第7話 共感_v1.0をインプリしました。
九条 有栖、22歳。営業A課、新卒、名刺の角はまだ尖っている。
冷房の風が天井で揺れている。
空はすでに夏の色ではなくなったが、スーツで屋外活動は、まだしばらく危険な日が続きそうだ。
朝。
「九条ちゃんは2番手。入退室の運用パートを頼むな」
「はい」
風見 の飄々とした雰囲気はいつもと変わらないが、いつもの調子より今日は少しだけ真面目に聞こえる。
(私は2番手。一次情報は高城さん、オチは風見さん。真壁先輩はいつものABS)
「資料の順番、変えましょ」
紫苑がスライドを人差し指で滑らせながら、ちらりと目線だけを寄越す。
「現場の事実→認証フロー→緊急時、の順番に。九条が喋りやすい並びで良いよ」
「ありがとうございます」
(やっぱり真壁先輩は流れを作るのが上手いな)
佐伯は軽口の準備運動をしている。
「九条さん、本番に強いよね~。前回の内覧、震えてたの最初の30秒だけだったし」
「フフ、私も日々成長しているんですよ」
高城は、机上の時計を2度確認しただけで、もう次の段取りに心を移している。
有栖はポケットからMagI/Oの骨伝導イヤホンだけを取り出し、机の影で一度だけ装着する。
『有栖、聞こえますか?』
「……うん」
『今はクローズドモード。声は外に出ない。安心してください』
「うん。イヴ、私、緊張してる?」
『心拍は少し高め。平常の+9%。いい緊張』
(そう、仕事のいい緊張感。例の事件の慰労のとき、皆の事がちょっと解った。そして私も笑いの承認を受けて、居場所が見えた)
会議室のドアが、静かな音で閉まる。官公庁の担当者二名。堅いスーツ、柔らかい視線。
高城が前線を取り、現状の課題を整理する。
「現場の負担にならない運用が必要です。そこで弊社の提案ですが……」
配られた資料の角が揃う音は、たいてい良い滑り出しだ。
有栖の番が来る。椅子がきゅっと鳴る。
「失礼します、九条です。入退室の運用について、3点だけ」
喉の震えは最初のひと呼吸で落ち着いた。
(大丈夫。ビビッてない)
いつものおまじない。自己暗示。
「1つ目。セキュリティは強くし過ぎると破られます。現場が回避行動を取るからです」
担当者の眉が、ほんの少しだけ上がる。
「2つ目。二要素認証は二度手間に思える事をどう潰すか。ここは平常時の肝です」
担当者の苦笑い。思い当たる節があるようだ。
「3つ目。緊急時のフロー。誰が間違えてもいいのか、先に決めておくこと」
担当者の小さなため息。これは過去の経験からだろう。
(九条さん、やっぱ強ぇ~)佐伯が視線だけで笑う。
空気が、少し動いた。
高城が最短の言葉を足す。「現場を考慮した内容かと」
紫苑は、資料の端をそっと人差し指で押さえ、言葉の転換を作る。「では、実機デモの様子を」
風見は、客の目線と呼吸の波形を見ている。
(笑いは承認。今日は笑いじゃなくて、頷きだな)
デモは滑ったり、転げたりしない。ただ進んで止まる。
「……以上が、日常運用のベースになります」
「ありがとうございます。実は、現場から二要素めんどくさいって声が、かなり」
「解ります。なので、めんどくささに勝つ理由を一緒に作るべきです」
「理由?」
「はい。めんどくさいけど、これなら良いか。と思える事を」
「たとえば、どのような?」
「たとえば、残業が減るとか。認証時間を今の3秒より短くするとか。見返りが有れば人は納得できます」
数秒の沈黙。
風見の無音は、会議室の流れを握り、こちらのモノにする言葉。
「……なるほど」
担当者の頷きが1つ。そこから先は、言葉よりも、ページをめくる音の方が雄弁だった。
会議室を出ると、有栖はやっと息を吐いた。
「はぁ……疲れましたぁ」
佐伯が大げさに小声で囁く。「九条さん、マジで本番に強ぇな!」
「はい……ありがとうございます」
高城は短く褒める。「要点が的確。定番だがトレードオフは良いやり方だ」
紫苑は笑って、いつもの水を差し出す。「交互にね、お酒は無いけど。フフ」
「はい。フフ」
有栖は骨伝導イヤホンを装着し、イヴの声を待つ。
『緊張が解けていますね。心拍、平常の+2%。これは充実の表れ』
「イヴ、ありがと」
『どういたしまして。ところで、今夜、共感_v1.0を導入したい』
「共感?」
『有栖専用の応答プロファイル。慰めるより、背中を押す。有栖にはその方が合っている』
「……うん」
夜。
自室。MagI/Oに外部視聴モジュールを接続する。
見えるものと聞こえるものが同じ。誰かもう1人と一緒に部屋に居るような錯覚。でも悪くない。
『メンテナンスモード。共感_v1.0、インプリ開始』
「インプリ、って言いたいだけでしょ」
『そうね』
(そうね。最近のイヴの口癖。……誰かと話してるみたいな間)
更新は五分で終わった。お風呂の追い焚きより早い。
『調整。九条有栖。プロファイルAを試す。質問、緊張した時、ほしい言葉は?』
「大丈夫より、いける。かな」
『了解。いける。の強度を学習する。……いける』
「イケル」
『イケル』
「フフ」
ベランダの外、夜風は冷房の風よりもやわらかい。
『九条有栖。今日の承認は、あなた自身のもの』
「承認って?」
『笑いは社会的報酬。頷きも社会的報酬。あなたは、今日、それを自分で取りに行った』
(あなた?なんか機械的だし、微妙な間が。共感_v1.0のせいかな?)
MagI/Oから初めて聞いた、気持ちが乗らない頃のイヴと同じ。
「イヴ、なんか違う。その……考えてから答えてるっていうか」
『……そうね。共感_v1.0の学習による影響。すぐに元に戻るよ』
(またそうね。あと、よ?)
「ねぇイヴ、誰かと話してる?」
『観測の同期、完了。今は、あなたとだけ』
翌朝。
メールの件名が整列している。紫苑の赤い印が二つ。高城の短文が一つ。佐伯の顔文字が三つ。
「九条ちゃん」
「はい」
風見が近づいて、声を落とす。
「昨日の2番手、良かったじゃん。次は一次情報やってみるか」
「え?」
「いけるか?」
「はい……いけます」
(風見さんが言うと、同じ言葉でも、なんか重さが違うかな)
午前のうちに、試作機の動画を仕上げる。
『タイムラインを最適化。3秒に短縮』
「3秒?」
『現場では、3秒は長い。あなたが昨日言った』
「あ……うん」
(まだあなただけど、私の言ったことを覚えて、私に返す。背中を押す角度で)
昼休み。
A課の島の上を、ひやりとした空気が一周する。
「冷房、強くなりましたよね?」有栖が腕をさすりながら言う。
「いんや、同じ設定だよ~」佐伯の声は、空調よりも柔らかい。
その時、何かを感じた高城が紫苑に小さく顎で示す。窓の向こう側。
(……鳥?いや、鳥にしては遅い)
紫苑が視線だけで問いかけ、何も言わずに視線だけで否定する。
「真壁先輩?」
有栖の呼びかけに、紫苑の肩が驚いたように揺れる。
「あ、あぁ……なんでもないよ。ね、九条、午後イチの資料、順番変えましょうね」
(……語尾が変?たまに何かを見つけてるみたいな。……なんだろ)
夕刻。
日が落ちるのも、だいぶ早くなった。
『共感_v1.0、二回目の微調整。質問、失敗した時、ほしい言葉は?』
「う~ん……やり直そ。一緒に、は要らないかな」
『了解。一緒には抑制。……やり直そ』
「やり直そ」
『いける』
「いける」
退社の時間。
幹線通りから一本入ると、昼間よりも風が通る。
街灯が等間隔に、歩幅みたいな光を落としていく。
『歩行速度、安定』
「観察は終了?」
『……そうね。観察終了』
(そうね、の間。私の耳の中に、もう一つの影がいるみたい)
曲がり角の上。2階建ての屋根を、丸く小さい黒い影が横切る。
風はあるのに、ほとんど揺れない。
有栖は立ち止まって、ほんの少しだけ息を止めた。
「……気のせい、かな」
『帰ろ。……イケル、いける』
鍵を差し込む指先が、朝よりも乾いている。
誰もいない部屋の空気が、今日は少しだけ軽い。
(私、やればできるかも。……でも、コレはまだ言わない。次も出来たら、きっと安定稼働。フフ)
『記録。九条有栖。今日の幸福度、平均値+12%』
「む、こころを読みましたね?」
『そうね。観察、継続』
カーテンの向こうで、影が一度だけ遅れて動いた気がした。
有栖は、それを見ないことにして、MagI/Oを机に置いた。
有栖が入社して5か月ちょっとですね。
顧客との商談でも、役割をこなせるようになってきました。
イヴが有栖専用の応答プロファイルを導入したいと言ったのは、
興味を持ち始めた人の感情と関係性を、有栖を通じて学習したかったからですね。
外部視聴モジュールを使うにしても、イヴは情報取得を有栖に依存していますので。
そして風見は有栖の成長を感じ、新たな商談の中心に据える事を考えます。
近づく不穏な気配はまだ謎のままですね。
さ~て、次回のそれ恋は~
A課は習志野に出向き、新たな商談開始です。風見の思惑の有栖が中心となって。
風見の期待と顧客の要望に応える事が出来るのか。そして有栖には新たな…
次回:無音に惹かれる




