第1話「追放された無能と呼ばれた俺」
成人の儀の日、冒険者ギルドのホールは熱気とざわめきに満ちていた。各地から集まった若者が、巨大な蒼石に掌を置き、己の人生を決める“固有スキル”を授かる。祝福の鐘が鳴るたび、歓声が上がり、酒が宙を飛び、未来の英雄とそのとりまきが肩を叩き合う。
幼なじみのエリナが呼ばれ、石に触れた瞬間、白い柱の光が天へ伸びた。石碑に刻まれる文字――《聖光魔法》。人々は口々に讃え、ギルド長はわざわざ壇上から降りて、彼女に銀の紋章をかけた。彼女は照れ笑いをしながら、ほんの少しだけ誇らしげに顎を上げ、俺のほうを見て親指を立てた。
次は俺の番だった。孤児院の薄い毛布の感触や、早朝のパンの匂いがふと鼻裏をかすめる。ここから変わる、と信じていた。ギルドの砂埃の中、俺は石に手を置いた。
青光。……しかし細く、頼りない。
石碑に浮かんだ文字を、人々が読んだ。ざわめきが一瞬だけ止み、そして弾けた。
『スキル:メモ帳』
「……は?」と誰かが最初に言った。すぐに笑いが続く。「記録係かよ」「依頼の伝言でも書いてな、坊や」「いや、紙と炭で十分だろ」「戦えないのに冒険者?」
笑い声は、頭の内側に釘のように刺さる。呼吸が浅くなる。俺は石碑を振り返るが、文字は変わらない。何度瞬きをしても、そこにあるのは「メモ帳」の二文字だった。
エリナが近づき、唇を噛んだ。目は俺を見ない。「……ごめんね、アレン。私たち、明日には北の街道で大型討伐の依頼が入ってて。足手まといは、連れていけない」
「連れていけない、のは、わかる。でも――」
「でも、じゃないの」彼女の声は、自分に言い聞かせるように固く、きしんだ。「あなたのことは……嫌いじゃない。だけど、私には時間がないの。聖印をもらってから最初の功績が肝心だって、教官も言ってたでしょ。だから、さようなら」
彼女の背に続いて、パーティの荷物持ちだった俺の紐巻きと水袋が、彼らの手で無造作に床へ放られた。いつも冗談を飛ばしていた槍使いの青年も目を逸らし、会計係の女は、ずっと俺を値踏みするように見ていた。
ギルド長は事務的に言った。「スキルは変わらん。誓約書には“パーティはスキル適性に応じて構成を改めることができる”とある。……若いの、あきらめろ」
あきらめろ。その一言に、体の奥の何かが静かに軋む。怒鳴ることもできたはずだ。けれど、声は出なかった。代わりに、膝がわずかに笑い、指先が冷たくなった。
その日の夕暮れ、俺はギルド裏の路地で、石畳の隙間に指を入れて古びた羊皮紙を拾った。縁が焦げ、中央に薄く何かの印が押されている。手触りは異様に滑らかで、油を含んだような光沢があった。似たものを見た記憶はない。……なぜか、捨てられずに懐へしまった。
夜。宿代を浮かせるため、港の倉庫の影で身を丸めながら、俺は拾った羊皮紙を取り出す。月は欠けて細く、潮の音が板壁を震わせる。炭軸を取り出し、指に挟む。一行だけ、試す。何かを書けば、少なくとも胸の中の、どうしようもない空虚に輪郭を与えられる気がした。
俺は羊皮紙に、くだらないこと――いや、くだらないはずのこと――を書いた。
『火は水を燃やす』
しん、と空気が固まる気配がした。同時に、倉庫の入口に立てかけられていた樽が、ぱちん、と内側から割れる音を立てた。次の瞬間、溜められた水が、まるで油のように火を纏った。炎は青く、舌のように揺れ、夜気を炙る。俺は反射的に後ずさり、背中を板壁にぶつけた。
燃える水。常識が軋む。だが、それは確かに目の前にあった。炎は数秒で消え、しゅう、と白い蒸気が立ちのぼる。手の中の羊皮紙に、じわりと温もりが宿った。そこに書かれた文字は、ほんのりと光り、やがて沈んだ。
喉がからからに渇いた。俺は周囲を見回し、誰もいないことを確かめると、もう一行、書いた。
『この倉庫にいる鼠は、いまだけ眠る』
壁際の穴から覗いていた小さな目が、ぱたり、と閉じた。ちいさな寝息が、信じられないほど規則正しく聞こえる。さらに、恐る恐る、別の指示を書き足す。
『今書いた命令は、日の出とともに無効になる』
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが“回路に接続した”感覚があった。具体的にどこがどう、と説明できない。ただ、書いた言葉と世界の縫い目が、一瞬だけ擦れ合う気配。俺の体温が、そこへ吸い込まれる。寒さを忘れるほどの集中が、脳髄を締め付けた。
理解した。少なくとも――書いたことが、現実になる。俺の“メモ帳”は、ただの記録じゃない。世界の理へ割り込む、命令文の入口だ。
呼吸を整えながら、俺は羊皮紙の隅に、小さく注意書きを加える。
『書き換えは“近く、弱く、短く”が基本(遠距離・大規模・長時間の改変は反動が大きい)』
書いた瞬間、こめかみに鈍い痛みが走った。なるほど、制約。ルールを書けば、ルールもまた世界に組み込まれる。自分で自分を縛ることで、暴走を避けられる。……俺は深く息を吐いた。興奮で震える手を握り込む。笑いそうになった唇を、何度も噛みしめた。
誰もいない闇の中で、俺は初めて、自分の“無能”に意味を与えられた気がした。
夜明け前、港の方から怒号が響いた。「火事だ!」「樽が燃えた!」青白い炎はすでに消えていたが、誰かが異常に気づいたらしい。まずい。俺は羊皮紙を外套の内ポケット深くに押し込むと、倉庫街を抜け、裏通りの坂を一気に駆け上がった。
角を曲がったところで、粗末な革鎧を着た三人組と鉢合わせた。街外れのゴロツキだ。片手には鉄棒、もう片方には古い短剣。「おい、昨日ギルドで笑われてたガキじゃねぇか」「運がねぇな。聖印持ちなら護衛がつくが、無能には誰もつかねぇ。わかるか? 金を置いてけ」
背後は袋小路。前に三人。喉が鳴る。……逃げながら、書けるか?
俺は炭軸を握り直し、羊皮紙の端に走り書きした。
『この路地に吹く風は、いまだけ東から強く吹く』『石畳は薄い霜で覆われ、滑りやすい(俺以外)』
風が頬を切り、三人の髪を後ろへ撫でつけた。彼らは瞬間的に目を細め、靴底が甲高く鳴った。次の瞬間、先頭の男の足がすべり、後ろの二人を巻き込んで派手に転んだ。鉄棒が石に跳ね、火花が散る。俺だけは地面の感触が確かで、体が羽のように軽い。
「っの、こいつ!」一人が立ち上がりざま短剣を突き出してくる。俺は壁際の古い縄を掴み、もう一行。
『この縄は蛇のようにうねり、目の前の三人の足を束ねる』
縄は生き物めいて動き、男たちの膝に絡みついた。悲鳴。短剣が石畳に落ち、カン、と音を立てた。俺は男の手首を踏みつけ、短剣を拾い上げる。刃の重みが手に馴染む。心臓がうるさい。……殺す必要はない。俺は短剣を路地の奥へ投げ捨て、彼らの顔を一人ずつ見た。
「覚えておけ」自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。「俺は無能じゃない。……二度と、道で人を狩るな」
書き足す。
『縄は日の出とともに解ける』
三人の顔に、恐怖と困惑が交互に浮かぶ。その間に、俺は踵を返して坂を駆け上がった。角を二つ曲がるころには、東の空がわずかに白んでいた。
日の出とともに、俺の書いた「命令」がほどける。風は止み、霜は消え、縄はただの縄に戻る。港の騒ぎから、俺は十分離れた。
朝の市場の喧噪が始まるまでに、宿に戻り、薄いマットに体を投げ出した。天井の割れ目を眺める。指はまだ震えているのに、頭は澄んでいた。……勝てる。いや、勝ちに行ける。俺を嘲った視線も、笑い声も、すべて書き換えてやる。
エリナの顔が、閉じた瞼の裏に浮かぶ。彼女は悪くない。彼女は、そう決められた世界で、最適な選択をしただけだ。俺が同じ立場なら、やはりそうするかもしれない。だからこそ――俺はこの世界の「決まり」を、書き換える。
机代わりの木箱を引き寄せ、羊皮紙の余白に、慎重に「仕様」を書きつける。自分の能力を理解すること。無駄に広げないこと。世界の縄を引きすぎれば、いずれ反動で首が絞まる。
『書き換えの届く範囲は俺の視界と接地に依存』『同時に維持できる命令は三つまで』『命令の矛盾は弱い方から破綻する』『書き換えの痕跡は(よほどの術者でなければ)知覚できない』
書くたびに、微かな頭痛と引き替えに、胸の底が安定していく。ルールは地図だ。地図があるなら、迷いは縮む。
扉が強く叩かれた。「アレン! いるんだろ!」聞きなれた声。槍使いの青年、ヘイルだ。彼の声には焦りが混じっていた。「エリナが……!」
心臓が跳ねた。俺は羊皮紙を布で包み、腰の袋に滑り込ませる。扉を開けると、ヘイルは汗だくで、目の下に真っ黒な隈を作っていた。
「北の街道だ。大型討伐は嘘じゃなかった。……いや、正確には、嘘だ。出たのは大型じゃない。もっと悪い。聖印を狙う“刻毒狼”の群れだ。印の光に反応して、魔力を食う。エリナの光が奴らを引きつけた。俺たち、完全にやられた。退いたけど、エリナが孤立して――」
言葉は喉で砕け、彼は両手で顔を覆った。今朝、俺が受けた視線や言葉が、遠く霞む。胸に湧いたのは、ざまぁでも、溜飲でもなく、ただ、焦燥だった。
「場所は?」
「北の街道の“砥ぎ橋”の手前だ。森の縁。ギルドに救援要請を出したけど、間に合うか――」
「間に合わせる」
俺はヘイルの肩を掴み、ぐらつく彼の視線をまっすぐ捉えた。「案内しろ」
外へ飛び出す。市場の喧噪が二人の背を押し、風が髪を乱す。走りながら、俺は羊皮紙に短い文を刻む。
『俺の脚は、砥ぎ橋までのあいだだけ、疲労を忘れる』
肺が焼けるようなのに、足は軽かった。石畳が踊り、家々の壁が流れる。路地を抜け、大通りへ。ヘイルは驚いた顔で俺を見て、必死に俺の背に食らいついた。
街門が見える。衛兵が叫ぶ。「走るな、危ない!」構っていられない。門を抜ける瞬間、俺はもう一行書いた。
『俺の視界に、砥ぎ橋までの最短の道筋が薄く光って見える』
世界の表面に、細い糸が一本、浮き上がった。それは人混みの裂け目を、林の間の獣道を、ぬらりと通り抜けて、どこかへ向かっている。俺はその線を踏むように走った。
やがて森の縁。湿った土の匂い。鳥の鳴き声は不自然に少ない。風が止み、世界が聴覚だけで構築されていると錯覚する。遠くで金属が打ち合う音。叫び。……エリナの声だ。
視界の端に、砥ぎ橋のアーチが見えた。橋の手前の斜面で、白い光が点滅する。エリナが杖を構え、光の障壁を必死に維持していた。灰色の毛皮を持つ狼――額に刻まれた黒い文字が、彼女の放つ光に反応して、牙をむきだしている。刻毒狼。聖印に刻まれた魔力情報を“食べる”魔物。最悪だ。まるで彼女の光に酔うように、狼たちは障壁へ体当たりを続けている。障壁はきしみ、割れ目が走った。
「エリナ!」俺は叫ぶ。彼女が振り向き、目が見開かれる。驚き、そしてほんの一瞬の、安堵。
だが、その瞬間にも、狼の一頭が跳んだ。障壁の裂け目を狙って、一直線に。
俺は羊皮紙に、書いた。
『この瞬間、刻毒狼は“光”を“苦い毒”だと理解する』
世界がわずかにねじれ、狼の目がぎょろりと裏返る。跳躍の途中で体が固まり、空中でねじれ、地面に転がった。続く個体も、一歩踏み出したところで脚を震わせ、牙を鳴らす。光が彼らにとって、突如として“毒”の味を帯びたのだ。
エリナが俺を見た。信じられないものを見た人間の顔だった。それでも、彼女はすぐに理解したように頷き、障壁の光を濃くした。狼たちは後ずさり、低く唸る。
俺はさらに二行、短く、確実に。
『狼の嗅覚は、今だけ俺たちを森の“石”と同じ匂いと識別する』『狼の脚は、砥ぎ橋の先“だけ”踏むと滑る』
狼たちは混乱し、吠えた。数頭が橋に向かって突っ込む。石の上で脚を滑らせ、転び、川へ落ちた。水面で暴れ、流れに飲まれていく。他の個体は状況を理解できず、半歩踏み出しては引き、また毒のような光に唸って、遠巻きに回る。
エリナが障壁を緩め、息をついた。「アレン……どう、やって……?」
説明は後だ。俺は羊皮紙を握りしめ、最後にもう一行だけ、慎重に書く。
『この場の戦闘は、ここから“十分間だけ”静まる』
風の音が戻り、木々がざわめいた。刻毒狼の群れは、まるで誰かに「待て」と命じられた犬のように、その場でうろうろし、距離を保つ。十の数を、俺は心の中で刻み始めた。
ヘイルが息を切らしながら追いつき、エリナに駆け寄る。二人の顔が近づき、安堵の滲んだ声が交錯する。俺は周囲を見渡し、森の奥――そこに、見慣れない影を見た。黒いフード。胸元に銀の徽章。ギルドの紋ではない。王都の“理術院”の紋だ。
フードの影から、冷たい視線がこちらを測る。男はわずかに口角を上げた。
「面白い。世界の縫い目が、線香の煙みたいに揺れている。……君、名前は?」
十まで数える前に、俺は悟った。俺のスキルは、ただの逆転劇の道具じゃない。世界そのものに触れている。その事実は、俺を救いもすれば、同時に、王都の塔に棲む連中の興味を惹く。
彼らは、必ず――俺を“欲しがる”。
羊皮紙が、胸の内であたたかい。俺は男を、真っ直ぐ見返した。背後で、エリナが小さく俺の名を呼ぶ。朝日が、砥ぎ橋の欄干を金色に染めていく。十の数が、九から八へ、静かに減っていく。
俺は、笑った。無能と呼ばれた少年の笑いではない。世界の余白に、初めて己の文字を刻んだ人間の笑いだ。
「俺の名前は、アレン。……“書き換える者”だ」