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短編

野菜炒めの奇跡

作者: 三千


野菜炒めの奇跡



私がその日、いつものように勤務先から帰宅すると、それを見計らったように仕事場から電話が掛かってきた。


『加藤さん、大変よっ。あなた、なんてことしてくれたのよっ‼︎』


お局さんからの電話ということで、それだけでもぎゃああって感じなのに、電話に出るなりの叱責に、私は真っ青になってしまった。


『お客様から電話があって、荷物が届かないって‼︎ 一体、どういうことなのっ』


携帯を1メートル離しても、はっきりと聞こえる怒鳴り声が、私をさらに震え上がらせる。


「どういう、って、明日の発送だったかと、」

『明日が結婚式の当日なんだから、明日な訳ないでしょっ』


うそ、明日2月23日着で良いって、奥さまが。って、まだ奥さまではないのだけれど。


そう言おうと思ったのだが、ちょっとすぐに来てちょうだいっと言われて、私はソファに投げ出したカバンを引っ掴んで、玄関へと向かった。


「ママ、」


振り返ると、小学6年生の娘のリサが、不安そうにオレンジのスカートを握りしめて立っている。


私が高校の同級生だった男と結婚して、ようやくもうけた赤ちゃんが、リサだった。

計画通りになかなか授からない赤ちゃんを待ち続ける間に生まれた、夫婦間の違和感とそれによる諍い。


その時はまだ小さかったはずの、夫との間にある瘤のようなものが、次第に膿んでは大きくなっていって弾けて爆発した時、私はリサを一人で育てると心に決めた。


離婚して去っていった夫。パパはどこに行ったのと部屋中を探し回るリサを、よく抱っこしては頭を撫でて落ち着かせてきた。

そんなリサも成長して、四月からは中学生だ。仕事で遅くなる私をよく助けてくれている。


私は冷静を装って言った。


「リサ、ママね、仕事で失敗しちゃったみたいだから、ちょっとまた事務所に行ってくるね」


一人娘に、自分が仕事でミスをしたなどと言いたくなかったけれど、お局さんのスピーカーを通したような大声で、事の顛末はわかっているだろう。


「ママ、大丈夫なの?」


不安そうに訊いてくる。リサの顔が、私の不安げな顔を鏡に映したように見えて、胸が痛んだ。


「大丈夫だよ、きっとなんとかしてくるから」


私は慌てて玄関でパンプスを履いた。

薄暗がりだった玄関に、パッと電灯がその光を灯す。


「ありがと」


カバンを引っ掴んで、私は言った。


「リサ、悪いけど、」


勘のいいリサが声を上げる。


「うん、わかってる。なんか食べておく」


仕事から疲れて帰る私が時々、夕食をサボって利用するレトルトやインスタントなどが、キッチンの戸棚に所狭しと並んでいる。買い置きは常だ。

リサはお腹が空いた時、自分で探り出して食べてくれるから、最近は少しは安心できていた。


「ごめん、行ってくる」


車の鍵を出し、リモコンを押すと、キュキュっと音が鳴った。その音が、いつもより情けない音に聞こえて、私は少し泣きそうになった。


✳︎✳︎✳︎


「加藤さんっっ‼︎ どういうことなの、これはっ‼︎」


事務所に飛び込むと、大谷おおやさんが普段よりは抑えてはいるが、それでも十分大きな声で、その怒りを浴びせてきた。

奥では、社長が神妙な面持ちで、電話の受話器を握っている。時々、頭を下げるように頷いているのを見て、私は大変なことをしでかしたということの現実味を感じた。


「本当にすみません、明日の日付の発送で、オッケーをもらっていたので、」


言い訳ではないが、そうお客様が言っていたのに間違いはないはず。

けれど、大谷さんは責めるようにして騒ぎ立てた。


「何を言っているのっ‼︎ 斉藤さんは、そんなことは言っていないと言っているわよっ」

「え、」

「明日が結婚式なんだから、そんなこと言うはずないって。引き出物に使うのに、当日なわけないでしょって‼︎」

「……そんな、」


私は、陶磁器を扱うネットショップを経営している、この「シミズ商会」で、受注発注の事務の仕事をしている。陶磁器は、普段使いにはあまり需要がないけれど、贈答用としてはまだ根強い人気があり、地域の小規模企業の中でもまずまずの業績を出していた。


シングルマザーとしては、この安定した会社に勤められるのはありがたかったし、お局さんの大谷さん以外は社長を始め皆、気さくな人ばかりだったので、私はなるべく定年まで、この会社で勤め上げたいと常々思っていたのだった。

それが。


私は、受注書類をファイリングしてある分厚いファイルを棚から取り出した。

サ行の欄を、手早くめくる。

斉藤様の書類を見ると、確かにそこには覚えていた日付が記されていた。


『2/23 前日着』


さああっと、血の気が引いていった。『前日』をなぜか見落としていた。日付を見ての発送と思い込んでしまったのだ。


「うそっ」


私は急いで、事務所の隣にある大きな倉庫へと向かった。


ネットショップの受注発注の事務と言っても、倉庫を走り回って商品を探し出し、ギフト用に包装して配送会社へと手配するまでが仕事の、いわゆる雑務係でもある。倉庫のどこに目当ての商品が置かれているのかは、頭に入っていた。


一直線に向かう。


包装と梱包はすでに終えているので、発送伝票を貼れば、直ぐにも配送会社へと引き渡せる。けれど、今から送ったとしても、明日には着かないのは明白だ。


「どうしよう、」


自分のミスだ。やってはいけないミスをしてしまった。

大谷さんが怒鳴って電話を掛けてきたのもわかる、それほどの重大なミスだ。


今となってはなぜ、こんな勘違いをしたのかもわからない。頭は混乱して、心もさらに混乱した。


「どうしよう、どうしよう、」


発送伝票を見る。何度見ても事態は変わらない。動揺で目が泳いでいるのだろうか、焦点が定まらないほどだ。

私は気が遠くなりそうな頭を何とか抱えて、ふらふらとした足取りで事務所に戻ろうとした。


(社長と電話を代わって、まずは謝らないと……)


足に力を込める。自分のミスは自分の責任だ。

その時。発送伝票を握りしめていた手を、はた、と止めた。もう一度、見る。


(……そうだ、住所、)


定まらぬ視線で、住所を探す。


「あ、行ける」


口から出た。住所は、県を一つ挟んだ隣の隣、だ。


「高速で行けば、二時間で着く」


私はまだ正気でない覚束ない足取りで事務所へと走った。中へ入ると、大谷さんが睨みをきかせた視線を寄越してくる。何かを言いかけるように口を開けるのを遮って、私は言った。


「今から、私が持っていきます‼︎」


今の時間から出れば、夕食後くらいには着く時間だ。明日の結婚式には、十分間に合うし、引き出物としての個々の梱包はもう終わっているのだから、明日の準備としてはそんなには迷惑は掛からないはず。

私は、社長と電話を代わり、丁寧に頭を下げた。


「夜の八時頃には伺えると思います。ご迷惑をお掛けしますが、どうぞよろしくお願い致します」


電話を切ると、社長が心配顔を寄越してくる。


「加藤さん、今からって……リサちゃんは大丈夫なの?」

「はい、大丈夫です。何か食べるように言ってありますから」


商品を倉庫から運んで、車に乗せる。結婚式の引き出物とはいえ、身内や友達が集まるアットホームなパーティーも兼ねているので、参加人数も思ったより少ないらしい。注文数も大量ではないので、車の後部座席を倒して乗せると、ぴったりはまった。


中身は、ペアのマグカップ。新郎新婦が数あるネットショップの中から、うちのホームページを探し出し、そして数万点の商品から選んだものだ。


壊れ物用に頑丈に梱包はしてあるが、車の運転の衝撃で割れたら最後だ。私が段ボールを押して隙間を埋めるように押していると、社長が事務所に置いてあった毛布を持ってきて、隙間にぐいぐいと入れてくれた。


「ありがとうございます。では、行ってきます」

「気をつけて」


社長が声を掛けてくれたのかと思ったけれど、それは紛れもなくお局大谷さんの声だった。

私は頷くと、エンジンをかけて右足を踏み込んだ。


✳︎✳︎✳︎


悲しみというより、疲れ、と言った方が良かったのかもしれない。


眠りそうになる自分の頬をバシバシと平手打ちしながら、高速を二時間、運転して、そして下道を三十分かけて進んでようやく着いた新郎新婦のマンション。


もちろん、こちらのミスだから私が悪いのだけれど、二時間半かけて運んできた商品を二人の部屋へと運び込む。


「もう二度と、あんたの店には頼まないからっ」


新婦にはそう言われ、新郎には「俺らの結婚式をぶち壊す気かっ。どうするつもりだったんだっ」と罵られた。

平身低頭、心から謝ったのだけれど、そんな謝罪もはねつけられた。


「本当に申し訳ありませんでした」


言葉を繰り返すけれど、玄関の前で頭を下げている間に、勢いよくドアを閉められた。


ここまで運んできたんだから、そんなに怒らなくてもいいのに、という悔しい思いが湧いてきて、自分を黒く染めあげていく。

それではダメなんだとわかっていても、相手を責める気持ちが溢れてきて。


涙が。目尻に滲んでいく。

運転席に戻ると、私は大きな溜め息を吐いた。


(何も、あんな言い方しなくていいのに……)


今から二時間半をかけて帰ると、11時を回ってしまう。身体は泥人形のように重く、心も鉛でも飲み込んだように底が破けそうだった。


運転席に深く身体を沈める。


自分のミスなのだから、あの二人は悪くないのだ。自分が悪い。自分が悪いのだ。

そう言い聞かせると、余計に自分が哀れに思えて、負の感情に襲われた。


我慢はしてみたけれど、やっぱり涙は溢れた。

悔しさは通り越して、情けなさに変わっていた。

一人前に仕事もできないのか、という情けなさ。


それでも、帰らなければならない。家ではリサが待っている。


ハンドルを握りながら。車を運転しながら。

私は泣きながら、暗がりの道を家へと向かった。


✳︎✳︎✳︎


「はい……はい、無事にお届けには上がりましたが、相手様を怒らせてしまいました」


車を自宅の車庫へと入れてから、社長の携帯に連絡を入れる。

よく頑張ったねと言ってはくれたものの、やはり厳しい言葉を掛けられる。


「人間だからねえ。誰でもミスはあるけれど……同じようなミスはもう勘弁して欲しいな」


耳の痛い言葉だった。声のトーンはいつもの社長の声より優しげだが、それはそう思いたい自分の願望がさせているのだと思う。


私は弱い。

弱い、弱い、弱い。


今日は何度もそう思わされて、そしてこれでもかというほどにその言葉に打ちのめされた。


運転席で、しばし呆然とする。デジタルの時計に目をやると、すでに11時を回っていた。


「……もう、疲れた」


言葉。涙。両方がころんと落ちていく。

疲れも弱さも出てきて、ハンドルに突っ伏して少しの間、目を瞑った。


✳︎✳︎✳︎


泥のように重い身体を引きずりながら家の門の前へ立つと、二階にあるリサの部屋の灯りが見えた。


いつもは10時に寝るように促しているので、11時過ぎのこの時間は完全にアウト。けれど、今日はそれどころではない。


(リサにも心配かけちゃったな)


情けなさが追い打ちをかけてくる。


門をガチャンと開閉すると、リサの部屋の電気がパッと消えた。

それを見て、吹きそうになったけれど、私は玄関のカギを開けて中へと入った。


廊下の下から、「リサ、ただいまー」

声をかけると、「寝てたけど起きたー、おかえりー」との声がする。


子どもの可愛らしさの言い訳が、硬化していた気持ちを幾分和らげる。


リサの動く気配がないので、遅くまで起きていたことを怒られたくないのだろうと思い、おやすみーと言って、私はそのままリビングへと入った。


ソファへどかっと座る。カバンをその辺へと放り投げる。


「はあああ、疲れた」


このままソファに座っていれば、お尻に根っこが生えちゃうかな、と思い立ち上がる。


すると、そこに。ダイニングテーブルの上。

ラップを不器用にかけた皿が置いてある。

私は皿を手にして、ラップを丁寧に剥がした。


「……野菜炒め」


料理など、やっていないはずのリサが、どうやって作ったのだろう。


不思議な感覚に襲われた。心配はかけただろうけど、こんな風にご飯を作ってくれているなんて。思いつきもしないはずだし、そんなことこれっぽっちの期待もなかった。


(どうやって作ったんだろう……)


疑問は残ったけれど、私は慌ててラップをかけ直し、レンジでチンして食卓へと置いた。

ラップを再度剥がす。


湯気とともに、ふわっと油の香りが漂ってきて、鼻孔をくすぐる。箸で掬うと、色々な野菜の色彩が目に飛び込んできた。


人参、キャベツ、ピーマン、もやし。


そしてそれは、いちょう切りであったり、乱切りであったりの大きさも形も不揃いで、まるで乱雑な性格が玉に傷の、リサのお道具箱の中身のようだった。


口の中へと入れて、咀嚼する。


シャキシャキと噛むたびにモヤシが水分を放出していく。ごくっと飲み込んだ。

その一口で。

私はとても喉が渇いていて、そして空腹だったことを知った。


「美味しい」


キャベツの甘みが口に残る。人参は少し硬くて、そしてピーマンは半分にしたものを縦に細長くではなく、横に太く切ってある。


涙がじわっと出てきて、私は慌てて二口目を口へと運んだ。


空腹に、身体の細胞それぞれに、その塩分が染み入っていくようだ。

野菜炒めは、こんなにも美味しかったのか。


私は、食べた。

いつも食べながら見ているテレビも不要だし、仕事だからといって料理の傍に置いているスマホも必要ない。

食べ続けた。

一心不乱に。


(リサ、ありがと)


娘にも心配をかけた。

けれどもう、情けなさはやってはこない。


娘に助けられた私が、今度はあなたの助けになれたなら。私は頑張れる。私は頑張れるのだ。


残り少なくなった野菜炒めの最後の一口を口に入れる。

極上の野菜炒めを味わい、私は笑った。


✳︎✳︎✳︎


「それが、お肉だけ探し出せなくて」

「そういえば、入っていなかったなあ」


次の朝、野菜炒めのお礼を言うと、リサが照れ臭そうに笑いながら言った。


「でも、すごく美味しかったよ。ママ、お腹が空いていたから、一気に食べちゃった」

「ほんと? 作って良かったあ」

「味付けも最高だったし、人参は分厚かったけど、綺麗に切れてたし。すごいね、リサ。いつの間に、あんなにも上手に料理ができるようになったのかなあ、って」

「あんなの簡単だよ。学校の調理実習で作ったんだ」

「そうだったんだ」

「ちょっと前にエプロン持ってったでしょ」

「そうだったそうだった」


私は苦笑しながら、牛乳をコップに注いだ。


「……でもね。人参とかピーマン、切らなかったから」


ん、と顔を上げると、カリカリに焼いた食パンを口に入れながら、リサは続けた。


「私、もやしのヒゲを取る役だったから」


(ああ、それで、野菜の切り方が不格好だったんだ……)


「時間、かかったでしょ」

「うん、ママはいつもこんなに大変なんだ、って思った」


渡した牛乳を口に流し込み、また食パンをサクサクと食べていく。


「ありがとうね、リサ。ママ嬉しかった」

「また今度、遅くなる時があったら、作っておくね」

「ありがと」


そして、私も席に座って食パンを掴むと、盛大にかぶりついた。


✳︎✳︎✳︎


「おはようございます、昨日は本当に申し訳ありませんでした」


職場に着くなり、私は社長と大谷さんに頭を下げた。もう二度と、同じミスはしないと心で強く思いながら。


「これからは気をつけてよっ。もう一時はどうなることかと……慰謝料とか請求してきたらどうしようかと思ったわよ」


ぶつぶつと言いながら、書類をシュレッダーにかける。


「大谷さんにもご迷惑をお掛けしてすみません」


するっと謝罪の言葉が口から出た。


いつも心の中では文句ばかり言っている大谷さんに、面と向かってきちんと謝ることができたのは、自分でも意外。


昨日の自分は、本当に酷かった。


自分のミスにもかかわらず大谷さんを始め、お客さんのことだって、そんな言い方しなくてもいいのにと、相手の態度を責めて逃げていた。


(あーあ昨日は本当に……)


けれど。


私は昨日の、リサの手作りの野菜炒めを思い出していた。あの不格好で分厚い人参‼︎ でも、もやしはちゃんとヒゲが取ってあったなあ。

すると、リサがブツクサ言いながら、もやしのヒゲと格闘している姿が想像できて、自然に笑みがこぼれた。


リサ‼︎

リサがいてくれるから、私は頑張れる。

これからは私だって、リサのために美味しいものを作るし、仕事も頑張るよ‼︎


私は大谷さんに笑った顔を見られないようにと、大声で「倉庫に荷出しに行ってきます」と叫んで、事務所を飛び出した。







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[良い点] 投稿された頃に読んだんですが、感想を書くのを忘れていたようなので、書きますね。 仕事のミスが、すごくリアルで、三千さんの体験談かな、とさえ思いました。読んでいて、自分もその場にいるような緊…
[一言] 拝読しました~♪ 加藤さんの仕事のミスから始まる冒頭に、胸がキュッとしました。 説明の部分が説明臭くなく、サラリと頭に入って来ました。分かりやすかったです。 仕事のお話と、娘のリサちゃんの…
[良い点] 三千様 加藤さんが事故を起こさないかハラハラしながら読んでいました。無事リサちゃんの元に帰ってこれて良かったです。 社長も大谷さんも実は優しい。 リサちゃんの野菜炒めの味は疲れた体に染み…
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