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農村の朝は早い。
大体鶏の鳴き出すのを聞きながら目を覚ます。
面白いことに鶏という奴は一年を通して大体同じ時間に鳴き出すという話がある。
夜明けの時間とかに関係なく、体内時計で決まった時間に鳴くのだそうだ。
いまの時期だと夜明けまですぐだが、それでも随分早い。多分、午前三時とか四時とか、そんなもんじゃなかろうか。
日本にいた時は、そんな時間に起きなきゃならん時はこの世を恨みながらのたうち回ったものだが、こっちの世界じゃあ、存外快適に目覚めている。
というのもまあ、睡眠の質がいいんだろうな。
日付が変わる頃に寝ては早朝起きていた生活からすると、大分いい。
何しろこっちじゃあ、照明器具が少ないし燃料も食うから、夜が早い。
程々に運動して、うまいこと疲れて、すぐに寝ちまう。
だから十分な睡眠をとって、夜明け前にもさぱっと起きれる。
年取ると眠れなくなるってのは止めてくれよ。
窓の外にはまだ青い夜が残っていて、涼しい夜気がゆっくりと去ろうとしていた。
桶に汲んでおいた水は程よく冷たく、顔を洗い、歯を磨いて、うがいをする頃にはすっかり目も覚める。
そうしているうちに、柔らかい絹布のような光が窓にかかり、そしてそれはすぐに白々とした鮮烈な朝日となって夜を払った。顔を出して外を見れば、村の建物から少しずつ夜闇がはぎとられ、人々が起き出しているのが見えた。
俺はそんな爽やかな朝の窓の下に誰もいないのを検めてから、おもむろに桶の水を捨てた。
窓から水捨てるのって、なあ、これ教科書で見たやつだ感がすごいぜ。
あれはパリかどっか、都市部の話だったと思うが。
隣のドアを叩いてみると、イヴはもう起きていたようで、ごちゃった髪の毛と格闘しているところだった。
服も自分で着るし、靴紐も結ぶし、使用人泣かせなくらい自分のことを自分でやるイヴだが、自分の頭の後ろってのはいまだに苦手らしい。
ん、と形の良い後頭部を向けてくるのは、そりゃ俺にやれってことか。
できないことはないがな。
「たまには髪型変えないのか?」
「重心変わって落ち着かないもの」
カウンター・ウェイとかなんかかよ。
俺は櫛を片手に三つ編みに挑戦した。
人間の髪じゃやったことはないが、パン生地とかでこういう編み込みはやったことあるから、まあ要領はわからんでもない。
パン生地と比べてさらさらしてるし、抑えとかないとばらけるが、逆に言えばパン生地みたいにくっついちまうこともないから、簡単に編み直せるし楽は楽だ。
慣れない編み始めの根元はちっくと緩くなったが、まあこんなもんだろ。
イヴからのとりあえずの及第点ももらって一階に降りると、あの鎧の人が座っていた。
革鎧、はまあわからんでもないが、牛みたいな兜までしっかりかぶってるのは凄まじい違和感だな。
いや、ファンタジー酒場的にはある種、正しいのか?
すでに食事は終えていたみたいで、兜かぶったままどうやって飯食うんだという定番の突っ込みはいれ損ねた。
俺たちが適当なテーブルに腰を下ろすと、仕込みをしてたらしい主人が気づいてすぐに朝食を寄越してくれた。
と言っても、目新しいもんじゃない。
昨日の残りのパンに、昨日の残りの具のないシチュー。それに硬いチーズがひと切れ。
かまどの火を入れたばかりで、どれも火を使ってないものだ。
パンは朝焼くものだし、まだ焼いてないんだろう。シチューの残りも、具はないとはいえ、味はいいから、パンにつけるソースとして丁度いい。冷めてどろっとしてるのも具合がいい。
チーズは、貧相に見えるかもしれんが、なかなかありがたい。
塩気があるし、栄養もあるし、なにしろそこそこ値が張る。
この村はそこまで酪農が盛んじゃないみたいだし、自分とこで作っても小量だろうし、それなら旅商人から買ったもんだろうからな。
パンはいよいよ硬く、チーズも保存性の高い硬く締まったものだ。
イヴは硬い硬いと笑いながら元気な顎のパワーを見せつけるが、俺はそこまで顎が強くねえんだよ。
年齢のせいではない、と思いたいが、もとより日本人ってのは、柔らかいものの方が上等って言う文化があるからな。俺もご多分に漏れず、パンでも肉でも柔らかい方を選んできた。煎餅やビスケットのような水気のない菓子より、羊羹だのゼリーだのの方が好きだったしな。
結局じゃあどうするかって言うと、こういう時俺はワインに浸してふやかして食うことにしている。
ワインと言っても、日本で普通に買うようなのじゃあない。こっちじゃあそれを水で割って飲むのが普通なんだ。割合的には水割りと言うより、水にワインが入ってる程度のもんだな。
だから度数なんてたかが知れてるし、きちんと消毒された水なんてないから、効き目のほどは知らんが、飲用水は大体こういう形で酒の類で割って飲まれる。
まあ、衛生目的で混ぜ始めたのか、単にアルコール度数が高いから割り始めたのかは俺にはわからんが。
もそもそとうまいでもまずいでもなしって気分でパンを咀嚼しながら、俺は今日の予定についてちょっと提案してみた。
「猟師小屋に行ってみるのはどうだ?」
「フムン?」
「森に入る猟師なんだから、森には詳しいだろ」
「あたし猟師ってよく知らないんだけど、忙しいんじゃないの?」
「暇じゃなかろうが、まあ、初夏のうちならまだ獲物も肥えてないし、銭出しゃ話は聞いてくれるだろ」
知らんけど。
しかしともあれ、他に当てもないしそうするかとまとまりかけたところで、鎧の人がぬっと顔を出した。
「おわっ」
「すまんな。盗み聞きしたわけではないが、話は聞かせてもらった。荒事なら雇ってもらえないだろうか」
「なによあんた」
「私は、あれだ、旅の傭兵のマリエル、えー、あー、うん、いや、マリ、そう、マリだ」
怪しさ満点の牛兜に、ぎこちない自己紹介。割と大雑把なイヴもこれには疑わしげだ。
というか疑わしげで済んでよかったな。色々察してしまって生暖かい目で見てしまった。
イヴは肩をすくめる俺をちらっと見て、まあいいわと頷くなり、ひとりでさっさと宿を飛び出てしまった。そのまあいいわは雇うという意味なのか、もうちょいはっきりさせておけ。
案の定、取り残された自称旅の傭兵マリは、イヴを追うべきか俺と連れ立っていくべきか判断に困って止まってしまった。応用の利かない人だなあんた。
「あんた、旦那様が護衛につけようとしてた騎士のマリエルさんだよな」
「なぜばれたッ!?」
「素直過ぎる!」
せめて誤魔化してくれたら誤魔化されてやろうとも思っていたのだが……
諦めたようにマリエルは兜を脱いだ。
いかつい兜の下から、良く日焼けした乙女が顔を出した。年頃はイヴより上だがそれでも若く、まだ二十歳にはなっていないかもしれない。
撫でたら刈りたての芝生みたいに心地よさそうなブルネットのベリーショートが、兜で蒸されて湿り気を帯びていて、それがまた凛々しい顔立ちと相まって、高校の時の女子バスケ部の主将を思い出させた。
いわゆる王子様系というか、女性にモテそうなタイプだな。