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散りゆく桜の花のようにそっと

作者: 上原直也

 沢田のことを思い出したのは、その小説が見つかったからだった。


 その小説は、引越しの準備をしているときに色んなものを放り込んでおいたダンボールのなかから見つかった。


 ずいぶん前に、沢田が手紙と一緒に同封して送ってくれていたのだが、いつか読もうと思いながら、つい、ずっとそのままにしてしまっていた。


 沢田の夢は、小説家になることだった。


 沢田と知り合ったのは二十六のときだ。わたしがまだアルバイトをしながらミュージシャンを夢見ていた頃だ。恥ずかしい話だが、わたしにも若い頃はあった。そして沢田もアルバイトをしながら小説家になることを志していた。


 沢田はその当時わたしがアルバイトをしていた喫茶店に新人として入ってきた。その喫茶店は、セルフサービスの店で、夜の暇な時間帯はふたりで店を回す。わたしも沢田も夜の時間に働くことが多く、何度か一緒に働いているうちに親しくなった。


 親しくなったのは、歳が近いということもあったのかもしれない。沢田はわたしのひとつ歳下で、二十五だった。その店で働いているのは、大抵大学生くらいの子ばかりだったから、わたしと同じように何かを目指していて、しかも、年齢が近い人間というのは滅多にいなかった。だから、自然と親しみが沸いた。


 わたしと沢田は店を閉めたあと、よく狭い事務所で遅くまで話し込んだ。沢田はわたしに音楽のことを聞きたがったし、逆にわたしは沢田に小説のことを教えてもらった。


 何度か、わたしは沢田にその書いた小説を読ませてくれと頼んだことがある。でも、そのたびに沢田は恥ずかしいものだからと言って読ませてはくれなかった。どんな話を書いているのか?とわたしが訊くと、沢田は照れ臭そうに笑って、いい小説だよ、自分にとってはねと答えた。その小説を読んだひとが少しでも幸せな気持ちになれたり、啓発されるような小説が書きたいと思っている、と、彼は語った。



               ☆


「きみは甘えてるんだよ」

 と、部長はいくらか不機嫌そうにわたしに説教した。わたしが会社を辞めることを告げてからしばらくしてからのことだ。わたしは部長に呼び出されて、部長とふたりきりで喫茶店で話をした。


 部長はなぜわたしに会社を辞めるのか問い詰めてきた。わたしは部長の問に対して、他にやりたいことができたからだと答えた。部長はわたしの答えにあまり納得しなかったようだった。

「そんなふうにしていると、いつまでも同じようなことを繰りかえすことになるぞ」

 と、部長は脅すように言った。


 わたしが勤めていた会社を辞めることを決意したのは、六月の半ばだった。もう、うんざりだった。何がどういうふうにうんざりしたのかと訊かれても上手く説明できない。とにかく、色々だ。人間関係や、売り上げや、ノルマを気にすることが、管理されることが、もう、嫌になってしまったのだ。会社を辞めるまで引継ぎなどなんだかんだ色々あり、正式に退社したときには八月になっていた。


 八月。季節は既に夏だ。


 夏は昔から嫌いな季節ではないが、しかし、歳とともにいつしか夏に対してそれに相応しい輝きを感じられなくなってきている気がする。

 

 仕事を辞めたあとどうするは何も決めていなかった。ほとんど思いつきで辞めたようなもので、我ながら自分の無計画さにはあきれてしまうが、まあ、いいか、と、どこか開き直っている自分もいた。とりあえずは失業保険もあるし、決して多くはないが、いくらかの貯金もある。


 といって、今までのように定期的に収入があるわけではないので、生活の見直しは迫られた。とりあえずわたしが決めたのは引越しだった。

 

 わたしが今住んでいるのは家賃七万四千円のアパートで、仕事を辞めたあとも、この家賃を月々払い続けるのは正直キツかった。友達の家に転がり込むことや、もっと家賃の安いアパートに引越すことなども色々考えたのだが、結局決めたのは、実家のある群馬に帰ることだった。


 そこであれば、家賃も、光熱費も発生しない。しばらくのあいだは無職でも平気だ。もともと両親は昔からわたしが実家に戻ることを望んでいたので特に反対はしなかった。仕事を辞めたことに関しても、わたしが女なので結婚すればなんとかなるだろうとでも考えているようだ。昔からわたしの両親は物事に対して楽観的な考え方をする方だし、わたしの生き方にあまり干渉してこない。


「ほんとに行っちゃうんだ」

 久美子はわたしの部屋を見回すと、寂しそうというよりは、珍しい光景に興奮しているような口ぶりで言った。


 わたしの部屋は引越し作業の途中で、これ以上はないというくらい派手に散らかっている。分解したはかりのスチールラック。空っぽの本棚。荷物の詰め終わったダンボールの箱。ゴミ袋。ゴミ袋。


「まあね」

 と、わたしは久美子の発言に簡単に相槌を打った。


 榎本久美子は、わたしよりもふたつ年下で二十七歳だ。榎本久美子とはわたしが先月まで勤めていたチェーン展開している喫茶店で知り合って親しくなった。歳は違うが、彼女とは同期だった。


 わたしはミュージシャンを目指していた頃アルバイトをしていた喫茶店にそのまま就職した。一方、久美子は大学を卒業したあと他の会社に勤めていて、そのあとわたしが勤めていた喫茶店の会社に転職してきた。だから、彼女とは年齢は違っても同期だった。以前勤めていた喫茶店の会社はどちらかというとあまり好きになれない人間が多かったが、久美子だけは特別に馬が合った。


 久美子は今日引越しの手伝いをしてくれるということで、わたしのアパートを訪ねてきてくれている。


「だけど、いくら仕事辞めたからってなにも東京からひきあげなくても良かったんじゃない?」

 久美子は自分の鞄を適当にフローリングの床の上に置くと、わたしがしているダンボールに荷物を詰め込む作業を手伝ってくれながら言った。


「それもそうなんだけどさ」

 と、わたしはダンボールのなかに荷物を詰め込みながら答えた。

「だって、仕事にしたって、群馬に戻るよりは東京の方が色々あるでしょ?」

「これでも色々考えた末の結論なのよ」

 と、わたしは言った。

「もうね、東京はいいかなって思って」


 わたしが呟くように言うと、久美子は顔をあげて、少し目を細めて探るようにわたしの顔をじっと見つめた。それから、また顔を俯けて作業をはじめると、

「どういうことよそれ?」

 と、訊いてきた。

 

 わたしは手を休めて、窓の外に見える葉桜を少しのあいだ見つめた。

 

 わたしのアパートの前の道は国道になっていて、その道にそって桜の木がずっと植えられている。桜の花が咲く頃はかなり綺麗だ。わたしは何ヶ月か前の、アパートの前の道が満開の桜の花で一杯になっていた頃の光景を、少し、思い出した。


「要するに、もう、東京に未練はないってことかな」

 わたしは休めていた手を再び動かしはじめながらおどけて言うと小さく笑った。でも、そう言ったわたしの声が、ほんの僅かに惨めさを帯びてしまうのはどうしようもなかった。




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