躍動する影と兆し
東地区とは、煙王が支配する地域のことを指す。
煙草を主な事業として扱っており、その大多数は男性によって支えられている。
そのためか、女性が多く在籍する西地区とは犬猿の仲であり、酒王が誕生する以前ではしばしば諍いも多かったそうだ。
北地区と比較して、その街並みは大きく異なる。
北地区では木造建築やレンガなど、住宅には様々な材料が使われていた。
それに対して東地区では、木造は一切使用されていない。石や金属、時折レンガなどを用いられていることが多く、見る者に無骨な印象を抱かせる。
だからこそ。
「……なんだか、寂しい街ですね」
その様に感じてしまうこともある。
クックルは初めて見た東地区の町並みに、そう小さく呟いた。
今自分達が歩いている所は、他の場所よりも少し高所に位置しているおかげか、町並みを見下ろすことができるのだ。
比較的明るい印象を抱かせる北地区に対し、東の町並みはなんだか暗く感じさせる。
「実際は違うけどなァ。小太りジジイのとこよりも、多くの人間を擁してやがる。寂しく見えるのは、隠れて過ごしてるか、大部分が煙王の館の周りに集まってるからだ」
「なるほど。通りで」
ヨルドの言葉に、クックルは一人静かに納得した。
酒王やヴィムの話では、北地区は歴史の浅い国であるという。
であれば、他の地区の方が規模は遥かに大きいのは当然か。
「まァ、あいつらは基本的に自分のシマを第一に考える奴らだ。滅多に自分達の領土から出てくることはねェよ」
「つまり、今回の事件には無関係。そういうことでいいんですね?」
クックルの発言に、ヨルドは訝しげに振り返る。
「なんだァ? お前はそんなことを警戒してんのか」
「そりゃあ嫌でも考えてしまいますよ。奴らがこんな場所に潜伏してるなんて、東の関与を疑うのは当然です」
「確かに、お前の言い分は正しいなァ。だが……」
ヨルドは足を止めることなく前へと進んでいく。
もう随分と歩いてきたと感じていたところで、ようやく景色が一変する。
目の前に広がったのは、街並みが途切れた広い空間。
そして。
「なんだ、これは」
クックルが呆然と見つめる視線の先。
そこには、侵入を阻むように聳え立つ巨大な壁の姿があった。
金属で出来ていると思われる無機質な壁の表面には、痛々しい有刺鉄線が巻き付けられていた。
「東西南北。それぞれの地区の境界には、こんな風に物理的な境界線が敷かれてんだ。これは3年前の戦争以降に作られた。お互い干渉できないようになァ」
「……これなら確かに、東地区が干渉することは不可能ですね」
「あァ。それぞれの地区を移動するためには、中央地帯を経由しなきゃならねェ。そういう風に、条約を定めた」
「条約……、それってもしかして?」
クックルの問いかけに、ヨルドは静かに頷く。
「3年前に交わした不可侵条約。その内容は、俺に関わること。そして、四地区の争いの禁止。いわばこれは、誓いの壁だ」
「誓いの、壁」
その壁は、人間二人分ほどの高さであった。
これが、獣魔統一戦争の代償として生み出された、不可侵の壁。
クックルの想像している以上に、3年前の出来事はこの街の住人に根深く刻まれているらしい。
「だからまァ、東地区の関与はほぼ無いと――――」
ヨルドがそう言葉を紡いでいた、その時だった。
遠くの方から、怒号と剣戟が響き渡る。
「この音は!?」
「どうやら始まったみてェだなァ」
ヨルドは小さく舌なめずりをした。
そして一歩足を踏み出し、ピタリと動きを止める。
「構えろ。こっちにも来客だ」
ヨルドは静かに呟き、腰から双剣を引き抜いた。
その様子からただならぬ事態を察し、クックルも剣を抜く。
しかし、周りを見渡しても人の影は見当たらない。
クックルが何かの間違いではないかと口を開こうとした、その時。
遠くから、キラリと何かが飛来する。
「シィッ!」
ヨルドは鋭い呼吸と共に、その物体を斬りおとす。
真っ二つになり地面に転がったのは、一本の矢であった。
「こんな街で弓矢を使うとは、地の利を知らねェ馬鹿か?」
その言葉に、クックルは確かにと同意する。
弓矢を使ったとて、遮蔽物の多いこの街では意味など無いも同然。
しかし。
「な…………ッ!?」
「おいおいおい。そういう事かよ」
二人が視線を向けたその先。否、視界の外からも。
ヨルドとクックルを取り囲むようにして現れたのは、屋根の上に潜んでいた大量の影。
その数は、ザっと30を超えていた。
影は一斉に、弓矢を構えだす。
「隠れるぞ」
「は、はい!」
矢の雨から逃れる様に路地裏へと避難する二人。
しかし、それで終わるはずも無い。
道の奥から、大量の人間の影が蠢いた。
「挟み撃ち、ってか。ケハハッ! 面白くなってきたなァッ!」
ヨルドは狂気的な笑みを浮かべ、双剣を強く握り占める。
だが、隣にいるクックルからすればそれどころではない。
「ど、どうするんですか!?」
「んなもん、決まってんだろ」
クックルの狼狽えた発言に、ヨルドは当然のように口を開く。
「俺は上、お前は下を担当しろ。仲良く山分けだ」
「……………………へ?」
「んじゃ、楽しめよ」
ヨルドはそう言って、軽快な動きで床を蹴る。
壁を蹴り飛ばしながら屋根に上っていくその姿は、まさに野生の動物そのものであった。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
「一人に減ったぞ! しかも相手は知らねぇ野郎。てめぇら好機だ!」
「ブチ殺してやんよ!」
「覚悟しろやクソガキィ!」
チンピラは思い思いに叫び散らし、武器を構え始める。
大勢の人間に対し、こちらは一人。
子供でも分かる簡単な問題。
劣勢なのは、こちらだ。
「……………………ヨルド殿ォッ!?」
クックルは助けを求め、高らかに声を上げた。
悲痛な叫びは辺りに響き渡る。
哀れな男の初めての集団戦が、今始まろうとしていた。
「ケハハハハハハハハハハッ!」
狂喜に顔を歪め、ヨルドは屋根の上へと飛び出した。
そして瞬時に視線を周りに向け、状況を把握する。
屋根の上にいた影たちは、突然現れたヨルドに驚きその動きを止めていた。
「ハハァッ!」
その一瞬の迷いを、ヨルドは決して見逃さない。
ヨルドは深く腰を下げ、一歩強く踏み込んだ。
「……………………は?」
ヨルドの一番近くにいた影は、ヨルドがいきなり目の前に現れたような錯覚を覚えた。
しかし、それもつかの間。
音も無く首を刎ね飛ばされ、静かに息を引き取った。
「く、来るぞォォォッ!?」
少し遠くからその光景を見ていた影が、大きな声で周りに知らせる。
そして震える手で慌てて弓矢を構えだす。
「おっそいなァ」
ヨルドはその様子に、欠伸を浮かべながらすぐ近くの人間のはらわたを突き刺した。
腹から鮮血と共に内臓が弾け、屋根から落下していく影。
「撃てぇぇぇぇぇえッ!」
残った影が、一斉に矢を放つ。
それはまさに殺意の雨。
当たればヨルドといえど無事では済まないだろう。
当たれば、の話だが。
「だから言ってんだろォ」
ヨルドはそう言って、屋根の上から飛び降りた。
矢は先程までヨルドが立っていた場所を貫く。
だが、既にそこに奴はいない。
「いったい、どこに――――」
「バァ」
一人の影の耳元で、低い声が囁いた。
「うわァァァァァァァァッ!?」
慌てて後ろを振り返るが、そこにヨルドの影は無い。
「はい、残念」
下から聞こえてきた声に視線を向けようとする。
しかし突然足首を掴まれ、そのまま引きずり降ろされた。
男は真っ逆さまに落下して、頭部が弾け絶命した。
「矢を使う時は、地の利を考えろよなァ」
その言葉を放つヨルドの顔は、醜く歪んでいた。
心の底から殺戮を楽しみ、快楽に綻ぶ表情。
黒蝮は静かに嗤う。
地獄はまだ、始まったばかりであった。
一方そのころ、クックルは。
「逃がすなッ! 追え、追えぇぇッ!」
「待てやこの野郎!」
「逃げてんじゃねえぞボケカスコラッ!」
「うおおおおおおおおおおおッ!」
大量の追っ手から、全速力で逃げていた。
自分は、ヨルドやアケロスのような圧倒的武力を有していない。
多対一で相手を御する技も力も無い、普通の人間だ。
そんな自分がこの状況をどうにかするなんて、できるはずがないじゃないか。
「恨みますよッ! ヨルド殿!」
クックルは不満を吐き出しながら、路地裏を進み続ける。
グルグルと走り回り、ただ逃げるだけの時間。
地上では、命をかけた追いかけっこが繰り広げられていた。
「見つけたぞゴラァ!」
しかし、そう長くは逃げられない。
クックルの前方を遮るように、もう一つの集団が姿を現した。
「クソッ!」
汚い言葉を漏らし、クックルはさらに細い道へと逃げ込んだ。
そして、目の前に飛び込んできた光景に足を止める。
聳え立つ巨大な壁。
つまるところ、行き止まりに迷い込んでしまったのだ。
「ようやく捕まえたぞ!」
「手間かけさせやがってよぉ!」
「覚悟しろこの野郎!?」
後方から飛び交う怒号。
クックルはついに、逃げ場を失ってしまった。
「ここまでか……」
観念したように、小さく呟いたクックル。
その姿に、先頭に立っていた男は下卑た笑みを浮かべる。
「ハッ! ようやく諦める気になったか!」
男の放つ言葉に、クックルは。
「諦める?」
淡々と、言葉を返す。
「冗談じゃない。諦めてなるものか」
「あぁん?」
クックルの言葉に、男は怪訝に眉をひそめる。
こいつは一体、何を言ってるんだ。
そんな男の気持ちを知る由もなく、クックルは静かに剣を構える。
強く握りしめるクックルの身体から、微かに闘志が吹き出した。
「私は、もう二度と。諦めないと誓ったのだ」
それはあの時、白龍将に誓った言葉。
幾度の絶望を乗り越えて、今ここに立っている。
だからこそ、この程度で躓いている暇は無い。
「何を言ってんだこの野郎ッ! いいからさっさと死ねやァァァ!」
先頭の男は、怒号を上げて一直線に突進した。
コソコソと逃げ回っていた男に、一体何が出来る。
そんな侮りと共に、男は剣を振り上げた。
そして。
「――――――――――――あぇ?」
男の額に、音も無く剣が突き刺さった。
先程まで、その剣は遠く離れた位置にあったはず。
見えていたはずだ。見えていたはずなのに、何故。
男は絶望を抱きながら、一人静かに死んでいく。
その訳を知ることは、永遠に出来ない。
「こ、こいつやるぞッ!?」
残った男たちは、慌てて武器を構え直す。
そして、ようやく状況を認識する。
クックルが逃げ込んだ細い道。
これは、まさか。
「ようやく気がついたみたいですね」
クックルは淡々と言葉を放つ。
そう。
意味もなく逃げ回っていたと思わせたその行動は、この状況を作り出すことだった。
細い道では、多対一になることは無い。
必ず、一体一にならなければならないのだ。
「私はまだ、彼らみたいに強くは無いから」
剣を正中線に構え、静かに佇むクックルの姿。
靄のように溢れ出す闘志の奔流を、その場にいた人間は確かに視認した。
「だから、頑張って活路を見出すんだ」
クックルは、自分の持てる力を最大限発揮できる場所を選んだ。
まだ、強者たちには遠く及ばない。
なればこそ、頭を使い、工夫を以て状況を打開する。
それがクックルに残された、唯一の活路であった。
しかし。一つだけ、誤算が生じていた。
それはクックル本人すら気づかない、小さな変化。
今までも、その予兆は確かにあったのだ。
『才能あるよ。お前』
『君の牙は、確かに龍に届き得た』
ヨルド。
そして、白龍将。
二人の強者に見出された、まだ誰も知らない《《才能の兆し》》。
本当の戦を知らなかった青年は、経験に比例して成長していく。
その成長速度は、並の人間のそれを大きく超え、強く羽ばたき始める。
それは未だ、日の目を浴びぬ原石。
「さぁ、始めましょう」
今ここに。
新たな才能が飛翔する。




