そして、光
「おらおら、どうしたァ!?」
仄暗い世界の中で、紅い火花が散っている。
闇を振り払うように。影を切り裂くように。
空を飛び交う、銀色の軌跡。
そんな世界で、二頭の龍は激しく入り乱れる。
相手の首に牙を突き立てるが如く。
しかし、彼らの力量は親子ほどかけ離れているように見えた。
激しく攻め立てる成龍に対し、小さく縮こまることしか出来ない子龍。
ソレはまるで、弱肉強食を表しているようであった。
「……はぁ、はぁ…………ッ!」
激しく息を乱しながら、イズルは流れ落ちる汗を片手で拭う。
分かっていた。
初めからこの戦いは成立しないという事を。
理解してなお、挑まずにはいられなかった。
ここで勝負を避け、ずっと何かから逃げ続ける人生などまっぴらごめんだ。
「もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっとだァァァッ!」
もはや眼前の存在は人にあらず。
視界に入れるだけで、恐怖のあまり足がすくむ。
今、自分がこうして生きていられるのは、奇跡の産物であるとイズルは理解していた。
醜く足掻き、何とか喰らいつくことで辛うじて生きながらえている。
その事実が告げる。頭の中で声が響く。
【お前には、その大業は為せぬ】と。
「ふざ、けるな」
何を、分かった口を聞いている。
為せるか、為せないかでは無い。
自分を重宝してくれた恩人、王子たちに報いるため。
彼らの犬死にが、無駄では無かったと証明するために。
そして。
『私たちは二人で一つ。二人が揃えば、憧れだって超えられる。でしょ?』
共に未来を誓った、彼女のために。
☨ ☨ ☨
嗚呼、心地よい。
冴えわたる感覚、透き通るような視界。世界の全てを知覚する。
これほどまでに全身に力がみなぎる感覚は、一体何年ぶりだろうか。
否。
ヨルドの知る限り、未だかつて龍の力を制御できたことなど一度たりとも無かった。
それが何故、今になってできるようになったのか。
何故?
そんなこと、どうでもいい。
今はただ。この衝動に身を委ねたい。
「――――――」
ふと目の前の男が口を開き、何かを語り出した。
だが、その言葉に意味はない。
もはや文字は形になることなく、ただ空気の振動として鼓膜を震わせるだけ。
そういえば、目の前の男の名前は何と言ったか?
いや、もうどうでもいいか。
それら全てに、意味はない。
【――――】
本能が告げる。
脳の片隅から鳴り響く、天の福音。
【――せよ】
この肉体に刻まれた命題。
意志を覆い尽くす、天上なる存在の声が頭の中を駆け巡る。
【根絶せよ】
【天下に普く脆弱なる種を、根絶せよ】
これは、誰の声だ?
誰の意志だ?
頭の中に響き渡る、第三者の声。
その不可解さと、得体の知れない嫌悪感に意識が微かに覚醒する。
しかし。
【快楽に、身を委ねよ】
ああ、そうだな。
こんなに心地よいのだから、少しくらい身体を預けてもいいだろう。
そういえば、誰かも言っていた気がする。
頼ってもいいのだ、と。
遂に意識は、暗く深い闇の底へと落ちていく。
「俺は…………ボクは誓ったんだッ!」
その時。
静寂を破る声が鼓膜に突き刺さる。
瞬間、ヨルドの意識が急激に浮上する。
この声は一体どこから。
ヨルドのそんな疑問は、すぐに解消されることとなった。
目の前に立つ青年、イズル。
彼は声を枯らしながら、目を真っ赤に腫らしてこちらを鋭く見つめていく。
そして。
「ボクは必ず――――――――龍を超えてみせるッ!」
その眩しいほどに真っ直ぐな気概と、眼差しに視線が奪われる。
それはヨルドにとって、久方ぶりの油断であった。
イズルの剣が、ヨルドの首筋を微かに斬り裂いた。
だが、ヨルドにとってその攻撃は何の痛手にもならない。
そのはずだったのに。
神経に直接突き刺さる、耐え難い痛みが全身を襲う。
傷口が、燃えるように熱い。
この感覚。
この、痛みは。
懐かしさと同時に。ヨルドの脳裏に、思い出の一幕が蘇る。
「痛ッてェッ!」
「ハハハ、大袈裟だなぁ」
「笑い事じゃねぇよ!?」
雲一つない晴天に響き渡る、騒がしい喧騒。
涼しげな風が緩やかに、近くの緑葉を優しく揺らす。
木漏れ日が、二人を優しく照らしている。
その日々はまさに、遥か青き春そのものであった。
「しっかり調整したよ。今ヨルドに与えた痛みは、せいぜい傷口パックリいった時みたいなもんさ」
「全然痛ェじゃねえか……ッ!」
目の前で適当なことをほざく友人を睨み付け、ヨルドは静かに右手の掌を見つめる。
そこには少しだけ血の滲んだ、小さな切り傷が存在していた。
「でも、実際に体験するとまた違うだろ?」
透き通った雪のような白髪を風に靡かせながら、友は爽やかな笑顔でこちらに語りかける。
「これが龍血。体内で濃度調整することによって、他者に大きな痛みを与えることができる――――って、ヨルドはもう知ってるよね」
「……ああ。話に聞いてはいたが、こいつは凶悪だな」
「ハハハ。使い方を誤らなければ、少しの傷で敵を鎮圧することができる便利な代物さ。結局のところ、武器は使い手次第ってね」
そう言って、友は両手を広げて雄大に口を開く。
その表情はまるで、同級生をからかう子供の様であった。
「ようこそ、龍の世界へ」
否、こいつは元々そういう奴だ。
眉目秀麗な見た目と爽やかな雰囲気に騙され、大人な騎士の印象を持つ者も多いが、付き合いの長い俺からすればとんだ笑い話である。
コイツ程、少年心に溢れた奴はいない。
ヨルドは心の中で皮肉を呟きながら、静かにため息を漏らす。
「…………数ヶ月早く龍将になっただけの奴に先輩面されたくねェよ」
「おや、負け惜しみかい? そもそもお前から提案してきたじゃないか。『先に龍将になった方が、残った方に龍血を実践する』って」
「……龍血の効果を実感したいって言いだしたのはお前だけどな」
「ハハ、そんなこと言ったっけ?」
「この野郎ッ!」
のらりくらりと笑みを浮かべながら追及を逃れる友に対し、ヨルドは額に青筋を浮かべる。
ギャーギャー喧しく騒ぐ二人の姿を第三者が見たならば、きっと想像もつかないだろう。
超大国ローダリアが誇る、英雄の象徴。
龍将の正体が、こんな子供じみた青年たちだということを。
「あ、ヨルドさん」
その時、可憐な声が上から聞こえてくる。そしてその声色に、ヨルドは聞き覚えがあった。
ヨルドは慌ててそちらの方向へと視線を向ける。
すぐ近くの小高い丘の上。
青々と生い茂る草花の上に、彼女はいた。
「ナタリア!?」
ヨルドは目を丸くして、驚きのあまり声を上げた。
そして、目の前の友人を無視してそちらの方へ走り寄る。
「どうしてこんな所へ!?」
「あら、私が会いに来てはいけないのですか?」
「いやいや、そういう訳じゃ……!」
「ウフフ、冗談です」
くすくすと、彼女は口元を手で隠しながらにこやかに笑う。
優し気な目尻の下がった表情が、微かに赤く染まっている。こうして近くに立つと、亜麻色の髪から仄かな甘い香りが漂ってくる。
何故だろう。
なんだか、胸が熱い。
ヨルドは訳も分からず、無性に顔を逸らしたい気分に駆られた。
「やあ、ナタリア」
「あらフェリド。いらっしゃたのですね」
「ちょっと、酷くないかい?」
「いえ、別に他意はありませんわ。本当に気が付きませんでしたの」
横から親し気に話しかける友人こと、フェリド。
しかし、話しかけられたナタリアの表情は不意に一変する。
ヨルドと話していた時とは違い、赤みの引いた普通の顔で冷静に突き放す。
そんな様子を見たフェリドは、相変わらずの対応に静かに苦笑した。
「まったく君という人間は、もっと幼馴染に優しく出来ないのかい?」
「あら、あなたのような可愛げのない人は記憶にございませんが?」
売り言葉に買い言葉。
このままじゃ埒が明かないと判断したフェリドは、肩をすくめてヨルドへと視線を向ける。
「それで? ナタリアはどうしてここに?」
「私は王女殿下の家庭教師として、国王陛下より王都に召集されたのです」
ヨルドは話を逸らすように、改めてナタリアに疑問をぶつけた。
その問いにナタリアは誇らしげに胸を張る。
豊満な何かが、一際激しく揺れる。
ヨルドは静かに視線を逸らした。
「あー、王女殿下っていうと、末っ子だったか?」
「はい! この度中等部に入学されたそうなのですが、中々の才媛っぷりを披露されているとか!」
「なるほどね。それで学園きっての才女、ナタリアお嬢様の出番と言う訳かい?」
横から軽口を挟むフェリド。
ナタリアがすぐさまキッと睨むと、口笛を吹いてヨルドの後方へと下がっていった。
まったく、二人はいつもこれだ。
ヨルドは呆れた表情を浮かべながら、心の中で深いため息をついた。
「そうか。じゃあ、また後でな」
「ええ、ヨルド様もごきげんよう。訓練はほどほどになさってくださいね」
そう言ってナタリアは上品にお辞儀をし、背中を向けて歩き去っていく。
ふとその方向を見れば、豪華な馬車と燕尾服を着た初老の姿。
男性はこちらに気付いた後、軽く一礼してナタリアを馬車へと迎え入れる。
そうして走り去っていく馬車の後ろ姿を、ヨルドは一人眺め続けていた。
「――――いやぁ、青春だねぇ」
耳元から、ヨルドをからかう声が聴こえてくるまでは。
「は? なんだよそれ」
「名残惜しそうに最後まで見つめちゃってさ。なんだったらそのまま追いかけちゃえばいいのに」
その言葉で、ヨルドはようやくフェリドが何を言っているのか悟った。
ヨルドは顔を赤らめ、動揺しながら口を開く。
「な、何言ってんだ!? 別に俺はそういうんじゃ……」
「そんな分かり易いのに、今さら何を誤魔化すんだよ。いいじゃないか。龍将になったからといって、恋愛が禁止されてるわけじゃあるまいし」
「いや、だから、俺は…………」
ズバズバと発せられる言葉にたじろぐヨルド。
もはやどう反応していいか分からず、ただひたすらに煮え切らない態度を取り続ける。
そんなヨルドの姿を見て、フェリドは呆れ気味に笑う。
「俺はお似合いだと思うよ。向こうだってまんざらじゃないから、今だってわざわざ会いに来たんだろうし」
その言葉は、今までのようなからかい半分のものでは無い。
心の底から友人を、幼馴染の恋路を応援するものであった。
「俺はさ、二人に幸せになって欲しいんだ」
フェリドは静かに微笑み、ポツリと言葉を漏らした。
「孤独だった俺を、救いだしてくれたから」
そういえば、そんな時もあったか。
ヨルドは懐かしき日々に思いをはせる。
初めて出会ったあの時、フェリドは――――
「だから、困ったときは助けてやる」
嗚呼、そうだ。
急激に意識が、身体から引き離される感覚。
否、夢から醒める感覚と言った方が近いか。
今ようやく思い出した。
ここは、遠き過去の記憶。懐かしき、愛おしき日々の光景。
もう二度と、戻ることの無い世界。
「お前が、底の見えない闇に呑まれそうになったら――――」
それでも。
「俺が、日の当たる場所に連れてってやる」
この友情は、嘘じゃなかった。
「…………………………痛ェな」
そして意識は、現代に帰還する。
首筋に奔る、燃え盛る痛みの跡。
間違いない、龍血だ。
そして今の映像は、痛みによって呼び起された記憶の欠片とでも言うべきか。
こんな状況であるにもかかわらず、心の内に温かい何かが灯る。
【――せよ】
だが。
【根絶せよ】
目覚めた理性は、再び闇の底へと引きずり込まれる。
誰かが耳元で囁く。
抗えぬ根源的存在によって、龍の本能が産声を上げる。
殺せ、殺し尽くせと。本能の警告が頭の中を埋め尽くし、鳴りやまぬ騒音となってヨルドを蝕んでいく。
これが、龍の本能。
落とし子が切っても切り離せぬ、宿業の糸。
殺しても満ち足りぬ、醜い獣の本性が、コイツか。
悔しい。
ここで何も出来ず、俺はまた、同じことを繰り返す。
そして目が覚めた先で、俺は自分が犯した罪を知ることになる。
ふざけるな。
何が龍だ。
何が成功作、完全なる龍だ。
自分の力をろくに制御も出来ず、快楽に身を委ねるだけ?
「…………違、ェだろ」
実際に喉から絞り出された声か、心の声か。
それは定かではない。
だが、そこに秘められた想いは。
【根絶せよ。我が――――】
「黙、れ……ッ!」
ヨルドが声を振り絞る。
そうだ。
もう二度と、大切な誰かを傷つけないように。
ヴィム。
リターシャ。
『私はいつまでも、貴方を愛しています』
ナタリア。
「邪魔、だ……!」
闇を振り払うように、腹の底から声を吐き出す。
それは、獣の咆哮とは違う。
ヨルドという人間が口にする、想いの叫びであった。
「俺の心に、触れるな…………ッ!」
纏わりつく影は、どんどんとヨルドの意識を蝕んでいく。
それはまるで、聞き分けの無い子供を力で押さえつけるように。
心をへし折らんが如く、漆黒は全身を覆い尽くす。
そして遂に、ヨルドの意識が闇に溶けかかる。
故に。
「俺は―――――――――――――――俺の意志で剣を握るッ!」
瞬間、眩い閃光が世界を照らす。
それは精神世界だけの話ではない。
その時、底の住人たちは、光の柱を見たという。
光の届かぬ世界の底において、その光景はまさに異質そのものであった。
普通であれば、原因の分からぬ光など恐怖の対象でしかない。
だが、何故だろう。
光を見た者は皆、心の内に温かい何かが灯り出す。
そして。
「白い、光?」
目の前に立つイズルもまた、その光を見ていた。
自分が斬りつけた瞬間、動きを鈍らせたヨルド。
そして次の瞬間、ヨルドを中心に光の柱が聳えたったのだ。
ヨルドの、右手から。
「――――――――これ、は」
そして覚醒する、ヨルドの意識。
もう、声が聞こえることは無い。
そんな様子に安堵する間もなく、ヨルドは右手の掌を見つめる。
「…………………………………………嗚呼」
そこに刻まれていたのは、小さな切り傷。
その隙間から、白い閃光が噴き出している。
理由は分からない。
だが、これだけは分かる。
『俺が、日の当たる場所に連れてってやる』
あの言葉は、やはり嘘では無かった。




