第52話:日常の裏の神事、そして父ちゃんの胃痛案件
王都での胃が痛くなるような緊急会議を終えたヴァルドは、日が傾き始めた頃、急ぎログハウスへと戻っていた。心の中には、昨日の会議で感じた重い空気と、父アルヴィンとの会話が繰り返し反芻されている。邪神の眷属の出現と、それが瞬時に「ドカン!」と浄化されたこと。そして、その背後に透けて見える、愛する息子レイの無自覚な、しかしとんでもない力。ギルドに戻らず、まっすぐに家路を急いだのは、レイのことが心配でたまらなかったからだった。まるで、時限爆弾を抱えたまま帰宅するような心境だ。
ログハウスの玄関を開けると、レイと従魔たちの賑やかな声が聞こえてきた。庭では、シャドウが日当たりの良い場所でまどろみ、ミルがレイの周りをせわしなく飛び回っている。ルーナはいつものようにレイのすぐ傍らに寄り添い、そしてバルドルは、レイの頭上を大きく旋回していた。まるで、レイの周りだけ時間がのんびり流れているかのようだった。世界がレイ中心に回っているかのようだ。
「父さん、おかえりなさい!」
レイが元気いっぱいに駆け寄ってくる。その顔には、昨日世界を揺るがすほどの出来事を引き起こした張本人の自覚など、微塵もなかった。まるで、昨日食べたおやつのことを考えているかのような、純粋な笑顔だ。ヴァルドはレイの頭を優しく撫で、その無邪気さに胸が締め付けられる思いだった。同時に、「この無自覚さが恐ろしい…」とも思った。
「ただいま、レイ。元気にしてたか?」
「うん!セイリオス先生にお勉強教えてもらったし、弓の練習もしたんだ!でも、的がなんか変な光になっちゃってね!」レイは目を輝かせて報告する。その言葉に、ヴァルドの視線は庭の裏山へと向かった。たしかに、先日的として使っていた木には、新しく矢が刺さったような跡がいくつか見受けられた。しかし、ヴァルドが知りたいのはそこではなかった。まさか、あの邪悪な光が「変な光」呼ばわりされているとは。
「弓の練習、か。どれくらい当たったんだ?」ヴァルドは努めて平静を装いながら尋ねた。心臓はバクバクしている。
「うーん、それがね、なかなか的に当たらなくて。でも、変な光が消えたんだよ!あれ、なんだろうね?」レイは嬉しそうに続ける。「ね、バルドルも見たでしょ?あれ、魔法なのかなぁ?」
バルドルはレイの言葉に呼応するように、空中で一回転すると、地面に降り立った。その顔は、まるで「見ただろ?すげえだろ?俺は知ってるぜ!」と言いたげだった。
「おうよ、坊主!あれはとんでもねえもんだったぜ!まさか一矢で吹っ飛ばすとはな!俺もびっくりしたぜ、まさか本当に消えるとは!」
バルドルの言葉に、ミルも興奮したようにレイの肩にぴょんと飛び乗った。
「すごかったよ、レイ!ドカンって消えたんだ!キラキラしてた!」
シャドウは金色の目でレイを一瞥すると、小さく鼻を鳴らした。
「……無自覚というのは、ある意味最強だな。だが、危険と紙一重だぞ、主。そろそろ俺も胃が痛くなってきたぞ。僕らの平穏な日常が…」
ルーナは静かにレイの横顔を見つめ、その鼻先でそっと頬を擦り寄せた。その深い青い瞳には、レイの力の大きさと、それを取り巻く世界の変動を感じ取っているかのような思慮深い光が宿っていた。「この子は、本当に世界の均衡を変える存在だ…」と、彼は密かに思っていた。
ヴァルドは従魔たちの言葉を聞き、確信した。やはり、昨日の邪神の眷属の浄化は、レイの「うっかりチート」によるものだったのだ。無邪気な好奇心から放たれた一矢が、世界の危機を救っていたとは……。その事実に、ヴァルドの胃は、一層キリキリと痛み出したのだった。胃薬はもう常備品だ。
▪️夕食前の静かな告白と、母ちゃんの覚悟
その日の夕食時、ミリアが不在であることにヴァルドは気づいた。
「母さんは?」
「あ、母さんならね、今日はお肉が手に入らなかったから、ダンジョンに夕食の食材を取りに行ったよ!すごい魔物を狩ってくるんだって!僕のお腹が空く前に!」レイは得意げに話す。その言葉に、ヴァルドは思わず遠い目になった。Sランク冒険者である妻の豪快さに、改めて感心するしかなかった。まるで、夕食の買い物に市場へ行く感覚でダンジョンに行くのだ。
数刻後、ミリアが帰宅したのは、夕食の準備が始まる少し前だった。彼女はSランクの冒険者ではあるが、ダンジョン深層での探索や狩りに集中している間は、外界の微細な魔力変動には気づきにくいものだ。特に、ダンジョン自体の魔力や、そこで起こる様々な現象にかき消されてしまうことも少なくなかったのだ。彼女は、王都の騒ぎなど知る由もなかった。
玄関から入ってきたミリアは、疲れた顔をしていたが、抱えた袋には見事な魔獣の肉が詰まっていた。その表情は、まさに「やったわ!とびきりの獲物よ!これで美味しいシチューが作れるわ!」とでも言いたげな、達成感に満ちたものだった。レイは「やったー!」と跳びはね、ミリアの足元に駆け寄って、袋の中を覗き込んでいる。夕食は肉料理となり、一家は賑やかに食卓を囲んだ。
数刻後、レイが寝息を立てていることを確認してから、ヴァルドは静かにミリアに語りかけた。昨日の王都での緊急会議、邪神の眷属の出現、そしてレイがその張本人である可能性について。ミリアは、ヴァルドの言葉に驚きを隠せないが、レイの母親として、その力を守り、導くことの重要性を深く理解していた。彼女の瞳に、母としての強い光が宿ったのだ。その光は、どんな魔獣をも恐れない、母の愛の光だ。
「レイは、きっとこの世界の理すら超える力を持っている。でも、あの子はまだ幼い。この力が世に知られてしまったら、どうなるか……もしかしたら、この子が悪用されるかもしれない…」ミリアの声は、不安に震えていた。その震えは、母が子を思う故の深い愛情の現れだった。
ヴァルドはミリアの手を握り、力強く頷いた。
「大丈夫だ、ミリア。俺たちが、この家が、何があってもレイを守る。セイリオス先生も協力してくれる。そして、父上も……なんだかんだでレイには甘いしな。世界中の胃薬を集めてでも、守り抜こう。」
ヴァルドの脳裏には、王都での緊急会議で、神域の危機を救った「救い主」を躍起になって探そうとする要人たちの姿が浮かんだ。彼らはまだ、その救い主が、森のログハウスで無邪気にきのこ狩りを楽しんでいる幼い少年だとは夢にも思っていないだろう。しかし、いずれその調査の手は、必ずこのログハウスへと伸びてくるだろう。その時、自分たちがどう動くべきか、ヴァルドは静かに考えていた。
ヴァルドは、レイの未来を背負う者として、その覚悟を新たにした。彼の日常は、すでに世界の運命と密接に結びついていたのだ。そして、彼とミリアの胃痛の日々も、また続くのであった。




