魔を冠する獣
あれはいつからだったか。
獣と呼ばれる事に慣れ、自らもそうあるべきと望んでいた。
最強の一人として地区を代表し、畏敬の念を一身に浴びる毎日。
そのせいか、いつからか獣と呼ばれることが誇りと感じるようになった。
人智を超えた獣。そう、思っていた。
だからあの時、俺は思い知らされたのだ。
獣とは、人を超越した存在では無い。
人の身から、堕ちた存在だ。
☨ ☨ ☨
【3年前 北地区 酒王の屋敷】
『今貴様、何と言ったァッ!』
大広間に鳴り響く、しわがれた怒号。
玉座の上から降り注ぐ声に、その男はただ無言で跪いていた。
『今すぐに他の王へ遣いを送り、謝罪するべきかと』
『儂を愚弄しておるのかッ!?』
『いえ。しかし現状は劣勢の上、不穏分子の報告も受けております。このまま侵攻を続ければ、状況は悪化する一方です』
淡々と言葉を紡ぐ男、アケロスは表情を変えることなく進言する。
しかし。
『それを何とかするのが、貴様の役割だろうがァッ!』
瞬間、顔に衝撃が走る。
ガラスの割れる音と共に、アケロスの頬から血が少し流れ出した。
男が激昂し、手に持っていた酒のグラスを投げつけたのだ。
『四獣将が聞いて呆れるわッ! そんな得体の知れない男など、貴様が出向けば良いであろう!』
『お、お言葉ですが陛下……』
陛下と呼ばれた男の言葉に、アケロスの隣に跪いていた男がおずおずと口を開く。
『既に何人もの犠牲者が出ております。このままでは士気にも影響が……』
『黙れェッ!』
雷の如く、怒りの叫びが降り注ぐ。
『そんな木っ端共、何人死のうが構わん! この計画が成功すれば、さらに大幅な人員増加に繋がるのだッ!』
その発言は支離滅裂だと、アケロスは心の中で呟いた。
こんな突然の強奪が成功したとして、民が付いて来るはずが無い。
ただでさえ自分の配下からの信頼も得れていない人間が、一体どうして全てを統括する王に成れると自惚れるのだろう。
自分の事業に依存し、常に酒を片手に指揮を執る男の、何処が王か。
アケロスは、侮蔑に満ちた視線を男に向ける。
『いいか、どんな手を使っても良い。死ぬ気で、その得体のしれん輩を中央からつまみ出せ』
『御意』
『は、ははぁ……ッ!』
偉そうに命令する男に対し、配下である二人は意見する事など許されていない。
否、しても無駄だろう。
アケロスは一礼し、その場から背を向けて退室する。
その背中を追いかけるように、もう一人の配下も退室した。
『気にするな』
第一声、アケロスは男にその言葉をかけた。
『最悪、俺自ら出陣すれば陛下も納得するだろう』
『し、しかし…………』
アケロスの言葉には、不器用ながら幾ばくかの気遣いが込められていた。
だが、男の顔色が戻ることは無い。
その表情は、焦りによって青白く染まっていた。
『このままでは、陛下の怒りを買って、私の家族が……!』
『落ち着け。大丈夫だ』
『大丈夫なはずがありません…………ッ!』
男は焦燥に満ちた声で叫ぶ。
『アケロス様もご存じでしょう……? 私共の家族は、人質に取られているも同然だと……ッ!』
『……それは』
『無理やりアルコールを摂取され、もはや酒がなければ生きていけない身体にさせられたッ! 家に帰っても酒、酒、酒。私の帰りを待つのは、報酬でもらう酒のため。私よりも、酒が大事なんですよ……』
男の言葉の節々からは、悲痛な感情が滲んでいた。
家族を持たないアケロスには、その気持ちに共感することは出来ない。
だが。
『それでも、私は家族が大切なんです…………ッ!』
自分とは違い、家族を思う大切さは痛いほど伝わってくる。
『だから、私がやらなきゃいけないんです』
男は涙を拭い、顔を上げる。
その瞳は、涙と覚悟によって真っ赤に染まっていた。
『どんな手段を、使ってでも』
男はそう言って、一人廊下を突き進んでいく。
その背中は危うさに満ちていて、アケロスは思わず言葉をかけようとした。
しかし、出てこない。
言葉は喉に詰まり、何と声をかけていいのかすら分からないのだ。
アケロスはただ一人、呆然と廊下に突っ立っていた。
『酷い顔だな、アケロス』
その時、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
アケロスが後ろを振り返ると、そこには見知った顔の存在がいた。
『殿下…………』
『その呼び名はやめろ。薄ら寒い』
『……バレク様』
アケロスの放った言葉に、バレクと呼ばれた男は苦笑いを浮かべる。
『ふん。まだ主とは呼んでくれんか』
『……父君がご存命の限りは』
『ならばさっさとくたばってもらわんとな。あの老害が生きていても、百害あって一利なしだ』
バレクの発言に、アケロスは慌てて周囲を見渡す。
今の言葉、誰かに聞かれて告げ口でもされたらどうなるか分からない。
『心配するな。奴は大好きなお酒を飲みに自室に戻った。そんな時間を邪魔しようと思う命知らずはおらんよ』
『……左様ですか』
ふくよかな肉体を震わせ、バレクは嘲笑を浮かべる。
その姿に、アケロスは親子の面影を感じていた。
人を馬鹿にする、傲慢な表情はまさに血筋と言える象徴であろう。
アケロスはそう思った。
『儂ら親子が嫌いか?』
『は、そんなことは……』
『ふん、分かりやすい嘘などいらん。顔に書いておるわ』
バレクは口をへの字に曲げ、不満を前面に出す。
『あいつと同列に扱われているのも癪だが、まぁよい。儂は己の手で、この地を変えるぞ』
拳を握りしめ、バレクは吠える。
『この戦争を早々に終わらせ、親父を玉座から引きずり下ろす! そうすれば愚かな統治から、新たに生まれ変わることが出来る』
バレクの視線は、まっすぐにアケロスへと向いていた。
『そのためには、アケロス。お前の力が必要だ』
『俺、ですか?』
『そうだ』
アケロスの疑問に、バレクはしっかりと頷く。
『これ以上死傷者を出さず、最低限度で戦争を終わらせる。それには四獣将の名が必要不可欠だ。停戦協定を結び、その中央にいる不審な奴とやらもうちに迎え入れよう! 強い地になるぞッ!』
その瞳は情熱に燃えていた。
バレクの瞳はあの父親とは違い、人を惹きつける熱意があった。
その熱が、アケロスの心に伝播する。
『だから、頼んだぞ』
バレクが放ったその言葉に、アケロスはただ。
『…………謹んで拝命する。主よ』
これまでよりも深い一礼で返答した。
だからこれは、何かの間違いであって欲しい。
『なんだ、これは……………………』
愕然と、目の前の光景に声が漏れる。
アケロスは何が起こっているのか理解することができなかった。
その世界は、鮮血に染められていた。
死屍累々。
肉片と臓物が辺りに散乱し、腐敗臭が漂う。
数多の人々の屍が、無造作に転がっているその光景は、到底この世のものとは考えられないものであった。
『一体、なぜ……………………』
呆然と呟きながら、アケロスは先程の記憶を思い返した。
それは、突然の出来事。
急報が入り、アケロスは慌てて伝令の元へ向かった。
その者の発言は要領を得ないものであったが、唯一ハッキリと聞き取ることができた。
中央に、悪魔が現れた。
何を言っているのか意味が分からず、ひとまず伝令を休ませ支度を整える。
無性に嫌な予感が胸の中で騒めいていた。
配下の者を待たず、単騎で飛び出し現場に駆け付ける。
そして、地獄を見た。
『これが、悪魔の仕業だとでも言うのか……?』
アケロスの脳裏に、悪魔のイメージが浮かび上がる。
しかし、目の前に広がる光景は悪魔が殺したと言うよりもまるで。
『獣が食い荒らしたような、凄惨な殺し方だ』
悪魔のような獣。
それは四獣将とは全く異なる、醜い畜生のような存在ではないか。
そんな奴を、野放しになど出来ない。
アケロスは思考を正常に保ち、辺りをゆっくりと見渡した。
その時。
『グ縷縷ルルルルルルルゥァア嗚呼ああァァァァアアアアアアッッ!』
この世のものとは思えない、化け物の咆哮が世界を揺らす。
『な、なんだ……ッ!?』
アケロスは即座に声の方角へと駆け出す。
みるみるうちに周りの光景が後ろに流れ、駿足が大地を蹴り上げる。
風を切るかの如き速さで、アケロスはその現場に辿り着いた。
それは、他の面々も同じようで。
『お前ら……ッ!』
そこには他の四獣将の姿があった。
しかし、皆こちらを振り返ることは無い。
彼らの視線は、唯一点に向けられていた。
アケロスもその方角へと視線を向ける。
そして、戦慄する。
『な、んだ――――――――――――』
そこに存在していたのは、人にあらず。
そして、獣と呼ぶにもおぞましすぎる。
全身に鮮血を浴び、赤黒く染まったその肉体は異様であった。
縦に高く、しかしあまりにも痩躯。
歪なバランスの身体は、その光景も相まってより不気味に見えた。
ソイツはゆっくりと、こちらに振り向いた。
そして、その瞳を見てしまう。
瞳孔が縦に開く。その様はまさに獣そのもの。
しかし。
『ひ……………………っ!』
四獣将の一人が、小さく悲鳴をあげる。
黒い長髪に隠れていた表情が、姿を現す。
その顔は、人では無かった。
獣に近いが、獣よりもさらに恐ろしい。
言うなれば、悪魔。
『魔獣……………………』
誰かがポツリと呟き、そこにいた全員が納得した。
あれは人でも、獣でもない。
魔を冠する、堕ちた獣だ。
『ガ唖嗚呼ァァァァァアアアアアアアアアッ!』
そして奴は、おぞましい咆哮と共にこちらに飛びかかってきて――――
「……………………………………はぁッ!」
慌てた声を漏らし、ベッドから飛び起きる。
汗が背中を伝い、恐怖が全身を震わせる。
「……………………夢、か」
アケロスは茫然と呟き、次の瞬間苦笑する。
昼間にヴィムが懐かしい話をするものだから、思い出してしまったのか。
悪夢にうなされる四獣将など、とんだ笑い話だ。
アケロスは額に手を当てる。
そして、目の近くに奔る傷跡を指でなぞる。
「ク、ハハハ」
笑みが、こみ上げる。
「クハハハハ!」
あの時の光景を思い出し、心の底から歓喜する。
「クハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
まだ誰にも見せたことの無い、自分だけが知る感情。
アケロスはあの時、圧倒的な恐怖を味わった。
だが、それと同時に心に強く刻まれたのだ。
嗚呼、獣とはこうあるべきだったのか。
「主よ、申し訳ない」
アケロスは笑みと共に謝辞を述べる。
自らの主、バレクへと。
あの事件のせいで、四地区は甚大な被害を被った。
その責を負わされ愚王も処刑、息子であるバレクにもその責を負わされた。
理想は遥か遠く、あの時の熱意は完全に失われてしまったのだ。
それでも、アケロスは喜んだ。
あの男に出会えたことが、自分の価値観を一変させたのだ。
だから。
「主よ。俺は主のことを誰よりも尊敬している。だが」
アケロスは顔の傷跡から指を離し、今度は肩に手を当てる。
本日刻まれた新しい傷を、愛しく撫でるように。
「奴には、敬愛の念を抱いてしまっている」
その言葉には、全てが込められていた。
アケロスには何もない。家族も、自らが望む願いも。
ただ全て、唯一残った熱意の全てを捧げる存在。
それが、ヨルドであった。
だからこそ。
「今のお前は、あの頃とは違う」
3年前。
あの魔獣と恐れられた存在は、今は居ない。
牙は丸くなり、平穏を享受している。
そんなのは、俺の望むアイツではない。
「待っていろ、ヨルド。俺は必ず――――」
瞳に情熱を灯し、拳を握りしめる。
「貴様の牙を、研いでやる」