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満月の恋

作者: ふくろう

 夏はよく満月と外を駆け回っていた。

 住宅街だったが少しは木の生えた山も残っていて、走り回って遊ぶ場所には困らなかった。

 日向と満月は大人の事情で一緒に暮らすようになった友達だったが、幸い、二人は気が合い、まだ男女の垣根もなく、転がる様に遊び回わった。

 それはおやつの時間だった。

 家に帰ろうと、日向は満月を振り返った。

 満月はじっと空を見上げていた。

 何を見ているのか思った日向は、満月の目線を追った。

 昼間の空に月が昇っていた。白い月だ。青空が透けそうな薄く白い月が満月の目線の先に浮かんでいた。

 満月は丸い円の下を削られて太陽が昇っても沈むまなかった月を何の感情も乗っていない顔で見上げていた。

 日向は声が出なかった。

 満月が全てを遮断していたからだ。

 中途半端に伸ばした手が行き場を無くしてぱたんと落ちる。

 二人でいるのに一人だけの孤独感。

 口から入る酸素が足りなくて、日向は喉にへばりついた言葉を溶かすように口内に唾液を貯めた。溶けた言葉は何だったろう。ゴクリと飲み込んでしまった日向は口を開いても言葉が無かった。

「二人とも!おやつ出来てるわよー!早く来なさーい!」

 胃の中に落ちた言葉を日向が救い上げ舌に乗せるより先に、二人に言葉が降ってきた。

 言葉の元を見上げれば、洗濯物を抱えた日向の母親が月の下、家の二階から此方を見て笑っていた。

「今行く!」

 日向は条件反射で返事をした。知らず大きな声が出た。

 満月を振り返える。

 壁はもうなかった。ただ、満月は日向の母を見上げていた。

 どんな感情か幼い日向には分らなかった。

 目が太陽の光を反射した以上にきらきらして一等綺麗だった。子供らしく丸みを帯びた頬が赤く染まっていたのがやけに目に焼き付いた。血の通った赤い唇が薄く開いて、満月の心がここにない事を知らせていた。


 この時、満月は日向の母に恋したのだと後に知った。


 うるさい目覚ましで起きる朝はそれに相応しく一日騒がしい。

 一人暮らしの日向は毎朝、料理の出来ない哀れな同じく一人暮らしの隣人の為に朝食を作りに行く。隣人は同じアパートの隣の部屋なので、ドアTOドア一分も掛からない。一旦外に出てまた入るのが面倒ではあるが。

 日向が来た時点で隣人の満月は寝ている。いつもの事ではあるが、毎度イラッとするので、角部屋であるのをいい事に、日向は朝から騒がしい音楽を流しながら朝食を作る。しかしそれでも家主は寝続ける。朝食が出来上がる頃には、流れる音楽に日向の怒鳴り声が加わり、ぎりぎりになってようやく起きた満月が、朝食と学校に行く準備で二人しかいないにもかかわらず騒がしくする。

 家を出た外では、無駄に顔の良い男に育ってしまった満月のせいで、女の声が騒がしい。もとい煩い。

「おはよー!満月ー!それと日向おはよう」

「おはよ!満月!と日向」

「おはよぅ、満月!日向もおはよっ!」

 満月を見つけて同じ学校の同級生、下級生、上級生の女子生徒達が二人に挨拶し合流する。満月はそれら一つ一つに、にこやかに対応しながら、日向は彼女らの顔も見ずに言葉だけ、挨拶を返した。

 彼女達に対して、日向は基本、不愛想だ。彼女らにしても、目的は満月で、日向は次いでなのだから、お互い様、が、日向の言い分である。

 掛けられる声と共に増える女達の壁で日向は前が見えなくなる。と同時に、より満月に近づこうと押し合う彼女等の所為で動く事すらままならなくなった。こうなると困るのが熱だ。人は暑い。朝だというのに、夏もようやく終わり秋の気配が見えてきたというのに、人垣の中央にいる日向と満月は暑くて汗が流れてたまらない。

 日向の我慢は、毎朝五分と持たず爆発する。

「散れ!動けないでしょ!?遅刻する!これ以上騒ぐなら、満月置いていくから、私だけでも出して!そして好きなだけ遅刻しろ!」

 煩い女子生徒らの声を上回るでかい声が固まりの真ん中から上がった。

 煩かった彼女達が静かになった。

 彼女等の顔に嫌悪が浮いている者もいないではなかった。しかし、大半は、

「ごっめーん、日向ちっさいもんね。苦しかったね?」

「やだ、本当に遅刻しちゃうわ!急がなきゃ!」

「日向ー。置いてかないでよ。一緒に走ろう?」

 最後の満月を含めて、幼い子供の我が儘を聞く大人の様な対応をされる。

 だが、日向はそれに対しては文句を言わない。

 日向達を囲む集団が動き始めるから。目の前が開けて、新鮮な空気が入ったから。

 騒がしさを我慢するだけの余裕が出来た日向は、満月に纏わり付く彼女等に囲まれて、また不愛想な顔で学校へ向かう。しばらくの間は。

 学校に着くまでに同じことを何回も繰り返して、日向と満月は、朝は早めに家を出るのに、毎日遅刻ぎりぎりに学校へ駆け込むのだった。

 その後も休み時間昼休み何なら授業中であっても同じクラスの満月と共にある限り日向の体力はガリゴリと削られていく。否応無しに。

「じゃあねー!」

「日向、ばいばーい」

「満月くーん、早く行こ?」

「うん。日向、先行くねー」

 ようやく迎えた放課後。満月は一人で帰る。もとい、日向と帰らず、満月を囲む女子達とデートをしてから一人で帰ってくる。満月のポリシーだかなんだかで、一人だけとは遊んでこない。常にみんなで、遊んで帰ってくる。

「またなー」

 日向はそれを手を振って見送る。当然だ。日向は満月の彼女ではない。朝から一緒なのは、一人暮らし同士の幼なじみ兼お隣さん故に朝御飯を共に食べて一緒に出るからだ。恋人だからじゃない。

 日向は見送る。放課後集団デートまでは付き合わない。そうして手に入れた静かな放課後を日向は一人堪能する。

「そこで男遊びに行かないから、満月の彼女だと誤解されて悪口言われるんじゃないの?」

 満月目当てではない女の友人に突っ込まれる。

「男共と遊びに行っても、悪口は言われるぞ?ソースは小学生の自分。どっちにしろ悪口陰口は止まない。なら静かな所で今の内に体力回復したい。この後帰ってご飯作らなきゃいけないんだ。それにこの時間、サッカーだの野球だの駆け回れる体力は私には残ってない。昔ならいざ知らず。私も年をとったもんだねぇ」

 日向は悠々、自分の机に突っ伏した。

「男遊びってそういう意味じゃないけど、置いといて、あんたまだ十七なのに年寄りみたいな事言わないの!じゃあ、女遊びは?帰りに買い物付き合ってよ!」

 日向は顔を上げた。

 毎日日直が書いてくれる黒板の今日の日付と曜日を見ている。

「スーパーの特売の買い物に付き合ってくれるなら」

 言い終えた途端、日向はその場にいた三人の女友達にノートで頭を叩かれた。

「お母さんか!」

「スーパーの袋持って雑貨屋行く気?」

「何〜?特売?お一人様いくつ限定〜?」

 三人連続だったが、少女達の力の入ってない突っ込みは全く痛くない。

 平然と日向は話を続けた。

「卵がさぁ、おひとり様一パック限り89円なんだよ。月一だから、卵の期限考えても三パックは欲しい」

 言いつつ、スマホを机の上に置き電源をつけた。今日行く予定のスーパーの今週のチラシが表示される。

 日向はスマホを操作して、今日の所を拡大した。

「あれ?今日トイレットペーパーも安いよ?」

「そっちはまだある。腐らないから買いだめしすぎちゃって」

「あーあるある。お母さんネタで」

「あんたホント、花の十七歳なのに」

 友人達のため息に日向は苦笑いを返すしかない。

「しゃーないなぁ!でも、スーパーの方が時間的に余裕あるから、雑貨屋が先よ!」

「わかった」

 荷物を持って立ち上がった少女達は、年頃に相応しく賑やかに教室を後にした。

 買い物をこなした後は、家に帰って、また、満月と二人だけなのに賑やかな夕食が待っている。

 うるさい目覚まし時計に起こされた朝はそれに相応しく賑やかに一日が終わった。


 毎日スーパーに通っていると季節の行事に詳しくなる。

 店内放送で今日が十五夜だと知った日向は、集団デート中の満月にラインを送った。

 日向が帰ってしばらく。満月が帰って来る頃には、丁度よく、外は真っ暗とは言わないが夜になっていた。

 満月は基本、女の子達を日が沈む前に帰す。それを見送ってから帰るので、本人は日が沈む頃に帰ってくる。

 夏だったらもっと遅くならないと帰ってこない。そうすると日向は満月の帰りを待って出かけるなど億劫になり、絶対必要な用事でなければ止めてしまうが、幸い、夏は過ぎ、日も沈むのが早くなっているので、それほど遅い時間にはならなかった。補導はされるかもしれないが。取り合えず、計画の中止は免れた。

 日向と満月は連れだって、近くの山の頂上にある公園へ向かった。

 途中、コンビニに寄って、早々に出始めたおでんを買う。

 昼間はまだ夏の名残が強く、暑くてたまらないが、あまり都会ではない日向達の住む町は、日が落ちれば、アスファルトの放射熱など話にならないくらい冷える。

 二人はお茶も買った。もちろん暖かい奴だ。

 サクサクと枯れ葉を踏みしめながら登る山は、地形を利用したアスレチック遊具が豊富だ。昔から二人出よく遊びに登った。だからか、遊具を見るとそわっと体が疼く。流石に鬱蒼とした木々が月の明かりさえも遮り、スマホの電灯で足下を照らさないと歩けない今は遊んだりしなかったが。

 満月を先頭に遊具の脇の小道を賑やかに登った。決して反対側の川の音が怖くて空騒ぎしたとかではない。

 頂上の公園には街灯が点いていた。公園全てを照らす程ではなく、点在する遊具やベンチ、危険な場所を照らすだけの物だ。

 公園全体を照らすのは空に浮かぶ満月の青い天然光だ。優しい月の光に比べ強い街灯がなければ、満月の灯りは人口の光に負かされる事なく、もっと明るかっただろう。だが、街灯があるため、月の明るさの割に街灯の傍は逆に暗かった。

 二人はスマホを仕舞ってベンチに腰掛けた。

 見上げれば、

「「おお〜!!!」」

 予測通り、山の頂上は遮る建物がなく、公園だから邪魔な木もない。ぽっかり口を開いた夜空に大きくて丸い中秋の名月が浮かんでいた。

 そう、二人の目的はお月見だったのだ。

「いやいや風流!風流だよね!」

 満月がはしゃいで、

「見応えあるな〜」

 日向はあんぐりと口を開けていた。

 しばし、十五夜のお月様を堪能した二人は、そこはそれ男女の違いはあれども揃って花の十七歳。育ち盛り。二人の腹が仲良くぐ〜っと音を立てた。

 二人は、上に向けていた顔を下に向け、少し冷えたおでんを取り出し食べ始めた。

「あ〜うまい!」

「出汁入れてもらって良かった〜」

「締めのうどん忘れるとこだったね!」

「ヤバかった」

 花より団子。二人は物の数分で全てを胃袋に流し込んだ。そして気づいた。

「団子買ってない」

 日向は愕然とした。だが、満月は逆に得意顔で笑う。

「抜かりはないよ!日向!」

 満月は日向が見向きもしなかったコンビニのデザートコーナーからみたらし団子を持ってきていた。

「えらい!満月偉い!」

 日向は立ち上がり、満月の頭を犬を誉めるように両手でグシャグシャにした。

「もう〜!セットが崩れるでしょ!やめて!」

 言って手を挙げるが、嫌そうな声ではない。しばらくじゃれていた二人だったが、

「あれ?何だろう?」

 日向に膝に乗られ、下から日向を見上げた満月が、日向から目線を逸らして空を指さした。

 日向も満月の膝から降りて、空を振り仰ぐ。

 そこにあるのは紺碧の夜空とたった一つの光源である満月だけ。否、満月の中にゆらゆら揺れるゴマ粒のような黒い点があった。

 日向は鳥だと思った。

 それはだんだん大きくなった。

 月を背負っているせいで逆光となり、いつまでも黒い点のままだったが、やがて形も分かるようになる。

「人……?」

 日向が呟き、後ろに座っていた満月が立ち上がった。

「芙蓉さん!」

 日向の隣を影が走る。

 日向は、すでに死んだ日向の母の名を叫んだ満月に驚いて反応が遅れた。

「芙蓉、さ、ん?」

 黒い点だった影はあっという間に姿形が分かる程の距離まで近づいていた。

 昔話に出てくる仙女の様に、ふわふわとしたひれを纏った女の人だった。遠目でも分かる豊かな長い黒髪が広がって夜空に溶け込んでいる。近くなってくるに従って、服の色や模様も分かった。そうなれば、表情も分かる。

 彼女は驚いてこちらを見ていた。

 その顔は、死んだ日向の母親のものだった。

 その顔が、父にしか向けられなかった笑顔を浮かべる。

 その顔に、満月の手が伸びる。

 二人はそうなるのが当然のように、満月の上に降りた女を満月が抱き留めた。

 それは少女漫画の見開きの一コマか恋愛ドラマの感動のワンシーンだった。

 脇で一部始終を見た日向は口も手も出せなかった。

 その間にも二人の物語は進む。

「まさか芙蓉さんが降ってくるとは思わなかった」

 日向の死んだ母だと満月は思っていたが、それは本人に否定された。

「芙蓉さん?ではありませんよ。私です。女蛾ですわ。吾が君」

 代わりに、奇妙なことを言い始めた。まるで満月の久しぶりに会った親しい人間の言だが、幼い頃から共にいる日向には心当たりがない。日向の家に来る前の知り合いか、そう思った。けれど。

「女蛾?ここは四千年前でも、中国でもないんだけど」

 満月までおかしなことを言いだした。しかし、驚き目を見開く日向と違い、女蛾には話が通じたらしい。

「覚えておいでなのですね!ええ私です!女蛾です!ずっと月にいたのです!」

 女蛾が満月の腕から地面に降り立つ。

 女蛾を降ろした満月は空いた手で彼女の顔にかかった前髪を後ろに流した。

「信じられないな。ただの夢だと思ってたのに」

 顔を両手で挟み込んで満月は女蛾の顔をじっと見た後、微笑んだ。その笑顔に日向はショックを受ける。満月のその笑顔は、満月が心を許せた人、つまりは日向の母か日向しか見た事のないものだった。それが、日向の知らない人に向けられている。

 それを知ってか知らずか女蛾は満月の笑顔を受け入れ、微笑み返した。

「また連れ合いましょう?」

「あ「ちょーっとまった!」日向」

 『連れ合い』その言葉が指すだろう意味合いに、それまで空気になっていた日向は何故か焦って、満月が返事を返す前に、二人の間に割り込んでいた。

「満月の知り合いっぽいけど、誰?満月、数葉さん達に報告して良い人?」

 じっと、警戒心を露にした日向は自分の死んだ母親と同じ顔を真正面から見た。見れば見る程、母親にしか見えなくて、眉間に皺が寄っていく。しかしそれは不快というよりは、胸の痛みからくるものだった。

「吾が君、どなたですの?」

 女蛾からすれば、感動の再開に水を差されたといった所か。女蛾は日向を睨みつけた。それを日向は引きそうになる体を押さえて瞬き一つで受け流す。

「あー日向。ごめん、叔母さんにはまだ言わないで。説明するから。二人とも座って。ちょっと長くなるから」

 情けない顔をした満月の情けない声が女蛾と日向の間を遮った。

 三人は先ほど満月と日向がおでんを食べたベンチに座った。真ん中に満月。左に女蛾。右に日向だ。

「日向には前少し話したことがあるよね。古代中国っぽい夢の話」

「ああ、輪廻転生か、ただの夢かって、調べたら神話時代の中国の説話だったから、誰かから聞いてそれを夢見てるんだろうって話で落ち着いた奴?」

「そうそれ。それに出てくる俺の奥さんの女蛾、芙蓉さんにそっくりだったって話したろう?」

「まさか」

 輪廻転生の話はいくつか聞いた事はあれど、自分の身近にあるとは思えず、日向は女蛾を見た。

「私ですわ。芙蓉さんという方がどなたかは存じませんが」

 己の胸に手を当て、満月の話を肯定する女蛾はどこか誇らしげだった。

「芙蓉は私の亡くなった母だよ。訳あって、満月も一緒に育った」

 日向の説明に女蛾は首をかしげる。

「乳兄弟、と言うものですか?」

 日向はまた古い言葉が出てきたなと思った。幸い授業でもしたし、古典は嫌いではないので、意味は分かった。

「乳は分けて貰ってないけど、そんな感じかな?」

 同じく理解した満月が頷くと女蛾の日向への敵意は消えた。不審な女から現代の夫に近い重要人物にランクアップされた様だ。

「では、改めて、ご紹介くださいますか?」

「うん。日向、西王母から貰った不老不死の薬を逢蒙に渡すまいと飲んで天に昇ってしまった女蛾だよ」

 女蛾がはっと満月を見た。

「確か逢蒙はおまえの家僕上がりの弟子で、お前を殺した奴だよな」

「そう。女蛾が薬を独り占めして飲んだだなんて嘘を言っていた人だよ」

 女蛾の目に真珠のような涙が浮かぶ。

「説話を読んだ時も思ったが、よくそんなの弟子にし続けたよな」

「昔の俺、ゲイも騙されてたからね。逢蒙の仕返しを恐れて口を閉ざしていた下女が死ぬ前に告白してくれなかったら、一生知らないままだっただろうね」

 ごめんねと満月は女蛾の涙を拭った。

「わ、私は、盗んでなどいません。例え、知らぬ仲から父の命で情もなく嫁いだ身であっても、当時の常識に則り、精神込めて生涯お仕えするつもりでした!なのに、千年前、あなたの生まれ変わりを知り、月の仲間に密かにこの地に降ろして貰って、あなたを捜しながら祖国の事を調べてみれば、私は盗人になっていた」

「えっこれが初めてじゃないの!?」

 日向が思わず突っ込んだ。

「何千年も経ち、隣国とはいえ海を隔てた見知らぬ国で、吾が君は見つからないし、関係のない男達は寄ってくるし、伝わる伝説では悪女になっている。毎日泣いて仕舞いましたわ。やがて、育ててくれた翁達にご迷惑をかけてしまったお詫びにせめて財をと、男達の貢ぎ物を受け取りながらあしらっていたら、時間切れ。天帝の使者の迎えが来て仕舞いました。まだ国母の両親という地位を差し上げられていなかったのに」

「竹取り物語かな?」

 満月が苦く笑った。

「連れ帰られた私は神仙が無許可で地上に降りた罪を課せられ、月にある広寒宮に一人いたのです。おかしいですわよね?私は神仙なったつもりも好きで月にいた訳でもないのに。いつの間にか神仙の一人に数えられて、罪を背負わされて、罰を受けて。広寒宮に戻されたのが温情なのですって」

 女蛾の皺一つ無い綺麗な人形じみた顔が歪んだ。

「だから、逃げ出す機会を狙ってましたの。あんな冷たい宮に何千年も一人なんて、もう、耐えられませんでしたから。身まかりたくとも、神仙に死はないのだそうです。けれど、確かに希望を込めて吾が君の魂のある場所に降りる場所を定めましたが、逃げ出せたこの機会に吾が君の元に降り立てるなんて。

運命ですわ!」

 感極まった女蛾は嬉しげに満月の左腕にすがりついた。

 満月は顔を緩めて女蛾の頭を撫でている。

 二人を見て、日向は考え込んだ。

「満月。満月は女蛾をどうしたい?どうなりたい?また夫婦でやっていくなら、報告は必須だよ?」

 満月は苦いものを飲み込んだ顔で地面に顔を向けた。

「女蛾はこの地上で一人だ。女蛾を知っているのは俺だけ。手を貸してあげたいよ。奥さんだった人だしね。けど、叔母さん達にはまだ会いたくないなぁ」

 女蛾が満月の向こうから顔を出し日向に尋ねる。

「先ほどから出てくる数葉さんとは?吾が君の叔母君ですか?吾が君の今はどのようなものなのでしょう?私がいることで悪い事があるのでしょうか?」

 日向は満月を見た。

 女蛾が満月に話辛い事情があるのを察して日向に聞いたのは分かったが、満月の家の事情を関係者とはいえ、日向が勝手に話す訳には行かない。

「ごめん。俺はまだ話せない」

 満月は日向に手を合わす。日向はため息を吐いた。

「満月は耳塞いでろ。それでもつらかったらあっち行ってろ」

「一人も怖いよ。やだから耳塞いでる」

 子供の様な事を言って耳を塞ぐ満月。しかし、日向はそれをからかったり出来ない。

 出来るのは、しっかり満月の耳が塞がっているのを確認して、女蛾に現状を説明する事だけだ。

 日向は女蛾の方を見れなかった。

「私と満月の関係は幼なじみだ。始まりは、母の親友が幼い満月を連れて来て、母に泣きついた事だ」

 当時を振り返る。

 日向は幼かったがよく覚えていた。

 年に数回遊びに来て、日向とも遊んでくれた、いつも明るい数葉さんがひどくやせ細り窶れ、目の下に隈を作ってやって来た。その後ろに同じく隈を作ったガリガリの満月がいた。

「数葉さんのお姉さんの子供なんだ。満月は」

 日向と満月、子供達がその場にいるにも関わらず、数葉は事情を隠さず全て日向の母に打ち明けた。

「あまり誉められた姉ではなかったそうだ。少なくとも数葉さんは憎んでいた。そのお姉さんが子供を置いて死んだ。当時の恋人、満月の父親ではない人との無理心中だったそうだ。無くなった時、心中した人以外にも恋人が何人かいて大変だったらしい」

 数葉は死んだ相手方の親族に妹だからと責められ、すでに分かれていた満月の父親から妹だからと残された満月を引き取らされた。

 父親に引きずられる様に連れて来られた満月は、育児放棄されていたから痩せていた。誰かに殴られた跡やケガもたくさんあった。弱り切っていて、周りを怖がっていた満月の相手は、大変に神経を使う苦労の連続だった。その上、

「満月の顔は数葉さんのお姉さんにそっくりなんだそうだ。でも、数葉さんはちゃんとわかってた。お姉さんと満月は別人だって。子供に罪はないんだって。それでもお姉さんに対する恨みは強くて、お姉さんそっくりの満月の顔を見ていると殴りたくなるそうだ。死ぬまで殴って殺したくなる、と。このままだと実行してしまう。自分も満月を虐待して殺してしまう。そう数葉さんは泣いていた。それを満月と二人で見ていた」

 子供に聞かせる話ではないと、母は渋っていたが、数葉が大人の話が理解できなくても自分の今の状況を知らなきゃ、この子が自分の身を守れない。私から逃げられないと、満月を同席させた。日向は常にない数葉の姿が怖かったが、初めて会ったのにも拘らず、自分以上に周囲におびえている満月を守らないといけないと言う謎の使命感が生まれていた。その為、日向は満月のそばから離れなかった。

 大人達の懺悔の途中、満月は日向の小指を震える手で握りしめた。それを成すがままにさせていた日向は自分の判断は間違ってなかったと今でも思っている。

「それで、満月はうちで引き取ることになった。生活費は数葉さんが出してるし、保護者は数葉さんのままだけど。その後、小六の頃、あぁ、十二三歳の頃ね、うちの両親が事故で亡くなったんだけど、数葉さんは引き取れないまま、満月も当然だけど、数葉さんの元に行きたがらなくて、うちでそのまま見ようかって話も出たけど、私の保護者になった母の兄が世界中を飛び回ってる仕事をしていたから、保護者不在は私もほぼ変わらずって感じで、話し合いになった。結果、今まで住んでいた部屋とその隣で二人で一人暮らしをする事になった。もちろん、私の方は、伯父さんが一月に一回は帰ってきてくれるし、数葉さんも私にだけど、週に一回は電話をくれて満月の様子を気にしてる。満月の今は最良じゃない。けど、悪くもないんだ。多分。本人じゃないから正確にはわからないけど。でも、だから、満月が女の子を連れ込むのはまずい。数葉さんは満月がお姉さんの様に不実な人に成らないかすごく心配してるから」

 話し終わった日向は耳を塞いだ満月の手を突っついて外させた。

「終わった?」

「うん。大体話した」

 女蛾は、満月の袖をぎゅっと握った。

「吾が君も一人だと伺いました」

「ん。まあ、日向がいるから正確には一人じゃないよ」

「私は吾が君のそばにいたいです。……駄目ですか」

 満月を見上げた女蛾の眉は下がり、目が街灯の灯りに反射してキラキラしている。

 あ、駄目だ。

 日向は思った。案の定。

「好きなだけいてくれて構わないよ」

 にっこり笑って満月は女蛾を受け入れた。

「このウーマンホヴィアが」

 ややこしい事になりかねないから自宅に呼ぶつもりだった日向がぼとりと言葉を落とす。

 満月の笑顔が固まった。

 言葉自体が分からなかった女蛾は首を傾げて日向を見た。

「さて帰ろうか」

 スマホの時計を確認すれば、もうだいぶ遅い時間になっていた。

 行きと違って三人で、あれは何これは何と尋ねる女蛾を間に賑やかに山を下りた。


 二人と別れて玄関のドアを開けた先は月の光も入らない真っ暗な廊下だ。

 日向は明かりを点けなかった。

 長年暮らしているから間取りは分かる。その感覚だけで奥のダイニングへ通じるドアを開けた。

 真っ正面にベランダへ出るための大きなガラスドアがある。そこから天体の満月が覗いていた。

 部屋が月の光で青白く、日向は部屋の電灯のスイッチに伸ばしていた手を降ろした。何となく月明かりを消すのがもったいなくなったからだ。

 静かだった。

 手を付いていた壁の向こうから、満月の声と亡き母の声が聞こえてきた。身体が驚くが、すぐに落ち着かせる。女蛾の声だ。似ているけど違う人の声だ。

 目線が彷徨い仏壇の遺影を探す。

 普段、日向が帰れば一人の満月はテレビもあまり見ないから気づかなかった壁の薄さ。何を言っているかまでは分からないが、楽しそうな音だ。

 両親が死ぬまで満月もこうして一人で聞いていたのだろうか。

 日向は浮かんだ考えを消そうと頭を振って満月の部屋とは反対側のキッチンに逃げ込んだ。途中あった仏壇の母の遺影からも意識的に目を反らした。

 出来る限り距離を取り、冷蔵庫に背中を預けて座り込む。

 静かな夜だった。

 冷蔵庫のモーター音を持ってしても満月達の声の音が拾えるくらい。

 ひなたは冷蔵庫に耳をくっつけ、そちらに意識を向けようとする。

 しかし、探してしまう。

 女蛾は母に似すぎていた。

 日向は生きていくために必死で忘れていた両親を、母を思い出してしまった。

 胸が悲しみに絞られる。目の奥がじんわり熱くなった。

 優しかった母。

 女性の柔らかさを集めたように綺麗だった母。

 父を愛していた母。

 日向はよく比べられた。その度に慰めてくれたが、親戚達の言葉は事実なだけに日向の胸によく刺さった。

 男みたいな日向。

 がさつで女らしさのかけらもない日向。

 思春期前とはいえ好きな人の一人もいない日向。

 自分の性格を嫌ったことはない。ただ憧れはあった。けれど、それではそばにいられなかったから。

 日向は、立てた膝に顔を埋め、冷たい機械音にしがみついた。

 膝を濡らす追想の涙が愛惜だけで成り立っていない事は自覚していた。日向は胸元の服を握りしめて、こみ上げてきた自己嫌悪を飲み込み、更に涙をこぼした。

 結局、日向は灯りを点けなかった。


 いつも通りの朝のはずだった。

 昨日月から来た女蛾がいるので、いつも通りでないのは分かっていたけれど。

 いつも通り満月の家のキッチンに立って朝食を作る。朝から賑やかな音楽をかけて。

 そろそろ、満月を起こそうと思った。ら、満月の声で衣を裂くような悲鳴がした。

 コンロの火を消して日向は満月の部屋に飛び込んだ。

 中には壁に張り付いた満月がナニカにおびえていた。満月に蹴り飛ばされたのだろう夏用の青い掛布団が床に落ちている。

「何やってるの?女蛾は?」

 涙と鼻水まで出してグシャグシャの顔の満月が顎で床に落ちた布団を示す。言葉はない。声が出ないようだ。さっきあんなに叫んだくせに。

 日向は床に落ちた薄い掛布団をめくった。中からは茶色の凸凹としたでかい蝦蟇蛙が出てきた。

「でっかい蝦蟇だな。どっから入ったんだ?」

 日向は両手ほどあるそれを掌に載せて満月の悲惨な顔に納得した。

 満月は昔、かくれんぼで木に登った日向を発見し近づいた所で青蛙を大量に落とされてから、蛙が大嫌いなのだ。

 ちなみにその一人阿鼻叫喚を日向は木の上で笑って見ていた。大爆笑だった。そして帰宅後、満月が泣きついた母親に怒られた。

 そんな微笑ましくも懐かしい思い出を回想し終えて日向は、蛙を外に出すべく立ち上がった。

 この蛙をどうにかしないと満月が動かないのは明らかだ。遅刻はごめんである。

「満月外に放すから窓開けて」

 窓はベッド向こうにあって両手が塞がっていた日向は満月に頼んだ。しかし、

「まってください!」

 帰って来たのは満月の返事でも行動でもなく、どこか分からない所から発せられた女蛾の声。

「女蛾?もしかして女蛾も蛙嫌いで隠れてるの?」

 日向の疑問に満月がぶんぶん首を横に振った。

「私です!この蝦蟇が私なんです!」

 ぺんっと大きな蝦蟇の小さな手で掌を叩かれた。

「……どうやってしゃべってるの?」

 日向は蝦蟇蛙を持ち上げ、顔をのぞき込んだ。

「普通にしゃべっていますわ!そんなことより!外に放たないでくださいませ!」

 蛙はパクパクと口を縦に動かし、女蛾の声を出していた。

 日向は家主を見た。

 満月は真っ青になりながらも女蛾の言葉を肯定して首を縦に振っていた。嫌いな蛙に対して、それでも女蛾だと、人だと認め、どうにか対処しようとする姿勢は立派だ。最も、言葉は出てないし、顔は涙と鼻水が流れ出ているから大層無残だが。

「じゃあ、とりあえず、空いてる部屋に入れとくから、満月は顔洗って朝ご飯な」

 日向は行き先を満月がいるベットではなく、別の部屋に続く廊下に変更した。

「ひ、ひなた」

 背を向けた日向にか細い声が届く。

「何?」

 言い忘れがあったかと振り向けば、

「手はしっかり石鹸で五回は洗ってくれ」

 満月が深刻な顔で訴えた。

 日向は満月の部屋の隣の空いている部屋に女蛾を入れた。

 そこは満月の叔母夫婦が帰って来た時の部屋だ。海外転勤になってから一度も使われていないけれども。

「なあ、女蛾」

 日向は女蛾に話しかけた。

「何ですか?」

 日向の深刻な声の調子に返す女蛾の声は緊張を孕んでいた。

「蝦蟇蛙って何食べるの?虫?」

「人の食事で結構です!いえ!人の!食事で!お願いします!」

 蛙の口が一番大きく開いて必死な女蛾の声が訴えた。

「了解〜」

 朝から虫取りに行かねばなるまいかと思っていた日向はほっとして、軽い返事を残し部屋を出た。

 キッチンに戻るとかっこいい顔に戻った満月が先に朝食を食べていた。日向は台所の洗剤で適当に手を一回洗って、女蛾の朝食を皿に載せる。

「それ、女蛾専用にしてね。使い回さないでよ」

 血に落ちた怨念が買った声が女蛾用の皿に向けられる。

 日向は呆れた。

「仮にも前世の奥さんにひどくないか?後、同じ柄なんだから見分けつかないよ」

「じゃあ、絶対!洗剤でしっかり!洗って!消毒もね!」

「油ものも乗ってないのに。やりたきゃ自分でやれよ」

「日向は!俺に蛙の触れた物に触れっていうの!?」

 満月の声は悲痛だが、たかが蛙である。日向にとって。

「言う言う。だいたい、見てないだけで蛙の触れた物も場所も、今までだって絶対触ってるだろ。潔癖症ぶるな」

 日向は泣きそうな満月を置いて女蛾の元へ向かった。

 女蛾にとって始めて見るご飯のメニューだったらしいが、食べると口にあったらしく、器用に両手を使って全て平らげた。

「足りた?」

「十分ですわ。今の時代は食べ物が豊かなのですね」

「これから私らは学校っていう学ぶところに行かなきゃならないんだけど、女蛾はどうする?出来れば、なんで蛙になったのかと聞きたいけど、ごめん時間なくて」

「ついて行きたいですが、吾が君のご様子ですと難しいでしょう。嫌われたくはありません。蛙の姿については、お二人が帰って、私が人に成ってからお話いたしますわ」

「あ、人に戻るんだ。じゃあ、日中はここにいてね。トイレとか大丈夫?部屋移動できる?」

「慣れていますし、あのトイレならば大丈夫ですわ。扉の開け閉めも出来ます。吾が君に許していただければ、ですが」

 女蛾は落ち着いていた。けれど、悲しみが無いかと言えば、当然ある。声の調子が昨日より低かった。昨日が興奮していた事を差し引いたとしても。

「そこは許させるよ。人の尊厳の問題だしね。暇になったら、ここテレビあるからここ押して見てて。昼ご飯は痛むから冷蔵庫に入れとくね。流石に冷蔵庫の扉は届かないだろうから、椅子も台も置いとくけど、それで開けられる?」

 女蛾は頷いた。

「ご迷惑をおかけしている身であるのに、お気遣いありがとうございます」

「満月が拾ったんだから、気にしなくていいよ。……一応、扉、引っ張りやすいように引っ張る紐もつけとくよ?」

 日向は、満月の待つダイニングに戻り、台と椅子で冷蔵庫までの道を作った。そして扉に紐を付けて下げる。

「満月。何で女蛾が蛙になったかは、本人が理由、分かっているみたいだから、帰ってからな。という訳で今日は早めに帰って来いよ」

 食べ終わった食器を洗い終わり手を拭いていた満月はげっそりと息を吐いた。

「帰ったら、人に戻ってるのかなぁ」

 日向はあーと返事を返した。

「いつ戻るのかは聞いてないけど、話は人に戻ってからって言ってたから、夕方には戻るんじゃない?」

「ホントかよ〜」

 情けない声を上げる満月に日向は荷物を手渡した。

「いってきまーす」

「いってくるよ」

 蛙嫌いの満月を気遣って見送りに出て来なかった女蛾に聞こえるように声を上げて二人は家を出た。奥から、

「行ってらっしゃいまし。お気をつけて!」

 女蛾の小さな声はちゃんと二人に届いていた。

 鍵をかけながら、

「ふふっ、いってらっしゃいだって」

 満月が嬉しげに笑う。

「気をつけて、だって」

 日向も照れた顔で満月の脇を肘で突いた。

 親なし一人暮らしになって久しい二人の見送ってくれる人がいるこそばゆい朝。

「帰ってきたら、ただいまって言ってくれるのかな?」

「今日は満月んちに帰ろうっと」

 二人の足取りは軽かった。


 朝から蛙になって、満月の悲鳴を上げさせた女蛾だが、その後、それが不本意ながら女蛾が天に上った際の、人が神仙の領域に許可なく踏み込んだ罰であり、昼間だけだと分かった。

 満月達は地上に帰れないのに、罰迄あるのかと憤慨した。

「地上に帰れなかったのはあの薬を飲んだ時点で私の体が人ではなく、神仙の類になっていたからです。その薬自体は吾が君が西王母様に許可をいただいておりましたので問題ではなく、例えるならば、ある日突然家主の許可なく人の家に上がり込んでしまったのが罪の対象でその罰が日中の蝦蟇蛙の姿なのです」

「確かに、それは問題だ」

「現代でも不法侵入は罪だもんね」

 二人は罪については納得した。しかし、

「「罰が重すぎない!?」」

 現代感覚が身に染みている日向は勿論、今よりだいぶ理不尽な当時を記憶として持つ満月も声を揃えて天を非難した。

 それから、満月は蛙の姿は受け付けないが、それ以外は食器の共有も女蛾が家を歩き回ることも受け入れ、夜は仲良くしている。日中は学校がある事が功を奏したようだ。

 日向はたまに女蛾を母を重ねて寂しくなるけれど、あの夜以来、一人泣く事も、苦しむ事もなく、笑って二人と少し変わった日常を過ごしていた。

 そんな夜。

 日向の家の電話が鳴った。

 鳴るのは分かっていたから自宅で待機していた日向は受話器を取って耳に当てる。

 懐かしい声が聞こえた。

 声の持ち主は遠い海の向こう。しかしそれを感じさせないくらい声は近い。

 満月の母の妹、数葉からの電話だった。

 一通り近況を交わし会う二人。しかし女蛾のことは言わなかった。言えなかった。常識云々抜きにしても。

「変わりなさそうね。元気で良かったわ。満月は、どう?姉さんのように異性を連れ込んだりしてない?姉さんのように異性と夜中遊び回ったりしてない?」

 穏やかだった数葉の声が、満月の話題に移るや否や神経質で刺々しい声になる。

「……大丈夫ですよ、数葉さん。満月の友達に女の子が多いのは事実だけど、そういう意味で遊び回ったりはしてないし、ちゃんと夜は帰ってきてる。……女の子達が家に遊びに来る事もないよ」

 実際は女蛾を泊めているので日向の口は普段より少し重くなった。けれど日向は、不自然にならないよう言葉を重ねた。

「大丈夫ね?日向ちゃんが側にいるもの。大丈夫よね?」

 最初の楽しげな声はもうない。縋るような声が日向の体にのしかかる。

「大丈夫ですよ。大丈夫。うちの叔父だってたまに帰ってきてくれるんだし、心配する事なんてありません。もう高校生ですし」

「やだ。高校生になったから心配なのよ。大人になるまで、手を離れるまで後少しなんて気を抜いちゃいけないわ!姉さんが駆け落ちしたのは高校生の時だったもの!あの子に恋人が出来たら知らせてね?日向ちゃんなら大歓迎なんだけど……」

「もう、おばさんったら。ないですよ!」

 二人は、数葉はようやく、くすくすと笑い合って電話を置いた。

 置いた手をそのままに、日向は大きく息を吐いた。

「本当、どうしよう」

 女蛾がこのまま満月の元に居続けるのならば、黙っている訳には行かなくなるだろう。叔母に言ったとおり、たまにやってくる叔父にはすぐばれるだろうし、何より女蛾の生活費の問題もある。食事代洋服代身だしなみを整える諸々のお金、そしてなにより医療費。

 女蛾は人ではないから病気にかかるかどうかわからないけれど、女蛾も今まで月では気鬱の病にしかなった事はないと笑っていたけれど、ここは月ではなく地球で、女蛾の知らない月にもないだろう病原菌がごまんといるのだ。

「保険入ってないと病院ってすごく高いんだよね?」

 詳しくは知らない。だが、女蛾がいつ病気かからないとも限らない。そうなれば、どこからそのお金を出すか。未だ保護者の加護の元で生活を保障されている日向達にはお金の自由はさほどない。

「バイトする?ああ、その前に女蛾、このままじゃ不法滞在者じゃない?」

 日向はぶつぶつ不安を言葉にしながら、満月の家に向かった。

「昔はきれいな石を出せば良かったんですけれど」

 女蛾は月から降りて来た時に持っていた荷物の中から、美しい石達を取り出して二人に見せた。

「今はその出所も問題視されるからねー」

「ではこれは使えないのですね」

 女蛾は更に金銀財宝が入った袋を懐から取り出した。

「資産価値はあるだろうけど、まず、女蛾の身元証明がないと買い取ってくれないだろうし、私たちも未成年だしね。取引に保護者の許可が必要になる」

 日向はため息を吐いた。いっそ、叔父に全てを話し手を回して貰うか、数葉さんに言うよりはましだろう、と。

「こんな時、呉剛がいてくれれば」

 頭を抱えた日向と満月を見て、女蛾がぼやいた。

「呉剛?」

 満月の声に少しの不満が乗る。

「私より先に月にいた罪人です。知識を求め仙になり、求めすぎて禁忌に触れ、月に落とされたそうです。月にある切っても切っても一晩で元に戻って仕舞う月桂樹を切る罰を与えられてずっと一人で切り続けています。以前、地上に降りる事が出来たのは呉剛のおかげです。それまでは呉剛も広寒宮、月の宮で一緒に暮らしていたのですが、月におりた罰と手助けした罰で離ればなれになってしまったんです。それでも、今回私が降りて来られたのは、呉剛の残してくれた物達のおかげでした。とても頭の良い人です。だから、いればきっとこの状況を改善する良い知恵を出してくれたことでしょう。いませんけど」

 私は何も出来ませんと女蛾が落ち込んだ。呉剛の有能さと自分の無力さを比較してしまったらしい。

 満月が慰めるように頭を撫でた。

「大丈夫。出来る事をしよう。日向、とりあえず恭一さんが帰ってきたら話して相談しよう。あの人、突拍子もない人だから、きっとこの突拍子のない状況も信じてくれる。もうそろそろいつ帰ってきてもおかしくないんだろう?」

「そうだね。どっからそんな伝持ってきたの?って人だし、そうしよう。だから大丈夫だよ、女蛾」

「きっとうまくいくさ」

 二人は満月に言い聞かせながら自分に言い聞かせていた。

「「大丈夫」」

 外は月さえも不安に隠れてしまっていた。


 煌々と街灯の光が無人の公園のベンチや遊具を照らしている。

 新月で月か出ていても光のない今夜は、街灯以外に光源がない。街灯が照らしている場所以外はすべて闇だ。公園を囲む山の木や山の途中にあったアスレチック遊具の物陰すら見えない暗闇が、日向と満月がお月見をし、女蛾が月から降りてきた公園を包んでいた。

 その暗闇から一滴の雫が落ちた。

 真夜中の人っ子一人いない公園に落ちた黒い雫は立って人に成った。

 男だ。

 闇を糸にして紡ぎ作ったと言われたら納得の黒い現代の洋服を着た男が新月から降りてきたのだ。 

 男は懐から、丸い懐中時計に見えるナニカを取り出した。それを眺めて、目を細める。

 男は笑っていた。

「まずは、知らねば」

 彼が目を向けた先には、きらきらと光に溢れ輝く見たこともない建物。その足元の間を信じられないスピードで走る箱型の馬。

 男にとってそれらは見た事のない物ばかりだった。

 それでも男の顔は驚きに眉一つ動かない。書物で読んだ事があったからだ。知識は驚きよりも実物をこの目で見る事が出来た喜びを運んでくれた。公園を頂く山から見下ろす夜景は、いつまで見ていても飽きる事は無い。だが、男は名残惜しく目を逸らす。

 男にはやる事があった。

  

 男は迷いなく足を動かし、山を下りる道の先の暗やみに消えていった。


 非日常の不幸はいつも突然に日常の中に訪れる。


 いつもの帰り道だった。

 女の子達と集団デートに向かった満月と別れて、女蛾の待つ家に帰る。最近の日常。

 今日は買い物をする必要はあったかどうかと考えながら歩いていた日向は、確かに周囲を見ていなかった。

 気づけば、日向は突然後ろから羽交い締めにされ、口を布でふさがれて人のいない路地に引きずり込まれていた。

 あっという間の出来事に日向の横を歩いていた人達も異変に気づかなかった。

 日向はそのまま、布に染み込んでいた薬液の匂いを嗅いで気を失った。


 目が覚めたのは、頭の痛みによってだった。あまりいい目覚めではないので、日向はすぐに気を失う前の事を思い出した。

 ガンガンに響く頭を押さえて起き上がるとそこはどこかのアパートの一室だった。

 家具はない。人の住む気配もなかった。印象としては、入居前の空き部屋。

 日向は他に何かここがどこだかわかる手掛かりは無いか見ようとした。けれど、集中すればするほど頭の痛みがひどくなる。ついに頭の痛みに日向は顔を伏せて呻いた。

 目の前に水入りのペットボトルを差し出された。

「飲め。脱水なんぞになられても迷惑だ」

 見知らぬ男がペットボトルを日向に押し付ける。

 日向は気づかなかった。気配もなかった。最も日向は忍者ではないので元からそんなもの読めないが。

「・・・・」

 じっと差し出された。ペットボトルを見る。

 この状況で、自由に動けるのは、誘拐犯だけだろう。つまり、この男は日向と同じ誘拐の被害者ではなく、誘拐した本人。単独犯でない可能もあるので、もしくは誘拐犯の仲間。日向の中に警戒心がガンガンに燃え上がった。

 日向は喉が渇いていた。この部屋にはクーラーがない。いくら夜は寒いくらいに秋が深まったと言えども、まだまだ十分に昼間は暑く、その余韻がこの部屋には籠っている。放置すれば男の言う通り脱水症状を起こすだろう。いや、先程からの頭の痛みはかがされた薬のせいではなく、脱水の可能性もあった。

 手を伸ばしたい。しかし、沸き上がった警戒心が日向の手を留める。

 日向は悩んだ。

 そんな日向を見て男は溜息を吐いた。

「薬を抜くためにも飲んだ方が身のためだぞ。何も入れてないただの水だ。蓋も開いてないだろう」

 抛られたので咄嗟に受け取った。

 日向は自分の命の為に、一応男の言葉を信じてペットボトルの蓋を開けた。蓋はぱきゅっと開封音を立てて空いた。

 大分、水分が足りてなかったようだ。

 日向はあっという間に一本のみ干して仕舞った。

 けれども、飲み終わってすぐ差し出されたもう一本は半分しか入らなかった。それでも半分空いた。

 人心地ついて窓から見える外を見た。やけに暗い。

「今何時」

 日向は焦った。

 暗いという事は満月はもう家に帰っているという事だ。日向がいないと分かって、騒動になっているかもしれない。

「夜の七時だ。四時間も寝ていた。薬が効きすぎていたのかもしれん。もっと飲め」

 男は日向の心情を斟酌せず更にペットボトルを差し出した。

 日向はそれを受け取って、逃げ帰れるかどうか考えた。頭痛はまだ直っていない。体調も筋力も万全そうな男がすぐそばにいる。そして、日向の荷物は男の傍らに置いてあった。あの中には銀行のカートがある。捨て置く訳にはいかなかった。総合して、今この時に逃げるのは無理だという結論を出した。たとえどんなに騒ぎになっても、逃げられないなら仕方が無いだろう。

 開き直れば、日向は落ち着いた。犯人を観察しながら思考する事が出来るほど。

 日向は誘拐犯を妙な男だと思った。

 ほぼ孤児のヒナタを誘拐して得られる利が思い浮かばないのだ。

 叔父がたまに突撃しているというごたごたに巻き込まれたのかとも思った。が、それにしてはやけに体調に気を使われ大事にされている気がした。何せ家具なんて見あたらない部屋なのに、日向は部屋の中央で明らかに新しい布団に寝かせられていたのだ。

 訳が分からなかった。

 ので聞いた。

「私は何故浚われたんだ?」

 男は隠す事なく答えた。

「交換のための人質としてだな」

 端的過ぎて意味が分からなかった。

「叔父、恭一さん関連か?」

「誰だ、それは?違う。おまえ達が今保護している女蛾という女の件だ」

 そっちかー。日向は頭を抱えた。

「かぐや姫の使者と違って一人なのか?」

 日向達は女蛾があの物語の主人公であると知ってから、天が女蛾を捕まえに来るのならかぐや姫の話のように紫の雲がたなびき仏様が使者を何人も連れてド派手に降臨してくるのだと思っていたのだ。

「夜中に都会でそれは迷惑行為だろう。女蛾が去った後も騒がれたいのか?」

 月から来た非常識な男に常識的な答えを返された。

「そもそも、かぐやの時も、最初は一人の使者が降りてこっそり連れ帰るはずだった。だが女蛾の夫探しが思いの外大きな話題となっていて、地上の帝まで巻き込んでいるとあってはな。世話になった翁達に罪を被せず連れ帰るには、大々的に帝の力も及ばない天からの使者が迎えに来たというパフォーマンスを見せつけるしかなかったんだ。今回は、その必要はない。だが、帰れと言っても、前回の様にはいかないだろう。女蛾は旦那をゲイを見つけてしまったのだからな。だが、あいつがこのまま地上で暮らすには無理がある。寿命を筆頭に。だから、お前を浚った。お前を助けて欲しくば、月に帰れと言うことだ。女蛾は情の深い女だ。数日世話になった、旦那の大切な女と引き替えと言えば迷うだろうが言う事を聞く可能性が高い。旦那の頼みが加われば尚いいんだがな」

 はぁっと男は息を吐き出した。酷く面倒そうに見える。ともすれば、女蛾を連れ戻したくないのかと思うほどに。女蛾の味方ならば、有り得る。

「ねえ、もしかして、あなたは女蛾の脱走の手助けをしたという、」

「ああ、呉剛だ。月で月桂樹を切り続ける桂男と語られているな」

 すべてを語る前に肯定された。しかし、日向は思った。これならばいけるかもしれない。呉剛が、女蛾の連れ戻しに積極的でないのなら。

「なぜ、脱走の手助けをした男が迎えに来るんだ?」

 日向はそのために慎重に確認する事にした。

「天は意地が悪い。俺は女蛾に惚れているから、女蛾の願いは叶えてやりたいが、他の男、特にすでに死んで過去になったはずの亡霊なんぞに女蛾を渡す気はない。前回は、それでも良かった。女蛾の幸せが一番だった。だが、自分以外がいる家の暖かさを知った後は、そんなことは言ってられない。一人は嫌だ。天はこの度女蛾を連れ戻せば、また二人、広寒宮で暮らす事を許すという。もう、俺はあいつの幸せだけを願えない」

 しょっぱなから、作戦は暗礁に乗り上げた。

 日向はペットボトルの水をゴクリと飲み込んだ。無理だと思った。

「だから、使者を引き受けた」

 呉剛の黒い瞳はどろどろに溶けた闇を押し固めた様に光が全くなかった。

 日向はその目にまっすぐ見つめられて恐怖した。

 こんな孤独は知らない。

 こんな執着は知らない。

 こんな、人の愛し方を、日向は知らなかった。

 確かに天は意地が悪かった。こんな男の思いすら利用するなんて。でも、

「満月はそれを受け入れないよ」

「満月は女蛾と夫婦だった頃の記憶を持っている。あいつは女性好きを装った女性恐怖症だけど、女蛾はあいつの家に入る事を許されてる。受け入れられている。あいつの初恋さあ、女がそっくりの私の死んだ母さんなんだよね。前世の記憶の影響もあるんだろうけど、だからこそどれだけ女蛾を愛してるか分かるだろう?母さんに惚れた頃、すでにあいつは女性を怖がってた。私はまだ女じゃないから一緒にいたけど、それ以外で受け入れたのは母さんと女蛾だけだよ」

「だから、満月はそんな取引、受け入れない」

 日向は言いつつ、胸が苦しくなって、胸の辺りの服をぎゅっと握りしめた。

「女蛾が迷っても、きっと、あきらめるなとか言って、女蛾が帰らなくていい案を考えてくるよ。だからあんたの計画は成功しない。私を人質にしても、満月は取引に応じない。女蛾にも応じさせないから」

 言い切った。

 言い切ったが、胸の痛みが日向の顔を歪めていた。

「それは、満月が、お前を見捨てるという事か?」

「見捨てはしないよ。あいつ、意外に欲張りだから。でも、女蛾を優先するだろうって話」

 息が苦しい。

 日向は、何故こんなに苦しいのか、分からなかった。当然のことを話しているだけなのだ。日向にとって。なのに。

「女蛾は昔の女だから、情が深くても旦那がそう決めたなら従うな。なら、お前を誘拐したのは無駄か」

「無駄だね」

「そうか」

 男は黙った。

 日向は、これで解放してくれないものかと願った。最悪、利用価値が無いと殺される事もあるだろうが、そこは日向の体調を気遣いペットボトルを何本も用意してくれたこの男のやさしさに期待するしかない。

 解放か、死か。

 日向は緊張から手に汗を握った。

「……かわいそうにな」

 だがしかし、呉剛は全く予想外の言葉を口にした。

「……なにが?」

 日向は飛び出そうな心臓を押さえて分からないフリをした。

「初恋の女に似てるだ、昔の記憶があるだ言っても、女蛾とあいつが実際出会ったのはここ数日だろう。あいつはゲイの生まれ変わりであってもゲイではない。なのに、これまでずっと一緒にいたのに、たった数日、一緒にいただけの奴に一番を盗られたんだろう?……哀れだな」

 悪意は感じなかった。見下された訳でもない。けれど日向は、かっと胃の中が燃えてひっくり返ったのを感じた。その勢いのまま、訳の分からない激情が口を飛び出そうとする。

 咄嗟に口を押さえたら体が勝手に動いた。

 ぱあんっ

 破裂音が部屋に響いて、口を押えた手とは反対の掌が熱くなった。

 目の前の呉剛が顔を背けている。頬が赤かった。

「分かったような事を言うな!」

 光のない黒い目が再び日向を捕らえた時、全てを見透かしていると言わんばかりのその目に、口の押さえも外れた。

「私が一番じゃないのは当然なんだ!私は母さんのように女じゃないから!女になれないから!でも、だから側にいられたんだ!母さんじゃなくても!女じゃないから!満月の恐怖の対象じゃないから!だから、あいつが、母さんにそっくりで、夫婦の記憶のある、女蛾を、一番にするのは、当然、なんだ。時間じゃない。当然の、事、なんだ」

 まるで、自分に言い聞かせているようだった。

 途中から涙がぼとぼとと落ちていく。

 呉剛を締め上げていたはずの手は、呉剛にすがるように崩れた日向の体を支えていた。

「当然、なら、その間一緒にいた者の気持ちはどうなる。俺は、そんな当然認めない。可哀想だろ」

 呉剛の手が日向の背に回った。

 ひっくひっくと息をする日向をなだめるようにゆっくり背中が撫でられる。

 日向の肩に呉剛の頭が落ちた。

「可哀想だ。俺はあいつの旦那より長くあいつの側にいたんだぞ。当然って何だ。そんなの、知るか。ずっと側にいて愛してきたのに。女成らないと愛は認められないのか?旦那でないと駄目なのか?あんなに二人で暮らしてきたのに。ずっと一緒にいただろう?」

 呉剛の声が震えていた。

 日向の肩が濡れて冷たかった。

 呉剛はどうやってか、日向と満月の関係を調べて知っていたようだ。知っていて、自分に重ねている。

 可哀想なのは呉剛自身だった。

 そして日向も。

 気づいてしまった。

 納得なんかしていない。

 日向は、満月を誰かに渡したくなかった。

 一番の傍に居たかった。

 満月の一番が女蛾だと受け入れていなかった。

 日向は知っている。

 これは恋なんかじゃない。ただの独占欲だ、と。 

 呉剛の恋の様に一途に熱量のあるものではない。どろどろでねちゃねちゃの満月に一度引っ付いたら二度と離れない執着心。

 呉剛に慰められながら、日向は自分の醜い気持ちと向き合っていた。

 

 日向は女になってしまった自分に泣いた。


 満月はいつも日が落ちる前に帰ってくる。先に日向が帰っているから、満月は明かりの点いていない家に帰った事がない。

 今日もそう。

 ただし、

「吾が君、日向はまだ帰ってきてないのですが、何か遅くなる用事があったかご存じないですか?」

 まだ蛙の女蛾が声だけで出迎えてくれた後の第一声がそれだった。

「隣は明かりが点いてなかったよ。最近こっちにきてたから、てっきりそうだと思ってたんだけど、まだ帰ってないの?一度も?」

「ええ。まだ買い物をしているのでしょうか。けれど、今日はそうめぼしい物はなかったはずですのに」

 女蛾の声が気がかりを伝える。

「もう日も落ちますわ。買い物が長引いているか、吾が君と合流したのだと思っておりましたのに。こんなに暗くなって女の子一人だけで出歩くのは危ないですわ」

 古の教育が根付いている女蛾が言うまでもなく、満月も不安になっていた。

「ちょっと、日向のスマホに電話してみるよ」

 騒ぐ胸を押さえて、満月はスマホを取り出した。

 続く発信音はいつもより長く聞こえる。

 満月は全身の緊張を取り払うように、深い呼吸を繰り返した。

 何回鳴っただろう。

 発信音が唐突に途切れる。

「ひな、」

 満月の声は続かなかった。

「初めましてだろうな。ゲイ」

 スマホの向こうから聞いた事のない男の声がした。

「誰」

「天道日向は預かった。返して欲しくば、女蛾と交換だ。明日は休みだろう?14時に吾妻ビル三階にて待つ」

 ボイスチェンジャーの使われていない、耳障りの良い低い声がわかりやすく誘拐犯である台詞を端的に述べ、電話はすぐ切られた。

「おいっ!!日向は!?っくっそ!」

 電話終了の空しい音が満月の耳に流れてくる。

 満月は慌ててリダイヤルしたが、

「この電話は現在電源が入っていないか、電波の届かない場所に・・・」

 機械的な女性の声が日向の電話が通じないことを満月に告げる。それを切って、満月は何回もリダイヤルした。が、全て通じなかった。


「吾が君・・・」

 日が完全に落ち、人の姿になった女蛾が部屋に入ってきた。

「女蛾。日向が誘拐された。君と交換だと言っている。心当たりはある?」

 女蛾は気まずそうに目線を下に向けた。

「申し訳ありません。ございます。それは月の広寒宮で一緒にいた呉剛と言う男です。実は一度、吾が君がいらっしゃらない日中にこちらに尋ねて参りました。ですが、私は帰りたくなくて、逆に協力をお願いしたのです。しかし、彼は、聞いてくれませんでした。私に帰る意志がないと知るや、無理矢理にでも連れ帰ると」

「その時は大丈夫だったの?」

 女蛾はこくりと頷いた。

「騒ぎになるのを避けたのでしょう。その時は新月を過ぎてすぐの頃でした。月への道は満月か新月でないと開きません。地球から月に帰るなら満月でないといけません。ですから、無理矢理、鍵や窓をどうにかして私を連れ出しても騒ぎになれば、次の満月までまだ日があるのに隠れなければなりません。ですが、今の時代至る所にカメラがありますし、このアパートを守る方々もいらっしゃるのでしょう?警察という機構もございますし、いくら身元不明のすでに人外となり果てた身であれど、仙術が使えるわけでもない元人間が容易に逃げきれるものではありません。ですから、その日は何もせず引いてくれたのですわ」

 満月は考えた。女蛾の話に日向を助けるヒントが無いか注意深く話を聞いた。

「仙術、使えないの?」

 満月は、引っかかった言葉を確認した。

 もし使えるのなら厄介だと思っていたのだ。ただでさえ、頭が良い男だと女蛾が言っていたからこそ。

「使えません。仙人になる修行は私は勿論、呉剛もしていないと。ただ、呉剛は知識を追い求めた男ですから、知ってはいるようです。ですが、知っているから使えるという程、仙術は易しくないそうです」

 女蛾は、満月の質問に一つ一つ答えて、自分の知る限りの情報を満月に与えていく。

「どうして、呉剛の来訪を言わなかったの?」

 女蛾は気まずそうに身を捩った。

「迎えが来たと言って、では帰れと言われたくなかったのです。吾が君は許してくれるでしょう。けれど、こちらで生活するすべのない私のこれからを考えてくれていた日向は、こちらで生活が出来ないのなら帰った方がいいと言うに決まっております。呉剛の助けがあればまだどうにかなったかもしれませんが、今回、呉剛には手を貸してくれるつもりはなかった。私は、吾が君と共に年を重ね、この地上で共に老いて死にたかったのです!」

 女蛾の白く円やかな頬に真珠の涙が筋を描き落ちていった。それは一粒二粒ではなく、ぼろぼろとこぼれ落ちて、胸元で祈る様に握りしめた女蛾の両手を濡らしていく。

 美しい光景だと満月は思った。情を誘う涙だと。

 けれど満月は間違えない。

「ごめんね。女蛾」

 ばっと顔を上げた女蛾の目は潤み、涙はこぼれ続けていた。

「俺には女蛾の旦那さんだった頃の記憶がある。だから、女蛾の事は今でも大事だし、その記憶があったから、日向のお母さん、芙蓉さんが俺の初恋だった」

 思い出すのはあの夏の日。


 昼間に昇った白い月に呼ばれた気がして見上げれば、日向の母、芙蓉が自宅の二階で洗濯物を干していた。太陽より柔らかい光を放つ月の下で自分たちの洗濯物を干す芙蓉を見て、満月は前世を思い出した。

 最初は、日向の母親が女蛾の生まれ変わりなのだと思っていた。自分のお嫁さんの生まれ変わりだから、こんな自分にも優しいのだと。

 しかし、芙蓉は日向の母親である。と言う事は、当然既婚者であり、満月ではない旦那が、日向の父親がいる。

 彼には申し訳ない事をしたなぁ、と満月は今でも日向の家にある仏壇を見る度に思う。

 満月は、自分のお嫁さんだったと思っている人と結婚した男に嫉妬した。

 それまで懐いていたのに、急に態度が悪くなった満月に、日向の父親はさぞ困惑しただろう。だが、彼はだからといって満月を邪険にする事はなかった。逆に、

「男だもんなぁ。身近いる良い男に嫉妬するのは当然だ!」

 そう言って器のでかさを満月に見せつけた。それはもう、満月の幼い恋心と嫉妬を完膚なきまでさらさらと砂に返してしまった。完敗だった。


 満月は恋敵の日向の父親を嫌いにすらなれないまま、清々しい失恋を味わった。

「でも今、守りたいのは、守らないといけないのは、日向なんだ」

 日向の両親の死は突然だった。


 よくある交通事故。

 日向が学校に行っている間に二人で買い物に出た帰り、逆走車の追突に巻き込まれた。

 いつもなら遊んで帰る日向を先生が車に乗せて連れ帰った。いつもと違う空気に怯えて、遊ばずに帰ったら、珍しく家に、まだ海外に転勤はしていなかったものの滅多に帰ってこない義両親がいた。

 義母は泣いていた。義父が喪服をくれた。それを着て斎場へ向かった。

 知らない大人達の中、見つけた日向は泣いてなかった。話しかけても反応すらない。

 やがて満月は挨拶を終えた義両親に引っ張られて日向の遙か後方で通夜を見ていた。

 やっぱり義母は泣いていて、日向は無表情だった。翌日の葬儀もそう。余りに泣かないので、日向の親戚なのだろう周りの大人達は、顔をしかめていた。子供で他人の満月が見てもそれは、二親を失った可哀想な子供に向ける顔ではなかった。そんな中でも日向の顔は表情筋が固まったかの様に、動かなかった。

 読経の最中、義母は義父に、

「これから、どうなるのかしら」

と囁いていた。多分それは日向の心配よりも満月の預け先の心配だっただろう。満月は何も出来ない悔しさに膝の上の手をぎゅっと握りしめた。

 嫌な雰囲気のまま終わった読経の後、それを払拭したのは遅れて斎場に入ってきた男だった。

「伯父さん!」

 その男はこっそり入ってきて、それでも目ざとい親戚に遅れてきた事を咎められていた。その男を日向が認識した途端、日向は声を上げて男に駆け寄りしがみついた。

 突撃してきた日向をよろけることなく受け止めた男は日向に、

「よく、がんばったな」

 そう言って頭を撫でた。

 日向は泣いた。

 声を上げて泣いた。

 顔が猿のように真っ赤になって、涙は同じ涙でも女蛾の様に美しくなく、ひどく醜くみっともない顔で、汚い声を上げて泣いた。

 満月があんなに声をかけても泣くどころか表情一つ変えなかったのに。

 通夜の時以上の悔しさが満月の肺を締め上げた。

「もう心配する事はないぞ。伯父さんが守ってやるからな」

 その言葉が満月には重くのし掛かかった。

 自分には言えない言葉だった。それを容易く言える男が目の前で日向を抱きしめている。

 あんなに側にいても、日向を守れるのは、日向が守って欲しいのは自分ではない。

 その事実に満月は歯を噛みしめた。ぎりっと自分の歯と歯がすりつぶされて鳴る音を満月は短い人生で初めて聞いた。あんなに実母の元で辛酸を舐めたのに。

 それから、満月は良い男を目指した。

 満月は二度負けているのだ。日向の父親と伯父。

 もう、これ以上、負ける気はなかった。


 女蛾は静かに聞いていた。話を聞いている間に涙も乾いた。

「では、満月様は昔の妻である私より日向がよろしいのですね」

 確認に、事務的な声が女蛾の口から出た。

「ごめんね。でも、女蛾だって、俺を通して昔を懐かしんでいるだけだったでしょ?さっきだって過去形だっだしね」

 お相子だよね、と満月は首を傾けた。

 女蛾は目を見張って閉じた。そうして再び開いた時、そこに満月を、ゲイを慕っていた柔らかな光は女蛾から消えていた。

「そうですわね。日々、生まれ変わりは同一ではないのだと知る毎日でした。吾が君との違いばかりが目に付き、日を追う毎に吾が君と思えなくなり、自分にそんなはずはないと言い聞かせておりましたわ」

 満月は頷いた。

「分かるものだよね。自分を通して違う人を見てる目って」

 言葉とは裏腹に満月は柔らかく笑っている。そこに底意地の悪さも嫌みも見当たらない。

「私、寂しかったんです。ずっと長い間、あの凍える広寒宮で」

「呉剛はいたんでしょ?」

「ええ。でも、呉剛は普段木を切りに行っておりますし、危ないからと私は近くに連れて行ってはくれませんでした。それに、呉剛がいると言っても、それでも二人だけですわ。それも、最初は初めましての赤の他人。見知らぬ男と親しく話す事はいけない事だと言われてきた私が呉剛と話すようになるまで、それから更に親しくなれるまで随分長い永い時がかかりましてよ?」

「女蛾は貞節な女性だったんだね」

「今の方とは価値観が合いませんでしょう?」

「そうだね」

 女蛾は仕方ないと笑った。

「ようやく親しくなって、それでも寂しくて、吾が君が生まれ変わったという情報が入ったのはそんな時でしたわ。私は吾が君を探すという名目で吾が君がいるという場所に月から降りましたの。降りた地上には知っている方などいませんでしたが、私を拾ってくださった翁と媼に親しくされ、親身になっていただき、人は多い方が寂しさは薄れるのだと知りました。ただ、呉剛も来てくれるものだと思っていたので、そこは勝手ながら裏切られた気がしましたわ」

 ぷくっと女蛾の頬が膨らむ。そうすると女蛾は美しさより可愛さの方が上回る。

 満月が吹き出した。

「呉剛は月に未練があるのか?」

「いえ、無いはずです。あの男の興味は、知識第一ですから、月でも暇さえあれば本ばかり。話しかけづらいと言ったら!親しくなっても変わらないんですよ!」

 女蛾はもう!と座っていた床を叩いた。満月はすぐ止めさせた。下の階の人に怒られて仕舞うので。

「でも、一緒に降りてくれなかったのは、すぐに連れ戻されるのを見越してだったのでしょう。時間を稼ぐ、と言っていましたから。帰ってきた時も会えたのは僅かな時間でしたが、『これでまた広寒宮で生きていけるか?』と言われました」

「前の時も使者は呉剛だった?」

「はい。ですから、問題なく地上を去れるように手を回してもらえて助かりました」

「女蛾は、前回、呉剛に会えなかったんだよね?」

「はい。きっと、近くにいたのだと思います。私が見つけられなかっただけで。なにしろ、女は家から出てはいけないと翁に言われておりましたから。会える方も限られておりましたし」

「今回はすぐに見つけた?」

「はい。降りて目の前にいらっしゃるとは思いませんでした。僥倖でしたわ」

 嬉しそうな女蛾とは反対に満月の眉間にしわが寄る。

「いかがされました?」

 不穏な空気を感じ取った女蛾が心配げに満月の顔を覗き込んだ。

「ん、や。前回は呉剛が降ろしてくれた。今回は女蛾が自分で降りてきた。呉剛は知らなかった。合ってる?」

「はい。そうですわ」

 満月は呻いた。

 満月の中である一つの仮説が成り立ったからだ。

 けれど、これは安易に女蛾に伝えて良いものか。迷ったあげく、満月は女蛾にもう一つ尋ねた。

「ねえ、女蛾は呉剛の事どう思ってる?ゲイみたいに連れ添いたい人かどうかって意味で」

 きょとんとした顔を女蛾はした。がその幼顔はすぐに真っ赤に染まって、女蛾の両手に隠されてしまった。

 女蛾は下を向いて更に顔をかくし、あーとかうーとか呻く声だけ覗かせた。

「長年一緒にいた弊害ですわ!」

 頭を振って悔しげに女蛾は叫んだ。

 満月はこんなに感情豊かな女蛾を初めて見た。前世も含めて。けれど、悔しいと言う感情は沸かなかった。少し寂しかったけれど。それ以上に満月やゲイ以外のために感情を表に出す女蛾が、出せるようになった女蛾が

嬉しかった。

 だから、言わない事にした。

 前回、ゲイの生まれ変わりと会えなかったのは、呉剛がわざと違う場所に送った可能性がある事を。

 言ってもその事実は誰も幸せにしない。それなら、気づかなかった事にしてみんな幸せになればいいのだ。きっとそれが一番正解だから。


 吾妻ビルは四階まで建設途中で何故か中止になってそのまま放置されている所謂廃ビルだ。

 日向は二階に捕らわれていたので、移動は待ち合わせの時間に一階分上がるだけだだった。

 三階を出る前に呉剛は日向が起きた後から施していた緊縛を縛り直した。

 両手を背中に回し、上腕から大腿まで効率よく縛られ、膝下しか動かせなくなった日向は、走って逃げるという手段を奪われた。

 ちょこちょことしか歩けない日向を呉剛は背中で手を縛った縄を片手で掴み、日向を後ろから押して隣を歩いた。

 一階と二階は既に内装もある程度終わっていた。それこそ見た目だけは、家具を入れればすぐにでも住めそうなくらい。だからこそ、呉剛は日向を監禁するのに使った。

 日向は気づいていた。この呉剛という男、悪役をするには優しすぎる性格なのだと。

 例えば、このビル、四階は本当に建築途中なので屋根がない。床はしっかりしているが、壁も作りかけなので、日向は呉剛に「万一逃げるにしても四階には行くな」とあらかじめ注意されていた。本当に悪役に向かない優しすぎる男に日向は逃げる事をしなかった。もっとも、逃げる隙がなかったとも言うが。

 三階は一応屋根がある。ただし、コンクリートの柱や棟が剥き出しで壁もないのでワンフロアしかなく、広々と見通しが良いが、窓のない奥は暗い。人一人見つけだすのには苦労しそうであり、実際、壁の落書きや落ちているゴミなどを見るに、いろんな人種がここに隠れて遊んだり住み着いたりしているようだ。

「二階のどこかの部屋で待ち合わせした方が良かったんじゃないの?」

 日向は思わず提案していた。

 誰だって思うだろう。ここで待ち合わせなど是非隠れて不意打ちしてくれと言わんばかりであると。

 だが呉剛は、

「ここでいいんだ」

と譲らない。

 なにを考えているか分からない男と日向は二人、広い三階を歩き回った。


「だから言ったろう?来ないって」

 さんざん歩き回った結果、満月はいなかった。二人は唯一の出入り口である階段前に戻ってきた。

 呉剛は顔をしかめた。けれどそれは怒りからと言うより日向を同情しての様だ。実際、「まだ来てないだけかもしれんだろう」とか「迷ったり、無駄な気を回して一階から調べてきているのかもしれんだろう」と一時間ほど待った。

 そして日向は再び、言ったのだ。「もう諦めなよ」と。

「なら、お前の一部を送りつけたら来るか?」

 呉剛は言って日向を見下ろした。

 日向もまた体を縛られたまま、身構える。

「江戸の遊女は思い人に小指を送ったそうだな?」

 懐から取り出されるナイフ。

 日向は壁に押しつけられる。

「拘束を解いたらその瞬間暴れてやる!」

 日向の手を縛った縄を持っていた呉剛は背中を見せた日向を足で押さえつける。

「解く必要はない」

 小指を握られた。

 日向は痛みに耐えるため、ぎゅっと目をつむった。

「ひなたーーー!!!!」

 満月の叫び声が耳を打った。

 同時に背中の圧迫がなくなり、物が倒れる音と、金属が叩きつけられた音がした。

「おま、お前ね!信じろよ!何俺がお前見捨てると当然のように思っちゃってんの!?俺そんな薄情者に思われてたとかショックなんだけど!?」

 振り返れば、呉剛に乗り上げた満月が呉剛が動けないように関節を押さえながら怒鳴っていた。

「いや、普通さあ、呼び出されたからって真正面から来るとは思わないじゃん?テレビのヒーローじゃあないんだから。しかもこのフロアこんなんだし。策立てて絡め手で来ると思うでしょ?実際、あんたどこにいたのさ」

「天井!ここ天井無いから柱や棟木が剥き出しだろ?」

 自慢げに来るのを隠れて待っていたと言う満月に日向は頷いて呉剛を見た。

「ほらな」

 呉剛は抜け出すのを諦めたように動かず目線だけで日向を見上げていた。

「満月様。日向は無事ですか?」

 天井から細い声が降ってきた。

「日向、怪我ないよね?女蛾、降りられる?」

 日向は目を見開いて頷いた。女蛾が来ているとは思っていなかったのだ。

「女蛾も来てたの?どこにいるの?」

 昼間なので蝦蟇蛙の姿の女蛾はコンクリートの柱にしがみついてゆっくり尻から降りてきた。

「満月、よく一緒にこれたな」

 蛙嫌いの満月の快挙に日向は感嘆の声を上げる。

「一緒に行くって聞かないから、日向の麦わら帽子、借りたよ」

 見上げれば、梁の上に日向が夏の間通学時被っていた麦わら帽子が乗っていた。あれに女蛾を入れて運んだのだろう。同じ空間にいるだけで悲鳴を上げる男が。

「ちゃんと取って返せよ」

 手を伸ばしても届かない場所に置き去りにされた帽子からようやく地面にたどり着いた女蛾に目を移す。女蛾はまっすぐ呉剛の目の前に来ていた。

「お久しぶりです。呉剛」

 地面に倒されて動けない呉剛は目の前にきた蛙をじっと見た。

「やはり、昼は蛙か」

「ええそうです」

 頷く代わりに女蛾は瞼を下げた。

「それでどうやって地上で暮らす気だった?」

「そうですね」

 女蛾は静かに肯定を返す。

「月に帰る気は?」

「ありません」

 女蛾はきっぱり言い切った。

 呉剛は女蛾から目を離し目を閉じた。

「そうだろうな」

 日向はそのあっさりとした呉剛の答えに首を傾げた。

「呉剛。取引はいいのか?」

 呉剛は息を吐く。

「無理矢理連れ帰ったら女蛾に許して貰えないだろう?だが、俺まで逃亡者になっては月の奴らが容赦なく始末しに来るだろう。それは分が悪すぎる。出来るなら女蛾を月に連れ帰り、広寒宮で二人きりの暮らしをしたかった。だから、日向を誘拐して交渉に持ち込んだだけだ。成功するとはそんなに思ってない。女蛾に会えればそれで良かった。女蛾が滞在していたあそこでは翁の家とは違って侵入する事もままならなかったからな」

 女蛾は悲しそうな顔をした。蝦蟇蛙なので分かり難いがした。

「私は一人が寂しかっただけよ。寂しかったから、会えないあなたを諦めて、会える人に会いに行ったの」

 呉剛は何も言わない。

「でも、私は不貞な女ね。せっかく旦那様に会えたのに、生まれ変わった彼に懐かしさはあっても同じ人には思えなかった。それでもこのまま月に帰れば私はまた一人になる。それは嫌。ねえ、私が欲しいというのなら助けてくれる?私、たくさんの親しい人に囲まれて生きたいの。翁と媼の元にいた頃の様に。そこにあなたもいれば素敵だわ」

 呉剛が目を開けた。そして、真っ直ぐ女蛾を見つめる。

「おまえが不貞ならこの世の女は不貞な女しかいない」

 呉剛の光のない黒い瞳が水に濡れてゆらゆら揺れた。

「俺は二人きりが一番いい。でも女蛾はたくさんの人が必要なんだな。それが望みなら、その中でも俺を一番にしておいてくれるなら、叶えよう。絶対に」

 呉剛の手が女蛾の小さな頭に乗る。その手が優しく女蛾のぶつぶつとした皮膚を撫でていった。

「絶対よ?ずっとそばにいて欲しいの。足止めなんてしなくていいから。ずっとそばにいてくれるなら、あなたが一番よ」

 呉剛は声を上げて泣き始めた。


 日向と満月は二人から少し離れた所でその様子を見ていた。あんな二人きりの世界、日向も満月も割り込む勇気などない。欲しくもない。

 一件落着の空気に、

「ふられたな」

 日向は満月をからかった。しかし、

「俺、日向に振られた記憶ないよ?」

 満月は首をかしげて日向を不思議そうに見返す。

「はぁ!?おまえは母さんが、女蛾が好きなんだろう!?」

 日向は思わず怒鳴った。満月を。

「初恋くらい許してよ。叶わないんだし。大体、女蛾も芙蓉さんも別の人だよ。きっかけは認めるけどね。俺は『あの人』じゃないから、ちゃんと違う人だと分かって本気で恋してた。でもさ、悔しかったんだ。日向が俺じゃなくて叔父さんにだけ泣きついたのが。一番側にいたのは俺なのに」

「は?おまえいつから、」

「お葬式で恋に落ちるのなんてサイテーだよね。やっぱり『あの人』の血かな?俺、女の人が怖くてご機嫌を取ってばかりだしね。嫌いになる?」

 日向は知っていた。

 満月が女性に甘い訳を。何でも大抵は笑って相手の要望を聞いてしまう事を。でも放課後デートに付き合ってはいても二人きりにも深い仲にはならないことを。『あの人』と呼ぶ満月の実の母親を何より嫌悪して必死に『あの人』の様になるまいと誠実に女性の相手をしている事を。

 日向は知ってしまっていた。

「バカじゃないの。どんな血が入ってようと、満月は満月だろ。私は、血より記憶の方が怖かった。何も出来ない血より、気持ちが入ってる記憶の方が。もう、側にいられないんだと思った。幼なじみじゃ嫌だ。幼なじみじゃ最後まで一番でいられない。満月の一番傍にいたい。一番を私にちょうだい」

 日向は泣くつもりは無かったのに出てきた涙で泣き、満月は日向を抱きしめた。

「あげる。日向に俺の一番あげるから。ずっと俺の傍にいて」


 男女の泣き声が響く廃ビルの中を五時を知らせる町内放送が鳴った。

 日向は満月の腕の中ではっ我に返り、涙を腕で拭って、女蛾と呉剛を振り返った。

「それで結局どうするんだ?」

 自分の涙を放置したまま女蛾の涙を拭いていた呉剛は、日向達を見ることなく答えた。

「月の使者を呼び寄せて、罰の変更を要求する」

「罰せられる側が要求できるものなの?」

 日向の問いに呉剛は首を振った。

「無論、それに足る理由はいる。今回の場合だと、そうだな。女蛾の脱走が二度目で無理に月に連れ戻せば今後も脱走の可能性があること。昼間蝦蟇蛙になるという罰も女蛾は月で一人であることが既に罰であるので、他人の視線で羞恥する事も無く効を奏していない事。また、今まで若く美しいまま生きてきた女蛾は、まさに女性の最終的な欲望の夢の状態であり、今回の罰を更に科すならば、ここを罰するしかない事。また地球という既に何千年も経ち全く未知の環境であるこの場所で寿命付きで人として暮らすのは常識も考え方も違う女蛾にとってそれ自体が罪である事。ついでに今回逃げた方法は以前俺が教えたものであり、残した道具で降りた事から、責任をとり、同じ条件で女蛾の監視の任を受けたい旨。まあ、大体こんなところか。これらを奏上して受け入れていただく。全て聞き入れて貰えるかは、賭だがな」

 日向は勿論、女蛾と満月もただただ呉剛の策を聞いていた。

「最良は地上で人として生きていく。最悪は広寒宮に戻され、別れ別れにされたまま、さらなる罰を食らう事だ。天は意地が悪い。どの判断が下るかは分からない。女蛾、すまないが、最悪も覚悟しておいてくれ」

 女蛾は頷いた。

「天の兵士が来れば、詰みだ。俺達には対抗のしようがない。奴らは肉体を傷つけず、痛みを与える事も精神だけ痛めつける事も出来るらしい。最悪奴らが出張れば、抵抗するなよ。女蛾は勿論、お前等も、だ。下手をすれば巻き込まれた被害者ではなく、逃亡に手を貸した共犯者として罰せられるからな」

 日向と満月が頷いた。ただ、頷いただけで、そんな状況になったら、満月は大人しくしないだろうと日向は思ったし、そうなれば満月を守らねばならないと、日向は罰を食らう覚悟を決めた。

「天が降りてくるのは次の満月。十三夜の日だ」

 呉剛は懐からポケットサイズの月齢表カレンダーを取り出した。開いたページには赤丸で日付に印が付いていた。

「つまりは今日の夜だ」

「近すぎない!?」

 日向が突っ込む。

「当初の予定では、最悪女蛾を日向と引き替えに奪い取って月に帰るつもりだったからな。帰る当日でなければ逃げきれないだろう?」

「そーですねー」

 日向も満月もこの男は何通り状況と策を考えているのかと呆れた。


 屋根のない四階からは十三夜の満月がよく見えた。中秋の名月ほど大きくはないし、天候から雲に隠れがちではあったが、それはそれで雲の姿と合わせて美しかった。

「十五夜の時はおでん食べたんだよねー」

「お腹空いたの?日向」

「いやー、呉剛がコンビニ弁当をくれてたんだけど、お月見って食べ物とセットじゃない?条件反射というかね」

「もう!日向ったら!緊張感がありませんわ。あめ玉をあげますから、もうしばらく我慢しなさいね。帰ったら水団がありますから」

 夜になり人に戻った女蛾がプリプリ怒りながら日向の掌に水色のあめ玉を乗せてくれた。

「女蛾、その飴は?」

 日向は日中蛙だった女蛾がどこに持っていたのだろうかという方が不思議で呉剛の質問を深く考えなかった。ただただ、おいしそうだとそれを口に入れようとして、

「月の兎が用意した物ですわ。毎日食べるよう渡されていたあれです」

 ギリギリ、口に入れることなく、握りしめた。

「お前それは、月への順化薬だぞ。日向を人外にするつもりか」

「あら?ただの飴ではなかったのですね」

 女蛾は驚いていたが、日向も驚いたし、何なら動悸が激しくなった。

「これが薬なら、飲むのを止めれば人に戻る?」

 満月の質問に

「いや、月への順化が止まり、順化出来ず苦しむだけだ。人には戻れない」

 呉剛は首を振った。

「月へ順化していたら、地球ではしんどかったんじゃない?」

 日向が女蛾に聞いた。ついでに飴は返した。

「地球ではこちらを食べるように、と呉剛が用意した飴を食べてましたわ」

 受け取った女蛾が見せてくれた飴入れの袋には、日向が食べそうになった青い飴とルビーのように真っ赤な飴のに種類が入っていた。

「そっちは地球に順化する薬だ。ただし人になれる訳じゃないが」

 呉剛は苦い顔をした。

「人に戻るには仙の力がいる」

 呉剛が月を見上げる。つられて日向も月を見た。

「あれ?何か降りてくる」

 白いふわふわの毛玉が漂いながらこちらに来ていた。

「ケセランパサラン?」

 満月が受け止めた両掌大のそれは満月の手に落ち着くや長い耳を出した。

「月の兎ですわ」

 女蛾は懐かしそうに二本の耳の間を撫でる。その下から赤い小さな目が開いた。

「呉剛の奏上の返事を持って参りましたー」

 甲高い声が何人もの子供が一斉に同じ声を出した様に多重音声の声が兎から聞こえた。

 兎を持っていた満月は驚き身を引いた。けれど、兎の乗った手は体から遠ざけたものの、兎を落とすことはなかった。

「口動いてないのに沢山の子供の平坦なコーラスが聞こえるとか気持ち悪い」

 日向も引いた。

 女蛾と呉剛離れているのか気にすることなく続きを促す。

「脱走者ー女蛾ー。奏上通りー人に戻すー。事故により月へ来てしまった情状酌量ーこの度の件でー打ち消しとしー、地球に戻すー。捕縛人呉剛ー。女蛾への逃亡幇助によりー同じく人に戻すー。またー、天仙の知識を取り上げー、二度と天仙の知識を得られぬよー、地球に留め置くー。二人ともにー、人の世界でー短き人の生をー老いて死ぬが良いー」

 兎がふわりと浮いた。

 女蛾と呉剛の上を飛んできらきらと光る粉をまぶした。そして、緑色のあめ玉を渡す。

「食え」

 今までの間延び多コーラスは何だったのか、兎は二人に端的に指示した。

 二人はあめ玉を口に入れた。


 アパートに響く泣き声に日向は走った。手にはほ乳瓶が握られている。

「はいはいはいー!出来たよー!おまたせー!」

 バスタオルやタオルケット、クッションで埋め尽くされた床には赤ん坊が二人。泣いているのは女の子の方で、男の子の方はそんな女の子をあやすように頭を撫でていた。

「呉剛!ありがとうね。女蛾!お腹空いたね!ミルク持ってきたよー!」

 あの飴を食べて、二人は人間に戻った。ついでに年も戻って赤ん坊になった。

 赤ん坊になり、しゃべれなくなった二人は泣き出した。

 月の兎は、

「二人をー女蛾をかくまった罪としてー監視者とするー」

「「はああああ!!!おれ(わたし)ら学生ですけど!?」」

「育てろ」

 苦情は受け入れられなかった。

 仕方がないので、日向は伯父に助けを求めた。これに関しては、日向が伯父を頼りにするのが悔しいとか言っていた満月も縋った。

 伯父はすぐ帰ってきてくれた。

 帰ってくる間の三日間で日向と満月は赤ん坊の世話を調べ回って一通り身につけていた。

 そうしながらも、二人は赤子を拾ったと言っても、学生の二人がいくら育てると言っても、赤ん坊は孤児院行きだと思っていた。日向も満月も。育てるなど現実的ではない、無理だろう、と。しかし、

「二人で育てたらいいだろう?予行練習に」

 伯父は、孤児引き取りの手続きを請け負うと、日向と満月に世話を任せた。

「俺の所に、変な兎が来てなー。説明していったぞ。養育費も入金されているんだし、頑張れ!戸籍操作はませろ!」

 あの兎、どうやって手を回したのか。そしてそれをどう信じ込ませ信頼させたのか。

 伯父だけではなかった。

「日向ちゃん。満月の様子はどう?困っていることはない?もっとも、子育てなんてしたことないし出来なかった私じゃ頼りにならないだろうけど、がんばるから何でも言ってね!」

 珍しく定期でない電話が海外からは行ったと思えば、満月の叔母の方にも兎は行ったらしい。そして、数葉はその超常現象を不思議とも思わず、受け入れていた。

「日向ちゃんが満月といてくれるなら安心ね」

 数年ぶりに数葉の明るい声に喜びたかったが、ついでに日向と満月の仲まで暴露されていて、兎の行動に微妙な感情を抱いた日向は素直に喜べなかった。

 そうして育てることになった二人だったが、学校があるため、日中は保育園で預かって貰っているとはいえ、戦場だった。

 赤ん坊になった所為でしゃべれなくなった女蛾と呉剛に記憶があるかも定かではなく、今は普通の赤ん坊であるのだが。

「こいつ等のおしめや風呂の世話する度に思う。呉剛の言ってた天は意地が悪いって本当だなって。こいつ等多分、記憶あるよ。呉剛は死んだ目してるし、女蛾は日向じゃないといやがるだろ?屈辱ってーか羞恥で死にそう」

 満月はそう言いながら、赤ん坊の呉剛のちんちんを摘んだ。呉剛がうなる。散々笑って放した途端、満月は呉剛におしっこを引っかけられていた。

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