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誰がために時の鐘は鳴る  作者: 楠木 陽仁
9/13

河越クリスマス篇

 天は秋よりもさらに高く、乾いた風がヒョウっと吹き抜ければ、背筋が凍えて手足が固まる今は師走。

 関東平野に位置するこの街には雪どころか雨も降る気配もなく、今年もホワイトクリスマスは期待できそうにない。

 そもそも付き合っている相手もいない自分には関係のない話であるが。

 しかし今日も焚火がよく燃える。燃え盛る炎に当たれば寒さも忘れてしまう程の温かさを感じる。

 そして落ち葉で焼いた焼き芋を食べながらボーっと手にした火かき棒を見つめれば、ここ最近起こった事が目の前に立つ陽炎のように思い浮かんでくる。



「我々は『河越解放軍〝オーバー〟』。狂った河越に平和をもたらす為に戦う者たちだよ、同志」

 今は小江戸サミット襲撃事件直後。

自分は氷川会館から脱出した後、彼女の地下ラボに非難した自分を待ち受けていたのは、頭にカビでも生えたのかと錯覚させるような先生の言葉だった。

「何言ってるんですか、先生? 熱でもあるんですか?」

 ただでさえ最近の自分は秘密結社だの正義の味方『ザリバー』だの訳の解らない組織に立て続けに関わる様になったのに、また何なんだ『オーバー』とは。

 自分にはこれ以上は処理しきれないから、ふざけた組織はいい加減にしてほしい。

 その上、自分がこの街で唯一の常識人だと思っていた先生がそんなことを言っているなんて。どうか夢であってくれ。

 もはやこの街で正気を保っているのは自分一人だけなのだろうか。

「熱などないよ。私はいたって真面目だよ」

 狂っていることに自覚のない先生が言うに、『オーバー』とは先生とオヤッさんとが立ち上げた私設武装組織、解り易く言えばレジスタンスである。

 その活動目標はただ一つ。『街興しの功罪』の撲滅だそうな。

 その為には実力を以て事に当たっている。

例としては先ほどの様な『ザリバー』と秘密結社との戦闘への介入や、『街興し』のために作られた施設の破壊などを行っており、しばしばその過激な行動がニュースにも取り上げられているらしい。

そもそも『街興し』により江戸情緒が無くなってゆくことに危機感を感じていた先生は、以前より『街興し』の撤廃と江戸情緒の復旧を市議会に上伸していた。

 しかしながら毎度それは受け入れられず、それどころか市は次々と新しい『街興し』を生み出し続け、そして小江戸らしさは『街興し』に殺されていった。

 その様子は宛らブレーキの壊れた10tトラックが坂道を下る様に、戻ることも止まることも出来す、肥え太る芋虫が木の葉を貪り尽すように、河越を加速度的に蝕んで行くみたいだったと言う。

 このままではいけない。

 そう考えた先生は遂に実力行使に訴えることを決意し、お盆にこの世へとやって来ていたオヤッさんをあの世へ帰るのを引き止めて、そして始めたのがこの独立解放軍である、との事らしい。

 それから4ヶ月経った現在。たった二人で始めたこの組織だが、以前より市民の中に根付いていた『街興し』への反発の念を吸収しながら急激に成長してゆき、現在の団員数は優に3000を超える一大組織へと成長を遂げた。

 これによりこの河越では傀儡ヒーローの『ザリバー』、行政公認の悪の組織『秘密結社』、愚連隊も真っ青のレジスタンス『オーバー』の三竦みの構図が展開されており、戦況はより複雑になってきている。

 もちろん秘密結社の大佐である自分は『オーバー』の存在は噂程度で知ってはいたものの、入団して日が浅いのが災いしてか、これがファーストコンタクトであった。

 よりにもよってこんな出会いは無いだろうと思いつつも、最前より気になっていることを問いただしてみた。

「それよりどうして貴女が先生たちと結託しているんですか」

 呼ばれてこっちを振り向くのは、さっきから自分たちの事をまるで存在しないかのように、気にせず亀屋のモナカをパクついている彼女であった。

 確かに彼女は自分と先生とに面識が有り、それを伝手に自分の事を助けてくれたとも考えられる。

 しかし彼女はそれと同時に秘密組織の三幹部の一人『博士』でもある。

 その彼女が対立組織である『オーバー』と行動を共にしているのは、いったいどういう意図なのだろう。

きっと彼女の事だから何か裏があるに違いない。

そう考えて見据える彼女は、頬張り過ぎたモナカでモゴモゴと何を喋っているのか理解できない発声を続けていたが、湯呑みのお茶で流し込み、一息吐く。

「そうね、アナタを助けたかったから。という答えで納得してもらえないかしら?」

「その言い回しじゃ裏があるってバレバレですよ」

「まあ、確かに他にも理由があるけれども、助けたかったのは歴とした理由の一つよ。それは私だけじゃなく先生方も一緒のはずよ」

 その言葉を受けて先生とオヤッさんはウンと頷く。

 自分を助けたかった。このことに関して嘘は無いのだろう。

 しかし自分はそれでも得心がいかないことがある。

「ですがどうして貴女は先生たちの力を借りたんですか? 仮にも貴方は秘密結社の幹部『博士』なんですよ。その気になれば結社の戦闘員を自由に動かすことだってできたはずです」

「それもそうなんだけど…はっきり言って結社の戦闘員って頼りないのよね。いつもバカなことやっているから肝心な時に役に立たなそうだし」

 確かに(おっしゃ)るその通りだ。ぐうの音も出ない。

仮にも実働部隊を預かる立場である『大佐』の職に就いていた自分には実に耳の痛い話である。

「だからって敵対する組織に応援を頼むことも無いでしょう」

「別に問題ないわ。だって私は『オーバー』にも所属しているもん」

 やっぱり彼女は正式に二股を架けていた。

 いったい毎回何なのだこの女性(ひと)は。いったい何をしたいのだ。

 薄々予想はできたものの、なんの(てら)いも無くアッケラカンと言われてしまうとさすがに呆れ返ってしまう。

「ああ、別にスパイとかそう言うんじゃないのよ。ただ両方ともに純粋な研究員として所属しているだけ。(やま)しい所なんて一つも無いわ」

「そのスタンス自体が疾しいんですよ。絶対ばれたら混乱を招きますって」

「大丈夫よ。ちゃんと『ザリバー』にも技術提供しているから」

「ますます波乱を呼びます!」

 面白くなってきたのか彼女はコロコロと鈴の音のような笑い声を上げる。

 その様子はまさに悪の元凶の姿に重なって見えた。

「私はね、言うなれば〝火かき棒〟のようなものなのよ。どこかに面白そうなことの火種が有れば、飛んで行ってそれを引っ掻き回して燃え上らせる。それがこの街で私に与えられた役目だと心得ているわ」

 そしてその状況を見て彼女は高笑いするのだろう。

 なんと傍迷惑な。

現在の河越で繰り広げられている三竦みの闘争が激化の一途を辿っているのは、大体彼女が引っ掻き回して大炎上させているせいであることは間違いないことを自分は確信した。

「それはさて置き、君にも我々の組織に加入してもらうよ。私たちの事を知ったからにはタダで返すわけにはいかないからね」

「その台詞、今のアルバイト先でも聞いたのですが」

 有無を言わさぬ勢いで詰め寄ってくる先生に一応拒否権の有無を確認してみるも、当然のことながら「そんなものは無い」と一蹴されてしまう。

「君にはね、是非我々のヒーローに成ってもらいたいんだ」

…このオッサン、今ヒーローと言ったか? 大の大人が真面目にヒーローとか言い放ったのか?

聞き違えの恐れもあるため「…どういうことですか?」と先生に問うてみれば、先生はその自論の一端を話して聞かせてくれた。

「いいかい?この街の熱狂は、実はヒーローの存在が、すなわち『ザリバー』支えていると言っても過言ではないんだ。ヒーローという絶対的正義のシンボルが有ることによってその傘下に在るものも正義であり、正しいものであるという風に錯覚してしまう。そうやってこの街は正義であり続けてきたんだ」

 確かにその考えは解らなくもない。強い光に照らされればどんな色も白く見えてしまうように、正義の側に属していれば自ずと周りからは正義の仲間もだと思われてしまう。

 本当はその内側にどんなドス黒いものを渦巻かせているかも解らないのに。

「だからこそ我々はそこに一石を投じようとしている。市と切り離された我々のヒーローを立ち上げることで街を覆っている『ザリバー』という正義の観念が唯一でないということを解らせるんだ。そして君は何よりそれに相応しい存在なんだよ」

 その話を聞いて自分は自分の境遇を心底恨めしく思った。どうして自分にばかりこんな役が回ってくるのか。

 恨みがましく彼女を睨めば、彼女は自分たちの話などまったく聞いていないようにお菓子をバクバク食らい続けていた。

「いったい彼女から何を聞いたのか知りませんが、でもそれは結局のところこの街がやっている事と何ら変わりがないじゃないですか。自分から否定しているやり方を取るなんて可笑しいと思わないんですか」

「そんなことぐらい重々承知だよ。しかしね、今のこの街の状況を(かんが)みるとこの手が一番に有効だと判断したんだよ」

「だからってどうして自分なんですか。自分はヒーローなんて成りたくありません。もっと他にその役目に適した奴もやりたい奴もいっぱい居るでしょう。そいつらにやらせれば良いじゃないですか」

「―――君、本当に解っていないのか? 何で君がヒーロー役を任されるのかを」

「…どういう意味ですか?」

「まあ、良い。解らないなら答えは急がないよ。けれども君以外にヒーローはいないということを覚えておいてほしい」

 まるで押し売りの様に自分にヒーローの役を押し付けてくる先生は、承服しかねる自分の事などお構いなしに話を切り上げると、次に今後の自分の行動計画を説明し始めた。

 その内容は驚くことに今まで通り秘密組織で大佐を続けろというものだった。

 そして秘密結社の情報を『オーバー』へとリークする。つまりスパイをやれというのだ。

 ―――何と言う不忠だろう。自分の組織を裏切ってまで自分は先生に協力する必要はあるのだろうか。

 しかし思えば秘密結社自体にも自分は余り思い入れも無く、剰えすぐに辞めてやろうとさえ思っていた組織なのだ。

 いったいどうすれば自分は満足するのだろう?

 考えるもののすぐに答えなんて出るわけも無く、代わりにある疑問が浮かんできた。

「でもそれ無理じゃないですか? だって敵前逃亡ですし。あそこに自分の居場所はもう無いですよ」

 あの時、自分は氷川会館から逃げ出した。先生たちに無理やり(さら)われたとはいえ、のうのうと生き延びている事実に変わりは無い。

 しかも自分はあの場所に隊長たちを見捨ててきてしまったのだ。彼らからは絶対に許されることは無いだろう。

 そんな自分に組織の中で帰る場所がどこに在ろうというのか。

 ―――しかし自分はアッサリと秘密結社に戻ることができた。

『博士』である彼女の口添えと手土産の『それ(改)』により二つ返事で自分は元の『大佐』のポストへ収まったのである。その代り彼女には今月末ごろに用事を頼まれてしまったが。

 しかも裏切り者と蔑まれることを覚悟して帰った自分を迎える声は予想に反してどれも温かいものだった。

 機動隊やSATたちに囲まれて絶体絶命の状態に陥り覚悟を決めた隊長と隊員たちであったが、先生たちが巻き起こした騒動により開かれた活路を辿って何とか握ることができたらしい。

 そして活路を開いたのは自分の功績だと思い込んだ隊長たちは自分の事を宛ら英雄の様に持ち上げてくる。

 もちろんその事については自分の功績でないと何度も弁明するものの、彼らはそれを謙遜と捉えてしまい、ますます羨望の眼差しを向けてくる。

 そこを先生に目を着けられたのだろうか?

 だとしたら自分の星の巡りが恨めしい。自分は一般人で良いのに。

 そして秘密結社へと戻った自分はすぐに新しい作戦へと駆り出されたのである。



「迷える子羊よ―――さあ、打ち明けなさい」

 自分はとある教会に来ていた。

 この教会は松江町に在る耶蘇(やそ)教の教会で、明治11年から130年以上の歴史を誇る河越で最も長い歴史を誇る。

 レンガ造りの建物と庭に生えた木々の趣が河越ではなく、イギリスを切り取ってきた様な空間に錯覚させる。

 中へ入れば木製の長椅子と宣教台、美しいステンドグラスとが見受けられる中、隅の方に小さな部屋がある。

 この小部屋こそが俗に言う懺悔室である。

 心に隠し事をしている人間や罪を犯して後悔している人間がこの小部屋へと入り、牧師に胸の内を告白して許しを請うあの小部屋である。

 そして今、自分もこの小部屋に入っていた。

 この部屋は実に密閉されていて、外からは一切の音を聞き取ることができない。そして明かりも無く薄暗いために自分が何者であるかを悟られることも無い。

 まさに秘密を話すには打って付けの場所である。

 しかし誤解して頂きたくはない。そもそも自分には心に疾しい所もないし、何ら罪を犯したことも無い。

つまり自分は罪の告白をしに来たわけではないのである。

 ではなぜここに自分はいるのか?

 理由は簡単。自分は罪の告白を聞く立場にあるからである。

 しかしながら自分は耶蘇教に入信したわけではないのだが。

自分がここに居るのはクリスマスの忙しい時期に教会を手伝うためのボランティアとしてやって来ているだけである。秘密結社の差し金で。

 元々河越の教会は市内に住んでいる子供たちのためにクリスマスプレゼントを用意して配るという慈善事業を行っており、毎年この時期に成ると街から有志を募って準備と配布を手伝ってもらっている。

 そこに目を付けたクリスマスの夜に一人寂しく過ごす秘密結社の隊員たちは、溜まった鬱憤を晴らすべく、子供たちの夢をぶち壊すために行動を開始したのである。

その内容は次の通りである。

 先ず秘密結社は隊員たちを河越中の教会に派遣し、ボランティアの中に紛れ込ませた。

そしてまんまと忍び込んだ自分たちがすること。それはプレゼントの箱の中にはなんとゴキブリの卵を仕込んでおくことである、

これにより箱の中で孵化した数十匹のゴキブリたちは25日の朝に喜び勇んで箱を空けた子供たちに襲いかかり、二度とクリスマスを思い出したくなくなるようなトラウマを植え付けようという魂胆である。

なんと悪趣味な。

端からバカバカしく思っていた自分は最初から参加する気も無く、派遣された先であるこの教会でもゴキブリの卵を混ぜること無く真面目に作業をした。

しかし金の入らないボランティアであるこの作業に徹頭徹尾真面目だったわけでもなく、しばしば作業を抜け出し、足を運んでいたのがこの懺悔室であった。

だが、自分がここに来る理由はただ単に作業をサボりたいがためでなく、もう一つ別の理由があったからである。

その日もその理由のためにここへ籠っていた。

「と言う訳で今日も懲りずにゴキブリの卵を入れる作業を繰り返しているだけで、特に目立った動きは無いですよ」

『なるほどなぁ。解った』

 壁の向こう側に居る人物、オヤッさんが納得したように頷いたと思われる。

 自分がここに入っている理由は、こうしてオヤッさんに秘密結社の情報を流しているからである。

 オヤッさんがこの役を任されているのは、(ひとえ)にその身が幽霊だからである。

 幽霊であればどのような所にも、鍵が掛けられていたとしても入ることができ、また気配を完全に消すことも出来るため、諜報活動や暗躍に適役なのである。

 しかし幽霊のオヤッさんがこの教会にやって来るのは相当嫌な事らしい。

壁抜け自由のオヤッさんであるが、話を聞くに神社や寺院、教会などの神聖な場所は結界のような物が張られているらしく、入るのに相当苦労するとのこと。

 また、そのような場所にはお祓いを本職とする人がいるため、一つ間違えば強制的にあの世に送り返されかねない。

しかしそれでも懺悔室を密会の場として使っているのは、自分がボランティアに参加しており行動できる範囲が教会内であること、懺悔室の様に外部と隔離された空間は秘密の話をするのに打って付けであることが理由である。

「しかし何ですね。自分はいつまでこんな事を続けなくちゃならないんですか。既に()きたんですが」

『そうさなぁ。詳しい時期はどうとも言えねぇや。きっとこの件についちゃ決着が付くまでは続けるだろう。何せアイツも躍起になってるしよ』

「ホントに先生はどうしちゃったんですかね。もっと真面(まとも)な人だと思っていたのに、こんなバカげたことに真面目になるなんて」

『これもアイツなりのこの街に対する愛なんでぃ』

「オヤッさんが『オーバー』に居るのも愛故にですか」

『半分はな。もう半分はトットとあの世に帰りてぇからだ』

 そう言ってケラケラと笑うオヤッさんが『おや?』と懺悔室の外の様子を窺う。

 自分も耳を欹ててみると一つの足音が近づいてくる。

『おっと、誰か来たみてぇだな。そんじゃ俺ぁこれでトンズラするぜ。息災でな』

 そう言ってオヤッさんはソソクサと壁抜けして何処ぞへと消えて行ってしまう。

 自分も息を潜めてやり過ごそうとしたのだが、なんと具合の悪いことに足音が今までオヤッさんの板向こう側の部屋へと入ってきてしまった。

 こうなってはマズイ。今ここで慌てて出て行ってしまえば本来牧師以外に入ることの許されない懺悔室を勝手に使っていることがバレてしまう。

 そうなればあのナマグサ牧師に説教を食らうのは請け合いであり、悪くすればボランティアを止めさせられることにも成りかねない。

そんなこんなで出るに出られなくなってしまった自分は、焦り必死に堪えながらも相手の様子を窺う。

『牧師様。私の話を聞いてください』

衝立(ついたて)の向こう側のその人物の姿は実際に見ることができないし、声も壁越しでくぐもって聞こえるものの、その感じから女性だと思われた。

そして自分を教会の牧師と勘違いしたその人は、こちらの事情などお構いなく求めてもいないのに罪の告白を続ける。

いや、正確に言えば罪の告白ではなく、相談と言った方がしっくりくる。

その内容はこうだ。

彼女はダイエットに取り組んできたらしい。しかし自身の意志の弱さから失敗を繰り返してきたらしい。

確かに声の感じも喉に贅肉が付いた太めの体型をした人物っぽいものだ。しかもさっきから懺悔室の狭さに齷齪(あくせく)しているようなのでこれは確定だろう。

そんな懺悔室の女性は自身を変えたくて様々なダイエットに挑戦してきたらしいが、どれも二週間過ぎた時点で堪ええ切れなくなり、毎回暴飲暴食をしてギブアップしてしまったとのこと。

しかも中途半端で止めたものだからリバウンドの方が大きく出てしまい、始める前より太ってしまう事を繰り返すことで今では丸々とした体形になってしまったようである。

つまり察するにこの人は先輩みたいな体型なのだろう。

 そんな挫折してしまった意志の弱い自分を変えたいと思い、自分を戒めるためにもこの懺悔室に訪れたわけとの事。

 一通り話を聞いた自分はどうしたのもかと考えた。

 このまま何も言わずにこの人を返してしまうのも申し訳ない。何せこの人は相当な覚悟をしてこの小部屋へとやって来たのだろう。

 だったらこのまま返してはいけない。心に残るような言葉をかけて上がるべきだ。

 そう決意した自分は咳払いを一つした。

「成る程、さぞ辛い思いをしてきた事でしょう。好きなものも食べられない。そんな苦行のような生活は貴女を心身ともに追い詰めた事でしょう」

 真摯に自分の言葉を受け止めるその人は、頷きながら聞き入っている。

 それはまるでお告げを待つ求道者の様にも通じた姿勢であった。

 ならばここで一つ、聖書の言葉を引用して語ればそれらしく聞こえるだろうと思い、自分は教会から予てより持たされていたポケット新約聖書をめくって適当なページを開き、食べ物ネタならこの言葉が良いだろうと一言引用することにした。

「主は(おっしゃ)られた。人間はパンとワインのみで生きるのではないと」

 突然、自分から告げられた事版その人が動揺する空気が伝わってくる。しかし次第にその空気は意味が解らないといった空気に置き換わっていく。

 それもそうだろう。いきなり突然『人間はパンとワイのみで生きるのではない』と言われたのだ。その意味を考えたくもなる。

 しかし自分が適当なページから抜粋した文言に意味などなく、当の本人である自分にすら意味が解らない。

 ゆえにどうしてこの文言を選んだのかと現在後悔の真っただ中に居た。

 しかし漏れ出た言葉を引っ込めることは不可能なので、どうにかこうにか話をまとめようと考えあぐね、突拍子もないことを考え付いた。

「それは、つまり肉を食えということですよ。肉」

『―――肉…ですか』

 あまりの返答に唖然とする女性の呑む息の音が聞こえてくる。

 それはそうだろう。肉と言えばダイエットの天敵ともいうべき食材にまず真っ先に思いつく代物である。

 食事制限によるダイエットを始めようとする人なら、避けるであろう食材である。

 そんな物を食べろというのである。耳を疑うのは必定だろう。

「ですが、世の中と言うものは面白いものでしてね。『肉食ダイエット』なるものがあるそうです」

『そんなダイエット聞いたことがありません』

「世間ではあまり広まっていないので耳にしていないのでしょう。ですが考えてみてください。古代、人類がまだ打製石器を使って狩りをしていた頃を。人類は穀物を食べることなく、仕留めた動物や魚の肉を食していました。それに人間の腸というものは、長さが短いことから野菜などの植物を消化するのには不向きと言われています。確かそんなはずでした。…つまり人間にとって、野菜を食うでもなく、キノコを食うでもなく、肉を食う事こそ自体が尤も自然であるべき食生活だとも言えます」

 ―――と、自分は口から出任せを言うのである。

 自分の出まかせに近い理論を聞いていたその人は、意外に納得してくれているのか相槌を打ちながら聞いている。

 ひょっとすると、これは行けるのではないだろうか?

 ならばとばかりに調子づいた自分は、即興で考えたより根も葉もないことを並べ立てる。

「ここで重要なのがタンパク質を取りつつも脂質を抑えると言うことです。タンパク質は筋肉や血などの体を構成する素材となる重要な栄養素であり充分に摂取する必要が有りますが、そのタンパク源である肉などを食べる際にどうしても脂質が一緒にくっついてきてしまします」

『ではどうすればいいのですか?』

「それは簡単な事です。肉の脂身は切り取ってしまえば良いのです。また、鶏のササミやフィレ肉といった脂の少ない赤身のお肉を取るようにすれば良いのです。さすれば余計なカロリーを摂取することも無く、汝は良質なたんぱく質を得ることが出来ることでしょう。アーメン」

取って着けたアーメンに、『なるほど』と頷いた壁越しのその人はまるで憑き物が落ちたように、解脱したような声になってお礼を言って部屋を出て行った。

 どうやらこれでこの女性は迷いを断ち切れたのだろう。その晴れやかな声を聴くと何とも言えない達成感を感じることができた。

 後に調べて解ったことだが『肉食ダイエット』なるものは実際に在るらしく、あの時結構適当に言った内容があながち間違いじゃなかったことに我ながら驚いてしまった。

 しかし調べるうちにこのダイエット方法には極度な炭水化物不足による頭痛や生理不順などの深刻な悪影響もあることも同時に知ったのである。

 これではいけない。

自分の嘘から出た真を諭したことで、相談に来た名も知らぬ女性の健康を著しく害してしまったかもしれないのである。

 この経験から無知なのかあまりに罪だと悟った自分は、次からはチャンとした知識に基づいた助言ができるようにと、時間を見つけては『河越中央図書館』に足しげく通い、神学や心理学や哲学はもちろん、科学や政治やサブカルチャーなどあらゆる知識を勉強することにしたのである。

 今思えばこの行為は耶蘇教の信者ですらもない自分には決して許されない行為であり、この時止めていれば後に自分も火傷せずに済んだのだろう。



 それから数日もの間、自分はボランティアをさぼって懺悔室の中に籠っていた。

 あの日以来、自分は何度かこの部屋に潜り込み、迷える魂に道を示す言葉を投げかけてきた。

 最初の内は自分の知識が足らず屁理屈としか言いようのない助言しかできなかったが、回を重ねて経験を積み、勉強をして知識に幅を付けたことにより、今では本職のカウンセラー顔負けの助言をすることができると自負している。

 そして力量を付けた自分の助言により、迷いから解放された子羊たちの声を聴くと、自分が偽りの牧師としてこの席に座っているという罪悪感を忘れるほどの達成感を得ることができ、それこそ自分がこの行為を続けている理由になっている。

 それに外の音が一切聞こえない、薄暗く狭い小部屋の中で聖書を読んでいると心が落ち着いてくるのもまたこの部屋に入り浸っている理由でもあるのだが。

 暫くそうやって過ごしていると、不意に壁の向こう側に人の気配がする。

『牧師様。私の悩みを聞いてください』

 聞こえる声の感じから、どうやら入ってきたのは若い女性の様だ。

 聞いただけでも清楚で可憐な乙女だと解る声色の主は、どうにも切羽詰った様子であった。躊躇いながら、言葉を選びながら。

「迷える子羊よ。さあ打ち明けなさい」

 その様子が気になって自分はいつも以上に注意して耳を傾けた。

『私には好きな人がいるんです。私よりも三つほど年上の方で、私の家庭教師をしてくれています』

 今の話から察するにこの女性はどうやら学生の様であり、おそらく高校生と言ったところだろう。

 自分もある女子高生の家庭教師の仕事をしているため、この話題になると自分の事を言われているようで他人の気がしない。

 しかし家庭教師に惚れてしまうとは、なんだか少女漫画の様な展開だなと思いつつ次の話を促す。

『その人は勉強を教えるのがとても上手で、お話もとても楽しくて、一緒に居るだけで安心する人だったんです』

 どうもこの女性は夢見がちな人らしい。

この人物の事がよっぽど気に入っているのだろうか、語る声色は先ほどと打って変わって軽やかで、まるで小鳥が歌うように楽しげに話している。

しかし修業を積んだ聖職者ではない上に独り身の自分には他人の恋路の話などどうでもいいこと(はなは)だしい。と言うよりも逆に聞きたくも無い話である。その為ならばお足を払ってでもイイ。

その後もこの人物の美点を上げ連ねていく。聞かされている身にもなってくれ。

 そんな訳で早くも辟易している自分は返す相槌も生返事に成り、語る内容も60%ほど耳をスルーするようになった頃、急にまたこの乙女が重々しげに、声を静めてしまったのである。

『私はこんなにその人の事が好きなんです。ですがその人は好きになってはいけない人なんです』

 いったいどう言う事だろう。俄然興味の惹かれる言い回しだ。

 続きの気になった自分は、緩んだ気を一気に引き締めてその女性の話を一身に聞くことにした。

「いったいそれはどう言う事なんです? 何かまずい事でもあったのですか?」

『実はその人には既に付き合っている人がいるんです。その人は相手の事を心の底から本当に愛しているみたいで…その人が相手の人を見つめる目がとてもキラキラしていて…。とても私が割って入る様な雰囲気じゃないんです。でも私はどうしてもその人の事が好きになってしまったんです。それこそ奪ってしまいたいほどに。

―――こんな罪深い私をどうか神様に許してほしいのです。お願いします』

 聞き終わって一息ついた自分は、天井しか見えない真上を仰ぎ、息を付いた。

 何て羨ましい話だろうか。そして何て妬ましい事だろうか。

 こっちは彼女も居ないクリスマスをプレゼントにゴキブリの卵を仕込みながら過ごそうとしているといのに。

 付き合っているというだけでも羨ましいのに、その上他の女性からも慕われているなんて! なんと贅沢な! 腹立たしい!

 主は仰った。リア充は死ねと。さらに爆発しろと!

 二人の女性と関係を持つロクデナシは問答無用で地獄に堕ちれば良いと思い立った自分は、この関係を更なるカオスへと叩き落とす言葉を選ぶために手に持っていた聖書をバラバラ捲る。

「案ずることはありません。それに許しを請うことはありません」

 ページを捲る間を持たせるために自分は少女の恋心の正当性を説くことにした。

 人を愛することに何の罪は無い。

愛は罪ではないと誰しもが言っている。宗教家も政治家もミュージシャンも。

 だったら罪悪感など感じる必要は無いのだ。貴方の感情は実に正しく美しい。自分はそう少女に諭し続けた。

 一方の少女は自分の言葉は理解できるものの、得心の入っていないという感じで、不安げな生返事を返してくる。

 それほどまでにこの少女は道徳観に縛られているのか。

 ならば教え諭してあげなければならない。道徳とは時代と社会によって変容する、曖昧なひな形なのだと。

 そしてお目当ての文言を見つけ出した自分は、咳払いを一つしてシャチホコバッタ声を作ってこう言った。

「主は仰られた。カエサルの物はカエサルへ返せ、と」

 いきなりそう言われた少女は暫くその真意を考え、

「それは、つまり…その人には手を出すなと言うことですか?」

 そしてそのように解釈して自分に答えを問うてきた。

 確かに普通に考えればそうなるだろう。お前の物は俺の物が信条のジャイアニズムに相対する言葉だから。

 だが、それを曲解すればいい。憲法の文言も然り、抽象的な言葉など如何様にでも解釈が利く曖昧なものだ。

だったら自分の都合の良いようにとらえ、そしてこの少女へと諭してやろう。さすれば自分の御霊も救われよう。

「そのように解釈するのは早計です。―――良いですか、先ずはこの言葉の成り立ちから説明しましょう。

この言葉は元々、ローマの役人に税金の是非を問答された主が、当時の硬貨に鋳造されていたローマ皇帝の肖像を指して言った言葉です。つまりその肖像が硬貨の元の持ち主が誰であるかを示す証となっているため税と言う形で返すべきだと言ったのです。

 ―――さて、この事から考えると、物が存在しそれが自分の所有物であると示すためには、その証となるものの存在が必要だということです。貴方も持ち物には名前を書いたり、お気に入りのストラップを着けたりするでしょう? そのような行為をして初めてそのものは自分のものとなるのです。

 では、今回の件はどうでしょう? 貴女の思い人にその恋人だという女性の持ち物だという証は付いていますか? 左手の薬指に誓いのリングが嵌められているのですか? もしそうで無いとすれば、あなたの思い人は相手の女性の物ではない、それどころか誰の物でもないということです。

 でしたら罪悪感に駆られる心配はありません。野に咲く花を手折る様に、誰の物でもないのなら、自分の物にしてしまえば良いのです」

『ですがそれはおかしくないですか? ヒトをモノみたいに扱うなんてことはできないですし、何より道に反します。…とても牧師様の言われることとは思えません』

 道徳が無いのは当たり前だ。こちとら耶蘇教の坊主じゃなく、嫉妬に燃えるモテない腐れ大学生なのだから。

 そんな奴にノコノコ恋愛相談師に来る方が悪い。

勝手に懺悔室に入っている奴が自分の事棚に上げて何をホザくとか、そう言った反論は基本的に却下だ。

「そんなことはありません。主はこうも仰られました。信じる者は救われる、と。この場に於いて私の言葉は主の言葉と同じなのです。私を信じて行動すれば自ずとあなたの御霊も救われましょう。

 さあ、勇気を以て踏み出すのです。彼に貴女の印を刻み付けて差し上げなさい。誰が見ても解る様な烙印を施して御上げなさい。

 主はいつでも貴女の傍に居ります。そして貴女を見守りその行いを許すことでしょう」

 そこまで述べた後、自分は静かに「アーメン」と呟くと十字を切った。

 主が許せば何であれ許される。それが耶蘇教なのだ。

 一方、壁の向こうの少女は暫く無言のままでいたが、『もう少し考えさせて下さい』と言い残し静かに懺悔室を後にした。

 まったく煮えきらない人だ。そんな煮え切らない態度だから好きな男も他の女に取られてしまうのだ。

 もう少しで神に背いたリア充に裁きの鉄槌を下し、ドロドロの修羅場へと叩き落としてやれたものを。

 肩透かしを食らった自分は心底残念そうに溜息を吐いてそのまま懺悔室の中で転寝(うたたね)をしてしまったのである。

 暫くウトウトしているとまた誰かが部屋に入ってくる気配がする。今度は男性の様だった。

 どうやらその男性はかなりの巨体の様で、収まりきらない懺悔室の中で実に狭そうにしており、壁がギシギシ悲鳴を上げている。

 しかしその男はそんな状況自体も楽しんでいるらしくヘラヘラと笑っている。

 こんな奴に本当に悩み何か有るのだろうか?

「迷える子羊よ。さあ、打ち明けなさい」

 ともあれ、もはや常套句となったその台詞を告げると、男性は実に居暑苦しい声色で話し始めた。

『実は俺は借金をたくさん拵えてしまいまして…今じゃどうにも首が回らなくなってしまって表を歩くのも一苦労です。

 それで仕事して少しずつ返していこうとしているのですが、如何せん顔の出せない仕事しかできないんです。その仕事がこれまた危ない仕事でして、体力が事のほか必要でして、そのうえ命がけなんですよ。ホント参ってしまいますね』

 その後もこの男は自身の身の上をツラツラと話し続けた。

 やれ給料が安いだの、休みがほとんど無いだのと仕事の不満はもちろん、剰え寝ながら金を稼ぐ方法は無いかなどと自分に質問してくる始末。

 調子のいい奴だ。自分の事棚に上げて好き勝手言っていやがる。こんな奴に付きまとわれたら毎日が災難続きだろう。

 だがこういう奴は既に手遅れで、自分の力だけではどうにもできないくらい廃人になっているものである。

 こういう時こそ周りの助けが必要なのである。周りの人たちがちゃんとこの廃人の面倒を見てやることで少しずつ真人間に戻してやらなければならない。

それをしていないなんて、周りの人間ははっきり言ってただの怠慢だろう。危険物の管理はちゃんとしておいてもらわなくては困る。

 もしも、万が一にこの壁の向こうの人物に自分が出会うことがあり、そして彼から迷惑を被られたらどうするのか。

 早めに予防しておいてもらいたいという思いを込めて、話し終えた男性に一つ言葉を送ることにした。

「聖書にはこのような言葉が有ります。もしあなたの衣服が余っているのなら、それを衣服の無いものに分け与えれば良い、と」

『…その心は?』

「もしも自身に余力があるならば、それを他人のために使うべきだということです」

『―――それは解っているけどよ。さっきも言った通り俺は余りが有るどころかマイナスなんだ。そんな余裕は微塵も無いよ。むしろ分け与えて欲しいくらいだ』

「もちろん解って行っています。しかし、だからと言って巣の中の雛の様に口を開けて待っているだけではいけません。自分から仕掛けて行かなくてはならないでしょう」

『じゃあなんですか、金を得るためにもっと働けって言いたいんですか? 牧師様は』

「それもまた手段の一つです。ですが私の言いたいことはそう言う事では無いのです。

―――私の言いたいのは、もっと他人に(たか)れということです」

『―――良いんですか? それやっちゃって良いんですか? てか、それをやり過ぎて最近は仲間たちから大分敬遠されているんですが、もっと遠慮せずにやっちゃって良いんですか? 牧師様』

「良いですよ。ドンドンやっちゃって下さい。ですがもっと大事な事がこの世界には有るのです」

『それは何ですか?』

「主はこう仰られました。汝の隣人を愛せよと。

つまり貴方の身近にいる親しい人たちを大切にしなさいと言うことです。もし貴方が助けを求めて手を伸ばしたとき、その手を握ってくれるのは遠くの誰かではなく近くの仲間たちです。…つまり、周りの人たちは貴女を助ける義務があるということです」

『ヤッパリィ! やっぱりですか牧師様! 俺もう躊躇わないですよ。やっちゃいますよ! 歯止めが利かなくなりますよ!』

「良いのです。主は貴方の傍にいつもいらっしゃいます。そして貴方を見守り貴方の事を許すでしょう。決して私は貴方の傍には寄りませんが」

 アーメンの言葉を聞くことも無く、その男性は立ち去って行った。

 ズカズカドカドカと教会内を走り去って行ったその男性は、自分が懺悔室から首を出したときにはもう居らず、後姿も見えない。いったい誰だったか解らなかった。

 彼の男性の周囲に吹き荒れるであろう集りの嵐を想像すると、少し薄ら寒い感じにもなるが、まさか自分に降りかかることも無いだろうと、のうのう思いながらもう一眠りしようとした。

「汝はここで何をしているのですか」

 その時である、不意に自分は後ろ襟首を掴まれたのは。

 戦々恐々としながら振り向けば、そこには本物の『牧師』様が立っておられた。

 自分を見据える目線は慈悲を超えるような状況ではなく、どちらかと言うと今から断罪を受けるような雰囲気である。はっきり言って怖い。

 そんな牧師に何をしていたのかと問われれば黙っていることはできず、つい正直にサボっていたことを話さなければならなかった。もちろん迷える子羊を諭していたことは黙っていたが。

「汝はどういうつもりでこのボランティアに参加しているのですか。私たちの仕事は神聖にして尊い行いなのです。それをサボってこんな所で居眠りをしているなんて。解っているのですかここは牧師以外には入ってはいけないのですよ」

 続けざまに弾劾される自分に反論の余地は微塵に無く、泡を食らって只々黙っているしか無かった。

 しかし今回は自分が全面的に悪いことが解っているが、ここまでクソミソに言われることも無いだろう。

 実はこの牧師、元々は仏を崇める者、仏教の僧侶であった。

 河越最大の寺院である喜多院で先祖代々僧侶として仏に仕えてきたのが彼の家系であり、僧侶組合の中でもかなりランクの高いポストを熱望されるほどの人物であったのだが、彼は『北枕で寝てみたかった』というどうしようもない理由で耶蘇教に改宗したナマグサ牧師である。

 そんな仏に足を向けて熟睡する男に、神の意志がどうだのと告げられたところで何を信じられようか。

 告げられる弾劾の言葉を右から左に流して忍んでいれば時の鐘が5つ鳴り、今日はもう解散となった。



 自分は教会から直接に後輩の家族が営む駄菓子屋へと向かった。

 入り口で親御さんたちに挨拶した後、二階へと向かえば、部屋の中でお嬢さんが自習しながら待っていた。

 お嬢さんの家庭教師を始めて既に三か月に成るが、自分も驚くほどメキメキと学力をつけたお嬢さんは、もう既に自分が教えなくとも大丈夫だと断言できる。

しかし、どういうわけかお嬢さん自身と何故か後輩に熱烈に懇願されて、自分はこの家庭教師という役をまだ続けていた。

 そして今日もお嬢さんの自習を見つつ、時々ある質問に答えているくらいしかやる事の無い家庭教師をしていると、ふと、お嬢さんから声を掛けられる。

 また質問かと思えばそうではなく、クリスマス・イヴには予定があるか訊いてきたのである。

 これは…つまり…自分とイヴの夜を過ごしたいと言うのか?

 マジか! それはマジなのか!

 苦節二四年。イヴの夜は家族で過ごすものなのだと自己暗示をかけて現実から目を背けてきた自分にも遂に聖夜が訪れた。

 早めのサンタさんありがとう。今年の冬は暖かく過ごせそうだ。

 浮かれ気分になった自分はその後の勉強になんか身が入るわけも無く、待っている間も上の空、質問されても生返事を繰り返すばかり。

 そんなこんなで時間が過ぎて家路に付く間も浮かれっぱなしの自分は、その日五回も車に衝突しそうになった。

 しかし、風呂に入って布団に潜るころには熱も冷め、冷静に考えることができるようになった頭にはとある不安が沸々と湧き出してきた。

 自分には彼女と言う思い人がいる。だのに自分はお嬢さんに現を抜かそうというのはなんと不義な話だろう。

 できれば一途に生きたいものだと願うものの、この二十四年、恋人のいない女日照りが延々と続いたサハラ砂漠の様な我が人生でようやく巡ってきたオアシスである。

 折角だから少し口を潤すくらい罰が当たるわけでもあるまい。聖夜が用意してくれたプレゼントなのだ。躊躇うこともあるまい。

 主は仰せになられた。聖夜にカップルは祝福されるべきだと。

 そう勝手に都合よく判断した自分は次の日お嬢さんに了承のお返事を伝えた後は、まるで宙に浮いたような日々を過ごしていた。

 そしてクリスマス・イヴ当日。自分は時の鐘の下でソワソワしていた。お嬢さんとの待ち合わせのためである。

 お嬢さんを待つ自分は、宛ら骨を無くした犬の様に見るに堪えない落ち着きのなさを晒すものの、周りを気にする余裕は全くないのである。

 今意識が向いているのは頭上の時の鐘。その鐘が三つ鳴るのを今や遅しと待っていると、目の下から「センセェ」と呼びかけられる。

 下を向けば声の主、お嬢さんが不思議そうに見上げており、呆けた顔を視られた気まずい理由を自分は鳴り響く鐘の音に求めた。

「鐘が鳴るのが待ち遠しかったんです」

 それを聞いたお嬢さんは「そうですか」と優しく微笑むと、それ以上の追及はして来ない。

 先輩ならばこの場合、鬼の首を取ったがごとく揚げ足を取って重箱の隅をつつく様に自分の事をオチョクってくるだろう。

そのへんに慣れているためか、お嬢さんとのやり取りはどうも調子が狂う。

 とはいえ、今回はそんな些細ことも言っていられない。これからお嬢さんとデートなのだから。

 デート。実に甘美な響きではないか。

 実際にこの身に味わってしまえば、世間にワラワラする若い男女が血眼で追い求めるのも頷ける。

こんな実に甘露な空気を今の今まで味わって来なかったなんて。自分は今まで死んでいたに等しい。知らず知らずに口角が上がってゆく。

 しかし、女性の隣でエスコートしている男として気の緩みはいけないと、取って着けたような苦み走った顔を取り繕い、お嬢さんと連れだって向かった先は、河越映画館の老舗『スカラ座』である。

 時の鐘の裏手にある路地。そこにヒッソリと佇む昔ながらの映画館。この街最古の映画館。それが『スカラ座』である。

 明治38年に寄席『一力亭』として産声を上げたこの映画館は、その後『おいで館』、『川越演芸館』、『川越松竹館』と出世魚の如くその名を変えながら時を越え、そして昭和38年に現在の『川越スカラ座』と改名したのである。

 洋画、邦画多岐にわたり名作を上演してきたこの映画館であるが、時代の波に飲まれ、最盛期には街に7つもあった映画館が次々と閉館してゆく中、ただ一つだけ取り残されるように今もこの場所に在り続けている。

 実際に南古谷にシネコンができるまで河越で唯一の映画館であった。

 白タイル張りの外観は古臭く、チケットを買って中へ入ってみれば、内装もどことなく地方の公民館のように思えてしまう。

 全席自由の劇場は一見するとまるで温泉旅館の大広間に椅子を備え付けたような作り。しかし壇上の上に備え付けられた約10㎡のスクリーンがこの部屋は確実に映画館である証拠となっている。

スクリーンの数はこれのみであるが、人の入りは疎らだった。

 閑散とした座席の内、スクリーンの良く見える席に陣取った自分たち。携帯の電源を落とし、売店で購入した清涼飲料水とボップコーンを開けて待ちわびていると、場内の明かりが消される。

 スクリーンに映し出されたのはこの時期に相応しいメロドラマ。雪の白さが眩しい世界に若い男女が愛を育み、そして別れを迎える。使い古された展開に涙の代わりに欠伸が出てくる自分と打って変わってお嬢さんはホロホロと泣き崩れている。

 自分がそっと手渡したハンカチを「ありがとうございます」と受け取ったお嬢さんは、涙を拭いジッとスクリーンを見つめている。

 自分もお嬢さんに倣って眠気を振り払って最後まで頑張った。

 お嬢さんを連れ立って表へ出れば日が沈んでより一層の寒さがこの街を包んでいた。

 ヒョウと駆け抜けてゆく北風に頬が切れてしまうのではないかとヒヤヒヤする。こんな日はトットと家に帰って鱈チリでも突っついているのが一番だろう。

 思わず身震いしてしまう自分たちは並んで歩くのは街灯に照らされた蔵造の町並み。

 上手い具合に光を受ける蔵の造りはとても美しいが、如何せん漆喰の建物がどうにも空気と相まって寒々しい。

 駅までまだあるな、などと一路家路を急げばふと自分の隣にお嬢さんが居ないことに気が付く。

 振り返って見れば3mほど離れたところをお嬢さんは歩いていた。

 今更ながら気が付くがお嬢さんはハイヒールを履いていた。

 ただでさえ自分とは歩幅が違う上に不安定な靴を履いていては差がついて当然だ。

 これはいけないと思い取って返した自分はお嬢さんの隣へと歩み寄る。せっかくお嬢さんと一緒に居るのだ。離れて歩くなど失礼だろう。

 隣を歩むお嬢さんは急に自分が傍に来たことに驚き、恥ずかしげに俯く。その顔は霜焼けなのか血が上っているのか真っ赤になっており、こっちまで自分の行為が恥ずかしくなる。

 無言のまま歩いていると、近づいてくる旧第八十五銀行跡の洋館もその白壁が、また先ほどのスクリーンに映し出されていた銀世界を思い出してしまう。

 映画の登場人物も二人して無言のまま街を歩いていたっけ。そして街角の小さなお店で思い出のアクセサリーを買うんだったっけ。

 思い出すシーンが現実に被る様に一軒のジュエリーショップがあり、そこにはシルバーで出来たペアリングが飾られていた。

 お嬢さんもそれを見つめている。こんなのをカップルで一緒に着けられれば遠目からも一目でラブラブだと解る事だろう。

 ならば自分がそれをプレゼントしてみようか。クリスマスだし。

 しかしその値段を見て目を剥いてしまう。とても手持ちで足りる額ではない。

 気を使って遠慮するお嬢さんだが、カッコつけて言った手前後には引き下がれない。それに自分は引き下がる必要も無い。

大丈夫と威厳ありげにお嬢さんを諭した自分は余裕を持って店を出て、勇んで銀行へと駆けこんだ。

 財布の中に突っ込んでおいたカードをATMに読み込ませ、暗証番号を打ち込む。

 そうすればお嬢さんの家庭教師と駄菓子屋のバイト、秘密結社での給料を溜めこんだ自分の口座が開かれる。

 努力の甲斐が有って自分の口座はホクホク。横にいくつもの0が並ぶ凄い桁の数字となっている。

 何処に出しても恥ずかしくないどころか胸を張れる。在りし日の先輩並みにリッチな口座なのだ。

 これならば豪華なプレゼントの一つや二つなど造作も無い。

 しかしこれはある目的のために貯めた金である。手を付けても良いものだろうかと一瞬考えが過るも、意を決して引き落とすことにする。

 えぇい! シミッタレるな。今日はクリスマスだ!

と、口座を立ち上げてみれば、確かに0が並んでいる。

 縦に。

 縦にゼロが並んでいる。そしてゼロの前には数字は書かれていない。つまり自分の残金は純粋な0であった。

 銀行の手違いか、神のイタズラか。それとも預金したこと自体が自分の妄想であったのか。自分の残金はスッカラカンになっていた。

 どうしてこうなった⁉ 動揺する自分の携帯電話がケタタマシく鳴ったのは丁度その時であり、取り出したディスプレイには〝先輩〟と映し出されている。

『おう、電話に出られるってことは暇そうだな』

 相変わらず厚かましい声にウンザリしながら社交儀礼的な「コンバンハ」を告げる。

『つれないなぁ。せっかく寂しいクリスマスを過ごすであろうお前に、こうやって励ましの電話をしてあげているのに』

「頼んでないですし自分は寂しくないです。デート中です」

『またまた強がって。お前にそんな夢みたいな話があるわけ無いだろ。第一俺に無いのにお前に在るはずがない。そんなのは許されない』

 何を勝手な。自分も甘い一時を過ごすこともあるのだ。先輩に関係なく。

「ところで、何の用なんですか? 用も無いのに電話かけてきたんですか」

『ああ、そうだった。お前、君の預金を確認できるか』

「…まるで見計らったみたいな話題ですね。今丁度見ているところですよ。大変なことになっていて取り乱し掛けているんですが」

『だろ、預金が0円になっているんだろ』

 そこまで言われてもはや言葉はいらないほど理解できた。

 今回の事件に先輩が関わっていることを。「いったい何をしてくれたんですか」と語気を強めて問い詰めれば、先輩は悪びれもせず、むしろ自慢げに答えてくれた。

『確か夏頃だったかな…君に通帳と印鑑を一緒の場所に置いとくなって言っといたよな。―――でなぁ…』

 つまり、先輩はそれを、自分の通帳を使ったと…。

マジでこんな人死んでほしい。

聞いてもいないのに語りだした先輩がこんな犯罪まがいの行為に及んだ理由では、どうやら何処かの阿呆に隣人愛を曲解して諭されたらしい。

それを真に受けて実行する先輩も先輩だが、その元凶となった阿呆も妬ましい。天罰が下ればいいんだ!

「何てことしてくれたんですか! トットと元に戻してくださいよ、自分の財産」

 凄んでみるものの当の先輩は気の無い返事をするばかり。きっと受話器の向こう側ではその眼を泳がせている事だろう。

 そんな態度で『使っちゃったから返せない』などと言われて誰が許すことができようか。自分は耶蘇教の聖人じゃないんだ。一般人なんだ。

 罪を憎めば人まで憎い。煮えくり返るハラワタの勢いに任せて思いつく限りの悪口雑言を罵倒してしまう。

『まあ、怒りを鎮めて。ただ単に君の金を掻っ攫ったわけじゃない。チャンと10倍にして返すからさ』

四の五の言わずにその場で携帯を叩き切った。先輩がこんな事を言って実現した試がない。信用ができないのだ。

すかさず送られてくる『手は打ってあるんだ』と書かれた先輩のメールも削除して、意気消沈しつつトボトボとジュエリーショップへと退散すると、お嬢さんが店の前で待っていた。

寒空の下、自分が帰ってくるのを待ち続けていたお嬢さんに先ほどのアクセサリーが買えないことを詫びる。

お嬢さんは咎めることはせず、その気持ちだけでも嬉しいと言ってくれる。

良くできた娘だと目頭が熱くなる自分を連れてお嬢さんは歩んでゆく。

そしてそのまま帰るのも気まずく、かと言って一緒に居るのもまた気まずい。

行く宛も無い自分たちは蓮馨寺までやって来ると、ベンチに腰掛ける。

そのまま自分の買った暖かなコーヒーを飲む二人。

始終無言な二人の間に冬の寒さが吹き抜けてゆく。

寒さに震えてしまう自分に呼びかけたお嬢さんが取り出したのは、赤い毛糸のマフラーだった。

見るからに暖かそうなそれは何処となく編み目が歪になっている。

編み目が密な所と疎な所がところどころに在り、柄も統一性が無い。

もしや不良品と掴まされたのか、と心配する自分だが、自身で編んだものだとお嬢さんが恥ずかしげに教えてくれる。

お嬢さんの手編みだと! 驚く自分の首周りにお嬢さんが赤いマフラーを巻いてくれる。

巻かれるだけで温かい毛糸のマフラー。予想通り肌触りがゴワついてチクチクする。

しかし心遣いがが嬉しく思うが、如何せん長さがあまりに長い。両端が地面に着きそうだ。

自分にマフラーを巻いていたお嬢さんは、何を思ったかそのまま自身の首にも巻き付けたのである。

つまり一つのマフラーに自分たち二人が巻き付いているという、何とも温かい、そしてラブいカップルの絵面になっている。

宛ら自分がお嬢さんに捕まえられたというか、お嬢さんの持ち物になってしまったような感じである。

蓮馨寺に他に誰も居なくて良かったなと思うほど恥ずかしい状況だ。恥ずかし過ぎて蕁麻疹が出そうだ。

自分もあらぬ方向を見て赤ら顔を背け、やった当人であるお嬢さんも耳まで真っ赤に赤面して俯いている。

より一層無言な状況に陥った二人に「ねえ、こんな所で何しているの?」と唐突に投げかけられる声に体中一気に悪寒が駆け巡る。

あらぬ方向から正面を見返せば、先ほどまで誰も居なかったそこに驚くことに彼女が立っていた。

赤い生地とモフモフしたファーが端々に縫い付けられた可愛らしい外套を身に着けた彼女は、怒りでも驚きでもなく、どこか楽しげな表情で自分たちを見ている。

その視線の先に居る自分はマズイものを見られたと、宛ら間男の如くアタフタとベンチから立ち上がろうとする。

するとそれを抑え込もうとする力が働く。横を見るとなんとお嬢さんが力の限り自分を繋げたマフラーを抑え込んでいるではないか。

どうしてお嬢さんがこんな事をするのか。

普段のお嬢さんは控えめでこんな積極的に自分に何かをしてくるような女性ではないはずだ。

だのに今夜はイッタイどうした事か。自分が自身から離れることを絶対許さないというように、強引に迫ってくる。

まるで自分が自身の物だというように。

悪い友人にでも唆されたのだろうか。お嬢さんにはその様な下世話なものに染まらないでほしいと切に願う。

「楽しそうで何よりだけれど…あなた、私との約束を放っておいて…どういうつもり?」

 そう言われても自分に思い当たる節は無い。

 もし、彼女とクリスマスに逢引する約束をしていたのだとしたら、是が非でもそちらの方へ赴いたものを。

 そんな約束はしていない、それに自分はお嬢さんと先に約束をしていると説明するが、彼女はそれよりも前、小江戸サミット襲撃事件のときに約束をしたらしい。

 まさかあのとき用事を頼まれたのがそうなのだろうか。しかしあれは後日と言われていたはずで、今日だと入ってなかったはずである。

 しかし、彼女が自分の携帯を見るようにと促してくるので、スカラ座で切ったままにしていた携帯を着ける。

 そこで初めて気づいた事だが。彼女から送られた自分を呼び出す内容のメールがものすごい数届いている。

『すぐに来なさい』と綴られたメールの山に度肝を抜かれているのを彼女はほら見なさいという表情を向けてくる。

 まさかこれを以て自分との約束を完了したと見なす彼女に、さすがにそれは傍若無人だろうと思いつつ、これだけのメールにも気が付かなかったのは明らかに失態である。

 どのように詫びれば彼女に許してもらえるのだろうと、グルグル考える自分。

 その自分の手を取ったのは右隣に座るお嬢さんである。

 確かに自分は彼女から呼び出された。しかし共に居るお嬢さんを(ないがしろ)にしてしまっては良いわけが無い。むしろそれをやったらクズである。

 自分の手を取ったお嬢さんの様子を見て彼女は露骨に不機嫌そうな顔をする。

 対するお嬢さんはいつもの優しげな眼差しを潜め、強い意志を感じる眼光で彼女を見据えている。

 無言のやり取りと視線の火花が二人の間に飛び交っているように思える。

 これは俗に言う〝修羅場〟と言う奴だろうか。まさか自分の身の回りにこの戦場が展開されるとは。何かの天罰か。

 更なる苦悩の渦に巻き込まれて頭を抱える自分。

 そこへ掛かる「待った」の一声。顔を上げて声の主を見てみれば、隣のお嬢さんから「兄さん!」と驚きに満ちた声が上がる。

 何故ここに居ると頭がこんがらがる自分の元へとやって来た後輩は、眼差しでもう大丈夫ですと語りかけてくる。

義兄(にい)サン。僕が来たからにはもう大丈夫です」

「いったい君は何しに出てきた。そしてどうしてここに居る」

「それは僕の妹がちゃんとデートを熟せるかを物陰から確認していたに決まっているじゃないですか」

「! まさか四六時中自分たちの事を付け回していたのか」

「そうですよ。鐘の下で待ち合わせている時も、スカラ座で映画を見ている時も、同じマフラーに包まっている時も、物陰からコッソリ見つめていたんですよ。義兄サン」

「義兄サンとかやめろ」

「いきなり出てきて私を無視するとか止めてくれないかしら」

 置き去りにされてしまったことに少々オカンムリな彼女。そんな彼女に後輩が食って掛かる。

「黙って聞いていれば酷い言いがかりじゃないですか。未定の予定を今日やるからっていきなり呼び出すなんて。義兄サンにも用事があるんですよ。それも今日のは特別大事な予定だったんですよ」

「そうは言っても約束は私の方が先に取り付けていたわ。チャンと月末にって伝えておいたし。それならば月末には予定組まないようにしておくべきだし、もしくは私に確認を取るべきよね。そうは思わないかしら」

 どちらの意見も尤ものように聞こえ、互いに譲らない言い争いは自分達しかいない閑散とした蓮馨寺の境内に響き渡る。

 熱くなる言い争いにオロオロするお嬢さん。自分は罵りの言葉まではく様になってきた後輩に、あまり彼女を悪く言わないで欲しいと言う。

 その態度に気分を害したのか、後輩はすごい剣幕に成り胸ぐらを掴んできた。

「何言ってるんですか義兄サン。僕は貴方と妹のために言ってるんですよ⁉ それなのに義兄さんはあの人の肩を持つんですか? フザケないで下さい」

 そんなこと頼んでいないと思いつつも、後輩に気圧されて目を白黒させる自分を彼女がさも楽しげに笑う。

 その様子が腹に立ったらしく、後輩の怒りの矛先が再び彼女へと向く。

「何が可笑しいんです⁉ ―――この際ハッキリ言わせてもらいますが、これ以上義兄さんを自身のオモチャみたく扱うのは止してもらえませんか」

「あら、オモチャとはなかなか良い表現ね」

「話を躱さないで下さい。あなたが義兄さんを振り回すせいで他に過ごせる時間が減っているんです。そもそもあなたは何なんですか。彼氏か何なんですか? 義兄サンの事を何とも思っていないのならもうチョッカイ出さないで下さい。はっきり言って迷惑なんです」

 そんなことを君に言われる筋合いは無いだろうと内心で突っ込みを入れる自分。

だが彼女から告げられた「好きよ」の言葉に度肝を抜かれる。

 今、彼女は好きと言ったか? 自分の事を?

 あまりの事に脳が状況を理解しようとしない自分。

 あまりの言葉に両手で口を押え滲む涙を必死にこらえようとしているお嬢さん。

 あまりの答えに怒りと戸惑いが綯交ぜになって二の句を継げない後輩。

 そんな自分たちを一笑するように彼女は言葉を続ける。

「確かに好きよ、彼の事は。それに彼も私の事が好きなのよ。絶対にね」

「―――何を…」

「だから今回の事はまあ良いわ。ゴッコ遊びは大目に見てあげる。飽きたらばチャンと帰って来てくれるから。私はそれを待ってればいいのよ」

 そこまで言って彼女は蓮馨寺を後にする。その姿は満ち溢れる余裕に彩られており、自身の言葉を確信しているようだった。

 まだ何か言いたげな後輩はその後ろ姿を睨みつけ、お嬢さんは直視することも出来ず項垂(うなだ)れている。

 そして自分。自分はどういう訳かときめいていた。

 どうしてなのか自分は彼女への好意が募っていた。

あれほど傍若無人な振る舞いをされたにも拘らず、あれだけのことを言われたにも拘らず。

自分は彼女の事がより好きになっていたのである。

「勝負は有ったみたいね。まあ、今晩はクリスマスだしゴッコ遊びを許してあげるわ」

「ちょっと! 待てってば!」

 捨て台詞を残し踵を返してこの場を後にしようとする彼女に、後輩が話はまだ終わっていないと、食い下がろうとする。

「義兄サン、見損ないましたよ。ホントに…」

 彼女の後を追いかけようとする後輩は、非難の眼差しとその言葉を残して蓮馨寺から駆け出して行った。

 この場に残ったのは自分とお嬢さんのみ。二人の間に言葉は無い。

 そもそも、こんな状況で何を言ったら良いのだろうか。

 気にせず言葉を紡げるのなら、無神経にも程が有る。

 こっちはもう大声で喚き散らしながら夜の川越を全力疾走で駆け抜けてしまいたい心持ちだ。

 しかし、そんな衝動もこちらの袖を掴んで離さないお嬢さんの為に叶えることはまずできない。

 こんな状態では立つことも座ることも儘成らず、空気椅子の状態のまま固まっているしかなかった。

「…ヤッパリ、…そうしないと。…しょうがないですのね」

「え? 何?」

 そんな自分のすぐ横で、ぽつりとお嬢さんが何か呟く。

「センセェ…、来てください」

自分の返答も聞くことも無く、掴んだ袖を引っ張って、お嬢さんはツカツカと前を歩いてゆく。

―――なんかちょっと雰囲気がマジだ。

何時も朗らかで心優しいお嬢さんから、今まで一度も感じたことも無い剣呑な雰囲気に、自分は外気以外の寒気を感じた。



そうこうしている内にお嬢さんに連れ込まれたのは、菓子屋横丁の一角。お嬢さんの実家である飴屋の作業場だった。

 自分は何だってこんな所に連れ込まれたのか。訳も解らず面食らった表情をする自分を、お嬢さんが見据えてくる。

 見据えてきてはいるのだが、作業場には明かりは無く、お嬢さんの表情は闇に紛れてしまって見ることは出来ない。

 しかし、その双眸が怪しく、仄暗く光っては、ジッとこちらを射抜いている。

「今日は両親も、兄も居ないのです」

 成る程それで暗いのか。

 納得入って頷く自分だが、その言葉の裏に在る意味に気が付いた。

 誰も居ない家に連れ込んだお嬢さん。これは拠所(よんどころ)無い事に成るのでは。

 現に今日はクリスマス。日本中そう言う諸事情は其処彼処で執り行われているらしい。

 そのお鉢がこっちに回って来たと見て宜しかろう。

 …しかしなぁ。しかしだ。あの連携寺の後味からこのまま諸事情に移ると言うのも、どうにも乗り気じゃない。

 そのことを踏まえてお嬢さんに今日は遠慮をしておくと言い含めてみても、どうしても今日で無いと駄目だと言って聞いてくれない。

「そうで無いと、センセェが私から離れて行ってしまうから…」

 相変わらず暗くて表情が見えないが、震えるその声色からはお嬢さんが涙にぬれている事が手に取るように解る。

「いやそんな、自分が離れて行くだなんて」

「だってそうじゃ無いですか!」

 大声を上げるお嬢さんに、自分は二の句が継げなくなる。

 ああ、何て罪深いのだろう。

 それほどまでに自分の彼女への態度がお嬢さんを傷付けていたのか。

 震えるお嬢さんの声に罪の意識を苛まれた自分は、とりあえず先ずは気持ちを落ち着かせようと、徐にお嬢さんの方へと近づいて行った。

「だから、必要なんです。印が」

「えっ⁉ 何?」

 急にお嬢さんが不可解な事を口走ったのと思ったその瞬間、自分の眼前に火の玉の如く赤く輝く物体が飛び出してきた。

「ェぇえ⁉ マジで何⁉」

 反射的に飛び退った自分だが、目を凝らしてよく見ると、それは熱を帯びて真っ赤に成った焼き(ごて)だった。

 その道具ならこの飴屋でバイトをしている時に何度となく目にしていた。

 この店の路地に面した出店部分で売られている今川焼。それに店の印を屋起因するための道具だった。

 それが今、炎の様な熱を帯び、お嬢さんの細く白い手の中に、力いっぱい握りしめられている。

そしてお嬢さんは一歩一歩とにじり寄ってくる。

「チョッ! ちょっ! 待っ! 話せば解るから落ち着いて!」

 壁際まで追い込まれ、尻餅ついてへたり込む自分は、彼女の事を手で制しながら必死の言葉で呼びかける。

「ごめんなさい…ごめんなさい。うぅ…だって…だって…だってこうでもしなくちゃ、センセェが私の物に成らないから…」

 ―――あっ、これは問答無用だ。

 ボロボロの泣き崩れながら支離滅裂な事を言うお嬢さん。

 絶望する自分に「やあぁああ!」と雄叫びを上げて突進してくるお嬢さん。

「ヒィィ―ッ⁉」と情けない声を上げ、もんどり打って何とかそれを躱す自分。

 そして、空を切った焼き鏝が柱の木目に押し当てられると、焦げた匂いと黒々とした飴屋の印がその場に残る。

「どうして…? どうして避けるの? センセェ? 避けたら綺麗に跡が付かないよ…」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁア⁉⁉」

 涙を流しながら凶行に走るお嬢さんの一挙手一投足に戦慄する自分は、腰が抜けて立つことも儘成らず、愕然と叫ぶだけしか出来なかった。

「とぉぉぉぉう!」

 その時である。店の窓ガラスを突き破って丸い何かが飛び込んできたのは。

 それはゴムまりの様に部屋中を一頻(ひとしきり)跳ね回ると、作業台の上に飛び乗って、手足が生えて見得を切る。

「街に轟く悲鳴を聞いて、ご近所ヒーロー『ザリバー』登場!」

 何と飛び込んできたのはザリバーであった。クリスマスの夜であっても町の危機にさっそうと登場する様は、何とヒーローの鑑だろうか。

 まあ、中の人が他に予定が無いだけなのだろうが。

 そんなザリバーは辺りを見渡して、高らかな口上を垂れながら自分の方へと目を見やる。

「危ない所だったようだが、もう大丈夫。何せこのザリバーが駆け付けたのだ。万事丸っと解決してくれよう。さあ、安心したまえ、そこの…」

「…」

「…うん! 青年! 君なら大丈夫だ。このピンチだって何とか自分で解決できる。君に必要な物は一つだけ。たった一握りの勇気なのさ! …それじゃぁ、さようなら」

「ちょっと待て! 先輩」

 自分と目が合ったその瞬間、ソソクサと尻尾を巻いて逃げようとするザリバーを、烈火の如き勢いで自分は捕まえ追い縋る。

「ええぃ! 離し給え! 私はザリバー。君の先輩などではない!」

「白を切るんじゃありません! 何なんですか! どういうつもりで自分の貯金を持ち逃げしたんですか! 返して下さい! 利子付けて! ついでにピンチを助けて下さい!」

「離し給え! 離し給え!」

「やあぁああ!」

 自分とザリバーとの取っ組み合いなど全く意にも介さずに、再び燃える焼き鏝を突き出してお嬢さんが真っ直ぐ自分目掛けて突進してくる。

「この野郎いい加減にしやぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 自分と組合って(もつ)れていたザリバーだったが、自分を床に組付したその瞬間、臀部に見事にお嬢さんの焼き鏝が見舞われてしまう。

「ああぁ! ダメなの! センセェ以外要らないの!」

「ぁぁぁあああああぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああぁ!!!」

「ヒィィぃッ! ヒィィィィィィィ!!!」

 目測を誤ったことで半狂乱になったのか、何度も同じところに焼き鏝を押し当てて、ザリバーの臀部にクッキリと付いてしまった焼き跡を焼き潰そうとするお嬢さん。

 これには堪らず白目を剥いて気絶したうえ失禁するザリバー。

 それも目の当たりにして自分は脱兎のごとく逃げだした。

 ザリバーが突き破ってきたガラスを内側から撃ち破り、夜の河越の町を一心不乱に命からがら駆けてゆく。

 何で⁉ 何で⁉ 何で⁉

 何がどうしてこう成った⁉

 今日は年に一度のクリスマス。日本中に幸せが溢れている一日の筈なのに!

 それに対して自分はどうだ。最悪を煮詰めた様な一日じゃないか。

 特にお嬢さんのあの凶行。普段の姿からは考えもつかない。

 宛ら悪魔に囁かれたかのようだ。

 こんな事を思い返すと、自分が人並みに幸せなクリスマスを過ごせない呪いを誰かから掛けられているのではないかとさえ思えてきてしまう。

 ああ、こんな事なら大人しくプレゼントにゴキブリを詰め込んでいた方がマシだった!

「チクショぉぉぉぉ!」

 幸せを掴み損ねたと言う歯痒さが、自分の心を突き破り、声と成って飛び出しても、河越の寒空に凍えて白く霧散していくのみだった。



 河越のクリスマスは寒い。


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