良い作品を作るのに、勉強は必要か?
先日、ある方と、クリエイティブと勉強について、Twitter上で意見交換させていただく機会があり、その時は、あまり考えが言語という形になっていなかったので、もう一度しっかりと言語化し、再吸収したいがためにこれを書きたいと思う。
事の始まりは、Twitter上で、「よいクリエイターは押し並べて博識であり、理論構築のために勉強している」という意見を背景に「分かる、クリエイターは勉強している、学生にも「勉強しないといいクリエイターにはなれない」と進言している」という文章(意訳)を見たことに、僕が反論したことから始まる。
なぜ反論したのか。
まず前提として、「よいクリエイターが、よい作品を作る」があるとしよう。ここを前提にして話を作る。
先のTwitter上で語られていたことを整理すると、
「博識であり理論構築されているクリエイターがよいクリエイター」
「博識であり理論構築されているクリエイターになるには勉強が必要」
と言っている。(少なくとも、僕にはそう読めた)
簡易化すると
よいクリエイター=博識で理論構築されている=勉強している
となる。
僕はこの図式に疑問を感じたのだ。
まず、博識であることと、理論構築されていること、この二つとはなにか?
博識であること=知識量がある=インプットが多い。となる。
理論構築されていること=作品(作品制作)を言葉で説明できること=思考している。となる。
まず、博識から話したい。
◇◇◇
博識であることが必要か?
そもそも、博識とは何か? より多くの知識を持っているということだろう。多くを見て、多くを読み、多くをきき、多くを知っていること、これを博識とする。
ではなぜ、博識が良いクリエイター条件なのだろうか?
それは引き出しの数、とでもいうのだろうか、多くを知っていれば、それだけ多くのアイディアが生まれ、より良い作品ができる。きっとこの理論が、博識をよいクリエイターの条件にしているのだと思う。
博識であれ、は、「小説家になるなら、本を千冊読みなさい」とか、「より多くインプットした人間が最後には勝つ」など、結構信仰されている。僕はこれを絶対的に嘘だと思っている。
僕はこの博識であれを、インプット信仰だとし、良い作品を作る妨げにすらなっていると考えている。
まず、知識量が多ければ、良い作品が作れるなら、時間的制限により年長者絶対有利であり、年長者のみが良いクリエイターということになる。つまり、若いクリエイターは時間的制約によりいい作品は作れないということになる。
そんなはずはない、若くても素晴らしいクリエイターはたくさんいるし、若いクリエイターが作った多くの作品が、歴史的に認められている。
博識であることが絶対条件なら、誰でも多くの本を読み、テレビを見て延々過ごせば、いつか名作を生み出せることになる。
そんなことは絶対ないので、博識はよい作品を作ることの絶対条件とはなりえない。
博識は必要ないと考える。
次に理論構築はよい作品に必要か?
これは、すごく個人的意見なので、あまりうまく言語化できるか、納得してもらえるか自信がない。
そもそも、良い作品には2パターンの傾向があると僕は考えている。
それはあるがままに美しい作品と、コンセプチュアルである作品だ。
あるがままで美しい作品、それは見て、きいて、読んで情動が揺さぶられる作品。あるがままの美とでもいえばいいのかな? そんな作品。
情動とは感情の前段階で、身体反応だと定義するなら、体で感じる身体的作品と言えるだろう。
コンセプチュアルな作品、意味を言語化することによって完成する作品。
意味を言語で吹き込むことにより完成する作品は、つまり思考し完成する作品なので、理性的作品と言えるだろう。
この二つの作品のうちコンセプチュアルな作品について理論構築は必要だと考える。
作品を言語化することは、他者の思考的納得が必要になり、相手を思考的に納得させるには理論的言語が必要になる。それは当たり前のことなので、これは必要だ。
理論構築は、必要である。
◇◇◇
さてここで、理論構築が必要となるなら、勉強が必要ということになる。
どのような勉強が必要なのだろうか?
僕は全然有名でもないし、全然儲かっていないがモノを作って生きているので、僕の方法から考えてみたい。
僕はとりあえず、売れる物こそ至高だと考えて作品を作っている。僕らがやっている出版というアートは、多く複製され、多くの人の目に触れて初めて完成するアートだと思うので、数が出る、売れる、これが一番良い形だと考えている。
そのため、売れる作品とは何か?を思考し、売れている作品を観察し、解体し、その中にある部品が何かを理解し、自分が現したいテーマに沿って再構築することが作品を作ることだと考えて、作品制作をしている。
これが僕の作品制作の理論だ。
だから、その作品のどの言葉でも、セリフでも、シーンでも、なぜこれを、ここで、今、書いたかは言語化できる。すべて売れるために作っているから、売れるにはどうしたらよいか考えた結果だから、言語化が終わった先の言葉でありシーンなので言語化できることは当たり前なのだ。
僕の理論構築とは、観察し、解体し、理解し、再構築し、その統べてを売れるために言語化すること。これだ。
これは、すべて、僕の頭の中で行われている。その都度何かをインプットすることはないし、誰かの意見を聞くこともない。まったくの知識的閉鎖空間で繰り広げられている思考遊戯だ。
この思考遊戯は、勉強なのだろうか? 僕はそうは思わない。
観察すること、解体すること、理解すること、再構築すること、そしてそれを思考することは、特殊な技能は必要ないからだ。
カントは「観念なき直感は盲目である」と言った、僕はそうは思わないが、この言葉が真実なら、悟性は先天的ものなのだから、それが何であるかを理解し、解体することは誰にでもできるはずだ。知っている物になるまで切り刻んでいくだけなのだから。
ではなぜ、観念がない直感が生まれるのか?
悟性が先天的ものなら、観念を生み出すのは直感であろう。
直感=見る、ならば、見ることにこそ意味があり、見る目こそが観念だろう。
僕は「観念なき直感は盲目である」は間違っていて「直感なき観念は盲目である」が正しいのではないのかと思う。
観念なき存在はあり得ないとして、観念が直感なくして存在できないのなら、存在は直感なく存在できないとなる。
つまり、
見ることにより物(作品)は物(作品)として存在する。
物(作品)は見られないと存在しない。
存在する(認識している)なら、それは悟性が感知しているので、思考できる(知っているものにまで切り刻める)。
となる。
これが僕の理論構築に特殊な技能を必要としない理論の、構築結果である。
僕はよい作品を作るのに、勉強は必要ないと考えている。
知識量ではなく、より多く見て、思考し、発露すること、体験量こそがより良い作品を作る方法だと思う。
僕が何かを作ることを学ぶなら、発露の仕方を教えてほしいと思う。
体験や思考は自分でできる。だから、頭の中にある形をより良い形で現実世界に受肉させる方法を教えてほしい。
発露するのは思考や体験とは違い、テクニックだからだ。
作品にするには、必要なテクニックがそのジャンルごとに必ずある。
それを「勉強しろ」と言われたとしよう、自ら学ぶなら、教育の意味がどこにあるのかと、僕が学徒なら思うだろう。
だから僕は勉強しろという人が嫌いだし、頓珍漢な勉強を強要する人も嫌いだ。
本当に必要なのは、
しっかり見ること(直感なき観念は盲目だから)。
体で感じること(情動的感覚は身体的反応で知識の外にあるから)。
発露すること(作品は発露することにより完成するから)。
だと考えている。
◇◇◇
最後に
僕は多くの作品を見る。視聴者として、読者として。それが勉強だなんて思ったことは一度もない。
ただ、脳の底にへばりつくように重なったコンテンツたちは、夢の途中、無意識から意識に浮上する記憶たちのように、僕の作品に影響を与えていることは否定しない。
でも、それは僕が今までしっかりコンテンツを見て、感じてきたからだと思う。
付け焼刃の知識でそれを代替することはできないと思う。
僕は好きなものをとことん見て感じ、それをテクニカルにアウトプットすればよい作品になると考えている。
アートを学ぶ学生なら、アートが好きなはずだから、それをよく見て感じ、思考すればいい。そうすれば素晴らしいアーティストになれるだろう。
博識であること、理論構築できていることが素晴らしい作品を作る条件ではなく、しっかり見て、しっかり感じていれば、そこそこ知識量も増え理論が出来上がってくるのではないだろうか?
勉強は必要ないのだ。
必要なのは
it Think Fiil
(考えろ、感じろ)
なのだと思う。
あと運。