第10話「門に運ぶ椅子」
夜の橋が低く息をつき、朝の風へ座り直す。縫い所の黄銅の秤は一度だけ小さく歌い、黙った。
机の端に置いた太鼓、針簿、塔の目録、港の規約、祈祷所の唱え言――それから、橋から借りた小石。座りは深い。
今日の頁には、昨夜の一行が静かに座っている。
『明日の机は、門の座りの上に』
「門は書かない」エリナが杖を肩に掛け、微笑む。「だから椅子を運ぶ」
「運ぶ椅子、結ぶのは私の役目」ミラが胸を叩く。
「王名の風はきつい。礼の折り目、いつも以上に深くな」ヘイルが槍の革包みを締め直し、ガロウはザイルを肩へ。
セヴランは外套の裾を整え、ルシアは筆巻きを帯へ差し、ゼンジは腰袋に小錘を詰める。老司は祈祷書を懐へ押し入れ、短く礼を唱えた。
王都の外門――灯門は、遠目にも命令の棚が高かった。扁額の文字は金泥で太く、名を道に押し出すように重い。門楼には王旗が翻り、門下には門吏が三列、名簿と筆を並べる。表で商いをする者たちは列をつくり、呼名されるたびに少しずつ道へ引かれる。その道は、昼なお灯の影のように黒かった。
俺たちは門前の空だまりに机を置き、まず椅子を据える。木の座具ではない。座りの形だ。ミラが白粉で地面に四角を描き、四隅に石椅子の印を刻む。老司が低く頼み言を添え、ゼンジが小錘を置く。
『ここで交わす名は、座る(命令にしない/椅子の四角の中だけ)』
座りが落ち着くと、門の陰から一人の女が近づいてきた。門尉長ライサ――門の番を束ねる女だ。日焼けした額、油を吸った革の匂い。剣帯は簡素だが、礼の所作が崩れていない。
「門は王名の座だ」ライサは俺の椅子を見、短く言う。「椅子を持ち込むなら、礼を先に。……王都使から聞いている。諮問の机を王都へ通す“椅子道”を敷きたいと」
「道ではなく椅子」俺は頷いた。「名が座る道。道にしない道」
ライサは口元だけで笑い、頷いた。「王名は遠ざけ、秤で支える……橋の報せも受けた。――ただ、門の内は書かない。そこを破るな」
「破らない」
俺は羊皮紙を門前で開き、頼みを置く。
『この椅子の座りは、門の影へ一歩だけ延びる(礼/命令にしない/門尉長が見ている間)』
門の影が、椅子の四角と重なり、細い縁が内側へ滑る。書かない場へ、書かずに届く礼の縫い目だ。セヴランの糸は白から青へ震えを変え、ルシアが「椅子の借り・門版」と書き付ける。
問題は名簿だった。門吏は一人ずつ名を書き取り、胸元の札の文字と照らし合わせる。その筆が道を引く。椅子狩りにはこの台帳が餌場だ。俺は台帳の端を見ただけで、欠けを見つけた。右下が食われている――針簿で見たのと同じ角だ。
「椅子狩りが台帳へ触ってる」ミラが小声で言い、ライサが顎で筆記台を指した。「昼に一度、筆が勝手に走った。書いた名が行を越えて隣へ道を引いた。……お前たちの秤で、筆を座らせられるか?」
「秤は言を歌にする。筆にも歌わせる」
俺はゼンジの小錘を借り、筆記台の四隅に小さな椅子印を刻む。老司が頼み言を落とし、ルシアが記録する。
『この筆は、今だけ秤に薄く映る(侮辱の重さだけ強く響く/椅子印の上で)』
門吏が半信半疑で筆を持ち上げ、台帳に線を引く。黄銅がかすかに歌い、筆の動きが座る。道を引こうとしても、椅子に尻が重くなって停まる。門吏が目を丸くし、ライサが小さく笑った。「――座ったな」
椅子道づくりは、人から始める。列の先頭に立った老婆が、名を呼ばれる前に椅子の四角へ入った。背筋が伸び、皺の間に礼の影が差す。
「名は?」門吏。
「……ヨルナだよ」老婆は座って言った。声が道にならない。椅子に溶けて、重さに変わる。門吏の筆は歌をなぞり、線は座る場所以外へは走らない。
「入れ」ライサが顎を引く。老婆は笑って門の影へ消えた。
速度は落ちたが、座りはひとつずつ深くなった。列の途中から、香の匂いがした。甘い、だが道に似た匂い。黒外套ではない。香狩り――香に名の細い道を混ぜ、人の呼気ごと通す手だ。扁額の裏側、梁の間で誰かが香を炊いている。
ヘイルが目だけで橋の夜を思い出せと言い、ガロウがザイルの端を俺に押す。ミラは香の風下を読む。老司は杖先を軽く鳴らし、祈祷所の拍を胸に呼び込んだ。
『香よ、風に礼を。椅子の上では低く、門の上では薄く』
頼みは命令でない。香は風の間で身を低くし、扁額の金泥は道を作れず、梁に座り直す。ライサが門楼へ目配せし、兵が梁の上の盆を外へ捨てた。香狩りの小男が一人、梁伝いに逃げようとして足を滑らせ、椅子の印の手前で尻もちをつく。座りの悪い尻は、道に乗れない。
列の端で、名書きの束が一度だけ波のように揺れ、引いた。代わりに、門額の金泥が朝日に強く光った。扁額の文字――『王徳門』の最後の一画が、ほんのわずかに太い。道の筆圧だ。
「額が押している」ルシアが呟き、セヴランが糸を張る。「命令の棚が、ここへ脚を差し込んでいる」
門の内は書かない。ならば、礼で額の座りを返す。俺は橋から借りた小石を取り出し、扁額の影の四隅にそれぞれ小錘を吊るした。ゼンジの使いが紐の長さを一定にし、ミラが結びで風の抜けを作る。老司が短い節をひとつ低く唱えた。
『額よ、座っておくれ。名を押すな。――門は座す』
扁額は音を出さない。だが、金泥の光が丸くなった。最後の一画の太さが、他と揃う。門の下にいた人々の肩の力が、わずかに抜けた。ライサはまぶしさに目を細め、短く息を吐いた。「王名は座った。……今なら通せる」
椅子道は、印の島をつなぐことで出来る。粉の四角、小錘、頼み言、拍。門前から門影へ、足幅の椅子が連なる。人々はそこを歩くたび、胸の名を座らせて通る。名は道にならない。椅子に座って、重さになる。門吏の筆は歌い、台帳の欠けはそれ以上広がらない。
――そこで、黒外套が現れた。橋で見た男ではない。背が低く、肩が広い。袖口に黒革の鞘。それが、欠けた角の形をしていた。針簿の右下と同じ。
奴は門前の椅子に砂を投げ、四角を崩そうとした。ミラが一歩で飛び込み、足の甲で砂を払い、四隅へ結びを置く。「ほどくための結び。崩せないよ」
奴は唇を歪め、通り名を呼ぶ。「――無名の書き換え!」
俺は名を返さない。胸の椅子を押さえ、太鼓を一度だけ低く打つ。橋から借りた拍が門前へ座り、奴の叫びは椅子にぶつかって鈍る。
「座ってから呼べ」ミラが繰り返し、エリナが杖先の光を丸く落とす。ライサは兵に目で合図し、黒外套の鞘を踏みつけた。鞘は欠けの形のまま、椅子に噛めず、ただ軋む。
黒外套はあっさり引いた。門の内へは走らない。代わりに、門の脇の仮小屋へ滑り込む。そこに――名簿の写しが隠されていた。道にするための予備の台帳。
ヘイルが低く唸り、ガロウがザイルを構え、俺は門尉長を見る。
ライサは頷かない。代わりに、声を低くした。「王名の下でも、小屋は門外だ」
それで足りた。俺たちは仮小屋の扉を開け、台帳の束を見つけた。右下は欠け、頁の端に糸が走る。理喰いの歯形。
俺は束の一番上に椅子の印を粉で四角に置き、頼みを短く刺した。
『この写しは、橋の椅子を思い出す(礼/命令にしない)』
紙の歌が低くなる。混ぜ物の名が椅子に座り、道の線が薄れた。黒外套は舌打ちした。「借り椅子で持つと思うな。夜に折れて座を失う」
「夜には灯を丸くする」俺は言う。「橋と同じだ。灯狩りの道は、椅子の丸に弱い」
奴は吐き捨てて去った。欠けの形の影だけが砂に残る。ルシアがその影を一筆で椅子へ変え、セヴランが糸を青の棚へ移した。
昼、椅子道は列の規にまでなった。ライサの兵が四角を守り、門吏が椅子を指して来訪者に座りを促す。名は道にならず、重さとして秤に映る。
王都使オルドランが、太い陽の影の中に現れた。封蝋の椅子印は健在だ。「門は座ったな」
「椅子を借り続ければ、夜も持つ」
オルドランは扁額を見上げ、目尻に細い皺を刻んだ。「門額に礼の折り目が戻った。王名は遠ざけられ、秤は支えた。……諮問、第二回を秤の間で――君の椅子道で、王都に机を運ぶ」
「運ぶ。椅子で」
彼は去り際、声を落とす。「椅子狩りは、今夜、門楼の上で灯を使う。額の裏で名を焦がして道にする。灯を丸く、拍を深く」
夜――
油の灯が風に揺れ、扁額の裏が熱をためる。橋で学んだ通り、灯は丸く、影は丸く。だが、門は橋と違う。王名の棚がある。
俺は同時維持を三に割り、灯と椅子と秤へ。
『灯よ、風に礼を。炎は少し低く、影は少し丸く』
『名は椅子に座る。道にならない』
『この門前の言は、今だけ秤に薄く映る』
扁額の裏に熱が集まり、名の焦げが線を描こうとする瞬間、ミラが結びを二つ低く作る。老司は夜の節を短く落とし、エリナは杖先で拍を深く刻む。
俺は太鼓を胸に抱え、橋の錘歌の夜節を礼で置いた。
『夜は低く。灯は丸く。門は座す。名は椅子』
扁額の裏で熱が丸くなり、焦げの線は座に沈む。門楼の上にいた黒外套が歯噛みし、香を投げた。香狩りの甘い匂いが風に乗る――だが丸い影は道を作らない。
ライサの兵が香盆を摘み取り、椅子印の上でそれを低く持つ。香は座り、風に礼をする。門は座ったまま、夜を摺り抜けた。
明け方、扁額の金泥は丸く光り、門吏の筆は静かに歌を続けていた。台帳の欠けは増えず、むしろ座りで縁が固まる。
俺は針簿の余白に清書した。
『門:門前に椅子/扁額に座り返し/筆を秤に映す/香は低く、灯は丸く。――書かない場へは椅子で届く』
セヴランは糸を青の棚へ掛け替え、ルシアは「門の椅子」と見出しを添える。ゼンジは小錘を磨き、老司は祈祷書の角を撫で、ヘイルとガロウは夜警明けの肩を回す。ミラは扁額の影の結びを解いては結び直し、エリナは胸で拍を二度、深く刻んだ。
王都使の使いが来て、短い文を置いた。
――『諮問 第二回、秤の間にて。王名、椅子に座すことを認む』
文の最後に、小さな椅子印。王の道を薄くし、椅子を置く意志のしるし。
俺は縫い所に戻る支度をしながら、机の端にそっと座りを足した。
『椅子は貸し借りできる/門から橋へ/橋から市場へ。――礼の座りは移る』
頭痛は来ない。礼は、反動を薄くする。
商人旗が朝の風に深く鳴り、祈祷所の鐘がゆっくり応えた。秤の皿は黄銅の息をつき、門の扁額は丸い光をふたたび纏う。
ただ一つ、気がかりが残った。
門尉長ライサが見せてくれた古い台帳――十年前の名の頁の端が、やはり欠けていたのだ。欠けは右下。針簿と同じ。そこに縫われていたはずの名は、一枚ごとに消えている。
「椅子狩りは昨日今日の鼠じゃない」ライサが言う。「王名が道を広げると、その隙を棲家にする。十年前から」
俺は唇を噛んだ。欠番の白地、針簿の食われ、橋と門の欠け。
諮問の机で答えを置くまで、四十日。
礼で座りを増やし、椅子で道を薄くし、秤と拍で布を守る。
そのうえで――欠けの向こう側にいる名を、椅子へ座らせる。
港へ戻る前、俺は門の影にもう一行だけ座りを置いた。
『明日の机は、市場の言の上に』
市場は橋の向こう、門の内側――書かない場だ。
だから、椅子で運ぶ。礼で回す。命令は最後に。
正解は、置くものだ。椅子の上に。机の上に。世界の布に。
――次は、市場の声を座らせに行く。