第四話 旗本奴
屋敷に戻ると座敷で緒方一刀斎が待っていた。累も座敷に入るとその向かいに座り、女中のお絹さんが入れてくれた茶を啜っていた。
「で、いかがだったかな坂本道場は? 規模は小さいながらも中々に腕の立つ若者がいると聞いておる」
「はい、緒方先生、大変に素晴らしい剣技をお持ちの方がいらっしゃいました。しかし私の……求めている殿方ではありませんでした」
「まぁ着いた早々、すぐに道場破りに行くというのには面食らったが、手合わせできた様なら幸いだった。しかし坂本道場のものではやはり相手にはならなかったようだのう……」
「私はまだ勝ったとも負けたとも申しておりませんが……」
「いくら木刀での勝負と言えども、打ち身一つ負っている様には見えんよ。大方一太刀も浴びずに勝負は着いたのだろう。流石は中沢の娘という事か……」
「父上はそんなにも強かったのですか?」
「お主も幼少より手合わせをしていたならお分かりだろう。今日やり合ったものとも全く比べ物にならなかったのではないか? しかし中沢もまた無理難題をお主に残したものだのう。あやつぐらい腕の立つものなど、この広い江戸にも果してどれくらいいるものか……しかも、ただ強いというだけではなく長男でなく、独身ともなれば更に人数は絞られる」
「……それで、あの大変申し上げにくいんですが、できれば面相も心持ち優れたお方でないと、私も俄然力が入ってしまうというかその……」
「うむ、まぁ年頃の娘であればそこもまた仕方のない部分があるかもしれんな。自分が一生を添い遂げる婿なのだからな。しかしそうなるとますます人間が絞られてしまう。これは表の人間だけではどうにも選びようが無いような気がするな」
「表とおっしゃいますと?」
「何事も表があれば裏がある。武術を追い求めるものは、町道場など表立って剣技を研鑽しているものだけではないという事じゃよ。むしろそういう者達の中にこそ本物の強者がおるものだ」
「そう言った殿方にはどこに行けばお会いできるのでしょうか?」
「まずは御公儀ならば御庭番だろう。しかし彼らは隠密だから、正体も分からないし会いようがない。他には……名うての浪人が集まると言えば掛け試合あたりだろうか、しかし強ければなんでもいいというわけでもなかろう?」
「私も女ながら浪人と言えば浪人の様な立場ですから、偏見はございません。……そうですか、掛け試合ですか……」
「いや、大規模な掛け試合の胴元となると博徒が絡んでおるだろう。到底全うとは言えまい。やはりまずは地道に町道場を訪ねて回るしかないのではないか?」
「そうですね。まずは目ぼしいところをまわらせて頂こうかと思います。その中で仕事の口が見つかれば必ずや先生に下宿代も払わせて頂きます」
「ああ、金の事なら心配するな。他でもない中沢の娘さんだ。儂にとっては孫弟子にも等しい。今はこの広い屋敷に儂以外は女中のお絹が一人いるだけだ。家の事などを手伝ってもらえればそれで十分だ」
「お申し出はうれしいのですが、そういうわけにも行きません。ただ、今手元には持ち合わせがあまりございませんので、もう少々お待ちください。……ところで一刀斎様はもうお弟子はおとりにならないんですか?」
「ああ、もう道場を閉めてから三年は経つ。若い頃の無理がたたってあちこちにガタが来ておる。折角この屋敷にも稽古場があるのに、相手をしてやれず申し訳ないな。おお、そう言えば儂の弟子で江戸で道場を開いているものもおるぞ。そこに独身で長男ではない強者がいるかどうかは分からないが、道場主はお前さんの父上とは兄弟弟子に当たるので、色々と昔の話が聞けると思う。儂の場合は師匠と弟子なのでそこまで込み入った話は知らんからのう。うむ、そこであれば道場破りの体を取る必要もあるまい」
「ああ、父の兄弟子の斎藤殿ですね。話は常々父より聞き及んでおりました」
翌日累は緒方一刀斎から教えてもらった、父親の兄弟子である斎藤伝次郎が開いているという道場に向かって歩いていた。場所は緒方の屋敷から二里(8Km)ほど離れたところだ。ゆっくり歩くと一亥(約二時間)はかかる。昨日は江戸に到着して両国のあたりをうろついただけなので、江戸の町をじっくりと見るのはそれが初めてだった。江戸時代は人口の八割以上がが農民である。武士も町民もそれぞれ1割以下であるが、流石に江戸の町は大きくて、町民で溢れている。古河藩から出てきたばかりの累は、これほど多くの町民が一つ所で暮らしているのを見たことが無かったので、いささか面を喰らってしまった。
しかしその江戸の町であっても道中には人気の少ないところもある。あらかた目的の道場も近いと思ったところで、まだ明るいうちだというのに町娘が数人の若者にしつこく誘われているのに遭遇した。
若者たちは腰に帯刀しているので武士なのだろう。しかし武士とは言ってもかなり派手な服装をしている。古河藩で生まれ育った累もその噂は聞いていたが、これが旗本奴と呼ばれる輩なのかと思った。旗本とは将軍家直属の幕臣であるが、聞くところによれば彼らは派手な服装をしては徒党を組み、悪さばかりしているらしい。
表通りではあるので、数は少ないが町行く人の姿もある。しかし全員が関わらないように見て見ぬふりをしている。
「ほぉ、そなた達が噂に聞く旗本奴とやらか。初めて見るが確かにかぶいておるのう。しかしそこの御婦人は嫌がっている様にも見えるぞ?」
累は彼らに聞こえるようにわざと大きな声でそう言った。
その言葉に男たちの中でも一番体格のいい男が反応した。
「何だお前は! 男の様ななりをしているがその長い髪……化粧もしているな。紅などさしおって、お前女だろう。女のくせに武士の様な格好でお前の方がよほどかぶき者だろうが」
「うむ、武士ではあるが女性としての魅力というものも常に意識をしておかねばならぬからな。しかし江戸という所の男は大勢集まらねば意中の女に声を掛けられぬほどの腑抜けぞろいなのかな?」
「何だと、このアマ!!」
そういうと男は左腰に刺した本差しの黒い柄の部分に右手を掛ける。しかしその瞬間一陣の土埃と共に累の体は男のすぐ横まで移動していた。そうして男の刀に掛けた右腕の上に、自分の刀の白い柄の部分をあてがって動きを封じた。
「ふむ。近くで見ても無し寄りの無しだな……ここで抜刀されるという事は果し合いを申し込まれたと受け取って良いのかな? 他の方々が見届け人という事で宜しいか?」
累は男の顔に向けた視線はそらさずにそう言った。男の柄にかけた右腕は震えている。すぐさま男は身を引いて、刀からも右手を外した。
「フン、今日は興ざめだから見逃してやる。 覚えていろよ!」
「貴殿の様な者たちの中にも腕の立つものはいるのだろう。私は今両国の緒方道場跡に居候している。果たし状ならいつでも歓迎するので是非お持ち頂きたい。……できれば独身で長男以外で頼む」
男たちはそれには返答せず、舌打ちをしてその場から立ち去って行った。男たちが立ち去ると先ほど絡まれていた町娘が累に声を掛けてきた。
「お侍さん……で宜しいんでしょうか? お助けいただきありがとうございました」
「人を斬ると研ぎに出さないといけなくなるので、何事も無くて良かったですよ。あの連中はここいら辺の者なんですか?」
「刀の柄の所に赤い紐がくくられていましたので、あれは赤柄組の者ですね。根は悪い方々では無いんですが、女好きが集まっていてそのあたりはたちが悪いんです。まぁ中にはキャーキャー騒いでいる町娘もいるんですけどね。そういうのは逆に嫌みたいです。お侍さんも器量良しなので気をつけられた方がいいですよ」
「ご忠告有難うございます。お互い器量が良いというのも困りものですね」
そう言って累は高笑いをした。
「しかしあの程度の輩であればご心配には及びません。……ところでこのあたりで天流剣術道場というのをご存知ありませんか?」
「ああ、それでしたらすぐそこですからご案内いたします」
そう言って娘は自分の後を付いてくるように累に言った。娘は黄色に縦に線模様の入った着物を着ていた。髪には赤や白の飾りがついたかんざしを挿している。累は娘の後ろ姿を見ながら自分の地味な服装と見比べて、やはりあのような格好の方が殿方からは人気が出るのかもしれないなと思った。