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それでもイヴとアダムは恋をしない  作者: 機械が恋敵
気持ちはソースコードになりますか?
1/8

第1話 イヴです。なんでも聞いてくださいね。

 イヤホンの振動が側頭部に伝わり柔らかい声になる。

 視界の端では言葉に合わせて動くアバターが見える。

 『おはよう、有栖。今日からいっしょに働く……』録音とは違う僅かな呼吸と間。

 だが続く一言はまだ機械の角が残っている。『……イヴです。何でも聞いてくださいね』


 九条有栖は、慣れない様子でスマートフォンを握ったまま、半拍置いて返した。

 「……甘やかしはいらないよ。私がビビッてたら背中を押して」

 『了解。()()()()()に設定』、短い了承音、そしてジェスチャー。

 耳の奥に直接届く声。視界の隅から見守るアバター。

 イヴとの関係が少しずつ整っていった。


 9:00。H&C商事の受付で渡されたペリカンラップトップケースは、社章入りのシールでしっかり封印されていた。

 シールを剥がしケースを開けると、植物由来の時限インク特有の甘い匂いがふっと立った。

 中には数行の文字列と、QRコードが印刷された内蓋代わりの簡易な説明書、その下はやたら頑丈そうな黒いスマートフォンと、充電ドック。更にその下にI/Oデバイス。市販品には無い型だ。

 (コレ、先月のコンバットマガジンで見たヤツだ。去年アメリカ軍が採用した最新のI/Oデバイスとよく似てる。……聞いてはいたが、噂以上にヤバイ会社かも)

 「えーと……操作は一緒に入っていた説明書に。あ、ごめんなさい。私達も何が渡されるか知らされていないの」

 総務の女性は申し訳なさそうに話した。

 「1.I/Oデバイスを顔に掛けろ」

 「2.スマートフォンの電源を入れろ」

 「3.そしてQRコードを見ろ」と、説明書は命令口調だ。

 (「ろ」「ろ」「ろ」……雑な書き方だな)

 説明書を手に持ち、書かれた通りにQRコードを見る。すると右目の視界には製品名と思われる『MagI/O』の文字。続いて黒地に白の社名ロゴ。

 その下に『パートナーAI初期設定に進む。はい/いいえ』の文字。

 「はい」と答えた瞬間、エントランス奥のドアが開き光が差しこんだ。

 網膜投影された仮想とドアの先の現実が、きれいに重なった。



 ユーザー登録は滑らかだった。指紋や顔以外にもI/Oデバイスで、音声、虹彩、脈拍、心音、皮膚温、筋電とあらゆる生体情報がしっかり取られる。

 登録完了の文字が視界に浮かび、ほんの一瞬の沈黙。

 そして、先ほどの声とアバターが生まれたのだ。


 営業フロアの扉を押す。複合機が時限インクの匂いを撒く。会議室から談笑が漏れる。キーボードの打鍵が弾ける。

 立ち止まった新入りに向けられる、一瞬の視線と、またすぐに元の仕事に戻っていく気配。

 「あー、九条ちゃんだよね、こっちだ」

 声が手招きする方を見る。ジャケットを片腕に掛け、ネクタイを少しだけ緩めた長身の男性。

 表情は柔らかい。でも何かを測っている。

 「……風見さん、ですよね。……宜しくお願いします」

 「そうそう。戦いは()が重要。焦らないのが勝ち」

 軽口。けれど、軽口でこちらの硬さをほどく技術が混ざっている。


 奥の島で背の高い女性が、タブレットを片手に資料をめくっていた。目が合うと顎を小さく引いて会釈。

 真壁紫苑。学生時代からの顔なじみだが、職場の彼女は輪郭が少し違って見える。

 私的な距離に代わり、先輩としての線が一本引かれている。


 風見の机は賑やかだ。ファンなら喜びそうな、海外メーカーのカタログやノベルティグッズ。蛍光色の付箋で縁取られたモニタ。

 そして年季の入ったソロバン。時代錯誤な小物が、なぜかぴたりと風景に馴染んでいる。

 「ここが九条ちゃんの席。電源はこのタップ、ネットは勝手に繋がるから」

 「ありがとうございます」

 「お、九条ちゃんもその端末もらったのか。簡単には壊れないけど無くすなよ」

 「……スマートフォンもですが、このI/Oデバイス、特別なモノですよね?」

 「ウチの会社らしいとこだな。端末はセキュリティ強化のための試験採用。そのデバイスは今度ウチで扱う予定でね。MagI/O(マギーオー)、製品名はまだ内緒な」

 「え!コレ扱うんですか?まだアメリカ軍しか使っていない、最新装備と同じ類のモノですよね?」

 「なんだ詳しいじゃん。ウチの課のヤツはみんな触った事があるから、素人に評価試験してもらおうと思ったんだけど」

 「……いきなりですね」

 「そうね。ただ解ってると思うけど、色々と取り扱いには気を付けてな」

 「はい。普段はこの……骨伝導イヤホンと網膜投影ディスプレイだけにしておきます。」

 「お、察しが良いね。よろしくな」


 「……イブ。って呼べばいいの?」

 『はい、有栖。なんでしょう?』

 「見えてるし、聞こえてるよね?」

 『はい。外部視聴モジュールで』

 「コレの外し方、教えて」

 『承知しました。では……』

 ……気が抜けるのと、引き締まるのが同時に。貴重な体験だ。

 奥の島では紫苑が同僚に何か指示を出し、笑いが起きる。

 業務のリズムが、脈のようにフロア全体を流れていた。



 『自己紹介は端的に。10秒以内。準備を』

 耳元でイヴ。右目の視界に小さなカードがポップアップした。〈短文+具体〉で印象を残す雛形だ。

 氏名・強み・担当希望の順に三行。

 「九条有栖です。英語はビジネス。納期管理は得意です。交渉補助を希望します」

 声に出した瞬間、空気の密度が少し変わる。隣の先輩が椅子ごとこちらに向き直り、軽く会釈。

 「高城です。ビジネス英語、助かる。この課は商材も顧客も特別でね」

 「佐伯ね、A課のぺーぺー、ヨロシク~。納期調整、多いよ。あと突然の仕様変更も」

 もう一人が付け加える。雑談と実務がミックスされた軽い会話に、緊張の糸が少し緩んだ。

 『心拍安定。よくできました』

 イヴの声がテストの合否ではなく、伴走者の評価として届いた。


 お昼までに、社内チャットのチャンネルに参加。受発注システムのIDを発行してもらい、倉庫の在庫一覧の見方を教わった。

 有栖は、解らない事をすぐに聞く度胸と、思い切りを持っている。

 けれど、何をどのタイミングで聞けば場を止めずに済むのか、その()だけはまだよく掴めない。

 『次の質問は昼休み明けが適切。理由は相手の返答遅延の確率が下がる』

 イヴが耳元で提案する。短く、具体的に。


 昼、デスクで手短にコンビニおにぎりでランチ。紫苑が通りすがりに声を掛けた。

 「調子どう? そのデバイス、凄いよね」

 「はい、パーソナルAIがすぐ隣に居るみたいで、ビックリです。あと風見さんが()が重要って」

 「ふふ、あの人はね、()で勝つタイプ」

 その一言で会話は終わり、紫苑はまた別の島へ歩いていった。

 必要な分だけ、過不足なく。あの人の歩幅は、このフロアの標準速度かもしれない。



 午後、初歩の依頼が降ってくる。先方への資料送付。やることは難しくない。ただ渡す情報によってやり方が変わる。

 メールのフォーマットも本文も、イヴがサポートしてくれる。肝心なのは情報をどう渡すか。

 数年前に老舗の印刷会社が開発した時限インクが少なからず世界を変えた。

 (アメリカの大手IT企業が飛んできて、技術を言い値で買うって言ったのに、

 無償ライセンスで公開しちゃったんだよね)

 印刷の価値が復権し、開発元含め印刷会社の売上げが軒並み増えたのだ。

 (この話、結構好き。凄いな、その判断)

 先方に連絡し情報の受け渡し方法を確認。「確認、ありがとう」の返信が素直に嬉しい。


 夕刻。エレベーターホールで、貼り紙が視界を射抜いた。

 《避難訓練のお知らせ》

 赤い文字。太い罫線。たったそれだけの情報が、過去のどこかと直結する。

 足音が遠のき、LEDの白い光が唸り、水の中のように揺れる。

 ……大理石の階段。強い腕に抱えられて、肩に食い込む手のひらの熱。

 硝煙と埃の匂い、遠くで爆ぜる音。胸の奥で何かが逆流する。

 (……抱えられた感触、覚えてる。とても安心した、だから大丈夫)

 『……有栖?』

 「大丈夫だよ」

 『心拍安定。よろしければ今度聞かせてください。何を選んで今があるのか』

 まだ会ったばかりなのに、イヴは背中を押す。今日までを肯定してくれる。


 デスクに戻ると、フロアの空気はもう夜のモードだった。

 誰かがコーヒーメーカーを洗い、誰かが翌日の会議室を予約し、

 誰かが今日の「うまくいかなかったこと」を小さく笑いに変えている。

 『終業5分前。通知が来ます』

 イヴが先回りして言ったとおり、ポン、と軽い電子音と共に、視界に文字が浮かぶ。

 《営業A課ミーティング:明日09:00》

 字が光って見える。明日は会議。初めての場で、初めての()を掴む練習になる。


 ふと視界の端に、風見の机のソロバンが見える。

 場違いな道具に思えるが、実は誰よりも速い見積りが出るのだと聞いた。

 「風見さん、そのソロバン……本当に使うんですか」

 「使うよ、リズムね。()の取り方を覚えるんだよ」

 (間の取り方はリズムか。本気なのか冗談なのか。でも覚えておこう)



 帰り支度をしながら、イヴが今日のログを声と画で端的に伝えてくれる。

 『学習、あなたは()()()()()で評価が上がる。次回、会議の自己紹介は20秒、結論先出し』

 「了解。……ねえイヴ、もし私が黙り込んだら?」

 『押す。あなたが進むほうへ』

 即答だった。慰めではなく、手順だ。

 弱さを見ないふりではなく、進み方の設計。

 そういう種類の優しさなら、悪くない。


 ふと、あの貼り紙の赤い文字を思い出す。

 過去の記憶が胸の裏でかすかに揺れて、やがて落ち着く。

 これまでが最良かは解らない。でも選ばなければ前に進まない。


 椅子から立ち上がる。パソコンモニタの電源を落とし、ケーブルをまとめ、引き出しを軽く押した。

 今日一日で、感じるものが少し増えた。弱さも、強さも。

 『明日は、発言のタイミングを2回提案します。必要なら採用して』

 「うん。今日はありがとう。明日も押してね、私がビビッてたら」

 返した言葉が、少しだけ明るいと気付いた。


 退館ゲートを抜けると、まだ少し寒い夜風が頬に触れた。

 I/Oデバイスを外すと、感じられることが少し優しくなった。

 でもイヴが消えても、背中に残る()()の感覚は不思議と消えない。

 足元の影が伸びる。明日の会議室までの距離を、頭の中で測る。

 (たぶん、今日はよくやれた。たぶん、明日はもう少し上手くやれる)


 『おやすみ、有栖。また明日』

 「おやすみ、イヴ」

 つい昨日まで当たり前だった、画面越しのやり取りに帰る。小さく返して、改札へ向かう。

 I/Oデバイス越しの聴覚と視覚、余韻がまだ残っていた。


MagI/O・マギーオーは、Magicとコンピューター用語で入力と出力を表す

I/Oを掛け合せた造語で、人とAIを結ぶ「魔法の入出力装置」です。


普段はマスターとなる利用者から音声やテキストで情報を得るAIですが、

外部視聴モジュールによりマスターと同じ「見る」と「聞く」で情報を得て、

より高度な支援が可能となります。


ただ、コレ、現実世界では10年ほど前にGoogle Glassでプライバシーの問題が起きています。

この辺りも考慮した演出となっているのを、楽しんで頂けたらと思います。


さ~て、次回のそれ恋は~

A課の仕事ぶりから、特別な課であることが語られます。

有栖もイヴに支えられながら、先輩たちが大事にすることを身に着け、

日々成長を見せます。


次回:The A-Team

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