菓子屋横丁篇
「何なんですか!これは!」
自分は彼女が座る机の前に名刺を叩きつけた。
因みにここは学食。周りの視線がいきなり大声を立てた自分に突き刺さる。
彼女はA定食をモグモグしながら呆けた顔をしている。因みに献立はハンバーグとナポリタン、それとコールスローサラダである。
「何だっけ?これ」
しげしげと名刺を眺めてしらばっくれる彼女の態度を見ると、さらに頭に血が上ってきてしまう。
「貴女が渡したんじゃないですか!貴女がここへ行けって言って渡したんじゃないですか!」
「ああ、そうそう。どうだった?」
「どうもこうも無いですよ!何ですか行った先が精神病院なんて!」
「そこね、私の叔父さん家なの」
「そうだとしても、そこに相談しろってなんですか⁉自分は頭が可笑しくなんて成ってないんですから!」
激昂する自分をさて置き、白米とともにハンバーグを咀嚼する彼女は行儀悪く「そう言われてもねぇ」とモゴついた声で反論する。
「この前いきなりやって来て自分は異世界から来たから帰るのを手伝ってほしいと言われたら、普通あなたの頭がどうにかしたのかと思うじゃない? だから貴方の力に成れる人を紹介したの」
「ですから、自分はいたって平常です!」
「本当にイカレている人ほどそう言うものよ。酔っばらっている人がよく自身は酔っていないと言うようにね。まあ、イカレてちゃ周りに迷惑をかけていることも解らないのもしょうがないわね」
彼女の言葉通り、食堂で昼食を摂っていた学生たちは奇異の目で自分の事を睨みつけている。
そんな視線に居た堪れなくなっていると、早々に食事を終えた彼女に手を惹かれて食堂を後にする。
彼女に連れて行かれた先は以前も立ち寄ったことのある彼女の地下プライベートラボであった。
「ここなら大声出しても大丈夫よ。さあ、納得がいくまで話し合いましょう」
そう言って足を組む彼女。いかにもふてぶてしい面構えで自分の様子を探っている。
「そうしましょう。ではまず初めにどうして自分の話を信じてくれないのですか?」
「信じろと言われてもねぇ」
呆れて笑う彼女に自分は既に腹が立ってくる。
しかしこの程度で怒りを露わにしては自分のイメージに関わるため面には出さない。
「どうかしている事を信じる方が可笑しいし、どうかしていると思うわ」
「そう言われましても…そうとしか言いようがないんです。前にも話したように朝起きたら自分の知っている河越とは全く違う世界になってしまっていたんです。異世界に来たとしか説明できません!」
「まったく…暫く様子が可笑しいと思ったらそんなことを考えていたなんて…随分とファンタジーが好きなのね。男のロマンと言うやつかしら」
腕を組む彼女は呆れ返った表情をして「ちょっといいかしら」と問いかけてくる。
「私ね、あの後、貴方が言ったことを考えてみたの」
「?何のことですか?」
「だからね、どうすれば貴方の様に自身の置かれている状況が現実でないと思うに至ったか、という事」
「さっき信じないとか言っていたじゃないですか」
「それは結論を異世界に求める推測を信じていないということなの。けれど貴方がそう言う症状に陥っているということは信じてあげるわ」
何がなんやら。一体彼女は自分の味方なのかどうなのか解らなくなっていると、気を取り直して彼女は説明の続きを始める。
「私はね、異世界とかそういうものを否定しているわけじゃないけど、あまりに現実味が無いわ。だってそうでしょう?今の技術でそう言った世界へ行けるの?そもそも既に観測されているの?それすらできていないのに結論をそこに求めるのは最初から理論が破綻しているわ」
「ですから、何らかの超自然的な力が働いたんですよ。その結果自分はこの河越にやってきたんです」
「―――あなた、それでも科学を専攻しているの?」
彼女はヤレヤレと溜息を一つ吐くと、まるで聞き分けのない子供を諭すように反論してくる。
「超自然的な力と言うけれども、この宇宙のエネルギーの総量はビックバンの時点で既に決まっているのよ。もしもあなたが言うように時空を超えて違う世界へと行くことができたとしても、そのためのエネルギーは私たちの居るこの宇宙のエネルギーすべてを総動員しても足りないでしょうね。同じ理由でワープ航法も不可能だとされているわ」
「つまり何が言いたいのですか? あまり回り諄く言わないで下さい」
「まだ解らないの。つまり私たちがこの宇宙に居続ける限りそんな現象起きっこないってこと。偶然にも必然的にもね。神様にだって無理な話よ。もし起きたとしたらあなたは元宇宙を消滅させて、まったくの無の世界に放り出されるかもしれないし、仮に別宇宙が存在してそこへ辿り着いたとしても、多少の差異があるもののまったく同じ環境にやってくるなんて事ご都合主義にも程があるわ。確率を嘗めてんじゃないわよ」
「ですが、ブラックホールとホワイトホールを繋ぐワームホールを通ってきたと考えたらどうです?その場合でも別宇宙に繋がっていると考えられていますよ」
「けどその場合、そのワームホールは一方通行だから元居た宇宙へ帰ること自体が不可能だしね」
「―――言いたいことは大方解りました。つまり異世界であるという仮説自体が間違いであるということですね」
「そう言うこと」
「じゃあ、いったい自分の置かれている状況の原因は何なんだと考えているんですか?」
「そうね」と彼女は右手で顎を摩る。
「やっぱり手っ取り早い結論は、あなたがイカレたって事かしら」
「ですから、自分はいたって平常です。頭が可笑しくなってなんていません」
「けれどもねぇ、ストレスって知らない内に溜まるものだから。心のどこかで思っていたんじゃないの? 今の自分は本当の自分じゃないって。そう言った思いが爆発して自分がいるのが違う世界だと思うようになってしまったとか」
「いえ、そんなことはありません」
「あなたとは長い付き合いだから心配して言うけれども、やっぱり一度叔父さんの所に行った方が良くない?」
「良くは有りません」
「それは残念だわ。叔父さんも貴方に会うことが楽しみにしていたのに」
「どうせ、面白い症例だからとかいう理由でしょう」
「それもあるけども、貴方のことを話したら叔父さん、貴方の為人を甚く気に入ったらしいの。最近じゃ珍しく真面目な青年だってね。それに私に見合う人かどうか確かめたいだなんて言うよ。可笑しな話よね」
どうも自分の知らないところで好評価を受けていることを聞かされると、どう答えて良いのか解らなくなってしまう。
えらく背中がむず痒い。
しかも、まるで娘の彼氏を紹介しろと言うようなノリになっているのはどうしたことだろう。
そういった状況に成るのは満更でもないが、如何せん彼女が自分の事をどう言っているのかが気掛かりである。
彼女の場合、自分の事をとんでもない方向で紹介している可能性がかなり高いため彼女の叔父さんに会うのがどうにも怖い。
「まあ、その話は置いておきましょう。ともかく、貴方は異次元にも異世界にも行っていない。すべては気の迷い、思い込みだと言う訳。これが私の仮説なの。それにこの仮説だと貴方が河越を出られないのもある程度説明できるのよね」
「そうなんですか?」
「ええ、こちらもあなたが思い込んでいるだけ」
「―――結局はそこなんですね」
「でも、行きたくない場所へ行こうとすると足が竦んだり、目の前に壁があるように感じたりするでしょ?それが極限にまで高められたら本当に前へ進むことすらできなくなるわけ。それにあなたが経験したっていう市境での奇怪な出来事も幻聴や幻覚だとしたら簡単に説明がつくのよね」
どこまでも自分を精神崩壊にしたい彼女は自分の状況を〝気のせい〟の一言で切って捨ててくる。
さすがにここまで言われると自分も自分が本当に正常なのか疑わしくなってくる。
そんな自分を見て彼女は「でもいいんじゃない?人間は誰しも狂人なんだから。その度合いの違いはあるにしてもね」などと言いコロコロと笑っている。
冗談じゃない。狂っているのはこの街と市民の方だ。
そんな自分の憤慨を知ってか知らずか「そこで考えたんだけど」と彼女がある提案をしてくる。
「この河越を貴方の言う川越にする方法を思いついたの。聞きたい?」
自分に今までの彼女の対応からどうせロクな事ではないと高を括り、自分は「何ですか?」とあまり期待しないで聞いてみることにする。
「それにはね、この街もあなたと同じようにイカレさせれるの」
自分は彼女のあまりの発言に自分の口が閉まらなくなってしまう。
街をイカレさせるなんて途方もないことを言ってのける彼女。彼女の方がイカレているとしか思えないような発言が飛び出した。
「何を言っているんですか?」と意味が解らなくなった自分は一応聞いてみる。
すると彼女はコロコロとした屈託のない笑顔で満足げに語りだす。
「イカレさせるにもいろいろ方法があるけども、簡単な方法では集団催眠に掛けるのが手っ取り早いかしら」
「また、途方もないことを言いますね」
「でも結構現実的な話よ。全市民に暗示をかけてこの街が間違った世界だと認識させるの。そして貴方の望む世界を本当だと認識させればいいのよ。そうやって貴方の世界を作るのよ。それに集団催眠装置なら小学生のころ夏休みの自由研究で作ったことあるし」
なんて物騒なカミングアウトだろう。そんな装置を自由研究のレベルで作るものではない。
しかし、その用途が学校の給食のメニューを嫌いなワカメご飯から好物のカレーへと変えるためだと聞き、何とも子供っぽいというか、彼女らしいとも思った。
「それならば確かにできなくはないと思いますけど…」
一応の納得はするものの自分はどうにも納得がいかないところがある。
「では建物とかはどうするんです?大学も自分の居た川越には今ある所にありませんよ」
「そうね、さすがにそれはすぐに元の戻すことは無理でしょうね。けれども時間が経つにつれてそういった物も無くなっていくでしょうし、違った形で役に立っていくのでしょうね」
自分は「そういうもんですかね」と素気無い返事をする。
しかし確かに彼女の言う方法を取れば、自分は次元を超えるなんて途方もない方法を取らずとも河越を川越に戻すことができる。
ここは彼女の意見に乗ってみるのも良いかも知れない。
「それじゃ早速あなたの言う集団催眠をやってもらえますか?」
そう自分は依頼するものの彼女は渋い顔をする。
「すぐにと言われても無理よ。マンガやアニメじゃあるまいし、便利なポケットからすぐ出せるわけないわ。現実は準備が必要だし、何より装置を製造するのにも先立つものが必要よ」
ここに来て彼女は金の話をしてくる。始終現実的な話をしてきた彼女だが極めつけの現実味を持ってくる。
金に関しては先輩のせいで散々な目に合わされ続けてきた自分はもう見るのも嫌なくらいに嫌悪しているし、それを得る手段である労働に対しても極力関わらないようにしている。
そのため先月やっていた船頭のアルバイトも先輩と協力して無事に返済した後即日辞めてしまったくらいだ。
一方先輩は返済後もバイトを続け、破格の給料と信じられない額の残業手当を手にしており、一か月前の借金まみれが信じられないほどにリッチな生活を送っている。
しかもその資金を元手に伝説のサツマイモ『主』を探しているらしく、見つければ一攫千金。もはや富豪である。
ならば先輩に工面してもらえばいいかと一瞬考えるものの、元借金王に借金をするなんて自分が本当にどん底まで零落れたような気分になることが容易に予想され、絶対無いと心に誓う。
しかし、そうだとすればどうしたものか? と自分は彼女と別れた校舎を歩いている。
もちろん彼女が提示した金額がポンと出せるわけが無く、かと言って再び船頭のアルバイトをする気力も無い。
金策に困っていると自分を「兄サン」と呼び止める声に振り向く。
お忘れの方も居るかもしれないが、自分の事をこんな風に呼ぶ奴は一人しかいない。
「やあ、後輩君。こんな所で会うなんて奇遇だね」
後輩は駆け寄ってくるとヘラリとニヤケる。
相変わらず調子のいい野郎である。
「今日は先生に呼ばれて来たんです。兄サンは?」
自分は今日ここに来た理由を話そうとしたものの思い止まる。
さすがに彼女から散々狂人扱いされたせいで事実を言うのは気が引けてしまう。
そこで自分は卒業研究のためと言う適当な理由を考え誤魔化したのである。
「そうなんですか。ところで兄サン、何やらお金で困ったことがあるという顔をしていますね」
「!何でそう思う」
「いえ、風の噂で莫大な借金を抱えたと聞きましたし、それに今の兄サンの顔、いつもの先輩みたいな顔になっていますよ」
それは一大事である。よりによって先輩と同じとは。
万年金欠人間である先輩は、いつもどことなくショボくれた表情をしているものの、目だけはギョロギョロと血走っていてまるで飢えた獣の様である。
それと同じ容貌になっているらしい自分も相当にやばい状態だと言える。
しかしこの状態になってみるとなかなかに役に立つことがある。
それは金の臭いに敏感になるということである。
いつもこの状態である先輩は、自然と金の集まるところへと足が向き、数キロ離れたところから小銭の落ちる音を聞き、匂いだけで財布にいくら入っているかを的中させ、炉辺に落ちている効果の反射光を見逃したことが無いほど金を察知する感性が鋭くなっている。
毎度の事『街興しの功罪』から金儲けを企むことができるのは大いにこの金の嗅覚が有るからこそ成せる業と前に本人から聞いたことがある。
そして、それは今の自分にも開花したようであり、プンプン匂ってくるのである。金の匂いが。後輩から。
「そこまで解っているなら話が速い。何か美味しい話は無いかな?」
言ってしまって、いかに自分が先輩と同じことをしていることに気付き、底知れない嫌悪感が込み上げてくる。
これでは先輩を非難することなんてとてもできない。それどころかダメだと解っていながらそれをしてしまう自分の方が先輩よりも数倍も性質が悪い。
津波の様な自己嫌悪でクシャクシャになる自分の顔を心配そうに覗き込む後輩。
そして何を勘違いしたのか「借金でよほど辛い状況なんですね」と憐みが浸み出してくるような声を掛けてくる。
「でしたら、僕の家で働いてみませんか?丁度人手が欲しかったところなんです。大金は払えないですけれども、それなりにはお給金が出せるはずですよ」
何たる僥倖。やはり後輩からは金の匂いがした。
「是非に頼むよ!」
集団催眠装置を作るためにどうしても金を用立てる必要のある自分は、安っぽい自己嫌悪など金繰り捨ててこの話に飛びつくことにした。
「それじゃあ今日は家に話を付けるんでバイトは明日からお願いします。時間は8時半から5時まででよろしくお願いします」
話も早々に了承した自分。しかし心の中で待ったが掛かる。
どんな時も石橋を叩いて渡ってきた自分である。すぐに飛びつくのは明らかに早計。悪手であったかもしれない。
せめて後輩のご実家が何屋なのかを聞くべきであったのではないかと思い立ち、別れを告げて去りゆく後輩を呼び止め、そして問いただす。
すると後輩はあのニヤケた笑顔を顔中に行き渡らせてこう答えた。
「僕の家は創業100年の駄菓子屋です」
自分はカブに乗って河越の街を走っていた。
盛夏は過ぎたものの未だに暑さの残る九月中旬の河越を、自分はマルシン出前器を取り付けたカブで走り抜けている。
配達帰りのためマルシンは空になっているが、カーブをするたびにカブが左右に振られるこの感覚は、一週間経った今でも慣れない。
それでも何とかマシンをねじ伏せて市役所前を通過し、左へとハンドルを切っていくと、そこには多くの観光客でにぎわう小路へと差し掛かる。
そこは菓子屋横丁。蔵造りの町並み、時の鐘と並び河越を代表する観光名所である。
普段から観光客が多く、人通りの絶えない場所であるが、今日は休日と言うこともありさらに人がごった返している。
さすがにこの狭い路地でカブに乗るわけにはいかないと、自分は徒歩で重いカブをエッチラオッチラと転がしていく。
菓子屋横丁の始まりは明治時代とされており、その当時から菓子の製造が行われており、東京が関東大震災の被害を受けたのを機に駄菓子の製造も行われるようになった。
現在もこの通りには二十軒近くの店舗が軒を連ね、昔懐かしい昭和の空気を醸し出す場所となっている。
こういった景観からこの横丁は環境省が選定した「かおり風景100選」にも選ばれているらしい。
その通りの一角ある駄菓子屋に自分はカブを停める。ここが今の自分のバイト先兼後輩のご実家である。
「ただ今戻りました」と裏口から中に入ると、厨房からは甘ったるい香りのする熱気と、コンコンと小気味よい音が伝わってくる。
覗いてみると、やはりそこでは自分の雇い主にして後輩の親御さんである『親方』が飴を切っていた。
親方は職人気質、頑固一徹を地で行く根っからの小江戸っ子であり、多くを語らない代わりに自分の事も宛ら家族の様に気を使ってくれる、そんな優しい一面も垣間見せるシブメンである。
そんな親方の作る飴菓子は菓子屋横丁でも随一と謳われ、日本のみならず海外でもその味のファンがいると言われている。因みに自分もファンである。
この店の飴は機械製が主流となったこの業界で未だにすべて手作りを貫いており、砂糖を煮詰めた鼈甲飴、シナモンを使った肉桂飴、オレンジや葡萄などをふんだんに使ったフルーツ飴など、店先に並ぶ飴の種類は五十を超えている。
この店で作られた飴の一部は河越中の駄菓子屋に卸されており、自分が行き付けにしている旭橋の袂にある駄菓子屋でも購入が可能である。
これらの飴はオヤジさんを初めとした5人の熟練した駄菓子職人たちに作られており、伝え聞いた限りだと、一日に合計一万個以上の飴がその手から生み出されているらしい。
そして今、親方が作っているのはポピュラーな金太郎飴。切っても切っても同じ顔とは正にその通りである。
自分は親方たちの仕事の邪魔にならないよう注意を払いながら店の方へと向かう。
店先に出るとそこには後輩が店番をしていた。
店先と言っても店頭の次の間、いわゆる休憩室に後輩はいた。
後輩は自分を見つけると「お疲れ様です。兄サン」とニッカリとした笑顔と合いの手で迎えてくれる。
まったくどうしてこんな根っからの太鼓持ちがあんな質実剛健な親方から生まれてくるのか分からない。遺伝子の神秘だろうか?
「暑い中お疲れ様です。どうです? 熱いお茶でも」
「貰おうかな。暑いときは熱いものを飲むと良いっていうからね」
後輩から受け取った熱い緑茶を啜ると喉を熱さが通り抜けていく。そしてその後にはスッとした爽快感が訪れるものだから人間の感覚とは面白い。
「しかし、後輩君。君はこんな所で油を売っていて良いのか」
自分が視線を送る先には店内にごった返すお客様がいる。
どう考えてもこんな所でお茶を啜って良いわけがない。
そう考える自分とは裏腹に後輩はそのにやけた笑みを絶やさずにいかにも自然体でお茶を啜っている。
「良いんですよ。どうせお客さんは自分で好きなものを選んで持ってきてくれるんです。こっちが口出しする必要も無いですよ。それよりもう一杯いかかです?」
薬缶を差し出してくる後輩だが、その脳天を分厚い帳簿で引っ叩かれる。
面喰って仰ぎ見る先には和服に割烹着を着た如何にも胆の太そうな女性が帳簿を振り回していた。
「痛いじゃないか!お母ちゃん!」
「『痛いじゃないか』じゃないよ!サボってお茶なんか飲んで!」
後輩が言ったようにこの女性が彼の母親であり、自分は『女将さん』と呼んでいる。
そんな女将さんは後輩に向けていた鋭い眼光を自分の方にも向けてくる。
この眼差しに睨まれたらいくら自分に非が無くとも悪いことをしたような気分になる。そして今回は自分に非があるためその効果は百倍である。
「あんたも何寛いでんだい?配達が済んだなら奥の掃除をやっておいとくれ」
それだけを言うと女将さんは後輩の首根っこを掴んで店先に出ていく。
そして、自分たちには絶対見せないであろう柔和な営業スマイルで接客を始めるのである。なんと言う変わり身の早さだろう。これもプロの仕事なのか。
一方の後輩も変わり身の早さに於いて負けてはいない。持ち前の恵比寿様の様な笑いを満面に張り付けて始めたのは飴細工の実演である。
後輩はその適当な造形の面構えとは似合わず素晴らしい造形の飴細工を作り上げる。
作るのは鶴などの動物の形はもちろん、子供たちに受けの良いヒーロー。それにまるで本物に見える花まで作り上げる。
その腕前はまさに熟練の域に達している。その上後輩の流暢な営業トークに乗せられてあっという間に店前には黒山の人集りができる。
自分もその匠の技に見惚れていると背後から女将さんの咳払いが聞こえてくる。
自分はこれ以上叱られたくないためソソクサと奥へと退散する。そして倉庫に積まれた飴の材料を整理に取り掛かる。
砂糖の麻袋を積み直し、香料を整理し、食紅のストックをチェックする。そうして床に溜まった埃を箒で掃き出した頃には街に鐘の音が五つ響いた。
近くにある分いつもより大きく聞こえる鐘の音を合図に自分は店先へと戻ってくる。そこには女将さんの姿は無く、それにより再び怠け癖を取り戻した後輩が「お疲れ様」と挨拶してくる。
自分も挨拶を返して自分も出してもらったお茶を啜る。
労働の後の一杯は何であれ美味いもので、あっという間にお茶を飲み干すと、気配り上手の後輩はそれを見計らったようにお代わりを注いでくる。
二杯目のお茶はゆっくりと落ち着きながら飲んでいると、工房から親方が戻ってきた。
挨拶に愛想なく頷くと、いつの間にか後輩の注いだお茶を啜ってフッと溜息を吐く。
そして自分よりも早くお茶を飲み干すと、そのまま居座ることも無くまた何処ぞへと出て行ってしまった。
親方は終業時刻になると、身支度を整えてサッサと店を後にしてしまう。
そしてそれはここで自分がバイトを始めた一週間のうち、毎日欠かさず起きている。
毎度のことながらいったいどこへ行くのだろうと訝しむ自分に対し、後輩はさも面白そうに話し掛けてくる。
「兄サン。うちの父のこと気になるんですか?」
「―――まあ、ちょっとな」
「それなら付いていったら良いじゃないですか」
「何かそう言うのって悪趣味じゃないか」
「まあ、確かに。これからお父ちゃんが行くところは裸の男女が体を温めるところですからね」
「―――それって単に銭湯に行っただけじゃないのか?」
自分の反応に至極詰まらなそうに「ノリが悪いですね。兄サン」と白けた顔で語りかけてくる後輩。
そして自分は後輩以上に白けた顔で応える。
「そんな下世話なネタを言うやつに兄サンなんて親しげに呼ばれたくはないな」
「そう言わないで下さいよ、単なるジョークですって。ですがホントに付いて行ってもいいんじゃないですか」
「別に自分は今風呂に入りたい気分じゃないし、親方の裸なんて見たくも無い。だから行く必要は無い」
「いいえ、他意は無いですよ、兄サン僕はただ純粋にうちの父と兄サンとが裸の付き合いができたら良いなと思っているわけです」
「裸の付き合いっていうけれども、それは単なる形容であって、実際に裸を見せ合う必要は無いだろう。それに自分は裏表なく親方に接しているつもりだ」
「確かに先輩は良いですよ。問題は父です。…ほら、父っていつもあんなんでしょう。ですから兄サンとも上手くやれているのかと紹介した僕も心配になるんです。だからここらで男同士裸になって包み隠さず話をしてみれば良いのでは?と考えたわけです」
まあ、確かに後輩の言うことも一理ある。
自分はこの駄菓子屋に勤め始めて既に一週間になるが、親方とまともに話をした経験が未だに無いのである。
親方の場合、親方自身から話しかけてくることは皆無に等しく、会話の始まりは常に自分からと言うことになる。
しかし、いくら自分が話し掛けても親方は「ああ」や「ん」くらいしか返事をせず、おおよそ会話と呼べるものが成立しないのである。
それが親方の気質だと言ってしまえば元も子もないが、さすがにここで一緒に働く以上今以上に円滑なコミュニケーションを取った方が都合が良い訳で、そうなるように自分も努力すべきなのだろう。
とはいえ後輩の言うように一緒に銭湯へ行った程度で親密になれるのなら、長年一緒に行っている後輩と親方の間に自分の場合と大差ない空気感が存在するわけがないと思い至り、もっと効率的な方法を考えるべきだと考えを改めるのであった。
そうこうしている内に時の鐘が半時を知らせる鐘を鳴らす。
後輩の話に付き合い、色々と思案を巡らせていると時間なんてあっという間に過ぎてしまう。
これから自分はもう一仕事あるのである。あまりユックリしていられないのである。
自分がそれを後輩に告げ、炎天下の配達と蒸し暑い倉庫の整理で汗臭くなったTシャツと印半纏を着替えるために職員用ロッカーへと向かおうとする。
すると後輩に呼び止められ、振り向くと例のニッカリとした笑顔で「今日もよろしくお願いします」と告げてくる。
自分はそれに頷きながら答えてサッサと休憩室を後にした。
もちろん自分はやるからには真剣にやる性質である。妥協も余力も手加減も無く真摯に取り組むのが自分のポリシーである。
そして、それは相手が女の子であるならば更に5割増しで力を出せるのである。
自分で言うのもなんだが、そのくらい自分は単純な男であった。
裏の井戸で体を拭った自分はタップリとシトラス系の香りのする制汗スプレーを振りかける。
さすがにこの後、人に会うのに汗臭いままでは非常に失礼に値する。それに相手が女の子であるならば尚更だ。下手をしたら汚物扱いされかねない。
身支度を整え、私物のザックを担って更衣室を後にする。向かう先は後輩の家の二階。その突き当りの部屋である。
ネームプレートは掛けられていない普通の合板で出来たドアなのだが、その先に女の子が寝起きしている空間があると思うだけで自称小江戸っ子である自分は妙に緊張してしまう。
意を決してドアをノックするものの返事は無い。一応声を掛けてドアを開けるとやはり誰もいなかった。
しかし、無人の空間だがその部屋の主がどのような人物であるかはその様子を見れば解るものである。
その部屋は一言でいえば簡素であった。
女の子らしいカラフルな壁紙やカーテンなどは何処にも無く、壁は白っぽいクリーム色、カーテンは緑のストライプの物があしらわれている。
その他に部屋にはパソコンの置かれた勉強机やシングルベッド、様々なジャンルを取り揃えた本棚がある。
勿論ケバケバしいアイドルのポスターもメイクセットなんてものは影も形も無い。
まるでどこかのビジネスホテルのようだ。
だがそんな限りなく無機質な部屋の中に一つだけ可愛らしいクマのぬいぐるみが置かれている。
これの存在だけがこの部屋が女の子の部屋なのだいう証にも見える。
さすがにベッドに座るのも烏滸おこがましいと思い、自分は床に腰を下ろすとザックの中身を取り出した。
それはテキストであり、そこには『地学Ⅰ』と書かれていた。
もうお気づきだろうが自分が請け負っているもう一つの仕事、それは家庭教師である。
家庭教師を初めてまだ三日ほどしか経っていないのだがなかなかに自分の性に合っていると感じている。
自分で言うのもなんだが自分は紛れも無い秀才である。
大学のテストは平均九十点以上(人名の出てくる社会科以外)を弾きだし、成績も常にA以上(偉人の出てくる社会科はC)を誇る自分の学力を支えるのは日々の努力の賜物であり、どんなに忙しくとも、どんなに先輩たちに振り回されようとも机に二時間以下向かわなかった日は無いのである。
そして、そのような生活をしていると自ずと効率の良い勉強の仕方や何を覚えればいいかという要点、どうまとめれば理解しやすいかという分析力などが養われてくるもので、それは人に教える際にも大いに役に立つのである。
それゆえに後輩が自分を選んだのは本当に正しかったと言えるだろう。
成績低空飛行の先輩は論外として、自分よりも成績の良い彼女の場合、天才肌のため感覚で理解しており自身が理解している理由を理解していないのである。これでは人に教えることはできない。
まさに自分は適役だったという訳である。
自分はテキストを読み返し、今日やる内容の再確認をする。
今を含めて既に自分はこのテキストを既に8回は読み返し、尚且つ他の参考文献も読み漁ってきている。
故にどんな質問がなされてもいかようにも対処できる。そのくらいの自負は自分には有るのだ。
しかし、念には念を入れるのが自分である。
今日やる内容くらいはもう一度見直しておくべきだと考えるのが筋だろう。
そうして内容を復習い終えると、階段を急いで駆け上がってくる足音が聞こえる。
その音は決してバタバタした音ではなく、トントンと小気味よい音で、親方が飴を切る音を彷彿とさせる。
その足音は自分の居る部屋の前で止まり、ドアが開かれると制服に身を包んだ少女が入ってきた。
「遅れてすみません。センセェ」
と、開口一番に発したその少女は息を切らせながら額の汗をぬぐった。
この子が自分の教え子であり後輩の妹である。自分を含めこの菓子屋で働く従業員は親しみを込めてこの子のことを『お嬢さん』と呼んでいる。
お嬢さんは河越女子高に通う高校二年生で、後輩とは歳が三つ離れている。
しかし、血が繋がっているとは思えないほど顔立ちは後輩とはまったく似ていない。
後輩の顔立ちを一言でいうと、出っ歯が目に付く野暮ったい顔であるが、お嬢さんの場合は清楚と言う言葉が当てはまる。
卵形の輪郭に白い肌、目鼻立ちのスッキリとしており、細くて密なまつ毛は長い。少し太めで特徴的な眉に至っては柔和に弧を描いており、宛ら大正時代の美人画の様な容貌である。
それに加え肩甲骨までの長さで切られたロングの黒髪がお嬢さんの印象をより清楚なものにしている。
かと言って、そこに古臭さや時代遅れな印象は全くなく、年相応の瑞々しさが自然に醸し出される。そう言った生来の美しさが備わっているのだろう。
こんな清楚可憐な女性があんな肝っ玉母ちゃんから生まれるのだからDNAは謎の多い分野である。
そんな河越小町なお嬢さんがはにかんだ顔をすれば自然と男子の頬は紅潮してしまう。もちろん自分もその例には漏れない。そして今まさにその状態であった。
愛らしいその微笑みを今しばらく感じていたいと思うものの、彼女が何かを訴えようとしているのだと察した自分は後ろ髪を惹かれつつも真面目を取り繕い、紳士的に「どうしたんですか?」と聞いてみる。
なおも、もじもじとしていたお嬢さんだが「あの…」とか細くも鈴の様に澄んだ声で答えてくる。
「すみませんが暫く部屋を出ていてもらえませんか?」
どうして?と聞きそうになるものの、それを聞いてしまえば実に野暮なことになる。
その理由は三十分前の自分を思い返せば明白であろう。彼女もまた今汗をかいてしまったのである。
後は多くを語るまい。そう納得した自分は部屋の前で待たせてもらうことにした。
しかし、どうもこういう展開になると自分は居心地が悪くなってしまう。
女性に対して今まで全くというほど積極的に関わってこなかった自分の目の前。ドア一枚隔てた場所では麗しい女子高生が着替えを行っているのである。
意識しないようにするほど気はそちらの方へと向いてしまい、先ほどの彼女と同じくらいに自分の頬も紅潮してしまう。
そんな自分を戒めるために頭を振り量の頬を強く張る。
何を考えているのだ自分は。そんなことで自分の理想とする小江戸っ子へと近付けるわけもなかろう。
それに自分には彼女という意中の女性がいるではないか。お嬢さんに目移りしてはそれこそ軟派な男だと自分で認めるようなものではないか。
「臨兵闘者…臨兵闘者…臨兵闘者…」
自分は心頭を滅却させるために九字を何度も暗唱していると、ドアが開いてお嬢さんがびかけてくる。
部屋に入るとまず目についたのは私服のお嬢さんである。
お嬢さんは空色のシャツの上に白いカーディガン、そしてロングスカートを穿いており、より清楚になったように見える。
しかし、アップで纏めている黒髪が清楚な衣装といい具合の対比となっており、思わずグッと来てしまう。そこですかさず自分は自身の頬を張るのである。
それに先ほどまで着替えをしていたせいか、部屋に漂うお嬢さんのミルクの様に甘い香りが、自分の鼻を擽って、頭をクラクラさせてくる。
いかにも不思議そうな反応をするお嬢さんの視線に一つ咳払いをすると、自分は気を取り直して授業に取り掛かることにした。
自分がお嬢さんの家庭教師をする理由。それは世間一般の理由と同じく学校の成績を上げるためであり、かつ来たるべき大学受験に備えるためでもある。
意外なことにお嬢さんも自分と同じ学科を目指しているというのだ。
こんな清楚なお嬢さんにモグラ組のカリキュラムが似合うのだろうかと首を傾げた自分であるが、聞くところによるとお嬢さんは学校で地質学部に在籍しており、土日には毎週の様に秩父山麓までフィールドワークへと出かけるバリバリのアウトドア派であるとのことである。
初めてこのことを聞いた自分は完全に自分の耳が可笑しくなったと勘違いし、即日耳鼻科の予約を入れたものだ。
そんな経緯もあり、お嬢さんは来年自分の通っている学科を受験するらしく、それに伴って今から猛勉強中だという。
自分から言わせてもらえばうちの学科のレベルならそんなに勉強しなくても合格はできるだろうと思うが、お嬢さんがそれほど本気なのだという表れだとすると適当にあしらうのは失礼になると思い自分も本腰を入れているわけである。
初めて三日目だがお嬢さんは元々利発な方かたらしく、教えたことはドンドン吸収し、次の授業の時には自主的に予習復習してきたことを質問したりしてメキメキと力を付けている。
この調子ならばうちの学科はもちろんさらに上のレベルを狙えるだろう。
それ以前に自分の授業がホントに必要なのか疑問に思う程である。
とはいえ、これほどに教え甲斐のある人との一時は張り合いが有るもので、あっという間に予定の内容と時間を消費してしまう。
「つまりカンラン岩はマントル物質そのもので、地表に出てくるには直接吹き上げてくる以外には無いんです。そういえば、自分も以前カンラン石を持っていましてね」
「そうなんですか? カンラン石と言えば宝石のペリドットですよね。どんなものだったのですか?」
「驚かないで下さい。それも大きさは一抱えあるほどの大粒だったのです。原石でしたから加工はしていませんが、ちゃんとした宝石にすればそれなりの価値はあったでしょう」
「それは凄いですねセンセェ。是非、今度拝見させてください」
「いや、それが今は手元に無くてですね。どうしても譲ってほしいと言う知人に渡してしまったのですよ」
それを聞いてションボリするお嬢さん。そんな姿も可愛いと思いつつ、自分の耳に19時の時の鐘の音が聞こえてきた。
「―――さて、無駄話が過ぎましたね。切りも時間も良いことですし今日はこのくらいにしましょう」
「ありがとうございました。センセェ」
嫋やかに礼をしたお嬢さんは上げた顔に笑顔を満面にしている。
この笑顔を見るたびに今日も上手くできたなと胸を撫で下ろすと同時に、明日もまた頑張ってこの子が楽しめる授業をしようと意欲が湧いてくるのである。
そして授業後もお嬢さんからの質問に答えていると時間は既に七時半を回っていた。
自分は帰宅するために自転車に跨る。すると同時にお嬢さんが自分の事を呼び止めた。
「よろしければこれどうぞ。筑前煮作ったからって、お母さんが」
自分はここで働くようになってからよく夕飯のお裾分けをしてもらっている。
タッパーウェアいっぱいに詰め込まれた筑前煮はまだアツアツでコンビニ袋の中からも良い匂いが漂ってくる。
今日も有難うございます。これもまた美味しそうですね。今晩早速いただきます」
お嬢さんはニコリと笑っている。
「お母さん料理が大好きだから、センセェにそう言ってもらえたらすごく喜ぶと思います」
「そうか、じゃあ明日ちゃんとお礼を言わないといけないですね」
「その、私も料理するのが好きなんです。休みの日とかよく母に代わって料理しているんですが…今度私の料理も食べてみてくれませんか?」
「それは楽しみですね。是非今度」
「約束ですよ」と微笑むお嬢さんに別れを告げると自転車を走らせる。既にこの時間では菓子屋横丁も人通りも少なく、自転車を走らせてもさほど危なくは無い。
通りの出口まで来て振り返るとお嬢さんは自分のことをまだ見送っていた。お嬢さんは目が合ったことに気が付いたところ、小さく手を振っている。
自分はそれに気恥ずかしくなってぶっきら棒に会釈を返すと、振り切るようにペダルを漕いで菓子屋横丁を後にした。
次の日、自分がいつもの様に午前5時に駄菓子屋にやってくると女将さんが店の前の掃除をしている。
自分は「おはようございます…」と寝ぼけ混じり挨拶をすると、女将さんは「もっと腹から声を出しな!」と一括と箒で腹を一発殴られてしまった。
それは非常に腰の入ったスイングで重い一撃だったため、一瞬にして目が覚めるものの嗚咽が込み上げてしまい最早まともに話せそうにない。
女将さんから逃げるようにして店内に入ると、いつも通り渋い顔をしている親方と珍しく真面目な顔をした後輩が何やら相談をしていた。
なんだか気まずい所に出くわしてしまったか。などと感じ早々に更衣室へと退散しようとするが、親方に呼び止められて座るように促される。
何のことかと考えながら席に着くと、親方から一冊の資料を渡される。
その資料には『河越名物菓子屋横丁スイーツコンテスト』とデカデカ印字されていた。
「これは?」と自分が質問すると「兄サン、それはですね」と無口な親方の代わりに後輩が応える。
「毎年一回この時期に行われる菓子屋横丁のお祭り行事なんです。このイベントでは代表を決めてそれぞれ特別なお菓子を出品してその出来栄えを競いあう訳なんです」
「つまり対抗戦なんだね」
「その通りです。それでもってウチの通りは毎年持ち回りで代表をやっているわけなんですけども、今年は遂にうちの店にそのお鉢が回ってきたという訳なんです」
親方が静かに頷く。その顔には既に闘志が漲っており、臨戦態勢にあることが伺える。
「親方えらく張り切ってますね」
「それもそうですよ。なんせウチの通りはここ8年間ずっとグランプリを逃しているんです。そのせいでお父ちゃんは、今年こそは自身が優勝を勝ち取るんだって躍起になっているんですよ」
「そうか、それは切実ですね。親方、自分も頑張って手伝いますから、何でも言って下さいね」
―――さて、自分は迂闊にも安請け合いをしているが、ここで一つ話を整理しておかなくてはならない。
ここ河越の菓子屋横丁はやはり川越の菓子屋横丁と違うところがある。
それはどこか?
お菓子屋さんが通り一面に立ち並んでいるところ。これは違わない。
観光客が足しげく通っていること。これも違わない。
環境省が選定した「かおり風景100選」に選ばれたこと。これも実は違わない。
他にも存在る。―――ここだ。ここが違うのだ。
―――どういう訳かここ河越には菓子屋横丁が四本、中央広場を交点にして十字路の様に通っている。
一つは自分が働いている川越にもある様な昔ながらの駄菓子を扱う菓子屋横丁である。
そして残りの三本。この三本はそれぞれ和菓子、洋菓子、中国菓子を扱ており、区別するために菓子屋横丁の前に和・洋・中国を着けて呼んでいる。因みに自分のいる横丁は『駄菓子屋横丁』の呼び名が着けられている。
『駄』の字が着けられたことに親方は非常に遺憾であるようで、他の通りに対して強い対抗心を持っているのである。
確かに『駄』の字は考え物だと自分も思ってはいるのだった。プライドが高いのであれば、この字はそれを傷付ける。
それが今回のコンテストに対しての意気込みに拍車をかけているのだろう。
「それで出品するお菓子については何か考えがあるんですか?」
自分は親方に尋ねるが、やはり親方は「うむ」と頷くだけで訳が分からないため後輩が代わりに答える。
「僕たちはやはり飴菓子で勝負しようと考えているんです」
聞く前からある程度予想の着いていた答えが返ってくる。
それもそうだろう。と言うよりもそれ以外に勝負できるカードが飴屋にあるだろうか。
心で思って声にも顔にも出さないのが正しい処世術であり「それが良いですね」と当たり障りのない返事を返す。
「飴菓子といっても店内で打っているような切った飴ではなく、僕が店頭でやっているような飴細工を出品するつもりなんです。もちろんコンテスト用ですから店先のよりも遥かに巨大で精密なものに仕上げるつもりです」
「成る程。それならば見た目は豪華になるね。けれど本当にそんなのが作れるのか?いつものと訳が違うんだろ」
「その点について自信は有るんです。以前にも僕は十メートルにも及ぶ昇り竜の飴細工を作ったことがありますから。ですから問題は別の所にあるんです」
「問題?」
「実はですね、このコンテストには課題が有ってサツマイモを使ったお菓子を出品しなくてはならないということなんです」
「それはまた難儀な…飴をイモで作らなければならないなんて、結構制限されるんじゃないですか」
「確かにそうです。ですがイモ飴を作ることができます。なかなかに風味の良いモノですよ、イモ飴。それに他の味の飴も一緒に混ぜ合わせればバラエティーに富んだものが作れるはずです」
「なら問題は無いんじゃないのか?」
「ところがですね、イモ飴と言うのは素材味がストレートに出るものだから素材の良し悪しで出来は八割方決まるんです。ルールでは素材は各自で用意することになっているのでいかに良いイモを持ってこられるかに懸かっているんです」
「けれども、河越のサツマイモなら問題ないんじゃないのか。河越の紅赤は良いモノだろう? 河越民ならみんな知っている」
「甘いですね兄サン。そんな普通のイモなんて他の店も使うに決っているでしょう。その上、奴らはさらに色々手を加えて美味しくしてくるわけですよ。同じイモで戦ったところで勝ち目が有りません」
「じゃあ何か考えがあるのか?」
「『主』ですよ。兄サン」
「…なんだって?」
「『主』ですよ。兄サン」
「いや、そこは聞こえている。だから何で『主』が出てくるんだ」
「兄サンも『主』についてはご存じの様ですね」
「…ちょっと分け合ってね。先輩から聞いたんだ」
「ならば、話は早いです。『主』はその巨大さに育つために生えたイモの養分をほとんど奪って成長するわけです。つまり数百数千個分の旨味が詰まったサツマイモになるわけです。その甘味は生でも砂糖の五百倍だとも言われています」
『主』とはそんなに凄いのか。やはり伝説と呼ばれるサツマイモだけはある。そんなイモを使えば優勝は確実だろう。
「そこでです。兄サンには数日間店番の代わりにこの『主』を探し、つまり『主ハンター』やって来てもらいたいのです」
「…やはりそう来たか」
「本当は僕やお父ちゃんも一緒に手伝いたいのですが、コンテストの準備で手が離せないんです。ですから頼まれてくれますか?」
「雇われの身では嫌とは言えないだろ。引き受けるとも。だが、お嬢さんの家庭教師はどうなる?両立するとなると一日中ずっとと言う訳にもいかないぞ」
「それは心配ないでしょう。家庭教師を始めるのは大体午後5時から。そのころには日が落ちてきて探すにも大変になります。ですからそれまでに捜索は切り上げて帰って来てもらえれば間に合うでしょう」
「うん、確かにそれならば両立できるな」
「早速ですが今日から探しに行ってもらえますか。コンテストは二週間後ですから、それまでに見つけてきてください。僕たちの優勝が兄サンの働きに掛かっていることをくれぐれも肝に銘じて下さいね」
後輩からの激励とプレッシャーを同時に受けて自分は、早々に身支度を整えてカブのストッパーを外す。
手に持った地図には河越中のサツマイモ畑が記載されており、これを虱潰しに探せというのだ。
さすがに無茶だなどと心で毒づくと「おい」と背後から声が掛かる。
振り向きざまに飛んできたスポーツドリンクを受け取ると、親方と目が合った。
やはり何も言わず黙ったままの親方だが、鷹の様に爛々と光る瞳と静かな頷きが、自分への期待を物語っていた。
自分も何も言わず頷き返すとカブを通りの外まで押してゆき、スロットルを入れて走らせる。
出会って間もない自分のような者にあれほどの期待を寄せてくれ、未だに暑さを忘れない河越の晩夏を心配して、スポーツドリンクを渡してくれる心憎さが身に染みてくる。
ならばそれに応えるのが小江戸っ子ではないだろうか。
そう気を改め自分は『主ハンター』へと乗り出したのだった。
しかし、ただ虱潰しに探していたのでは効率が悪いし、最悪期限までに見つけることができない可能性もある。
『もしもし? ああ、お前か。暇になったのか?』
こんな時こそ知恵を使うべきだと、自分は先輩に連絡を入れたのだった。
既に述べたとおり先輩も『主』を探している。
しかも先輩は船問屋のバイトで得た潤沢な資金を元手に人海戦術を展開しているため、既に全サツマイモ畑の6割2分は調査し終えたらしい。
とはいえ、先輩は船頭の仕事を辞めたわけではないため、何時も付きっ切りで見ておらず、こうしてたまに様子を見にやってくるのである。
そんな先輩は一体どんなコスプレのつもりなのか、イタリア製のスーツを着て太さが2㎝もある葉巻を吹かしている。その上頭には探検家が被る様なスピヘルメットをしている。
そんな成りをした先輩は何やら大声で指示を出しており、その様は堂に入っている。
指示の飛ぶ先には、十数人ものゴリラの様に屈強な男たちが、スコップを用いて物凄い勢いで地面を掘り返している。
畑が掘り返されてゆくその様は機械のように正確で宛らドミノ倒しを上から見ているような感じに思えてくる。
また男たちの通った後には、フカフカになった畑の土と、掘り起こされた大型犬ほどの大きさもあるサツマイモがゴロゴロと転がっていた。
これらのサツマイモたちは土地の持ち主であるお百姓さんたちが拾い集めている。
ところどころから「収穫作業が楽で良い」という声が聞こえてくることからも、今回のことに関してお百姓さんの受けは上々のようだ。
「先輩。どんな感じなんですか」
詳しい進捗状況を聞くべく質問をすると、指示を飛ばしていた先輩が振り返る。
「まずまずと言ったところかな。初めてまだ二週間しか経っていないが既に半分探し終えたわけだから」
そう言って先輩は地図を渡してくれる。
その地図は自分が親方から預かった地図と同じものに赤い蛍光ペンでマーキングしてあるものだった。
見てみると確かに図面のほとんどが塗り潰されている。
こうして見てみるとどうやら市の北側が集中的に探している。
「残りは南側ですね。確かにこの調子なら後二週間以内で見つけられそうですね」
「?何のことだ」
「何でもないですよ」
言えるわけも無かろう。まさか、自分は先輩が見つけたところを横取りしようと考えているとは。
だってそうだろう。そうでもしないと自分が二週間という短期間に河越中の畑から『主』を見つけ出すことなどできるはずも無いだろう。
先輩には悪いと思う。もちろん恩も受けている。
しかし、被害もかなり受けているため、差し引きを考えると恩はたった一週間しかお世話になっていない駄菓子屋さんの方が大きいという結果になるのである。
ゆえに自分は悪くない。いずれ自分を恨むのなら、先ず先輩自身を恨んでほしい。
腹の中でそんなことを考えていると「最近聞いたんだが…」と先輩が尋ねてくる。
「お前、なんだか後輩の所で新しくアルバイトを始めたらしいな」
さすがは先輩の地獄耳と感心し、それについて肯定する。すると先輩は渋い顔をして自身の顎を撫でる。
「やっぱりそうだったのか。…実はな、昨日俺はフラリと菓子屋横丁に足を運んだんだよ」
「そうだったんですか。でしたら飴屋に寄ってくれれば良かったじゃないですか。そうすれば自分と後輩の奴にも会えたかもしれないのに」
「いや、駄菓子屋横町には用が無かったんだ。洋菓子屋横丁で新しく売り出された『プレミアムバウムクーヘン』をお袋に買って来いって言われてな。仕方なく行ったんだが…その帰りに思いがけないものを見たんだ」
「―――何ですか?」
「お前、昨日の夜…女の子と話してたよな。しかもなんか貰っていたみたいだし」
マズイところをマズイ人に見られたものだ。
よりによって女日照りの先輩に見られるとは…。そんな思いが頭の中を這いずり回ってしまう。
5秒ほどの沈黙の後、自分の口から出てきた言葉は「あれは後輩の妹さんなんですよ。今は自分が家庭教師をしています」というなんとも言い訳臭い言葉であった。
そんな言い訳じみた言葉に帰ってくるのは非難の言葉と相場は決まっている。
「―――リア充め」
先輩の言葉にはこの上ないほどの怨念が込められており、聞いた人間は尽く呪われてしまいそうで嫌な寒気が自分の背中を撫で付ける。
「いえ、別にそういう関係じゃあないですよ。本当にただの家庭教師と教え子の関係ですから」
「ちぃぇぇぇぇぇぇぇっ!手前そんなイメクラみたいなプレイをしているのかよ!」
「違いますって! 曲解しないで下さい!」
「うるせぇ! 信憑性が無いんだよ! 若い男女が一つの部屋の中に二人きりでいるなんて、そんなシチュエーション自体が羨ましいのに、さらに帰り際に手料理を赤らめた顔で見つめられながら手渡されるなんて…なんて贅沢してやがるんだ!」
「いえ、あの筑前煮は女将さんが作ったものであってお嬢さんが作ったものではないのですってば!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁん!手前あの子のこと『お嬢さん』とか呼んでんだな!確かに清楚で淑やかな雰囲気の子だったものな!ピッタリじゃねぇか!こん畜生!厭らしい!如何わしい!お幸せに!」
「いい加減にしてください。ヒステリーなんて見苦しいです。そうだここ行ってみてはいかがですか?」
「? 何だい? これ?」
「彼女の叔父さんの名刺です。精神科医をやっているそうですよ」
「ウッセェ! この野郎ぉ…自分が幸せだからって人をコケにしやがってぇぇ!」
「そんなつもりはサラサラないです。先輩の被害妄想ですって。やっぱりここへ行ってくださいよ。心穏やかになること請け合いです」
自分が押しつけた彼女の叔父さんの名刺をクシャクシャに丸めた先輩は憎悪のオーラを盛大に放出しながら睨みつけてきた。
「―――決めた。お前もこれで畑を掘って来い」
「! 冗談ですよね…それになんですか?園芸用スコップだなんて」
「それで『主』を探してこいと言ってんだよ!」
「止めて下さいよ。大人気無い! それにこんなスコップじゃ屈強男達の邪魔になるだけですよ」
「気にすることは無い。彼らならお前のような優男は大歓迎。手取り足取り腰取り優しく教えてくれる。そして彼らに男臭さが一生取れなくなるまでミッチリ扱いてもらえばいい。そうすれば女に現を抜かすことも無いだろう」
「無茶苦茶過ぎます!」
「黙れリア充! 伊佐沼の打ち上げ花火に括られて、空の藻屑と消えないだけ有り難いと思え! 手前にはリアルの醜さと辛さを骨の髄まで味あわせてやる!」
先輩が頭上に手を掲げパチリッと指を鳴らすと、一瞬にして例の屈強男が集まってくる。
そして先輩の「連れて行け!」の一言で、自分を雁字搦めにして連れてゆく。
先輩の高笑いが遠退く中で、自分はこれでもはや躊躇も罪悪感もなく、先輩を出し抜いて主を得ることができるなどと思うのであった。
その後も自分は毎日のように主を探し続けたが一向に『主』は見つからなかった。
来る日も来る日も、自分はスコップ一つで土を掘り返し、屈強男どもに扱かれて、時々やってくる先輩から扱き使われるうちにヘトヘトになってしまう。
しかし、歩けなくなるほど疲れ果てることは無いのは、先月のバイトで付けた体力の賜物だろう。
とはいえ、やはり溜まった疲れはどうしようもなく、後に控える家庭教師も途中で舟を漕いでしまうという失態を何度か遣らかしてしまっている。
まったく如何にかせねばならないとは思うものの、主に関わる限りどうしようもない。
だからこそ早く見つけて終わらせようと思うのだが…リアルはそう上手くはいかない。
さらにリミットは残り三日間しかないということも自分を焦らせる。
言葉にはしないものの、日を追うごとに後輩と親方から感じられる苛立ちが強くなってゆき、ここ数日は駄菓子屋に帰る足取りも重くなってしまう。
しかし悪い事ばかりではない。何故なら着々と未捜索の範囲は狭まってきており、残すは目の前に広がる畑のみとなっているからだ。
畑と対峙する自分と先輩、そして十数人の屈強な男達。
ある者は腕を組み、ある者は自分の得物を肩に担い、ある者はタバコの煙を風に流してゆく。
まさに最後の戦いに挑む男達の姿がそこには有った。
「良いか皆」と先輩は自分たちの目の前に進み出て、仁王立ちすると高らかに声を上げる。
「今まで皆には辛い思いをさせ続けて済まないと思っている。ハズレばかりで徒労に終わる日々を味あわせ続けてしまい申し訳ないとも思っている。だかそれは今日は無い。もはや残す畑は目の前に残るこれのみだ。つまり必然的にここに『主』は在るということだ。解るか?」
「応!」と男達から鬨の声が上がる。
「長かった『主』探索の仕事も今日で終わると思うと俺も感慨深くもある。できれば皆ともっと一緒の時間を過ごしたいと思っている。だが何よりも先ず俺たちが集まった理由はなんだ?主を手に入れる事だったはずだ。ならば感傷に浸らずに目的を果たすべきだ」
再び「応!」と声が上がる。
「いよいよ我々の悲願は達成される。遂に私たちは手に入れるのだ。幻とまで謳われたサツマイモ『主』と巨万の富を!」
天高く右手を突き上げる先輩。今まで以上に盛大に「応!」と歓声が上がった。
何なんだ、この空気はと思いつつも、「行くぞ」と先輩の鶴の一声が発せられると自分たちは戦地に足を踏み出した。
相も変わらず細い畔が幾筋も通り、複雑に絡み合った芋蔓が這い回る大地に自分はシャベルを、男達は各々のスコップを突き刺す。そしてまるで大地を剥ぎ取るような勢いで土を掘り返してゆく。
バリバリという音が聞こえてきそうなほどの勢いで畑を掘っていく。自分達が通った後にはイモがゴロゴロと転がっている。
二分の一、五分の二、四分の一。畑の残りが少なくなってもまだ『主』は出て来ない。それでも諦めることなく畑を掘り起こしてゆく。
しかし、遂に端まで辿り着いてしまった。それにも拘らず『主』は、その髭根の一本さえ姿を見せてくれなかった。
自分も他の男たちも互いに顔を見合わせる。「どういうことだ?」「騙されたのか?」と言う声が次第に上がりだす。
畑の外で様子を窺っていた先輩を見ると、先輩自身も訳が分からないらしく青い顔をして戦慄いている。
すると自分の隣にいた屈強男の一人が先輩に詰め寄る。
「おい、全然出て来ねぇじゃねぇかよ。一体どうなってんだよ!」
感情のままに捲し立てるガテン系を前にして、先輩が身に纏っていた居丈高な雰囲気は瞬時に霧散し、いつもの小物臭が漂う先輩に戻っていた。
「いや…そう言われても…自分にもサッパリ」
煮え切らない先輩の態度に堪忍袋の緒が切れたのだろうか、次々に他の屈強男たちも詰め寄って来て、先輩は袋叩きの状態になってしまった。
「イテテ!痛い!痛い!止めて下さい!暴力は反対です!」
「手前!『主』だか何だか知らねぇが適当な嘘言って俺達を騙しやがって!」
「嘘じゃないです!『主』は有るんですから」
「いい加減にしやがれ!お前なんてこうしてやる!」
そうして先輩が見るに堪えない暴力に晒される。
5分ほどそんな光景が続いた後、パンツ一丁でボロボロ雑巾の様になった先輩を置いて屈強男たちは退散してゆく。
「まったく無駄骨だったな」
「銭湯寄って帰ろうぜ」
「その後コイツで一杯な」
男たちの手には先輩から奪い取ったらしい紙幣が握られていた。おそらく退職金代わりに奪った物だろう。
巻き込まれることを嫌い、只々静観していた自分は男たちが去って行ったのを確認すると、恐る恐る先輩の容体を確認する。
まだ息はしているもののコブだらけ痣だらけの体は見ているだけでも痛々しい。
「もしもし、先輩。生きていますか?」
呼びかけるものの反応は無い。ここに放置していても仕方がないため自分は先輩を肩に担いで連れてゆく。
そのまま近くの公園へやってくると、水道水で濡らしたハンカチをベンチに横たえた先輩の額に乗せてやる。
しばらく先輩は譫言や呻き声をあげていたが、二十分ほど安静にしていれば、「ようやく目を覚ましたのだった。
「―――ここは?」
「気が付きましたか?目眩や吐き気は有りますか?先輩」
「…大丈夫だ。特には無い」
「なら脳に異常はないみたいですし、一安心ですね」
虚ろな視線で周りを見渡していた先輩だったが、ようやく状況に気が付いたらしくハッと目を見開いた。
「そうか、オレはアイツらの私刑に遭って気絶していたんだな。それでお前が介抱してくれたのか」
「そういう訳です」
「有り難う。助かったよ。だが、どうせ助けてくれるなら私刑を停めに入ってくれた方が助かったのに」
「無茶言わないで下さいよ。あんな中に飛び込んでいくなんて自殺行為です。もし行って先輩を助けるどころか一緒に袋叩きの上に、パン一を晒しているのがオチですって」
「それでも一人で痛い思いするよりも良かった」
「自分は良くないです。それに自分まで遣られてたら先輩は畑の上で伸びたままだったん辺も考えて自分は見ているだけを極め込んだんですから」
「そういうことあまり偉そうに言うべきじゃないと思うけどな」
「先輩、まだ身を起こさない方が良いですよ。しばらくは安静にしていないと」
「そうも言っていられない。あんな悔しい思いは初めてだ。なんとか『主』を見つけて名誉を挽回しない事には気が済まない」
「―――確かに自分としても見つけて貰わなければヤバイですよ。とはいえ、どうしますか?既に河越中のイモ畑探索済みですよ」
「考えたんだが、俺達がイモを掘り返していたのって畑の表面付近だろ?」
「そうですね。スコップやシャベルじゃ深くは掘れないですし」
「その点を踏まえて考えると、『主』はもっと地中深くに、スコップとかじゃ掘りきれないところに実るんじゃないかと考えられないか」
「確かに。それならば表面だけを掘り返していたんじゃ見つけられませんね。でもどうするんですか?そんな目で見ても解らない様な地中に生えるイモなんて探し出せるんですか?」
「そこで秘密兵器が二つ必要になる」
「秘密兵器ですか?」
「一つは犬とか豚とか、とにかく鼻が利く動物が必要だ。トリュフを探すのにそれらを使っていることは有名な話だろう。それと同じ要領で動物に『主』を探させるんだ」
「面白い案ですが、いくらなんでも普通のイモと『主』との嗅ぎ分けってできるんですか?」
「その辺は大丈夫だ。知っての通り数百数千のイモの栄養が凝縮した『主』は普通のイモとは違い独特の香りを発するらしい。それを頼りに探そうというわけだ。幸い俺の親戚が前回の『主』の欠片を一欠け持っている。それを使って試してみよう」
「解りました。それで二つ目の秘密兵器ってなんですか」
「浸透波試験機を使う」
「それって、地中に振動を伝わせて、反射してきた波から地中内部の様子を探る、物理探査装置ですよね」
「そう、簡単に言えば地中ソナーだな。これを使って地中内部を探ればピンポイントで主の場所を特定できるわけだ。それに杭や鉄パイプを打ち込んでゆく他の試験方法と違って誤って主を傷つける心配が無いからな」
「そう上手くいきますかね。なんせ浸透波試験は狭い範囲でしか解りませんし、深くても10mまでしか探れないんですよ。もし『主』がそれ以上深い所に埋まっていたらどうするんですか? ずっと見つけられないままに成りますよ」
「確かにそれは心配だが、これ以外に案が有るわけでもない。今はこれに賭けてみるしかないんだよ。そういう訳でお前には犬と試験機の手配を頼みたい」
「両方一人でやるんですか?」
「当たり前だろ?怪我人に鞭を打つような真似をするほど君は酷い奴なのかい?」
「…解りましたよ。まったく…こうなるならば助けに入るべきでした」
「『後悔先に立たず』だよ。試験機は先生に卒論で使いたいと言えば借りられるだろう。犬のことは…まあ任せた。では決行は明日と言うことでヨロシク」
そう言い終わると先輩は再び寝転がり額にハンカチを乗せる。
自分は肩をすくめて溜息は吐くと「ハンカチはちゃんと洗濯をしてから返して下さいね」と言い残し、二つの秘密兵器を手配するため公園を後にした。
次の日、自分は先輩の待つ公園へとやってきた。
昨日あれだけボロボロになっていた先輩はすっかり腫れの引いた様子で、いつも通りの球体人間に戻っている。
また服装も先日まで纏っていたようなスーツとスピヘルメットからTシャツとスラックスと言う自分の良く知る先輩の服装に戻っている。
「先輩、持ってきました」
先輩に歩み寄る自分は頼まれていた二つの秘密兵器を携えてきた。
「ご苦労。ところでその如何にも頭の悪そうな顔をした子犬は何だい」
先輩が指差す先。そこには自分がリードを繋いだ一匹の小型犬がいた。
「失礼ですね先輩。こいつは自分家の愛犬ですよ」
落ち着きなく、あちこちの草むらの臭いを嗅いでいるこの小型犬が、自分の家で飼っている愛犬である。
犬種はチワワで、黒と栗色のロングヘアーをしており、宛らライオンの鬣の様に豊かに生えている。
顔立ちにも実に愛嬌がある。人間の眉毛にあたるところが色違いの毛がまるでマロ眉の様に生えており、ちょっと斜視が入っているところもまた愛くるしい。
有体に言えば自分はこの愛犬を溺愛しており、犬馬鹿であることを自覚している。
愛犬が家に来た経緯がまた変わっている。
もともとこの犬は野良犬で、自分の母親の職場の周りを徘徊していたのである。
母親の職場と言うのが保健所であったこともまた運命であったのだろう。
母親はまだ野良犬であった愛犬と一時間にも及ぶ格闘の末、辛くもこれを鹵獲することに成功したのである。
その争いは凄まじく、地形が変わってしまったという逸話もある。
そんな愛犬は飼い主である自分が馬鹿にされたことを感づいたのか、先輩に甲高い声で吠え掛かっている。
吠えられた先輩は体を逸らして愛犬から距離を取ろうとしている。
「おっと、躾が成っていないな。ちゃんとリードを掴んでいてくれよ。噛まれて変な病気を移されちゃ嫌だからな」
「本当に失礼ですね。こいつはちゃんと注射を受けてますし、定期的にフィラリア原虫予防薬を飲ませてますから大丈夫ですよ。ほら、自分は顔を舐められても平気ですし」
「げぇぇぇ!信じられん。どこで何に触れたかもわからない様な犬に舐められるなんて、想像するだけで寒気がするぜ」
「どうとでも言っててください。その時はこいつを焚き付けて先輩を襲わせますから」
「マジで止めろ。それよりその子犬は『主』探索に役立ちそうなのか?」
「こう見えてもこいつは警察犬育成カリキュラムを受けてきているんです。そのため様々な芸を熟すことができて、その中に臭いを嗅ぎ分ける芸もあるんです」
「芸なのかよ。信用して良いのかな?」
「大丈夫ですよ。ちゃんとカリキュラムの認定書もあるんですから。それじゃあ早速始めましょう。先輩、『主』の欠片を愛犬に嗅がせてやってください」
未だに腑に落ちないといった表情の先輩だか、渋々スラックスのポケットから既に干しイモ状態となった『主』の欠片を取り出し、愛犬の鼻の前に翳した。
愛犬はそれを興味深げに見つめている。そして鼻を寄せてしきりに臭いを嗅ぎ始めた。
一秒間に少なくとも7回は呼吸し、その度に忙しなく小鼻がピクピクと動く。
その様子はまるで匂いを決して違わぬように、間違えぬように、細部まで慎重に記憶しようとしているように見えた。
そして味も覚えようとしたのだろう。一瞬のうちに愛犬は干しイモに食らい付くと先輩の手から奪い去ってしまった。
「あっ!」と驚愕の声を先輩が挙げたときには既に遅く、愛犬は猛烈な勢いで走り去り、近くの茂みに隠れると脇目も振らず干しイモを食べ始めた。
「ぬあああああああああああぁ!このクソ犬!大事な『主』の欠片を食らいやがって!」
怒髪天を衝く勢いの先輩は愛犬の居座る茂みへと目にも留まらぬ速さで突進してゆく。
一方の愛犬は先輩の放つ敵愾心を野生の勘で察知したのか、グルルゥという普段の甲高い声からは想像のできない、地鳴りのような唸り声で威嚇する。
しかしそこはやはり小型犬。今ひとつ迫力に欠けたためか、先輩は全く臆することなく茂みへと突っ込んでいく。
だが、『主』を既に腹に収め、先輩のタックルをいとも容易く躱した愛犬は物凄い勢いで公園から逃げ出していった。
攻撃を躱されたことでさらに頭に血が上った先輩も「グオァァ!」と獣じみた怒号を発しながら愛犬を追い縋って行った。
暫く、しかしあっと言う間の出来事をただ傍観していた自分だったが、愛犬が逃げ出したということの重大さに2秒ほど経ってから気が付き、もう一つの秘密兵器の重さに走りを妨げられながらも愛犬と先輩の後を追ったのだった。
一匹と一人に追いついたのはそれから約二十分後であり、場所は河越の南端に位置する大きなサツマイモ畑の中であった。
その頃、既に両者とも本格的な戦闘状態に陥っており、一進一退の攻防が繰り広げられていた。
愛犬が牙をむいて飛び掛かれば、先輩がそれをいなして放り投げ、続けざまにローキックを放つも愛犬は持ち前のすばしっこさで難なく躱す。
この愛犬、小型犬だからと言って侮ってはいけない。
前述の様に愛犬は一時期野良犬として生きていた経験が有り、そんじょそこらの飼い犬とはわけが違う、野生の力と言うものを身に着けているのだ。
そんな愛犬とほぼ互角に戦える先輩はやはり只者ではないと思い、再度感心するものの、いい加減止めるべきだろうと思い立ち、自分は愛犬のことを呼んだ。
すると愛犬はそれまでの興奮状態とは打って変わって、甘えた声を発しながら自分の下へ駆け寄ってくる。
そして膝にすり寄り甘える愛犬を抱き留めてやると、愛犬は腕の中で包まりながら尻尾を振りつつ自分の顔を嘗めてくる。
くすぐったがりながらもその可愛らしさに骨抜きになっている自分の隣に誰かが立つ気配を感じる。仰ぎ見ればそれは先輩であった。
先輩は未だに額に青筋を立てており、血走った眼で愛犬のこと睨みつけている。
そして始終無言であることが、先輩がいかに頭に血が上っているかを如実に表していた。
「…おい、お前どうしてくれんだよ」
ようやく発せられた先輩の声は静かながらも荒々しく、内に秘めた怒気の強さを隠しきれていない声だった。
「どうと言われても、食べてしまった物は返せませんし…もはや単純に謝るしかありません。すみませんでした」
「…謝って済む問題じゃないし、何より今やった小細工が気に食わない。何だ?腹話術みたいに犬にも頭下げさせるような真似をして。おちょくってんのか?」
「そんな訳無いじゃないですか。ただこいつには謝罪をさせる芸を教えていなかったんで、今回は自分が手を出してやっただけです」
「つくづく腹の立つ飼い主と犬だ。だが、どうする?『主』の欠片はあれ一個で他にないんだぞ」
「大丈夫です。厳しい訓練を受けてきた自分の愛犬ならきっとさっき嗅いだ匂いを覚えているはずです。それにこいつが考えなしにここへやってきたとは思えません。自分が思うにおそらく『主』はこの畑の中に在るはずですよ」
「本当かよ」
「論より証拠です。―――よし!行け」
自分が一声発すると愛犬は脇目も振らず一目散に駆けてゆく。
そして、少し離れたところまで行くと、今度はその周辺の臭いをくまなく嗅ぎ始めた。
暫くそれを続けた後、愛犬は甲高い声で鳴いて自分を呼んだのだ。
「『裏の畑でポチが鳴く』ってか」
「先輩、あいつはポチって名前じゃなかったと思いますよ。…覚えていませんが。ともあれあの下に『主』が有るはずです」
「よし、それじゃあ浸透波試験機で調べてみよう」
先輩は自分から機械を受け取ると、愛犬の吠えている付近の地面にセンサーをセットする。そして、パソコンを立ち上げて専用ソフトを起動させる。
画面にはいくつものメーターとグラフとが映し出されており、それらが刻一刻と変化していく様子が映し出されていた。
「おい、ここを見てみろ」
先輩が指差したところ。そこには折れ線グラフが映し出されており、明らかにグラフ内の他の場所と比べて波形が違っていた。
「つまりここに土とは違う何かが埋まっているってことだ」
「しかも大分…いえ、滅茶苦茶でかいですね。これってやっぱり…」
「ああどうやらビンゴの様だ。形と言い大きさと言い『主』で間違いないだろう」
「どうですか?やるもんでしょう。自分家の愛犬は」
「ああ、その点は認めよう。だが問題はここからだ。グラフから見ると主は地下10mの地点に埋まっているようだ。それを掘りだすのを手作業でやるのはキツそうだな」
「でしたらショベルカーを持ってきたらどうなんです?」
「そうしたいが、万が一主を傷つけてしまったらいけないから機械を使って掘るのには賛成できない」
「でしたら人手を増やすしかないですよ。あの屈強集団の力をもう一度借りましょう」
「それはオレが嫌だ。オレをあんな酷い目に合わせた奴らの力なんて二度と借りるものか」
「そう言っても今から他に人手を集める宛はあるんですか?変なエゴに執着しないで、こここは素直に力を借りるべきです」
「嫌だったら嫌だ」
「―――じゃあどうするんです?まさか自分と先輩だけで掘るんですか」
そう言って先輩は自分にシャベルを渡し、自身もシャベルで畑を掘り出す。
まったくもって徒労だと思い自分は溜息を吐く。いったい人力で何日掛かることやら。それを考えるだけで気が重くなってくる。
とは言え時間が無い。刻一刻とリミットは近づいてくる。ここでただ待っていてもしょうがないと自分も意を決して地面にスコップを突き立てる。
今回手渡されたのが、柄の長いスコップだったのはせめてもの救いであった。もしまた前回までと同様にシャベルを使っていたとしたらとてもじゃないが間に合う道理は何処にも無い。
そして土地も良かった。この畑はよく耕されているのだろうか土が柔らかく易々と掘り進めて行くことができた。
しかし、さすがに10mをたった二人で掘るのにはやはり時間が掛かる。
掘り始めて2日目。明日は遂にコンテスト当日である。自分たちは9mを掘り終えて残り1mの地点で大きな障害に差し掛かっていた。
「しかし、この地層は固いですね。スコップの刃が全く立ちませんよ」
「どうやら固結しかけた泥の層に当たったみたいだな。こんなのを1mも掘るのは正直時間が掛かるぞ」
「それは困ります。今日中に何とかなりませんかね」
「難しいな。どうしても何とかしたいなら手を動かせ」
先輩に釣られて自分も手を動かす。しかし地層の硬さは依然として変わりなく遅々として掘り進むことは無かった。
その速さは一時間に5㎝がやっとといった具合である。
「先輩。どうしましょう。既に夕方ですよ」
「だな…今日はこのくらいにしようぜ」
「ダメですよ。続けましょう」
「お前な、どう考えてもこんな暗さじゃ無理だろう。明日にしようぜ。明日に」
「どうしても今日中にやらなければないけないんです。ですから先輩もこのまま続けて下さい。そうすれば明日の朝までには掘り出せるでしょうから」
「…何を焦っているかは知らないけれど、オレは嫌だね。疲れたからもう休みたいんだ」
「ずるいですよ。自分から主探しをやろうなんて言い出しといて」
「お前が後から勝手に加わったんだろ。先月なんて全然やる気なかったくせに。ともかく俺は帰るぜ。続けたいなら勝手にしろ。じゃあな、掘り当てたら連絡してくれ」
その言葉を残して先輩はソソクサと梯子を上って行ってしまう。
なんと薄情な。そう思いながら穴の外へと去ってゆく先輩を見送った。
とはいえ去って行った人のことを思ってもしょうがない。ヤレヤレと溜息一つ吐いた自分は無言で穴を掘り続けた。
鐘の音が午前二時を報せてから暫く経っている。
辺りには光は真っ暗闇が有るばかり。音でさえも穴の外で眠る愛犬の寝息が聞こえてくるくらいに静かであった。
何とか今日の朝までに間に合わせようと意気込んでスコップを振るうも、二人で進めていた作業を一人だけでやっていれば必然的に作業スピードは遅くなる。
あれから何時間も経ったのに未だに主は姿を見せていない。
そのため気持ちが何度も折れかけるがその度に奮い立ち続けてきた。
自分は手拭いで汗を拭って手を見る。そこには無数の肉刺ができており、中には潰れて真皮層まで見えてしまいヒリヒリするものもある。
その時、急に愛犬が吠え出す。何事かと思い穴の外を仰ぎみると同時、唐突に懐中電灯の明かりが降り注ぐ。
「ねえ、ここで何をやっているの?」
懐中電灯の逆光に目を細めながら見つめると、そこには彼女がいた。
彼女はいつものあどけない表情で見下ろしてくる。いい加減自分の顔に懐中電灯の光を直撃させるのは止めて貰いたいと思いながら声を掛ける。
「どうしてここに? それより不用心ですよ。若い女性がこんな夜中に出歩いちゃ」
「大丈夫よ。一人じゃないから」
彼女が後ろの方へと視線を送ると別の人物が顔を出す。
「兄サン、生きてますか?様子見に来ましたけど」
それは後輩であった。後輩はいつもの恵比須顔に若干の不安と焦りの色を混ぜて自分の事を見下ろしている。
「そうか、君が彼女のことを連れてきたんですね。それより、そこに犬がいるでしょう。そいつはうちの愛犬なんですが無暗に近づかないで下さい。見ず知らずの人だと警戒して襲うかもしれないんで」
「あら、それってこの子の事かしら」
そう言って彼女は自分の向う脛の辺りへ手を差し伸べる。そこにはなんと自分の愛犬がすり寄っている。
その上、今まで家族にしか聞かせたことが無いような甘えた声を発し、彼女のその紅葉の様な指を嘗めてジャレついている。
どうして彼女が愛犬ここまで好かれているのか? 気性をよく知っている自分はあまりの事に呆然としてしまう。
「貴方も可哀そうね。こんなに可愛らしいのに飼い主に凶暴だと思われているなんて」
「いいえ、そいつは猫を被っているんです」
「兄サン、今の発言ってギャグですか」
「何を言っているんだ。ギャグでも何でも無い。それよりもどうしてこんなところに、しかもこんな時間に来たんですか?」
「僕は兄サンが心配になって見に来たんです。何せ今日は一回も店に顔を出してなかったじゃないですか」
「私は家で暇をしていたら、後輩君が走ってくのを見たから追ってきたわけ」
要は野次馬根性なのか、そう思ってガッカリした自分は二人に気取られないようにフッと短い溜息を吐く。
「それで兄サン。どんな感じなんです?『主』は朝までに手に入りそうですか?」
「そうだな。あと50㎝ってところかな。まあ、朝までには何とかなるよ」
いかにも不安そうに見つめる後輩に自分は苦笑いで応えるしかなかった。
しかし、50㎝と聞いて幾分安心したのか「そうですか」と弾んだ声で応える。その表情を見ると、今更一時間に数センチ掘り進めるのがやっとだという事実を伝えることに気が引けてしまう。
「そうだ、差し入れ持ってきたんです。良ければ上がってきて一緒にどうですか?」
そう言って後輩は中身のギッシリ詰まって球体になったコンビニ袋を掲げて見せる。
「そうだな、ちょっとだけ休憩するかな」
正直言えば限界が近くなっていた自分は、さすがに休憩も必要だと判断して地上まで上がった。
手渡されたコンビニ袋の中身を確認すると、おにぎりや菓子パンなどの軽食やスポーツドリンクに交じって何故か妙なものまで入っていた。
「何なんだい?これ」
「何でそんな常識を聞くの?見ての通りポータブルプレイヤーよ」
答えたのは差し入れを持ってきた後輩ではなく彼女であった。それよりもうちの愛犬の喉に指を突っ込むのは止していただきたい。
「見れば解ります。それが何で差し入れで入っているのか聞いているんです」
「一人じゃ寂しいだろうと思って作業用BGMに持ってきてあげたの」
「…別に自分はそこまで寂しがり屋ではありませんが…ありがたく使わせていただきます」
イヤホンを詰め込んで再生させるとやはりロック調の洋楽が流れてきた。
自分も洋楽が好きで勉強中に集中したいときや寝る前のリラックスしたいときなどシーンに合わせて選曲して聞いており、同じ趣味を持つ彼女とはCDの貸し合いをしている。
そして、こういう曲を聴くとやはり普段の習慣によるものなのか作業も捗りそうな気になってくる。
そう思うと彼女の差し入れもなかなか良いものだ。
早々に軽食とスポーツドリンクを胃に詰め込むと、まだコンビニ袋に何か入っていることに気が付く。
「この緑色したやつって、液体肥料ですか?良くプランターに刺さっている」
ア ンプルに似た形をしたプラスチックボトルを月の光に翳す自分の疑問に待ってましたばかりに彼女が明るい表情で応えてきた。
「それは今回の新兵器『反続成作用薬』よ」
「―――何ですか?それ。詳しく聞かせて下さい」
「あなたも地質学を専攻していたら続成作用については知っているわよね?」
「ええ、堆積した泥や砂なんかが、主に上の層からの圧力による圧密作用や地下水に溶けていた炭酸カルシウムと二酸化ケイ素が糊の役割をすることで硬くなる現象ですよね」
「まるで教師みたいな解説ありがとう。今言って貰ったように土は続成作用を受けて硬くなってしまうの。そしてこの薬はそう言った続成作用を起こす要因となる炭酸カルシウムと二酸化ケイ素を再び溶出させる作用があるわ。つまり結論から言えばこれを固い地盤に差し込めば、その地盤は再び軟らかい土に戻せるってわけ」
「凄いですね!これ!まさにグッドタイミングな代物じゃないですか」
早速とばかりに自分は穴へと戻ると、反続成作用薬を地面に突き立てる。
待つこと十数秒。急に地面から水が浸み出してきたかと思うと、あれほどの堅牢さを誇っていた地盤がまるで沼底の泥のように柔らかくなってゆく。
「どうやら成功みたいね」
「ええ、このくらい柔らかい土でしたらすぐにでも掘り出せそうです」
「兄サン。何でしたら僕も手伝いましょうか?」
「いや、この分なら一人で大丈夫そうだ。それに君は今日のコンテストに備えて休んだ方が良い。ただでさえこんな深い時間なんだから」
後輩は納得すると「頼みますよ」と言葉を残して帰って行った。それを見届けた自分は耳にイヤホンを付けて音楽を再生する。そしてスコップを地面に突き立てる。
やはり地面は先ほどまでの硬さがウソの様にドロドロになっており面白いほどスムーズ作業が進んでいく。
そして二十分もしない内に赤紫色の物体が見えてくる。
急いで周りの土を払ってみるとそれはやはりサツマイモであった。
しかもその大きさたるや。自分たちが掘り進めた穴も自分が横に寝転がってもまだ余りあるほどの広さがあるが、その底面がすべて赤紫色になってしまう程であった。
これは本当にセミクジラ一頭分の大きさがあるかもしれない。もはや間違いなく自分は主と遭遇したのだ。
「おめでとう。遂に伝説のサツマイモを見つけたみたいね」
穴の外からは抱きかかえた愛犬の髭を玩具にしている彼女が称賛の声を投げかけてくる。
「やりましたよ!何とか間に合ったみたいですね。―――しかし、聞いていた通りの大きさですね。これを全部掘り出すのはとてもできそうにないですから…」
自分は忍ばせて置いた十徳ナイフを取り出すと、一思いに『主』へと突き立てた。
すると不思議なことにその切り口から黄金色の光を発した。
その眩さに目眩を覚えながらも、自分はそのまま主の一部を人頭大ほど切り抜いた。
手に取ってみるとその美しさをより実感することができる。
その外皮はルビーの様に赤々と艶やかな質感をしており、それに隠された肉質は月明かりを浴びて黄金のような輝きを放っている
また、加熱もしていないにも拘らず焼き芋の様な甘く芳醇な香りが漂ってくる。
『主』はこんな欠片ですら、正に伝説と呼ばれるに相応しいイモの王者の風格を放っていた。
「このくらいあれば十分でしょう。早速親方の所へ持っていかなければ」
主の欠片を風呂敷に包んで担いだ自分は急いで穴を出ようとしたのだが、どういう訳か架かっていたはずの梯子が見当たらない。
まさかと思うのと同時にコロコロと笑い声をあげる疑惑の本人と目が合う。
その隣には引き上げられた梯子が置かれていた。
「また性懲りも無くこんなことをするんです?元に戻してください!」
「何かそうね。面白そうだと思ったから」
彼女は相変わらず無垢な笑いを挙げながら子供じみた悪戯をしてくる。
これも彼女の魅力だと言えなくもないが、さすがに今は迷惑以外の何者でもない。
声を荒げて梯子を降ろすように催促する自分だが、そのとき不意の天災、地震が自分たちを襲った。
揺れの大きさも恐らくは震度4程度、揺れている時間も大したことは無かったが足の下の『主』が少し浮かび上がったようにも感じた。
暫く蹲って自分は揺れを凌いだのだが、収まった後に自分は自身の周りの様子がどうにおかしいことに気が付く。
周りの壁から水が漏れだしているのである。しかも一か所ではなく壁の至る所から。その個所に触れてみるとまるで沼底の泥のような手触りがした。
それと同時に「ああそう言えば」と彼女も自分に話し掛けてきた。
「さっき使った『反続成作用薬』だけど、あれって土の粒子間の水分を飽和させる効果が有るよ。しかもあれ一本で半径15mにまで効果を及ぼすくらい強力な薬なのだから、もしかするとさっきの地震でこの周りの地盤が液状化するかもしれないわね」
「サラリと大変なことを言わないで下さいよ!早く自分の事を助けて下さい!」
自分がそう言うのとまったく同時に、穴の周りで壁となっていた土が崩れ始める。
その様子に一瞬言葉を失うが、すぐさま背後でも同じように土が崩れたので居ても経っても居られず彼女へ助けを求める。
しかし助けを呼ぶ声も空しく壁の崩壊は一気に起こり、『主』諸共自分を生き埋めにしてしまった。
まさに自分の墓穴を掘っていたわけである。
「あらら、これはもう絶望的ね」
そう呟くと彼女は近くに生えていた野花を一輪手折り、もはや底なし沼となった自分の墓穴へ供えるとその紅葉の様な両手を合わせて黙祷した。
そして主人を失った愛犬に「帰りましょう」と優しく問いかけるとリードを持って歩き始める。
愛犬も彼女のことを新しい主人と認めたのだろうか、その半歩後ろを付き従うようにトコトコと歩み始めたのであった。
奇跡的に自分が日の目を見たのは時の鐘が6つ鳴った時であった。
焦って新鮮な空気を深呼吸すると「おう、気が付いたか」と声を掛けられる。
声の主である先輩は腕を組みながら壁に寄りかかって自分の事を静観していた。
「―――先輩、おはようございます」
「おう、おはよう。目覚めはどうだい?」
「最悪です。もう何がなんやら。自分がどうして地上に居るのかも解りません」
自分に降りかかった災難の一部始終を話すと、何やら納得したように先輩は頷いた。
「それは最悪だな。マジでサッサと帰って良かったよ」
「今思えば自分も帰るべきでした」
「しかし二度目の地震が無かったら今もお前は土の中だったわけだ」
「?昨夜は二度も地震が有ったんですか?」
「ああ、恐らくその二度目の地震で比重の軽いお前は液状化した地面の中から浮かんできたんだろう。それに見てみろ」
そう言って先輩は壁に背を預けながら拳でノックする。
その壁をよく見てみると、今まであまりの大きさに気が付かなかったが、それは巨大なサツマイモであった。
「お前と同じように『主』も浮上してきたようだ。掘り出す手間が省けてよかったぜ」
ケラケラと豪快に笑う先輩を見ているとどうにも緊張が切れてしまう。
ヤレヤレと後頭部を掻きながら担いでいた主の欠片を確認する。風呂敷に包んでいたためかあれだけの災難にあったにも拘らず自分から離れることなくそれが有ったことに胸を撫で下ろす。
何やら携帯で連絡を取り始めた先輩に、後輩の駄菓子屋へ急いで向かわなければならないことを告げると、先輩は相手との会話を続けながら手を振って応えてくれる。
畑の外に停めっぱなしにしていたカブを走らせて店へと辿り着くと、店内から急いで後輩と親方とが駆け出してきた。
後輩は「兄サン!」と叫びながら詰め寄ってくる。
「待ちわびましたよ。ところでどうなったんです?『主』は手に入ったんですか」
「ああ、バッチリだ。これ、この通り」
そう言って自分は肩に担っていた風呂敷を後輩に手渡す。
中を確認した後輩はその紅色の表皮と黄金色の肉質を目の当たりにして一瞬卒倒しかけるが、何とか持ちこたえる。
「大手柄ですよ!兄サン。これで最高のイモ飴が作れます」
そいつは良かったと莞爾に笑う自分の肩に無言で親方が手を置いてきた。
親方の顔を見るとただただ頷くだけだが、言おうとしていることは伝わってくる。
その様子を見ていると自分の緊張の糸が遂に切れてしまい、そのままプツンと倒れ込んでしまった。
地面にぶつかる直前に受け止めてくれた後輩が何度か揺すってみるものの、自分は全く起きる気配も無い。
「相当に疲れたんでしょうね。服がこんなに泥だらけなんですから。あとは僕たちに任せてゆっくり休んでください」
そう言って後輩は自分の事を店の奥へと担いで行ってくれた。
そんなやり取りがボンヤリした自分の意識に微かに届いて来るが、まるでテレビの電源を切る用意次の瞬間にはブラックアウトしていた。
再び目覚めたのは既に午後4時を回っていた。
見慣れない天井に一瞬戸惑い身を起こすと部屋の内装には見覚えが有った。
その部屋は駄菓子屋の店先にある次の間であり、そこに布団が敷かれ自分は寝かされていたのだ。
いくら疲れていたとはいえ帰社早々気絶するように寝付く醜態を晒したことに今更ながら赤面するものの、そんな自分を布団で寝かせてくれた上にパジャマに着替えさせてもらった後輩家族の心遣いに有難味を感じる。
いつまでも寝てはいられないと枕元に置いてあった洗濯済みの私服に着替え、布団を畳んでいると、襖が開いてお嬢さんが部屋に入ってきた。
「あ、起きられたのですね。お加減はいかがですか」
ま だ自分が寝ていると思っていたお嬢さんは少しビックリした様子ながらも、心底安心したような笑みを浮かべている。
「ええ、だいぶ休みましたから気分爽快です。逆に寝過ぎたくらいですよ」
自分の言葉に花の様に笑うお嬢さんは部屋の隅に寄せてあった卓袱台を据え直し、上に持ってきたお盆を置いた。
お盆には透明なガラスの水差しと同じ素材のグラス。そして褐色をした小さな塊が置かれている。
「何ですか?その塊は」
お嬢さんが注いでくれた水を飲みつつも、粒に興味を惹かれた自分は質問してみる。
「これですか?よろしければ味を見て下さい。そうすれば解るはずです」
そう促されて一口食べてみると、これが予想以上に美味しい飴であった。
その甘さは自然と言う言葉がピッタリで、舐めていてベタ付くとか喉が渇くということは全くない。むしろ不思議なほどの清々しさを感じる。
そして、何より口の中に広がるサツマイモの甘い雲の様な香りが舐める度に口の中に広がってゆくように思えた。
「これ、今日のコンテストに出品したイモ飴の欠片です」
続いて差し出された写真を見てみるとそこには後輩と親方とが写っている。
二人の背後にはあの後作ったのが信じられない様な麒麟ほどのデカさを誇る昇り竜を象った飴細工置かれている。
そして、いつも通り無表情な親方と幼稚園児ほどもあるトロフィーを抱えて浮かれている後輩。もはや見ただけでコンテストの結果が如何様であったのかが解る。
「お陰様で、うちが優勝することができました。センセェにはなんとお礼を言ったらいいのか分かりません」
再び花のような笑顔を見せるお嬢さんに不覚にも赤面してしまう。
「いえ、自分はイモを探してきただけです。それ以外では何の役にも立っていません」
気恥ずかしさから出た言葉を謙遜によるものだと受け取ったお嬢さんはより感動したのか熱っぽい感嘆の溜息を漏らす。
今までの人生で自分自身全く経験したことの無いような、一身に注がれるその羨望の眼差しに顔の紅潮が最高潮にまで引き上げられてしまう。
何なのだこの状況は。あまりに分が悪すぎる。
女子に見詰められたくらいで頭に血が上ってしまうなど、思い描く自分像とは程遠い。
自分は質実剛健、清廉潔白、文武両道、硬派で紳士で粋な小江戸っ子を目指す求道者こと一大学生である
ゆえに自分がこんな軟弱な男であるなど認めるわけにはいかない。
それゆえに自分は、この状況から逃げることを選んだ。
逃げることを女々しいと言うなかれ。これはお嬢さんに要らぬ勘違いをさせないための作法なのだ。他意はない。
夢見る乙女が恋に堕ちるのは容易い。とはいえ相愛になるとは限らない。今回がその事例である。
ゆえに紳士にはそれ相応の態度、つまり身を引くことが要求されるのだ。
理想の自分を保つため、またお嬢さんを気付着けないため、そして何より羞恥心が限界に達し耐えきれなくなったため、自分は飴も水も急いで平らげてソソクサと部屋を後にし、顔の火照りを涼しくなり始めた夕暮れの風で冷やそうと只管にペダルを漕ぐのであった。
一週間後。九月二十日。河越市役所前。自分は先輩に呼び出されていた。
この日は奇跡的に先輩の方が先に待ち合わせ場所まで来ており、時間通りに着いた途端、「遅い!」と絶対に先輩から言われたくない一言を浴びせられてしまった。
その後連れ立っての敷地内へと進んでいくと、目の前に大きな倉庫が見えてきた。
そしてその倉庫の形は異様であった。
5m四辺の正方形をした敷地の中に高さ8mほどの構造物が乗っかっている。
これほどの高さが有るのなら、通常は2~3階あってもいいはずだがこの建物には1階しか存在しない。
また前面には一面に縦長のシャッターが下ろされており、そこには朱色の筆文字で『猩々』と書かれている。
そして自分はこの中に収められている物の正体を知っている。
それが来たるべき河越の主役であると知っている。
「そろそろ祭りの季節だな」
先輩は振り返りつつ、不気味な、しかし決意の滲む笑みを向けてきた。
こうして河越で祭りが始まるのだった。




