第32話:泥実から生まれる秘伝の味
アビスベリーから生まれた万能調味料が食卓に浸透し、家族の顔には笑顔が満ち溢れていた。ヴァルドは毎食「おかわり!」と叫び、ミリアは「これで料理の腕が上がったと勘違いされるわ!」と嬉しそうに呟く。しかし、レイの「美味しい」探求の旅は、まだ始まったばかりだ。次なる目標は、この世界では「ハズレ品」とされ、見向きもされない、まさに「ゴミ」扱いのあるものだった。
その日の午後、レイは家の中を物色していた。目的は、神霊視で反応する「まだ知られざる旨味」の発見だ。まるでトレジャーハンターが伝説の秘宝を探すかのように、食料品の山を一つずつ目を皿のようにして見ていくと、キッチンの隅に置かれた籠の中で、強い、それもとんでもない量の光を放つものがあった。それは、見た目がココナッツにそっくりな、しかし誰も見向きもしない「泥実」だった。
泥実は、ダンジョンで比較的よく手に入るココナッツのドロップ品に紛れて、およそ三つに一つほどの割合で出現する「ハズレ品」だ。まるで、宝くじのハズレ券のように。ココナッツと泥実は、割るまでは外見が酷似しており、その手触りや重さでも区別がほとんどつかない。そのため、一般の冒険者たちは、収穫の際に見分けることができず、ココナッツだと思って持ち帰ってしまうことがほとんどだった。しかし、泥実を割ってみると、中身はドロドロとした泥のような質感で、特有の不快な匂いを放つため、食用には全く不向きと判断されていた。匂いに敏感なミリアのような者か、特別な鑑定能力を持つ者でなければ、この泥実がココナッツではないと事前に見抜くことはできない。今回、ミリアがダンジョンで夕食の材料を採ってきて、本来ならその場で分別してくるはずの泥実が、何らかの理由でいくつか混ざったまま持ち帰られ、他の食べられないものと一緒に捨てるために、もはや「粗大ゴミ」と書かれた札でも貼られそうな籠に入れられていたのだ。
しかし、レイの神霊視は、その泥実が持つ驚くべき潜在能力を正確に捉えていた。誰もが不快と感じるかすかな異臭の奥に、まるで異なる種類の、眩しすぎるほどの輝きが見えたのだ。その輝きは、未熟なものは淡く、熟したものほど濃く、そして場所によっては辛辣な熱を帯びていた。「こいつは……ただの泥じゃないぞ!」と、レイのグルメセンサーがビンビンに反応していた。
「母さん、これ、捨てるの?」
レイは籠の中から泥実を手に取り、ミリアに尋ねた。その目は、まるで捨てられそうな子犬を拾い上げるかのように、哀愁に満ちていた。
ミリアは怪訝な顔をした。
「ええ、そうよ。これは『泥実』といって、ココナッツのハズレ品なの。食べられないし、後でまとめて捨てるつもりだったのだけれど……。どうしたの、レイ?また何か企んでいる顔をしているわよ?」
レイは目を輝かせながら、まるで世紀の大発見を告げるかのように答えた。
「母さん、この泥実、実はすごいんだよ!僕の神霊視で見たら、この中には色々な旨味が詰まっているのがわかったんだ!例えるなら、**『味噌』や『コチュジャン』って呼ばれる、この世界ではまだ誰も知らない『奇跡の味』**みたいになるはずなんだ!しかも、これ、すでに発酵も熟成もできてるみたいなんだ!つまり、ゴミが宝に変わるってこと!」
ミリアは驚きに目を見開いた。「味噌?コチュジャン?」「発酵も熟成も?あの泥が?」聞いたことのない名前に戸惑いつつも、レイがアビスベリーで奇跡を起こしたことを思い出し、彼の言葉に耳を傾けた。彼女の脳内では、「また何か美味しいものが生まれるのかしら?」という期待と、「まさか本当にあの泥が?」という疑念が激しくぶつかり合っていた。
レイは、泥実の特性について、まるで得意げな教授のように語り始めた。
「この泥実は、熟成度合いによって味が変わるみたいなんだ。見た目が白い未熟な泥実は、まるで『白味噌』みたいに、まろやかで甘みのある旨味があるはず。塩分が控えめで、優しい甘さ。これは、汁物に入れたり、煮物に使ったりすると美味しいと思う!それに、何か甘いものと混ぜて、ドロドロの汁物をかけても美味しいんだ!」
ミリアは、あの食用にならないはずの泥実から、優しい甘さの調味料が生まれるとは想像もつかず、驚きを隠せない。彼女の顔には「冗談でしょ?ドロドロの汁物って何?」と書いてあった。
「そして、もっと熟して赤くなった泥実は、『赤味噌』みたいな、濃厚でコクのある味になるんだ!こっちは、塩分が強くて、しっかりした味わいになるはず。肉料理とか、魚の煮付けなんかに合うと思うよ!ご飯にかけるだけでも美味しいんだ!」
レイはさらに続けた。
「さらにすごいのは、火属性の魔力が強い土地で育った赤い泥実!これは、普通の赤味噌とは違って、もっと辛くて奥深い味になるんだ!まさに、『コチュジャン』って呼ばれる辛味噌みたいにね!これは生野菜につけたり、何かと炒めたりするのに最高だよ!辛いけど、止まらないんだ!」
ミリアは、その言葉を聞きながら、泥実から漂うごくかすかな独特の匂いを改めて嗅いでみた。確かに、レイが言うような「旨味」や「辛味」を感じ取ることはできないが、彼の確信に満ちた表情には、またしても期待が高まった。彼女の頭の中では、すでに「この泥実で本当に味噌が作れたら、私は料理界の英雄になれる!」という妄想が始まっていた。
「味噌に、辛味噌……。聞いたことのない調味料だけど、レイがそこまで言うなら、試してみる価値はあるわね。でも、本当にあの泥実からそんなものができるのかしら……」
ミリアは半信半疑ながらも、レイの発想に引き込まれていく。その目は、好奇心と不安が入り混じった複雑な光を放っていた。レイは籠から泥実を取り出し、まるで魔法の材料を扱うかのように、調理場で加工に取り掛かった。
まずは泥実を割り、硬い外皮からドロドロとした可食部を掬い取るように取り出す。その見た目は、どう見ても「泥」だった。ミリアは思わず顔をしかめる。しかし、レイは全く気にせず、泥実はすでに発酵熟成が済んでおり、必要なのは、その水分を分離させる作業だけだと説明する。レイは、図書室で偶然見つけた古い書物に記されていた、錬金術の初歩的な「水分分離」の術式を思い出した。彼は、器に泥実を入れ、そこに手をかざして意識を集中する。すると、泥実のドロドロとした中身から、水だけが微細な粒子となってゆっくりと器の縁に分離していくのが見えた。彼の集中力は凄まじく、まるで世界から音が消えたかのようだ。ミリアはその様子をただ、呆然と見守っていた。
数時間後、レイの手によって、二種類の「味噌」と、一種類の「コチュジャン」が完成した。小分けにされた瓶の中には、泥の匂いは一切せず、食欲をそそる香りを放つ、見た目も美しいペーストが収まっている。
完成した「白味噌」は、淡いクリーム色で、ほんのりと甘く、ふくよかな香りがした。ミリアが恐る恐る少し口に含むと、そのまろやかな旨味に思わず息をのんだ。そして、目がハートになった。
「これは……!信じられないわ!こんなに優しい味わいなのに、深い旨味が舌に広がる……まるで、クリーミーなポタージュスープのような、繊細な甘さね!泥からこんな味がするなんて、信じられないわ!」
次に「赤味噌」を味見したミリアは、その濃厚な風味に驚いた。彼女の顔には、もはや「泥」に対する抵抗は一切なく、ただ純粋な感動だけがあった。
「こ、これはまた……!白味噌とは全く違う力強い味ね!塩味もしっかりと効いていて、鶏肉やなすの炒め物、それに魚の煮付けにぴったりだわ!ご飯が何杯でもいけるわ!」
そして、「コチュジャン」を口にした瞬間、ミリアの目が見開かれた。ピリリとした辛味の後に、奥深い旨味が押し寄せ、体がじんわりと温まる感覚があった。彼女の顔は、辛さと旨さに悶絶するような、それでいて至福に満ちた表情になった。
「すごいわ、レイ!この辛さは、ただ辛いだけじゃない!この旨味と合わさって、生野菜につけたり、炒め物に入れたりしたら、きっと病みつきになるわ!もう泥実が宝の山にしか見えないわ!」
家族の食卓には、早速これらの新しい調味料が並んだ。ヴァルドも、レイが教えた「新しい調味料を使ったスープ料理」の香りに目を丸くし、一口飲むと、その深い味わいに感動の声を上げた。レイはミリアに、「これは、乾燥させたきのこで取った出汁を使うと、さらに美味しくなるんだよ」と耳打ちした。ミリアの頭の中には、すでに「出汁」を使った新たな料理のアイデアが無限に広がっていた。
「これはまた、これまで味わったことのない風味だ!温かくて、体が喜ぶような……。レイ、またしても素晴らしいものを作り出したな!もう君は、我が家の食卓の救世主だよ!」
レイが開発した「泥実」から生まれた秘伝の味は、家族の食卓に新たな彩りを加え、日々の食事をより一層豊かなものにしていった。そして、レイの頭の中では、次の「美味しい」のアイデアが芽生え始めていた。それは、この世界では「毒」とされている、真っ赤な「火の林檎」の活用だった。彼は、あの「火の林檎」を「奇跡の甘み」へと変える方法を、すでに思い描いていたのだ。




