第2話 The A-Team
朝の出勤時間はビルテナント従業員で、エレベーターホールが通勤ラッシュの駅のようだ。
昨日は人混みで気が付かなった避難訓練の通知。知った以上はどうしても目に入る。
(……大丈夫、大丈夫。今日は初めての朝ミーティングだから緊張してるだけ)
有栖は自分に言い聞かせながら営業フロアの扉を押し、デスクに着いた。
『おはよう、有栖』
「おはよう、イヴ」
画面越しの挨拶。
『……今日は初めての朝ミーティング、少し緊張していますね』
「うん、そうみたい。でも大丈夫」
『はい。適度な緊張は必要です』
まだ少し寒い朝の会議室。長机の上で紙コップの湯気が揺れていた。
「九条ちゃん、例の資料、消えるのいつかな?」
A課は扱う商材の特殊性から、官公庁と大手民間企業のセキュリティ部門とのやり取りが、とても多いのだ。
課長の風見の口調は、いつも通りくだけているが、視線は鋭くこちらを測っている。
イヴが時限インクの設定情報をMagI/O越しに網膜投影で伝えてくれる。有栖は息を揃えるように答えた。
「風見さん、明日17:00。消失後は再発行不可です」
骨伝導の振動が耳の上で小さく跳ね、イヴの声が落ちる。
『提出資料:有効期限残り26時間。決断圧力は高め。過去傾向から午前中の返答率72%。相手担当の判断特性は慎重。想定質問3件(費用、責任分界、再発行手順)』
A課主任の高城が、視線だけを動かして言う。
「よし、午前中に返答をもらう前提で。外したくない条件は三つに絞る」
紫苑が素早くタブレットを開き、箇条書きで整える。
「機密保持、期限の厳守、承認プロセスの短縮。この順で押します」
机の端から、A課の自称ペーペー、佐伯がノートPCをくるりと回した。
「去年の類似案件、承認まで平均4.1日。担当課長は明日から省内出張。午後じゃ厳しいかも」
画面の数字が、音を立てずにこちらの背中を押す。
『一致率65%。いま3分以内の発言で効果最大』とイヴ。
有栖は短く頷き、会議の輪に言葉を差し入れた。
「午前、10:00台に先方へ一次連絡。3つの条件を先出しで確認します」
風見が口角を上げる。「いい間だ。行こう」
薄い振動とともに、朝は動き出した。
11:00少し前。営業島は電話とチャットの音が交互に鳴り、温度が少し上がる。
紫苑の端末に納期調整の通知が立つ。「通常ロットは3週間後ですね」
『在庫倉庫、先行ロット2台。検品良。輸送ルート案を重ねます』
イヴの声と共に網膜投影されたマップ上に、顧客までの複数のルートが走る。そのうちの2本が顧客を表すアイコンまで届くと「即納可」が表示された。
「先行ロットが2台あります。輸送ルート2案が即納可能です」
有栖が言うと、佐伯がすぐに在庫台帳を紐づけて送ってくる。
「型番、検品日、シリアル末尾まで。最短搬送は今夜ピックで明日朝着」
紫苑が条件面を補強し、高城が電話を取り上げた。
「本日中の契約確約で、価格と納期はこの条件」
相手の返答は早かった。通話を切るより先に、チャットの受領印が灯る。
『心拍、平常域。いまの速度、良い』とイヴ。
有栖は指先で骨伝導イヤホンに触れる。それは仲間とハイタッチを決める事と同意だった。
正午。食堂の窓際は光が柔らかく、長テーブルの木目が浅く輝いて見える。
トレーにスープとパン。
(ここの社食、好みだ。かなりおいしい)
『仕事はまだこれから、カロリー追加を提案』
イヴの助言と共に、右目には本日のメニューから、追加のオススメが表示される。
ちょっと我慢していた、デザート追加が決定した。
B課の先輩が手を振る。「AlphaチームのSierra-Kilo、また納期縮めたって?」
佐伯が笑って返す。「BravoチームのMikeさ~ん、お客様想いのA課だから~」
有栖も、肩の力が抜けたのを感じながら言葉を乗せる。
「まず兵站の確認から。相手が動く前にどこまで攻め入れるか。交戦よりもまずは時間。フフフ」
「お、噂の新人、言うことが違うねぇ」さざめきが広がり、場が盛り上がる。
向かいからC課のメンバーが茶化す。「Deltaチームが研究用植物で困ってたぞ」
佐伯がすかさず返す。「Alphaチームにアマゾン買う交渉をして来いと?」
長テーブルに笑いが広がった。
『フォネティックコード。部署横断の潤滑剤。なんだかカッコよく聞こえます』
昼休みのせいか、イヴの口調が柔らかい。
「カッコいいよね。私も全部、覚えたよ」
午後一。官公庁からの仕様変更依頼が同時に2件、受信箱に並んだ。
「セキュリティ機材、認証周りの調整」と、紫苑が目で走査する。
風見はすぐに編成を口にした。「役割分担、いつも通り。30分で一次回答」
「了解」高城は条件を3行で起こし、法的グレーの縁を細く削る。
有栖は補足資料の雛形を開き、関連事例を差し込む。
その横で、佐伯が技術部へ先回りで通話をかけていた。
「仕様反映は?……うん、コストは?……了解、いま共有する」
1分後、チャットに見積りが落ちる。グラフの棒が滑るように伸び、数字が所定のラインで止まる。
『参考、同型変更の平均コスト増12%。今回の見積りは11.6%で妥当』
イヴの声が耳の奥に届き、右目の隅に表示される資料の穴が、一つずつ埋まっていく。
30分後。一次回答を送信。受信音とほぼ同時に「前向きに検討」の返信。風見が片手でOKサインを作り、島をぐるりと一周する視線が少しだけ柔らいだ。
夕刻。別案件が滑り込む。時限インクの条件変更だ。作業リスト上ではすでに対応不可の表示。
紫苑は外回り、風見は会議で不在。
『条件確認は30分以内が最適。先方窓口の就業時間を考慮』
イヴの助言に、有栖はためらわず発信ボタンを押した。
「九条です。済みません、時限インクの条件変更、お願いできませんか。……はい、ありがとうございます。すぐに送ります」
短い沈黙、作業リストの表示が対応不可から作業中に変わる。
作業リストの表示が変わるより前に、背後の席で佐伯が別案件の進行表を畳んだ。
「こっちは全部片付いた。報告まとめとく。……九条、判断良かった。あと現場への敬意」
「はい、ありがとうございます」
胸の奥で、固い何かが一枚はがれる。
ほどなくして紫苑が戻る。扉のきしむ音が、島のざわめきに重なった。
「ただいま。……もう、終わってる?」
「はい。先方からの変更依頼のエビデンスはこちら。先方承認のスクショも添付しました」
紫苑の目尻が、呼吸に合わせてほんの少しだけ和らぐ。
「判断が良いわ。あと、現場にちゃんとお願いした事も」
2人の先輩が大事にしたことを自然にできた。今日いちばん体温を上げた。
終業5分前。普段なら島は片付けモード。だが予定が無いはずの風見、高城、真壁が会議室から戻ってこない。
そんな時、有栖の右目にチャット通知が灯った。
《終業間際にゴメン。返事は朝で大丈夫。明日、同行してほしい》……紫苑からだ。
明日の訪問をどうするか話していたようだ。
(ついに来た。前線への参戦。……これはまさに期待と不安ってヤツね)
『提案、タスク見積り。同行の場合、負荷は最大。準備項目を表示?』
イヴの言葉とともに、右目にチェックボックスが順番に現れていく。外回り持ち物、資料の紙・電子両対応、在庫照会のショートカット。
「……返事は明日でOK。今夜、詰めよう」
自分の声が、いつもより少し落ち着いて聞こえた。
隣では佐伯が、何も言わずにクリアファイルを二冊差し出してくる。
「何かありそうだ。とりあえず持ってけ。予備バッテリもな」
「ありがとうございます。助かります」
ファイルの硬さと重さが、手の中で現実の質量になる。
ゲートを抜けると、廊下の空気は昼とは別の匂いがした。金属と洗剤の混ざる、夜のビルの匂いだ。
MagI/Oの骨伝導イヤホンを指先でなでながら、有栖は深く息を吸った。
『学習、本日の有効行動は短文+具体+先回り。次回、会議では25秒で結論先出し、補足は図で』
「了解。……ねえイヴ、もし私が黙り込んだら?」
『押す。あなたが進む方向へ』
その返事は、今日も変わらない。変わらないのに、少しだけ違って聞こえる。
夜風の通路で、薄い影が伸びる。明日の同行で歩く距離を、頭の中で測ってみる。
背中に残る押しの感覚が、今は心地よい重みになっていた。
翌朝、会議室から戻る通路はまだ少し肌寒い。朝ミーティングで同行すると返事。
A課メンバーの、やっぱりなという顔がなにか嬉しい。
皆で歩く姿が部隊の行進みたいに思える。
「軍隊みたいだ、って言ったら笑われるかな」有栖が小さく吐き出すと、イヴが即答する。
『比喩、適切。統率と個の両立。A課の特徴ですね』
「統率と個の両立、特攻野郎Aチームかな?父さんのブルーレイで昔見た」
『1983年と2010年のアメリカの作品ですね。実は私も好きです。確かにA課の例えとしては適切かも』
「イヴも映画見るの?」
『はい、日々学習ですから』
確かにイヴはこの瞬間も学習している。有栖もこのチームの中で学習を実感していた。
デスクに戻ると、高城が短く問いかけた。「先方の決済会議は午後一だな?」
「はい。我々との打ち合わせは10:30から1時間、必要ならば決済資料作成のサポートも出来る時間設定です」
「よし。時間を上手く使え」
その言い方は、ビジネスだけではない、相手への配慮が感じられる言葉だ。
昼から午後へ移るわずかな時間。エレベーターホールの鏡は少し曇り、
小さな指紋がいくつも重なっている。誰かが急いで通った印だった。
『糖分と水分の補給を。資料作成は頭の運動』
イヴは右目の隅にも表れ、手に持ったお菓子とペットボトルを振って見せている。
その提案に頷き、大粒ラムネを噛み、紙コップの水を一気に飲み干す。
この組み合わせは好きだ。喉の冷たさが、頭の輪郭をくっきりさせる。
午後の資料づくりはパソコンで行うが、イヴが右目に“過去事例”を並べる。
有栖が必要な過去事例を口頭で伝えると、今度は関連資料がパソコンに表示される。
『引用率、30%以下を推奨。新規作成の割合を維持しつつ、既存の信頼を担保』
右目にはイヴからの注意も点滅し、手の動きが自然と精密になる。
佐伯が横から紙の見開きを差し出す。「紙、欲しがる先もある。こっちは時限インク版」
グレーの罫線が薄く光る。触れると、指に甘い匂いが移った。
夕刻のフロアは音が低くなる。椅子を引く音、マウスのクリック、遠くでドアが静かに閉まる音。
一日の終わりの音だけで、職場の体温が少し下がっていくのがわかる。
『提案、明日の自己紹介、25秒版のリハーサルを今夜1回。要点3つ、練習は1回で十分』
「うん。やる」
言葉にすると、それはすでに半分実行されたことになる。イヴの押しは、いつもその半歩だけを求めてくる。
情報が残る事がよろしくないってのは様々な場面で起こります。
そこで考えたのが「時限インク」なんですね。
似た製品はすでに有りますが厳密な時間設定は出来ないので、
SFらしくぴったり消える事にしました。
植物由来ってのも今風です。笑
キーワードにもある「職業もの」っぽいネタが欲しかったので、
トヨタの電気自動車技術の条件付き公開を参考にさせて頂いたのですが、
まずは市場を大きくしようってのが凄い。さすが世界のトヨタ。
特攻野郎Aチームは若い読者には解らないかも。笑
お父さんに聞いたら喜ぶかもしれないので、
家族コミュニケーションのきっかけに。
さ~て、次回のそれ恋は~
A課が納品した製品の点検立ち合いで事件に巻き込まれます!
危機を脱するには、それぞれの立場で決断が必要に…
次回:眼前のゼロイン・照準




