だけを重くして、拍を抜いて売る札。
「道を残す礼は、偽物だ」ミラが吐き捨て、拍紐の結びを一つ影の手首へ掛ける。「ほどくための結び。――ほどけ」
影は結びを引き切り、幕に身を躱して退いた。すぐに戻る。今度は一人ではない。幕の白の奥から、面をかぶった二人――口上狩りと値喰いが並んで現れ、影――息売りが真ん中に立つ。三つの狩りが揃う。橋や門で見た面より、縁は黒く太い。欠番の角で磨いた道の刃。
「四脚だと?」息売りが低く笑う。「右上(技の結び)は、まだ座ってないだろう」
胸のうちで針が冷える。確かに、右上は骨だけだ。技の結び――扉や筆や台に解の道を先に置く脚。俺は命令を抜かない。代わりに、座りを一段深くする。左上を先に、右下で支え、左下で受け、右上を空席のままにしない仮椅子を置く。
『右上 仮椅子:ほどくための印/結びは先に座る(命令にしない/息帳の右上にだけ)』
ミラが頷き、細い紐で仮結びをいくつも作って息帳の右上に沿わせた。紐はほどくための形で、ほどけない。右上へ座がひとつ、またひとつ。ルシアが書き添える。「技脚・仮」
息売りが扇のように息札を広げ、口上狩りが面の下で二拍目を針にし、値喰いが値の式を歌に混ぜる。三つの刃が、一斉に机の左上を狙って落ちた。
俺は太鼓を深く一打。黙礼。童歌の輪がぱんと手を合わせ、関太鼓が土塁の上で低く返す。エリナの杖先が拍を二打刻み、老司の息の節が丸く落ちる。ナサが短く叫び、兵が駆け足を解いて二拍目に伸びる。拍が座る。
セヴランの糸が青へ震え、ルシアの筆が「左上:拍の息/関版」と見出しを付ける。ガロウは幕の支柱へザイルを回し、ヘイルは槍で香盆を落した。ミラの仮結びが右上の空席に座り、技の道がほどける準備だけ先に揃う。
――刃は椅子に当たり、鈍った。
口上狩りの針は二拍目の座に沈み、値喰いの式は錘歌に絡め取られ、息売りの札は息帳の右下で止まる。返しの席が、札を受け付ける。売れない。借りにしかならない。借りは返す。
息売りの唇が片側だけ上がった。そこに歯が見えた。人の歯ではない。理喰いの歯が一枚、肉に綴じ込まれている。欠番の角で磨いた刃。
「四脚が揃う前に、左上を市場で売ってしまえば――」
「息は市場で座った」アザミの声が背中から飛んだ。関の外から市座の旗。彼女は走ってきて、座札の束を掲げた。「右下は重く、左上は息だ。札は座る。道にしない」
イブスの刷った座札が関の出入口に貼られ、右下の脚と左上の息が札の上で合わさる。札の歌は重く、丸い。息売りの札は薄く、尖っている。
ナサが低く呟く。「……机の脚、四本のうち三本がここに座った」
右上だけが仮椅子。――なら、初めて、右上を本座にする時だ。
俺は針簿の余白をめくり、古い刺繍の欠けの端へ指を置く。技の結びは、文字になりにくい。座りだけで伝えるものだ。ミラが小さく息を呑み、結びを一つ、俺の指の下へ座らせた。
結びはほどくための形なのに、ほどけない。代わりに、三つの狩りの道の端がほどけ始める。口上狩りの二拍目の針は輪になり、値喰いの式は座に溶け、息売りの札は右上の角で足を取られる。
『右上=技の結び/先に解の道を座らせる/刃は輪に、式は座に、札は足に』
糸が青へ、もう一段深く震えた。ルシアが筆で見出しを加える。「右上:技の結び/関版(初)」
息売りが顔を上げ、初めて人の痛みの色を浮かべた。「……針簿を読んだのか」
「座りしか読めない」俺は太鼓を低く一度打つ。「命令は最後。礼を先に」
幕の中で香が消え、薄笛は輪にほどけ、札は息帳の右下で静かに座った。借りは返す――椅子に座って。
ナサが腕を組み、短く言った。「関の規に椅子を足す。息は借りても売らない。駆け足は鐘の深い一打の後に。――行軍の息は童歌で揃える」
子らの輪が、ぱん――ぱん。兵の足拍がそれに合い、列は速くならず、しかし滞らなくなった。待機の怒りは薄れ、命令の刃は鞘へ戻った。
息売りは幕を畳み、小さな包みを懐に入れた。そこから、刺繍の欠けた布が少し覗いた。縫い師の印――だが、右下が食われている。
「君の先人も、息を売った」息売りは低く囁いた。「道にではない。椅子に。……座れない名に、息だけ置いてやった」
胸の奥で、何かが冷たく鳴った。針簿の最初の頁――イェル・ラドンの名と、その下の欠け。
「椅子で売ったなら、返したはずだ」俺は言う。「椅子は貸し借りができる」
息売りは薄く笑い、背を向けた。「右上が座った。……次は上席だ。王の机の右上。技は王名をよろこばせる。礼は棚の外に置かれる」
幕が風で低く鳴り、影は関の外へ溶けた。追わない。道に変わる。俺は息帳にもう一つ座りを刺した。
『借り息の返しは、童歌一節/深い一打の後に』
セヴランが糸を巻き、ルシアが「東州関:左上回復/右上初座」と清書する。ナサは扁額の左上に小さな印を付け、鐘の紐を結び直した。エリナは杖先の光を低く落とし、ミラは仮結びを幾つか本座に変える。ヘイルは槍を肩に、ガロウは柵の抜けを椅子で塞いだ。
夕暮れ、土塁の影が丸く伸びた。行は息を合わせ、列は怒鳴りを忘れた。童歌が関の上を渡り、鐘は深く、低く。
俺は針簿の余白へ清書する。
『関:左上=拍の息/右下=礼の脚/左下=重の座/右上=技の結び(初)。――息売りは借りに変え、返しを椅子で受ける』
ナサが俺の肩を軽く叩いた。「息は座った。行は道でなく机を通る。……王の上席に、技を座らせられるか?」
「座らせる。命令は最後。礼を先に」
俺は太鼓を低く一度打ち、扁額の左上へ座りを刻む指先を見つめた。そこに薄い刺繍の跡――誰かが昔に座らせ、誰かが抜いた痕。
出立の支度の前、ルシアがそっと紙片を差し出した。塔の倉から見つけたという古い写し。礼律学の欠番の端。
――『左上:拍の息――息は売らず、貸しても座に返す』
文字は半分食われているが、座の筋は残っている。俺はそれを針簿の右下の脚で挟み、机の角に置いた。
夜風が一度、深く吹いた。関の鐘が低く応え、童歌が薄く続く。
俺は最終頁に一行だけ座りを置いた。
『明日の机は、王の上席の右上に』
正解は、置くもの。
橋に、門に、市に、関に。
――そして次は、王の机の右上へ。技の結びを座らせに行く。