第一話
ゆっくりと連載していく予定です。
お付き合いの程、何卒、宜しくお願い致します。
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※デンドロフィリア(dendrophilia)とは
樹木や植物に対して強い愛着や情熱を抱く傾向を指す言葉である。
それは時に静かな憧れであり、時に常人には理解されないほどの執着であり──まれに、恋に似ていると言われることもある。
◇
自分がその建物の「大家になる」と告げられたとき、東雲尚樹は、スープスプーンを持った手を、食器の上で静かに止めた。
器の中では、朝食用のポタージュが湯気を立てていたが、その香りすら、一瞬遠のいたような気がした。
驚いた――というよりは、その言葉があまりにも唐突で、意味を正確に捉えることができなかったのだ。そのとき、理解が遅れた脳内では、まるで他人の話でも聞いているような、どこか夢物語のような感触だけが浮かんでいた。
朝の光が差すダイニングキッチンは、一面が緑に縁どられている。
窓辺に揺れるビカクシダの葉の影、天井から吊るされたグリーンネックレスの珠。冷蔵庫の上には大きなセロームが葉を広げ、壁際には鉢植えのミントやローズマリーが静かに息をしていた。
その一つひとつを、尚樹は自らの手で育ててきた。高校では園芸科に通い、今春からは大学で植物学を学ぶ十八歳。人付き合いには興味はなく、無口で無表情と誤解されることも多いが、植物に向き合うときだけは誰よりも情熱を持っていた。
身長は高く、細身の体つきに無駄な贅肉は一切ない。整った顔立ちはどこか中性的な美しさを宿しており、無表情のまま立っているだけで、通りすがりの人が振り返ることも少なくなかった。
本人にその自覚はないが、「近寄りがたい」と言われることに慣れてしまっている。けれど、それで困ることは何もなかった。人ではなく、植物たちが、彼の世界を満たしてくれていたから。
そんな彼にとって、この植物に囲まれたキッチンは、自ら作り上げた静かな聖域だった。
「“緑翆庵”っていう名前のアパートなの。三階建てで、ちょっと古いけど綺麗な建物らしいわ。しっかりした鉄筋コンクリート造りでね……それが、あなたに遺されたのよ。それが丁度いいことに、春から通う予定だったあの街にあるの。きっと、ぴったりの場所よ」
向かいの席でコーヒーを口に運びながら、母がそう言って、一通の封筒を差し出した。
尚樹は黙って受け取り、手元の文字を見つめた。
「久我原湊」という名前が、丁寧な筆跡で記されている。まったく見覚えのない名だった。
「……誰?」
「お父さんの叔父さん。結婚式のとき一度だけ顔を見たことはあるんだけど……、それからの交流がないのよ。聞いた話では、あなたと同じように植物が大好きな人だったらしいわ。生涯独身で、ご家族は居なかったって」
尚樹は、手の中の封筒から視線を上げた。母は驚いた様子もなく、淡々と語っている。
そもそも、尚樹が子供の頃に父が亡くなってからは、親戚づきあいというものがこの家にはほとんどなかった。よく覚えていない名前が出てきても不思議ではないのだろう。
「病気が見つかって、身の回りを整理する中で、誰にそのアパートを託すか調べたそうなの。それで、あなたが園芸科に通っていたことを知って……たぶん、自分が育てていた植物を引き継いでくれるって思ったんじゃないかな」
尚樹は返事をしなかった。ただ、封筒をもう一度見下ろす。
丁寧に綴られた文字の中に、“君なら、たいせつにしてくれるだろう”という一文があった。
それを見たとき、ほんの少しだけ、胸の奥に何かが波打つのを感じた。
その人の姿は想像もつかない。だが、どこかに自分と同じ気配を感じたのかもしれない。
尚樹の中には確かに、植物にしか向かない種類の愛情があった。
人の声や温度には反応しない心が、葉の陰の蕾ひとつでふと心が震える。
誰かを好きになることなどなかった彼が、それでもずっと、大切に育て続けてきたものがあった。
「それと、三階のベランダに部屋から続くサンルームというか、温室があるの。弁護士さんが言ってたわ。久我原が、自作したんですって」
その言葉に、尚樹の意識が少しずつ現実へと戻ってきた。
温室──。
尚樹にとって、“植物と暮らすための空間”は、何よりも大切な居場所だった。
「あと、条件がひとつ。“そこに住むこと”。売ったりするんじゃなくて、あなた自身が大家としてそこに住む。それが遺言の条件だそうよ」
母は、少し申し訳なさそうに笑った。
「私も行けたらよかったんだけど……仕事もあるし、お父さんが遺してくれたこの家も、私が守りたいから。あなたひとりで行ってもらうことになるけど、大丈夫?」
尚樹は、小さく頷いた。
「あ、管理人さんが住んでるって。夕飯、頼んでおけば、まかないも可能らしいわ」
いまはまだ実感が湧かない。
だが、温室があるというその一点だけで、心のどこかが確かに反応している。
「……鉢、いくつ持って行けるかな」
独り言のように呟いた彼に、母は小さく笑みを浮かべた。
「最初は少なめにしておけば? あとの子たちは私がちゃんと見ておくから、落ち着いたら取りに帰ってくればいいじゃない」
母は昔から、息子の植物への情熱を理解はしなくとも、否定することはなかった。言葉にして「わかる」とは言わなかったが、ただ傍にいて庭仕事に付き合い、鉢の植え替えを手伝ってくれた。
しかし、そういう“わかり方”で十分だった。
尚樹は、窓辺のビカクシダを見つめた。
朝の光を透かして、胞子葉がゆるやかに揺れている。
そこに、未来の暮らしの断片が重なったような気がした。