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誰がために時の鐘は鳴る  作者: 楠木 陽仁
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新河岸川舟歌篇

 今日も今日とて新河岸川はサラサラと流れている。

 その流れの上を何艘もの川船が行き交い、荷物は丁重に運ばれ、乗客は酒と料理に浮かれ、船頭は調子よく舟歌を歌う。

 河越の新河岸川では江戸の昔から舟運が未だに息衝いている。

 河越の物流を支えるライフラインとして生活必需品から日用雑貨、最先端電子機器までこの川を遡上して東京のから運ばれてくる。

 逆に河越からは特産のサツマイモやカブ、青梗菜(ちんげんさい)などの農産物のほかにも、『ちふれ』の化粧品や『本田金属技術』の自動車部品、また深谷からは赤木乳業製の氷菓『ガリガリ君』がこの川を下って東京へと運ばれていく。

 こういった流通が日に二百件以上も行われてる。そして大型の商船も行き来できるように川幅が大分拡げられており宛らスエズ運河の様な大河となっている。もはや対岸が霞んで見えない。

 また、この川は運輸業ではなく観光業にも使われている。

 この川には毎時4便の遊覧船が走り多くの観光客に楽しまれている。

 夜には川に立ち並ぶ船宿が手配した屋形船が川のそこら中に浮かんでいる。

 そして今の自分は旭橋の袂にある下新河岸で船頭のアルバイトをしている。

 上に船問屋の屋号が入った印半纏を羽織り、ねじり鉢巻きを締めれば自分でもそれなりに船頭の様な格好になる。

 と言っても実際に船を操舵しているわけではなく、船の着岸を手伝ったり丘で荷物の上げ下ろしを主な仕事としている。

(ことわざ)にあるように、『()(かい)三年竿八年』が示す通り船を操る艪や櫂、竿を自在に扱うには長い時間が掛かるもので、まったくの素人である自分には船を操るということは、端から無理な話である。

そのため自分は丘での仕事に甘んじているというわけである。

 八月のクソ暑い中、太陽の下で力仕事をしているのは本当にキツイが、側に川があるだけで体感気温が幾分低くなるうえ、仕事帰りに近くの湧水で足を洗えば暑さと一緒に一日の疲れも吹っ飛んでしまう。

 そうして12時の積み荷を降ろし終えたらちょうど昼休みに入る。

手拭いで汗を拭い、よく冷えた『蔵の街さいだぁ』で一息吐いていると軽快な舟歌か聞こえてくる。

 上流を眺めれば一隻の遊覧船が川の流れに乗ってゆったりのやってくる。

 この川の遊覧船は観光地でよく見かけるように大型でモーターを積んでいるようなそれではなく、昔ながらの木船であり、赤い毛氈(もうせん)を引いた座席と木で作られた簡素な屋根が取り付けられ、積み荷の代わりに観光客を乗せていること以外は普通の船と何ら変わりない。

そして乗せられる人数も最大で20人と遊覧船としては幾分少ないように思える。

 しかしこの少なさが遊覧船を予約待ちの状況し、チケットにプレミアが付くような状態になっている。

 最近では遊覧船の上で告白をすると幸せになれるという噂が流れているようで、人気に拍車がかかっている。

 そんな遊覧船の船頭は遠くからでも誰だか解るほど丸っこい。丸っこいというよりももはや球体である。

 そんな球体がどうやってか自分と同じ印半纏に袖を通し、コブシの効いた舟歌を引っ提げて近づいてくる。そしてそれが先輩であることも、ここまで来れば一目でわかる。

 先輩の竿捌きはもはや練達の域に達しており、水面をまるで撫でるように悠然と自由自在に進んでくる。

 一体この人はどこでこの技を身に着けたのだろうか? 諺通りなら八年の修業を必要とするこの技を?

 また、その舟歌は非常に調子が良く、また先輩のあまりに外見に似合わない良く通る声で歌われるため何とも絵になる風景である。しかし、たまに混じるカンツォーネはフザケ過ぎだろう。先輩。

 一体この人はどこでこの歌を身に着けてきたのだろうか? 数十曲を超える舟歌をプロ顔負けの歌声で歌えるこの技量を?

 しかし呆けている時間は無い。ここからが自分は忙しくなる。

 早めに休憩を切り上げ、急いで遊覧船に駆け寄ると、投げられた荒縄を手繰り寄せ、河岸にある(もやい)に結び付ける。

「おう、暇そうだな」

「…暇なわけ無いじゃないですか。先輩。今もこうやって仕事をしているんですから」

「とは言えオレに比べれば暇だろう? さっきだって詰め所で休憩していたみたいだし。オレなんか四時間ぶっ続けで休む間もなく舟を漕いでいるんだからさ。もうヘトヘトだ。涼しい所で冷たいものが飲みたいね」

 船から岸へと飛び移ってきた先輩の仕様も無い愚痴を適当に流して、船と岸との間に橋を架ける。

「それじゃあ、あとは任せた」

 そう言う先輩に押し付けられて、橋を渡ってきたお客様を(うやうや)しく見送った後、自分は先輩の姿が見えなくなっていることに気が付いた。

 先輩の影を探して視線を彷徨わせると、さっきまで自分が休んでいたベンチに腰を掛けて自分の残してきた『蔵の街さいだぁ』を一気飲みしている。

 ヤレヤレと言う言葉の代わりに口から出て来た溜息が、夏の湿った大気の中に紛れてしまうと、自分は遠くに見える入道雲を見ながらこうなった経緯を思い出していた。



 きっとお前の事だから、また先輩か彼女に唆されて嫌々始めたのが事の切掛けなのだろう。と、皆は思うかもしれない。

 しかし今回ばかりはそう言った経緯で始めたことではないのだ。

 と、言うよりも先月の百万灯祭り及び河越大火未遂事件の時点で既にこうなることは決まっていた。

つまり今回の事の始まりの時点では自分は逃れることも抗うことも出来なくなっていたのである。

 とはいえ、先月の事は先月の事、語り始めは今月のことの始まりからにしよう。

 それは八月の上旬、自分と先輩は先生に誘われてウナギの老舗『東屋(あずまや)』へとやって来ていた。

 河越は川に囲まれている土地柄から昔からウナギを扱う料亭が多くあり、『いちのや』、『小川菊(おがぎく)』、『小川籐(おがとう)』などの有名店が多くある中、自分はこの『東屋』が一番好みの店である。

 東屋は成田山新勝寺河越別院の近くにある。

店の佇まいは昭和初期の古民家の様様な趣のある店であり、通された座敷からは手入れの行き届いた日本庭園が臨める。

 特にこの時期は土用の丑の日と重なるため、ウナギを食べようと思うと一年前から予約が必要と言われるほどの人気店である。

 そんな『東屋』にこんな時期に入れる先生はやはり只者ではないと思っていると、座敷に待望のうな重が運ばれてきた。

 出されるウナギは充分に脂がのり、ふっくらと(とろ)ける食感が楽しめる。

また、染み込んだタレは成田風の甘過ぎないスッキリした味わいで、それが炭火で炙られた香ばしさが食欲を更に増進させ、お代わりを何度もしたくなる味わいである。

 旨い。旨すぎる。埼玉銘菓など比較にならないくらい旨い。

 旨いという言葉以外の言葉で形容するのが失礼に当たるくらいに、旨いとしか言いようがない。

ついつい次の箸が出てしまう。

「おいおい、もっと味わって食べてほしいな。安くないんだから」

 先生の意見も尤もであるが、飢えた貧乏大学生二人がこんなに美味いウナギを前にして理性が働くわけも無い。

 自分と先輩とはろくに味わうことも無く、物の五分でうな重(特上)を流し込むように平らげてしまった。

 肝吸いも漬物も胃に収めて満足していると先生が話を切り出してきた。

「さて腹も落ち着いたところで本題に入るとしよう。今回は君らの借金問題についてだ」

 またか、と溜息を吐く自分の隣で、先輩はまるで痙攣(けいれん)を起こしたようにビクリとする。

「実はな、ここ数日うちの研究室に消費者金融の取り立てが頻繁にやってくるようになったんだ。もちろん何のことかわかるよな?」

「…何のことやらさっぱり…?」

「先輩…またですか?またなんですか? もう慣れてしまったので驚かないですからせめて(とぼ)けないで下さいよ」

「そうだぞ。お前はこの前の百万灯祭りに出品する提灯作りで、俺が渡した製作費以外にも借金して作ったそうだな? しかも相当な金額を。消費者金融から」

「いえいえ、お言葉ですが、さすがに一人当たり五万円じゃとても優勝できる提灯なんて作れないですよ。それに借金は優勝賞金でチャラになるはずだったんですから」

「そう言うのを『獲らぬ狸の皮算用』と言うんだよ。実際に君は多額の借金を抱えて首が回らない状況になっているじゃないか」

「確かにここ数日先輩は音信不通になっていましたよね。それってやっぱり借金取りから逃げていたってことですか…」

「おいおい、せめて金策を巡らしていたと言ってくれ。そこでだ、うまい話を見つけてきたんだが…乗らないか?」

「いやですよ。先輩、また『街興しの功罪』で儲けようという腹なんでしょう? もう勘弁してくださいよ。今までどれだけ酷い目に合ってきたか…。自分が今生きているのが不思議なくらいですよ」

「お前たち…学業そっちのけでそんなことをやっていたのか?」

「い、いえ。先生、これは彼が誇張して言っているだけですよ。ハハ…。―――気を取り直して。今度は安全・確実に大金が手に入るんだ。ほら、来月から名産のサツマイモが収穫時期に入るだろう? 実は親戚にサツマイモ農家がいてな、その人の言うには今年は天候に恵まれていたらしく発育が良くってな、普通に大型犬クラスの大きさの芋が採れるそうなんだ」

「嘘ですね」

「嘘じゃないよ。本当なんだ。いいか、オレはな、お前にはまだただの一度も嘘を吐いたことは無いんだぞ」

「だったらこれが初めての嘘になるわけですか」

「…どうして俺はそんなに信用が無いんだ?」

「日ごろの行いです」

「まあ、話を戻そう」

「まあ、信用しませんけどね」

「…サツマイモが巨大なのは元々品種改良の影響らしいんだが、特に今年は巨大なんだ。こんな年は『(ぬし)』と呼ばれるサツマイモができるそうなんだ」

「へぇ~…。先生、聞いたことありますか?」

「いいや、無いがなぁ…」

「こいつがセミクジラくらいの馬鹿でかさで、焼き芋にすれば市民全員分の量ができるらしいんだ。そしてこいつは市場に出せば一千万…いや、一億は下らないと言われるほどの高級食材なんだぜ」

「ふぅ~ん…。それで、その『主』は御親戚の畑で採れるんですか?」

「ところがそうじゃないんだ。この『主』は毎年河越のどこかの畑にできるのは確かなんだけど、それがどこにできるかが解らないんだ。だからこそ、今から探そうという訳なんだ。わかったか? なら手伝ってくれるよな?」

「そいつぁ~良かったですね~。じゃあ頑張ってください」

「手伝わないのかよ! てか、お前!話半分で聞いていただろう! のうのうとお茶を飲みやがって!」

「いいえ、五分の一です。それよりも先輩、いい加減そんな博打みたいな金稼ぎは止めて下さいよ。大体一度も上手くいった試しないじゃないですか。」

「そんなのやってみないと分かんないじゃないか。それに言うだろう『禍福は糾える縄の如し』『人間万事塞翁が馬』ってさ。ここんところ悪いことが続いたからきっとそろそろ良いことが起きるはずさ」

「『裏目に出る』って事もあります。楽観的にも程が有りますよ。まったく…」

 そんな、自分たちのどうしようもないやりとりを聞いていた先生が、うんうんと頷いている。

「そうだぞ。君が借金で焦っているのは解る。けれどね、そんな危ない橋をいつも渡っているのは感心できないな。君はいつか取り返しのつかないことになりそうで怖いんだよ」

 言い終わると、先生はお猪口の中に残っていた日本酒を飲み干してカンッと乾いた音を立てて卓の上に戻した。

「そこでだ、君たち、アルバイトをする気はないか?」

釈然としない表情だった先輩も、話を適当に聞き流していた自分も意表を突かれて聞き耳を立てる。

「俺の知り合いに船問屋をやっている奴がいてね、夏の繁忙期に合わせて人手が必要になるらしい。そこで君たちに働いてもらいたいんだ」

 はて?と、今の話に何か引っかかることを感じる自分。

 小首を傾げる自分の隣では先輩がなおも先生に口答えする。

「先生。あまり言いたくはないんですが…オレの借金は2千万に膨らんでるんですよ」

 しかし、自分の些細な疑問など消し飛んでしまうほどの衝撃発言が先輩からカミングアウトされる。

「――― ! 先輩! それマジですか⁉ 2千万なんて洒落ん成んないですよ! キチガってますよ」

「事実だ。情けないことに。ですから今更アルバイトをやったからと言ってどうこうなるレベルじゃないんですよ! もう一発当てる以外に俺が救われる道は無いんですよ!」

 声を荒げて涙を流しながら訴える先輩の肩に先生の手か優しく乗せられる。

「大丈夫だ、今回の収入は破格でね…」

 先生に耳打ちされた先輩の表情は見る見るうちに驚きが広がってゆき、見開かれた眼で先生の顔を見つめている。

「それに借金取りの事も任せておいてくれ。俺が手を回してしばらくは手出しできないようにしといてあげよう。だから二人とも夏休みの内に綺麗な体になって帰って来なさい」

「あのぉ…ちょっとすみません」

 既にやる気な先輩とそれを見て満足そうな先生が同時にこちらを向く。

「ちょっと確かめたいことがあるのですが…よろしいですか?」

「何だい? 言ってみなさい」

「その、今、二人と言いましたか?」

「言ったよ。と言うよりも(はな)から言っているぞ」

「―――どういうことか説明してもらえないですか?」

「聞いての通り、君は彼と一緒に働いてもらうということだよ」

「ちょっと待ってください! 何だって自分間で先輩の借金のために働かなければならないんですか⁉ 意味が解んないですよ! 自分は全く関係ないのに自分のためにならないことを、汗を掻いてやらなければならないなんて嫌です! 願い下げです!」

「君ぃ、責任転嫁するんじゃない」

「何ですか責任転嫁って! 先輩の借金に自分の責任なんて一欠けらも無いはずですよ!」

「まだ聞いていないのか? だから彼の借金じゃないんだ。君たちの借金なんだ」

「はぁ⁉」

 訳が本当に解らなくなり錯乱状態に陥りかけた自分の耳に「悪い」と謝る先輩の声が聞こえてきた。

「実は今回の借金をするときにお前のことを勝手に連帯保証人にしたんだ。ごめんよ。許してもらえないだろうけど」

「解っているなら話が速いです。死ぬか殺されるか選んでもらえますか? あ、その前に生命保険入ってもらえます? 受取人は自分でお願いします」

「こら! 死ぬとか殺すとか物騒なことを言うんじゃありません!」

「先生…突っ込むところズレてます。ここでのそんな乗りは不要です」

「しかしお前もお前だぞ。あんな解り易い所に印鑑を置いておくなんて。しかも通帳と一緒に…これじゃご自由に使って下さいって言っているようじゃないか。お陰で俺は誘惑と戦う羽目になってしまったじゃないか。だが、安心しろ、オレは戦いに勝利したからな」

「…そして何の葛藤も無く自分の印鑑で連帯保証人の認印を押したんですか?」

「まあ、お前となら何とかできると思っていたからさ。今までも何度も危機を乗り越えてきた仲だし。結構信用しているんだぜ」

「それは信用と言いません。(たか)りと言います。」

 まあまあ、と熱くなる自分を(たしな)める先生。

「君ももう腹を括ったらどうなんだ? 彼が借金した消費者金融はここらへんは悪名高い所でね、一度その借用書に名前が載ったら最後、地球の裏側はもちろん、月にも地獄の底にも取り立てにやってくると言われて恐れられているんだよ。その上法律なんて何とも思っていない奴らだから、どんなに裁判で君の同意が無いと訴えても君は取り立てから逃れられることはできないよ」

「そんなぁ…。酷過ぎますよぉ…」

 自分の目から柄にもなく悔し涙が零れてくる。

 自分の知らない内に自分は借金まみれにされており、しかもとんでもない所の金で退くことも進むことも出来ない様な状況に追い込まれてしまっている。

 何とも絶望的な状況じゃないか。こんな時くらい泣かせてくれよ、男だって。

「だから一生懸命働いて稼いで借金を返してこい。今日のウナギは餞別だ。借金を返したら祝いにまた食わせてやるから、がんばりなさい」



 そうして自分はこの河岸で既に二週間ほど働いている。

 時間は既に夕刻。新河岸川を下る風も幾分涼しくなってくる。

 この時間になると仕事帰りの人たちも多く見かけるようになり、遊び疲れた子供たちは急いで家路に付き、帰りを待つ家の台所からは今日の夕飯の香りが漂ってくる。

 しかし、自分は未だに帰れずにいた。むしろここからが書き入れ時である。

 それは、この時間が世間一般の仕事終わりであることに起因している。

仕事終わりのサラリーマンの中にはまっすぐ家に帰ることも無く、自分の勤める船問屋や船宿へと足を運び、座敷船を使った宴会や接待を催す者が多い。

そう言った宴会の準備のために自分は料理を運び込んだり、飲み物の量を数えたり、座敷を整えたりとテンテコ舞いの忙しさで駆け回るのが日常になっている。

勿論準備は自分一人が受け持っているわけではなく、他にも数人のアルバイト仲間も忙しく駆け回っている。

そしてその中には先輩も混ざっている。

宴会の準備が整う頃には前後するようにゾルゾロとお客さん達がやってくる。

お客様を船の中へと案内した後、自分も船に乗り込むと(つぎ)()に用意しておいた料理と酒をお客様に提供する。そして頃合いを見て船頭に出航の指示を送る。

その船頭は先輩である。

先輩の操る竿で船は岸を離れて新河岸川を緩やかに下り始める。

船が動き始めた事に色めき立つ宴の席では歓声が上がり、続いて乾杯の音頭が取られる。

そこから先は酒の席。水上も陸上も変わらないドンチャン騒ぎになる。

ただ、自分は(もてな)す側の人間であるため、常に目を配り、酒の減り具合や料理を出すタイミングを推し量るのである。

これがなかなかに難しい仕事で、未だに自分は慣れることができない。

今日も今日とて酒を切らせてしまっただの、料理が来るのが遅いだのと、散々お客様から叱責されっぱなしである。

そして特に性質(たち)が悪いのが酔っぱらったお客様である。

叱責するにしても意味も道理も解らないような難癖を付けてきたり、気持ち悪くなれば川にゲロを吐き、それが船酔いのせいだと騒ぎ立て、お客様同士のイザコザはなかった日などない。

全くもって性質が悪い。

今日も荒ぶるヘベレケどもに辛酸(しんさん)を舐めさせられていると、ふと座敷の隅の方、視界の片隅に何やら捕らえたような気がする。

どうも見たことがある顔を見つけたような気がして、もう一度振り向くが、そこには誰もおらず、ただ一人分の空席と酒と肴が置いてあるだけだった。

そして一瞬不思議に思うものの、(つぎ)()から急かす声が聞こえてくると、些細なこととして忘れてしまっていた。

二時間余りの宴会はあっという間に過ぎてしまい、足取りも覚束ない乗客たちを見送ると時間は既に9時を回っていた。

掻いた汗を手拭いで拭い、一息吐いて背伸びをすると川風がヒョウと吹き抜けていく。

蒸し暑い河越の中を吹き抜ける川風は、川に冷やされて涼しく、体に纏わり付いた熱気を遠くへと運び去って行ってくれる。

そのまま風に胸を開けば一緒に空へと運んで行ってもらえるような気分になる。

「おう、お疲れさん」

 涼んでいる時に一番聞きたくない暑苦しい声が聞こえてくる。お察しの通り先輩である。

 先輩は遠目にも判るほど汗みずくになっている。

青色の印半纏は水分を含んで紺色になっており、汗が蒸発して陽炎が立っている。

額に浮かべた玉のような汗を肩に架けた手拭いで何度も拭いている様は、見ているだけでも体感気温が10℃上がるのは確実である。

こっちはせっかく汗が引いてきたのだ。半径50m以内には近づきたくない。

しかも自分がこのような境遇へと堕とされる原因となった先輩などに利く口も無いと言った腹積もりである。

とは言え、そこらへんは自分も二十二年の生涯で積み重ねてきた処世術。自分はイヤな顔など(おくび)にも出さず、先輩に爽やかに晴れやかに好青年を装って「お疲れ様です」返すのである。

「ようやく今日の仕事も終わったな」

「そうですね。後は事務所に戻ってタイムカードを押すだけですね」

 そう言って自分は何気ない返事を返しながら歩き出す。

 それに習って先輩も後をついてくる。

 そして、先輩が投げかける他愛も無い話に自分は応える。

 傍目から見ると仕事終わりの緩やかな談笑のようにも見えるがそうではない。

 自分が歩き出した理由の一割はタイムカードを押しに行くためであり、そして残りの九割の理由は先輩の側に絶対居たくないからである。

決して先輩との歩きながらの談笑を楽しむためではない。

船着き場に(たたず)む自分の隣に先輩が立ったその瞬間、一気に大気が熱を取り戻した。

 先輩は宛ら夏の空気を一人で担う役を引き受けているのでは、と錯覚するほど先輩の周囲の空気は暑苦しい。

 この人の隣に十分でもいたら確実に熱中症を起こすことになるだろう。

 また、先輩が掻いた一日分の汗を吸い込んだ印半纏は形容しがたい刺激臭を発散している。

 この臭いはとてもキツく、しかも目鼻に沁みてくる。涙で前が曇り、鼻水が滝のように流れ出す。

 自分は一秒で耐え難くなりソソクサと先輩の側から離れることにしたのだが、先輩は執拗に自分の後をついてくる。

 向かう先が同じであるということが先輩と自分が並んで歩く原因なのだろうが、せめて5mは間隔を空けてほしい。頼むから肩が触れそうな距離に居るのは止めて欲しい。

「しかし、今日もまた一段と熱かったね。オレなんか今日一日で四回も熱中症でぶっ倒れたよ」

「―――だのにどうして今ピンピンしているんですか。ベットの上で安静にしていてくださいよ。ですが、確かに今日は暑かったですね。確か天気予報では最高気温が36℃になるって言ってましたよ」

「ひゃ~そりゃぶっ倒れて当然だわ。これも、熊谷の熱気がこっちまで流れ込んできたせいかね?」

「そうなんじゃないですか? 聞くところによると、熊谷じゃ連日40℃を越しているとかいないとか」

「まったく傍迷惑な話だぜ。自分の所の熱を回りにまき散らすなんてさ」

「―――先輩にそれを言う権利は無いと思うのですが。しかし、冗談じゃなく熱中症は命に関わりますよ。重度の症状になると救急医療でも全く手の施しようが無くなるそうですしね。ちゃんと水分と塩分を取って涼しい所で休憩するように心掛けてください」

「その辺は抜かりないさ。オレなんか日に10ℓは水を飲んでいるし、仕事をサボって日枝神社の木陰で二時間は昼寝をしている」

「それでよく四回もぶっ倒れますね」

「それは…まあ、俺って病弱じゃないか」

「今までにそんな話は一回も出てきていません」

「しかし何だね、お前がオレのことを気遣ってくれるなんて珍しいじゃないか。そんなに俺のことが心配か?」

「それは心配しますよ。なんせ先輩にもしものことがあったら借金はどうなるんです? 自分一人で負債を抱え込むのは死んでも御免ですからね」

「ふぅむ…今の話を総括すると…君はあれかい? ツンデレなのかい?」

「先輩に自分をデレさせるのは金輪際無理な話でしょうね。少なくとも近くにいて欲しくない人であることは確かです」

「おいおい、俺ってお前にそんなに嫌われるほど性格悪かったか」

「自覚が無いのは本当に性質(たち)が悪いですね。因みに傍に居て欲しくない理由は人間性だけでなく、体感的な問題が大きいのですよ」

 そう言って自分は幾分早足となる。しかし、先輩はその後に追いすがってくるのであった。

 自分と先輩は連れ添って川から続く緩やかな坂を上り船問屋の事務所へと辿り着く。

 店のドアを開けるとシッカリと空調を効かせているのか、中からキンと冷えた風が肌に当たり、自分と先輩とを冷やしてくれて実に心地いい。

 入り口は三和土(たたき)となっており、帳簿台にはまるで大黒様の様な男が座っている。

「おや、終わったのかい」

 この男こそ、この船問屋の主人にして自分と先輩との雇い主、そして先生と旧知の中の人物である。先生はその見た目から彼のことを『大黒』と呼んでおり、自分たちもそれに倣っている。

「ただいま帰りました、大黒さん。今日も盛況でしたよ」

「そうかそうか。今日も盛況だったか。良きかな良きかな」

 そう言って大黒さんが取り出したのは二通の茶封筒であった。

 その表書きには給料明細と言う文字と自分と先輩の名前がそれぞれ書かれている。

嬉々としてその封筒を受け取る自分たちであったが、自分はどうにも自分の名前と言うものに違和感がある。

人名を覚えることが致命的なまでにできない自分は自身の名前すらも(おぼろ)げであり、こうやって紙に書かれても一瞬誰の名前なのかと疑ってしまうのである。

事実自分の名前など暫くぶりに見た気がする。確か最後に使ったのはバイトの面接に必要な履歴書を書いた時であったが…書いたのはこんな名前だっただろうか? そしてそれは確かに自分の名前だったのだろうか?

だったら、家に帰ったら例の手帳を見てみるとしよう。そこにこの茶封筒に記された名前があったなら、それは間違いなく自分の名前なのだろうから。

―――それはさておき

 心弾ませて封筒の中を検めてみると、そこにはギッシリと一万円札が詰め込まれている。その数なんと三十五枚。

どう考えても破格である。

 たかがバイトに三十五万も払うなんて、死体を洗うかバキュームカーの中を洗うかと言う仕事を選ばない限り現実味がない。

 しかもこれが月毎ではなく毎週支払われるということなのだから、もはやこれはファンタジーじゃないかと錯覚してしまう。

 しかし、確かにこの仕事はこの金額に釣り合う程の重労働なのである。

 船は川を下るのは大変楽な乗り物だが、遡上(そじょう)するのが大変苦労する乗り物である。船が川を上る際には、川の両岸から荒縄で引っ張り上げるのである。

自分たちの受け持ちは下新河岸から上流の上新河岸までの約十五mほどの距離である。

しかしこの作業は肩が砕けそうになる。高々十五mを行くだけでも立てなくなるほどに体が軋む。

 しかも船は滞りなく河岸へと着岸し、ほとんど休む暇も無いため、結果この船引きの作業を一時間のうちに十数回もしているのである。これは体によくない。

また、滞りなく運ばれてくる山積みの俵や塩の詰まった麻袋などの最低でも十㎏の重量級の品物を店の土蔵まで運んでいくのである。

そしてさらに過酷なのはこのクソ重い品々を運ぶ道が坂道になっているということである。

先ほども言ったように船問屋は台地の上にあり、川からは緩いながらも長い坂道を登って行かねば辿り着けない。

この作業は腰と膝に重度の負担が掛かるらしく、初めの一週間など就業時間になると自分は壊れたブリキの玩具のような動きになってしまっていた。

それに加えて朝に店内と土蔵内の掃除、夜の屋形船の用意など多忙なほどの仕事量を(こな)しているのであるから、これくらい貰っても文句はあるまいと自分は思う。

思うがやはり気になる。バイトにこれだけの給料を払っていてこの船問屋は経営が成り立つのだろうか?

まあ、バイトがそんなことを考えてもしょうがない。そんなことは経営者が考えればいいのだ。

「それじゃ自分はこれで上がらせていただきます」

「ああ、お疲れ様」

「それじゃあ先輩、早速着替えて『足水』に行きましょう」

 店の更衣室までやってくると、自分は先輩に声をかける。

さっきまで近づくことさえ避けていた先輩であったが、先輩も既に店の中の空気で冷やされており、温暖化の原因になることは無くなっているので、もう近づいても大丈夫だ。

それでも若干汗臭いので2mまでは近づかないようにしているが。

 自分と先輩とは仕事終わりに『足水』に行くことが日課になっている。

 新河岸川の流域には至る所で地下水が湧いており、それらの水が新河岸川の豊富な水量を支え、また野菜や食器などの洗い場としても使われている。

 そして、『足水』とはこの湧水で足湯の様にしながら涼を取る。

海も山も無い河越では定番の夏の過ごし方であり、流域の大きな湧水では必ずと言っていいほど『足水』の設備が設けられている。

 因みに人の口に触れるものを扱う洗い場が上流で、汚れた足を洗ったり(くつろ)げたりする足水場が下流と言う配置がどこもお決まりである。

 この『足水』、正真正銘源泉かけ流しの地下水は、夏は冷たく冬は暖かで年中楽しむことができるようだが、やはり夏に入る方が良いと皆言っている。

 アルバイト初日が終業した後に先輩に連れられて自分は始めて足水に入ってみたのだが、成る程これは夏の方が良いと実感できる清々しさであった。

 またこの涼を無料で堪能できるという手軽さも嬉しい限りである。

 自分と先輩とは仕事先から最も近い日枝神社下の足水場を毎回利用している。

 浸かれば浸かるほど自分は『足水』の常連になってゆき、その素晴らしさを深く理解できるようになっていた。

 足水に浸かると体中の火照りが洗い流されていくばかりではなく、一日中立ち仕事をこなして疲れ切った足の筋肉を解すのにも丁度いい。まさに、絶好のリフレッシュスペースである。

 また、客同士の会話もまた楽しみの一つである。隣に座ったのも何かの縁とばかりに弾む話は思いもよらない人間関係の構築へと繋がる。

例えば、この前隣に座っていた鉱石コレクターの中年男性と意気投合し、ロシア産のカンラン石、所謂『ペリドット』の原石を譲ってもらったりもした。

そのカンラン石は彼女が以前から探し続けていた代物で、後日彼女にプレゼントすると無垢な笑顔で喜びながら感謝されたものだ。

また、上流で野菜を洗っていた農家のオバちゃんと意気投合して、捥ぎたての胡瓜とトマトを振る舞ってもらったりもした。

これが地下水で冷やされたらしくとても冷たくとても美味しく、喰うとスゥッと火照りが引いてゆき、野菜の水分で喉の渇きも優しく引いていったものだ。

このように足水のでは自分の場合良い出会いに恵まれるケースが多いのである。

しかし何より涼を取ることこそが自分が足水へと足しげく通う理由である。

「―――さてと。タイムカードも押したことですし、早速足水へと行きましょう。先輩」

「そうだな、トットと涼しくなりたいからな。それじゃ大黒さん、お疲れ様です」

 自分と先輩は連れ立って店を出ようとすると不意に大黒さんが呼びとめてきた。

「帰るところ悪いんだけど、今夜は特別手当の日だから…頼むよ」

 特別手当の日。大黒さんは週に二度ほどこう言って呼び止めてくる。

 疲れ切った自分は一度も参加したことは無いが、金さえあれば無尽の体力を発揮する先輩は毎回の如く参加している。

 先輩が言うところによると、修業後三時間ほど働いて報酬は通常業務の五倍ほど貰えるらしく、借金返済に躍起になっている先輩には打って付けである。

 このまま続ければ遠からず借金が返済できると言って喜んでいたのだが、一緒にオフを過ごすのは無理そうである。

 そして今日も特別手当の日に参加する先輩と別れて自分は一人で足水へとやってきた。

 今日も河越は暑く足水はいつも通りの盛況ぶりである。

 自分はなるべく人の少ない下流側へとやってくると、素足になって両足を水に浸す。

 そして暫く足の指の開閉を繰り返した後長く細い溜息を吐いた。

 実に気持ちいい。晴れ晴れとした気分だ。

 足を手で揉み、凝りを解しながら日枝神社の方を見ると夜だがヤケに明るい。

 今日は日枝神社で盆踊りがあったのだ。

 自分の暮らしている近所では夏の間に盆踊り大会がそれぞれの自治会ごとに行われ、合計4回行われている。

 自分は盆踊りが大好きであり、小学生のころから毎年のようにすべての踊りの輪に加わっていた。

 そのため踊りは二十以上覚えており、民謡会のオバ様方から一目置かれるほどの技量になっている。

 また、盆踊りにはもう一つ、アイスと言う楽しみがある。

 この4つの盆踊り大会ではどこも休憩時間にアイスキャンディーが配られる。

 子供の頃はこれが楽しみで盆踊りに参加していたほどである。

 しかし、今年はご覧の通り夜も遅くまで働いていては参加できるはずもない。

 会場は明かりのみが灯され音楽は既に無く、皆帰り支度に勤しんでいる。

 そんな日枝神社を見つめながら「ああ、終わってしまったな」と独り言を言ってみても誰も言葉を返してはくれない。

 周りが賑やかな分、一時間近く一人でここに居る自分が本当に一人であることがヒシヒシと感じられる。

 幽霊でもいいから誰か声を返してもらいたいものだ。

 なんせ今はお盆。幽霊ならばそこら中に溢れているだろう。

 もしかしたら一緒に日枝神社で踊っていたことだろう。盆踊り自体元々そういった習わしだから。

 …幽霊。その考えに至ってあの人物が誰なのかと言うことを思い出した。

 ―――あの人物。今日の夕刻、屋形船の中で見つけたあの人物。気さくで切符が良く何より酒をこよなく愛する幽霊。

 そう言えば、あの時先生が訊いていたっけ。お盆には帰ってくるか?と。

 だとすると帰ってきたのだろう。

「おう、若ぇの、どうしたんでぃ?」

 肩に置かれた氷の如く冷たい手に驚き、ヒィ!と言う情けない音が喉から洩れ、咄嗟に振り向くとそこには懐かしい幽霊がいた。



「どうしたんでぃ? まさか俺の事を忘れちまったんじゃ無ぇだろうな?」

「―――オヤッさん。お久しぶりです」

 ()の幽霊、オヤッさんはまるでそれが当然の様にフヨフヨと浮かんでいた。

その身形は相変わらず薄汚れた白無垢を着流しており、腰から下げたおそらく酒が詰まっているであろう瓢箪(ひょうたん)がチャポチャポと音を立てている。そして既に出来上がっているのか、血の気も無い幽霊のクセに顔が紅潮し、吐く息も酒臭い。

そんなオヤッさんの様子を見ている内に3ヶ月ほど前の出来事がフラッシュバックしてくる。

 オヤッさんはゴールデンウィーク明けに自分たちの研究室が行った新人歓迎会。その飲み会で先生と飲み比べをした酒豪幽霊である。

 飲み比べの結果、敗北したオヤッさんは、彼女お手製の『極楽チャンポン』を口にして成仏したのだが、お盆となり現世へと帰ってきたのだろう。

「足水か。風流じゃねぇか。どれ、ちょっくら俺も浸かってみるかね」

「幽霊なのに足水に浸かれるんですか?」

「馬鹿にしちゃいけねぇよ。幽霊に足が無ぇなんてぇのは幕末に噺家が描いた妖怪絵から来た話しなんでぇ。それ以前はちゃぁんと幽霊にも足が有ったってもんよ」

 そう言うとオヤッさんは自分の隣に腰を掛け、徐に見えない両足を水に着ける。

 水に波紋が生じたのと、涼しげな表情をするオヤッさんの顔を見ると、オヤッさんの話もまんざら嘘ではあるまい。まあ、見えないのだけれども。

「ほらよ」

 するとオヤッさんは何やら自分に突き出してきた。薄暗く良く見えないが、その青色のパッケージには見覚えがある。

「そこの神社で踊ってたら二本も貰ってよぅ、どうでぃ?一緒に食わねぇか?」

そうオヤッさんから手渡されたそれは埼玉県が誇る夏休みの友達『ガリガリ君』であった。

しかし自分は差し出されたガリガリ君を見て(いぶか)しむ。

「それ大丈夫ですか?」

「―――? どういうことでぃ?」

「いえ、たしかアイスが配られたのって大体8時くらいですよね。と、言うことは今から二時間前ですよ。ですが、こんなクソ暑い中に放っておいたら溶けてしまったんじゃないですか?」

「そこは抜かりねぇ。なんせ俺ぁ幽霊だ。幽霊になってからずっと体が氷のように冷たくってな、ただもっているだけでアイスも溶けねぇって寸法さ」

 渋々受け取るとアイスは実際に冷凍庫から取り出したばかりの様にカチカチだった。

「どうでぃ? 幽霊になるってぇのも乙なもんだろう。さらに幽霊ならこの暑さでも汗をかかねぇから快適に夏を過ごせるんだぜ」

「そいつはいいですね。オヤッさんの話を聞いていると幽霊になってみるのも良いもんだと思いますね」

「だろ? それにあの世は良いもんだぜ。歌の文句にあるように、酒は旨いし姉ちゃんは綺麗ときたもんだ。今度一緒に行ってみないか」

「いずれ。そうですね、六十年後くらいになんてどうでしょう?」

「六十年。まあ、幽霊の俺にとっちゃアッと言う間の話だ。気長に待つとするかね。それよりもなんだい、お前ぇさんは今船頭をやっているんかい」

「やっぱり、今日屋形船で見かけたのはオヤッさんだったんですか…。タダ酒はいけませんよ」

「酒の香りのするところに俺が居るのは当たり前。それがこの河越の常識ってヤツよ。そんなに飲まれるのが嫌なら戸締りをしっかりしとけ。つっても俺ぁ壁もすり抜けていくけどな」

「まったく性質(たち)が悪い。魔除けのお札を張っておくか、今度幽霊お断りの看板を立て掛けておくことにしますよ。―――話を戻しますけど、自分は確かに船頭をやっています。ですが如何せんアルバイトですよ」

「バイトだろうと何だろうと船を動かしたことはあるんだろ。そこで頼みがある、後で俺を船に乗せてくれねぇか?」

「お安い御用と言いたいところですが…自分は船なんて一度も漕いだことは無いですよ。ずっと丘仕事ばかりですし」

「そうは言っても、誰かが漕いでいるところは見たことあるだろ? だったら一つやっつくんねぇか? 後生だからさ」

「後生もクソも死人には無いでしょう。それに夜の営業はやっていません。真っ暗な中で舟を漕ぐなんて危なくてしょうがないですよ」

「そこらへんは大丈夫だ。―――見てろ」

 そう言ってオヤッさんは右手をフワリと振るう。するとオヤッさんの周りに煌々と青白く輝く鬼火が三つほど飛び出したのである。

「明かりならここに有る。どうでぃ? なかなか明るくって綺麗だろう?」

「確かに明るいですね。でも今出すのは止めて下さい。ほら、周りの人たちが悲鳴を上げて逃げて行ったじゃないですか」

「おっと、こいつぁウッカリだ」

 オヤッさんがフッと息を吹きかける。するとたちどころに鬼火は消えたが、足水からも人が消えてしまい今は自分とオヤッさんを残すのみである。

「と、まぁよ、明かりはこのくらいあれば充分だろ」

「確かに…ですが、やっぱり危ないですよ」

「大丈夫だ。これ以上死にはしねぇだろうさ」

「自分は死にますよ」

大丈夫(でぇじょう)だ。三途の川の船頭は俺が引き受けてやるから」

 オヤッさんに引っ張られて黄泉の国へと旅立つ自分を想像すると、背筋が凍るような感覚に襲われた。

 まあ、天国に行くのに道に迷うことはないだろうが。

「まあ良いでしょう。乗せてあげます。あまり乗り心地については保障しませんが」

「おお! ありがてぇな」

「―――実は前からやってみたいと思っていたんですよ。ずっと丘仕事ばかりで飽き飽きしていたんです」

「よぅし、なら善は急げってもんだ。早速行こうじゃねぇか」

 オヤッさんは見えない足を水から引き抜くとフヨフヨと船着き場へと漂っていく。

「――― ! ちょっと待ってください」

 自分に呼び止められてオヤッさんが「なんでぃ? 藪から棒に」と狐につままれた顔で振り返る。

 自分は急いでオヤッさんの傍へと駆けてゆく。

「今日はダメです。明日にして下さい」

「―――どうしてだい?」

「実は今日は残業のある日でまだ船で仕事をしている人がいるんです」

「こんな時間まで仕事してるんか? 幽霊じゃあるまいし。生きてる奴ぁトットと寝てれば良いのによぉ」

「何か大切な仕事らしいんです。だからもし勝手に舟を漕いでいるのを見つかったら自分はクビになってしまいます。だから今日は勘弁してください」

「ふぅん…幽霊になったらそんなこと気にしないでもいいのによぉ。まったく現世は大変(てぇへん)だねぇ。トットと解脱して彼岸へ来ればいいじゃねぇのか」

 そう言ってオヤッさんは懐手をしてまるで嘲るようにケタケタと不吉に笑う。こういったセリフもオヤッさんに言われるとシャレにならない気がする。

「まあ、そこまで言うんじゃ明日頼むよ。約束したからな」

 その言葉を残してオヤッさんはまるで空気に溶けるように居なくなった。

 こうして完全に一人になった自分は手に持ったガリガリ君の棒を見る。月明かりに透かして見るとアタリと書かれていた。

 とはいえ今は既に午後十時を回っている。

 交換はまた明日にしようと思い自分も家路に付くことにしたのである。



 次の日も河越はまた蒸し暑く、肉体労働には最悪のコンディションとなった。

 額に汗をして働いてクタクタになり、ようやく待ち望んだ休憩時間となる。

 早速ポケットからアイスの当たり棒を取り出して新河岸川の近くにある和菓子屋兼駄菓子屋へと足を運ぶことにした。

「毎度どうも―――て、君か。ホントに毎度だね」

 出迎えはもはや聞きなれてしまったご主人の台詞である。

夏休み中かなりの頻度でこの駄菓子屋に訪れているが、バイトを始めた今月からはほぼ毎日の様にやって来ている。

「今日もアイスを買っていくのかい? たまには和菓子も買って行ってくれよ。この葛餅なんてどうかな? それとも水羊羹は如何かな? どっちも井戸水で冷やしておいたから食べ頃だよ」

「和菓子はイイです。遠慮しておきます。それに今日はアイスを買いに来たわけではありません。当たり棒と交換しに来たんです」

 自分はご主人にズイッとガリガリ君ソーダ味とアタリと書かれた木の棒を突き出す。

 ご主人は棒の内、アタリと書かれた方の逆側、つまり持ち手だった方を親指と人差し指で抓みながら繁々と観察する。

「確かに、当たっているね」

「ですから早く交換してください。チンタラしていたらアイスが溶けてしまいま―――」

 しかし、自分の言葉はご主人が付き返してきた当たり棒によって遮られる。

「だが駄目だ。ウチじゃあ換えられないな」

「―――どういう意味ですか…これは正真正銘本物の当たり棒ですよ! 換えられないなんてそんな訳無いじゃないですか!」

 戸惑いを隠せない自分の事をご主人はフゥっと溜息一つであしらう。

「確かに当たっているけどもこれってウチで買ったやつが当たったの? そうじゃなかったら交換できないね。いちいち他の所で当たったヤツを交換していたらこっちも商売上がったりなんだ」

「そんなケチ臭いこと言わないで下さいよ。今まで何度もアイスを買ってきたじゃないですか。良いじゃないですか一本ぐらいタダで貰っても」

「でもなぁ~いつもアイスばっかりで和菓子買ってくれないんだもんなぁ~」

「それで臍曲げているんですか? ―――解りました。それじゃあ葛餅も買いますから交換してくださいよ」

「そうだねぇ。それじゃぁ…」

 自分が駄菓子屋を出る際に一本のガリガリ君と一つづつの葛餅と水羊羹、そして二本の『蔵の街さいだぁ』(締めて1260円。なおガリガリ君は無料である)を詰め込んだビニール袋を持っていた。

 余計な出費で辟易した自分はなるべく外の熱気に当てられないようにソソクサと休憩所へと戻ってくる。

 戻ってくるとそこには先輩が(とろ)けかけながら左団扇を扇いでいた。

 なんだか外よりも熱く感じる休憩所内に入ると、やはり居るのは先輩だけだった。他の社員も先輩と体感的な問題で一緒に居たくないのだろう。

 それでも中に入った自分の事を見つけて先輩は口パクつかせる。恐らく常套句を言おうとしたのだろうが、声を出すことも億劫なのだろう。

「マジでお疲れ様ですねえ先輩」

 パクパクパクと声にならない声を上げる先輩。長い付き合いだがツーカーの仲ではない自分は、渋々買ってきた『蔵の街さいだぁ』の瓶の蓋を開けて先輩に手渡す。

 先輩はそれを受け取ると仰向けのまま口に突っ込み、宛ら点滴の様にさいだぁを飲み下していく。

 先輩がさいだぁをチビチビやっている十五分間、アイスを舐め舐めしならが待っていると、ようやく飲み終わった先輩身を起こす。

 先輩のその顔はいつもの暑苦しさを払拭したスカッと爽やかな表情になっており、室内気温も幾分涼しくなっているように思う。

「イヤー、生き返ったよ。やっぱり生まれ育った土地の地下水で作られたさいだぁはスッと入っていくね。体によく馴染むよ」

「…後で代金は頂きますよ」

「いいよ。いくらだい?」

「―――⁉」

「なんだい、そんなにビックリして」

「いいえ…先輩が素直に金を出すなんてどうかしたのかと思いまして」

「おいおい、オレはこう見えてもケチじゃない。むしろ金離れはいい方だ」

「先輩の場合良すぎて借金しているんじゃないんですか?」

「それに最近はバイトしているから羽振りが良くってな。前の日曜なんか新しくランボルギーニを買ってしまったよ」

「本当に借金返すつもり有るんですか?先輩?」

「そんな冷たい目で見るなよ。働き詰めも良くないだろ? どうだい?今週末バケーションに行くのは? ランボルギーニを飛ばして長瀞の別荘まで行こう。そして荒川で水泳とクルージングと洒落込もうじゃないか」

「…完全に返済するつもりないですよね」

「ところで、君の持っているそれは何なんだい。アイスならサッサと食わないとやばいぞ」

 先輩が指差すビニール袋を流し見て、「これですか…」と溜息を吐きながら自分は購入に至った経緯を語った。

「なるほどね、それは高くついたな」

 納得のいった先輩が何度か頷くと、いきなり自分の手から和菓子を引っ手繰っていった。

 自分の「何するんですか!」という抗議の声を手で制した先輩は自分の拳の内を見るように示してくる。

 言われるがまま手の内を見ると、中には現金で一万円が収められていた。

「! これは! いったい!」

「この袋の中身は俺が買い取った」

「いえ…いきなりすぎて訳が分からないのですが」

「だってこれってさ、別に買いたくは無かったんだろう? だったら俺が買ってやる。喰いたい奴に食われた方がこいつらも浮かばれるんじゃないのか?」

「…まあ、良いですけど。ですがこれはちょっと多くないですか? さすがに一万円は貰い過ぎです」

「ふははははっ! トッテオキタマエ」

「何か言い慣れていない感じがヒシヒシと伝わってきますね」

「良いんだよ。俺が気持ち良ければ。それより、お前は葛餅と水羊羹、どっちが良い?」

「―――どっちかと言えば葛餅でしょうか」

「それは丁度いい。今は水羊羹の気分だったからな」

 先輩は袋から葛餅を取り出すと自分に渡す。そして自身は水羊羹を取り出して嬉しそうに包装を取っていく。

 まったく、先輩の食い物を食べる顔はどうしてこんなに幸せに満ち溢れているのだろうか。本当に見ているこっちまで満たされそうな気分になる。

「ところで先輩。黒蜜と黄な粉取ってください。確か一緒に入っていたはずですよ」

 自分が先輩の幸せそうな顔を再び見たとき、先輩はあろうことか水羊羹に黒蜜と黄な粉を掛けて食している最中だった。

「⁉ 先輩! 何やっているんですか!」

「何って。俺の家じゃあ普通だぞ。羊羹に黒蜜と黄な粉を掛けるのは」

「いや、だってそれは葛餅用ですよ! なに勝手に使っちゃってるんですか!」

「いやぁ、こうして食うとさらに旨いじゃん」

「葛餅は味気無くて食えないですよ!」

「まあまあ、許してくれよ。昨日も残業で夜中まで働き詰めだったんだからさ。エネルギーがいくら有っても足りないんだ」

「でしたら省エネすべきです。先輩は常に発散される熱エネルギーが無駄過ぎるんです。大体何なんですか⁉ 残業は先輩が自分の意志でやっている事でしょう⁉ それなのに人に(たか)るような真似をして。まったくお門違いです。だったらやらなければ良いんです。休めばいいんです」

「お門違いなのはお前の方だぞ」

「どういう意味ですか⁉」

「俺はこの袋の中身を一万円で買ったんだ。それをどうしようと俺の勝手だろう?」

「⁉ そんなの屁理屈です。葛餅には黒蜜と黄な粉が必要です。後生ですから返して下さい!」

「後生というのは来世の事だから、それを願うのならトットと往生することだねぇ」

 後生の本当の意味を今ここで知り、昨日オヤッさんに突っ込んだことが誤りだったことを思い知らされる。誤用していた自分に恥ずかしくなってしまう。

 しかし、怒り狂う自分は一瞬でその羞恥心を取り込んでより苛烈に怒りを昂らせる。

 完全に逆恨みだがどうしようもない。

「まあ、いいだろう。今晩は残業も無いだろうし、帰りに駄菓子屋で黒蜜と黄な粉を買ってやろう。好きなだけな」

「そのころには葛餅温まってますよ! ―――てか、何でさいだぁ飲んでいるんですか⁉ それこそ自分のですよ!」

「何度も言わせるな。買った物をどう使おうと俺の勝手だろう」

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! もう何なんですか先輩! 先輩のルールは可笑し過ぎますよ! そのくせ微妙に筋場通っているから本当に性質が悪いんです!」

「おい、そろそろ休憩時間が終わるぜ。速く用意しないと叱られるぞ」

「待ってください! まだ話は終わっていません! ――― ! て、さいだぁ全部飲み干していかないで下さい先輩!」

 とはいえ逃げ足だけは国体クラスの実力を誇る先輩に追いつけるはずも無く、先輩はあっという間に舟へと乗り込むとソソクサと沖へと漕ぎ出していった。

その後も自分は怒りを堪えながら働き続け、辛く暑苦しい一日を乗り切って終業後、足水に浸かりながら上流の湧水で葛餅を冷やしておく。

 暑い休憩室内に置き去りにしてきた葛餅はまるで茹でたての白玉団子のようにアツアツになり、ジェルジェルに溶けてしまっていた。

 急いで足水までやってきた自分はジェル状葛餅を一口大に丸め取り、少しでも元に戻ることを期待して湧水に着けてみることにして既に三十分。

 水から引き上げると葛餅は幸い丁度良い硬さに固まっている。

 先にバイトを終えてサッサと帰ってしまった先輩が、お詫びにと買ってくれた黒蜜と黄な粉を掛けて食べる。

すると黒蜜の甘みと苦み、黄な粉の香り、地下水の冷たさが口いっぱいに広がってゆき、疲れと怒りが少しだけ和らいだように思える。

 夜風に煽られて気持ち良く涼んでいると、肩に置かれた氷のように冷たい手に驚いて振り向く。もちろんそこにはオヤッさんがいる。

「おう、若ぇの、良いもん食ってんじゃねぇか」

「こんばんは、オヤッさん。どうです?お一つ」

「幽霊が物を食えるわけねぇじゃねぇか。それに俺は甘いものがちょっと苦手でな。だから遠慮しておく」

「やっぱりオヤッさんは根っからの辛党だったんですね。とはいえ、ここに酒はありませんよ」

大丈夫(でぇじょうぶ)。ちゃんと自分お酒は用意してある」

 オヤッさんは腰から下げた瓢箪を掴むと、栓を抜いて中身を呷る。

 十秒ほどそれを飲み続けたオヤッさんが吐く豪快な溜息には強い酒の匂いがした。

「やっぱり故郷の地酒は旨いな。お前ぇさんもどうだい?『鏡山』だぞ」

「いいえ、この後船を漕ぐんですから、アルコールは遠慮しておきます」

「そりゃそうだ。飲酒運転は拙いよな。それより、その口ぶりからするってぇと今夜は行けそうなんだな」

 ニカリと笑って酒を呑むオヤッさんに釣られ自分もニカリと微笑み返す。

「大丈夫そうです。先輩も今日は残業が無いって言っていましたから」

「そいつぁ良かった。けどよ、せっかくならその先輩ってやつも誘えば良かったんじゃないか?」

「先輩は仕事が終わったらサッサと帰ってしまいましたから…。それに、今日のことは内緒ですから」

「わかったよ。そんじゃあチョックラ始めようじゃねぇか」

「ちょっと待ってください。まだ時間が速いです」

「そうかい? ついさっき時の鐘が十回鳴ったじゃねぇか。まだ待たなきゃならねぇのか」

「ええ、まだ人が居ますし。できれば二時、丑三つ時が丁度良いんですが」

「うへへ、幽霊には打って付けの頃合いだな」

「じゃあ午前二時に船着き場で待ち合わせしましょう」

「あいよ、またな」

 次の瞬間にはオヤッさんは幻の様に消え失せていた。神出鬼没とは正にこのことだなどと思いながら自分は一旦家路に付いたのである。



 約束の午前二時の鐘が町中に鳴り響いている。

 寝静まった我が家から気配を消して抜け出し、急いで船着き場までやってくると、既にオヤッさんが水面を眺めて佇んでいた。

 自分は周りを気にしながらオヤッさんに近づいていくと、向こうもこちらの気配を察したらしく手を振ってくる。

 慌てて自分は駆け足に成り、オヤッさんを深い茂みへと誘った。

「ダメですオヤッさん。そんな目立つことをしちゃ」

大丈夫(でぇじょうぶ)だよ。俺ぁ幽霊だから霊感の強い奴にしか見えねぇし、見えたとしても近づいてくる物好きは早々いねぇ」

「そうかもしれませんが、やっぱり気を付けて下さいよ」

 自分とオヤッさんとは連れ立って船着き場へとやってくると先にオヤッさんが船に乗り込む。

 続いて自分も乗り込むと竿で水底を押して岸から離れる。

 船が流れに乗ってゆっくりと川を下ってゆく。

 船の上ではオヤッさんが胡坐(あぐら)を掻き、腕を組みながら川下を眺めている。そして腰の瓢箪の中身をチビリチビリとやりながら風流だ風流だと嬉しげに呟いている。

 一方の自分はと言うと、舟を漕ぐことに齷齪(あくせく)している状況であった。

 だいいち今夜は月明かりが在るものの辺りは暗く、なかなか運転するのには危険なコンディションとなっている。

 その上、まったく運転経験が無い自分が船の操作などできるはずも無く、新河岸川が現在の様にスエズ運河並みの広さを誇っていなければ早々に岸へと激突していただろう。

 そのくらい自分の操舵する船は右往左往している。

 しかも何故か船の穂先は上流の方を向いてしまい、結果的に後ろ向きで川を下っている。

「これは何でぃ? 後ろ向きに川を下るなんて。曲芸の一種かい?」

 そんなオヤッさんの呆れと楽しさとが入り混じる冷やかしも今の自分には焦燥の火に注がれる油でしかない。

「いいえ、コントロールを失ってしまって…前後逆になってしまいました」

「どうでもいいけどよぅ、ちゃんと前見ろ。岸にぶつかるぞ」

 オヤッさんに促された自分は焦って岸へと竿を突き立てて舟を押し返す。

 そんな自分の行動を見てオヤッさんがケラケラと笑っている。そんなに今の自分は滑稽なのだろうか?

「ところでよ若ぇの。お前ぇさんには墓の下の家族はいるのぇぃ?」

「変な言い回しですね。それに今は操舵に集中しているんです。安全のためにもあまり話し掛けないで下さい」

「ずいぶんなことを言うじゃねぇか。これから一つ『新河岸川舟歌』でも歌ってもらうはずなのによぉ」

「今はできるほど心の余裕が有りません。それに自分は舟歌なんて一曲も知らないんです。だから端から無理な相談です」

「おいおい。船もロクに漕げねぇ上に舟歌も歌えねぇで良く船頭なんてやってられるな」

「丘仕事がメインですからね」

「まあ、舟歌のことは今はいいんだ。それよりも話を戻すが、お前ぇさんにはもう亡くなったご先祖さんがいるのかって聞いているんだよ」

「…祖父が一人」

「お前ぇさんの爺さんか。ならもちろんお盆なんだからちゃんとお迎えするよな?」

「どうでしょう? 自分はバイトで毎日忙しいですし、そういった事をやってあげられる時間があるかどうか」

「おいおい、お前ぇの爺さんだろ。そんな可哀そうなこたぁすんじゃねぇよ。ちゃんと迎え入れてやらねぇと、何のためにわざわざあの世から帰ってきたのか分からなくなるじゃねぇか」

「―――ずいぶんと切実ですね」

「まあな。特に俺ぁ無縁仏だからよ。こっちに帰ってきても誰も迎え入れてくんねぇし、帰る宛もねぇ。だからお盆の間中はそこら辺をブラブラして知り合いにチョッカイ出すしかやるこたぁねぇんだよ」

「それで夏の幽霊は人に悪さするんですね」

「そう言うこった」

「まあ、たぶん大丈夫ですよ。今度の日曜あたりですかね。家族総出で送り火をすると思います」

「良い心がけだ。…ついでと言っちゃなんだが、俺の事も頼んでもいいか?」

「良いですけど、先生がやってくれないんですか?」

「『猩々(しょうじょう)』か…あいつぁ駄目だな。たぶん酒の誘惑に負けてまともに取り合っちゃくれねぇだろう」

「友達甲斐が無いですね」

「まったくだ」

 そうしてオヤッさんと話をしながらも船は木の葉の様に三十分ほど川の流れに弄ばれる。気が付いた時にはだいぶ遠くまで流されてしまったようだ。

大分(でぇぶ)流されたみてぇだな」

「そうみたいですけど、今どの辺なんでしょうね。ここまで暗くっちゃ場所も解らないですよ」

「そうだな。なら明かりを灯すとするか」

 オヤッさんがヒョイと腕を振るうと、昨日と同じように人魂が3~4個宙に浮かぶ。

 人魂の青白い光で照らし出されたのは竣工して間もない真新しい橋であった。

「これって河越市と富士見野市の境にある橋じゃねぇか。ほらあそこに元福小学校と葦原中学校が見えらぁ」

「思ったよりも流されていないですね。―――と言うよりここから先へは船が進んでいないようです」

 自分が言うとおり、船は一向に進んでいなかった。

川の流れはいつもと変わらず緩やかに流れており、船の傍を横切って行った木の葉は難なく下流へと流される。

しかし、自分が乗っている船はその流れに逆らうようにその場から動こうともしないのである。

まるで見えない壁が有り、そこに引っ掛かってしまったかのように進まないのである。

「どうしてなんでぇ? 船底に石でも引っ掛かってんのか」

 幽霊の特性を生かして船底をすり抜けて覗いたオヤッさんが顔を上げて首を振る。

「どこにも異常がねぇ。こんなんで進まないだなんて、本当にイッタイどうしちまったんだ?」

 首を傾げるオヤッさんであったが自分には一つ心当たりがあった。

「オヤッさん」

 首をこちらに傾げ「何でぃ?」とオヤッさんは聞き返してくる。

「自分の話を聞いてもらえますか? …信じて貰えないかもしれませんが」



「なるほどなぁ」

 自分は自分が河越の市民ではなく、川越から来た漂流民だという仮説を話した。

 自分がいた川越は河越とはまた違う世界、つまりパラレルワールドであるという仮説を話した。

 また市境には見えない壁が存在し自分は河越から出ることができないこと、そして川越には無い『街興しの功罪』に巻き込まれて常々酷い目に合っていることを説明した。

 腕組みをしながら何も言わず頷いているオヤッさん。

 どうにかこうにか現状を伝えようとする自分。

 一向に進まない船の上で繰り広げられる問答はオヤッさんの「信じてやるよ」と不意に語られた言葉で一旦止まったのである。

「―――信じてくれるんですか?」

 自分がその言葉を喋るのに凡そ一分三十秒の時間が掛かっていた。

「おう、信じてやるよ」

「―――マジで信じてくれるんですか?」

「おう、信じてやるよ」

「―――信じられません」

「なんでお前ぇさんが信じてねぇんだよ」

「だって、あまりにもどうかしているような話をしているんですよ? パラレルワールドだなんて」

「確かに信じがてぇ話だが、俺にとっちゃあまりに身近な話だからよぉ」

「―――どういうことです?」

「考げぇても見ろ。死後の世界てなもんは、言ってみりゃ異世界のようなものだからな。信じねぇ訳がねぇよ」

 それを聞くと自分の顔が綻んでいくのを感じた。

 なんと心強いことだろう。

この河越に川越市民は自分一人しかおらず、誰も信じて貰えないだろうと諦め、誰にも相談することができずに一人で抱え込んでいた自分は孤独であった。頼るべきものも無かった。取り付く島も無かった。総じて寂しかったのだ。

 しかし、自分はオヤッさんと言う理解者を得ることができた。仲間を得ることができた。一人ではないと実感できた。

なんと心強いことだろう。

不意に暑いものが込み上げてきたのでオヤッさんに背負向けて堪える。

幾らなんでも男が泣いているところを誰かに見せるわけにはいかない。

 男は背中で泣くものである。

「どうしたんでぃ?そっぽ向いたりして?」

「いいえ、何でもありません」

「そうかぃ。なら良いんだが。ところでよ、若ぇの。オメェさんは何かしてきたのかい?」

「何かと言うと?」

「つまりだな、オメェさんが置かれている境遇に対してそれをどうにかしようとしてきたかってことよ」

「とりあえず、現状を理解するために図書館で河越について調べていました」

「―――他には?」

「後は…特には」

「やったのはそのくらいか…」

 オヤッさんは懐手にしながら顎の下を撫でている。一通り考え終えるとオヤッさんは顔を上げる。

「お前ぇさんはどうして他に何かを試そうとはしなかったんでぃ。もっといろいろと足掻いてみるべきだったんじゃねぇのか?」

「ですから対策を考えるために図書館で情報収集を―――」

「それで、何か思いついたってぇのか?」

「…今はまだ考え中です」

「はっきり言ってな、お前ぇさんのやっていることは足踏みと同じなんでぃ。その場に止まってただ自分の中だけで(たらい)回しにして一向に前へと踏み出そうとしねぇ。それじゃどうにも成らない事くらい解りそうなもんだろう?」

 オヤッさんの言うことも(もっと)もである。

 自分は今年の四月に河越に来て以来、情報収集に明け暮れたものの何ら打開策を見いだせずにいた。

 しかも、自分は情報収集をするだけで満足してしまっていたところも少なからず有るのである。

 調べていること自体が自分は自分の状況に対して行動を起こしているのだと自分で満足してしまい、根本的な解決を先送りにしていることに目を背けてきたのである。

 そればかりか、最近は河越自体に慣れ、現状に満足しつつあり、(あまつさ)え川越に帰ろうという気持ちが薄れてきてしまいつつあるようにも思える。

「いいか?よく聞け。迷ったり探し求めたりすることは決して悪いことじゃねぇ。結果を得るためにはそう言った下地が必要だからな。だがよ、迷っているだけ、探し求めているだけってのはダメだ。言ってみれば畑を耕しても種を蒔かねぇ様なもんだ」

「………」

「4か月かけて知識は十分に付けただろ? だったらそろそろ動き出す頃合いだ。もしお前ぇさんが望む結果が欲しいってんなら、まず自分から動かなけりゃダメってもんよ」

「…しかし、自分は一体どうすれば良いのか分からないんです? 何かプランがあるわけでもないですし、何をすべきなのかも分からないんです」

「だったらよ、俺に相談したみてぇに周りに相談してみりゃいいだろ」

「しかし、信じて貰えないだろうと思って…」

「じゃあ俺はどうなんでぃ? 実際にお前ぇさんのことを信じている奴が一人いるんだ。他に二・三人いたって可笑しかぁねぇだろ」

 そう言いながらオヤッさんは両手を広げて胸を逸らす。するとどうだろう、その時オヤッさんに後光が差してきたのである。

勿論それは偶然にも朝日がオヤッさんの背後から昇ってきただけなのだろう。しかし、その時の自分にはこの酒豪の幽霊がまるで自分を導くためにやってきた天の使いのように思えたのである。それほど神々しく見えたのでる。

 とは言え、石橋を叩いて渡るのが自分の主義であることは変わりない。

 今までもそうであったが急にそんなことを言われても直ぐに答えが出せるわけもない。

 いったい自分はどうすべきか、どうしたいのかが解らなければ動きようがない。

 もう少し考えてみるべきか? それとも誰かに問題を丸投げにしてみるか? オヤッさんは渋い顔をするかもしれないが。

「そうですね、じゃあ今度先輩たちに相談してみます」

「ホントだろうな? いいか、何度でも言うぞ。足踏みをしているのは止まっているのと同じなんだぞ」

「心得てますよ」

「約束だぞ。―――そんじゃそろそろ太陽も出てきやがったことだし、幽霊は休む時間だ」

「帰るんですか? ですがさっき無縁仏だから宛も無いって言ってたじゃないですか」

「とりあえず普段は西行寺に居っからよ、何かあったらいつでも訪ねて来てくれ。じゃあ、またな」

 その言葉を最後に残してオヤッさんは立ち込める朝霧の様に風の中へと消えて行った。

 オヤッさんが居なくなった船の上で自分は暫く朝日を眺めていた。

 相変わらず船は進むことは無く、根が張ったように水面にとどまり続ける。

 川から吹き上げてくる風は今が真夏だということが信じられないほどに清々しい。

 そういう風に自分は感じていた。

 そんな清々しい朝の中、自分はヤレヤレと溜息を吐いた。

 何故ならいつまでもここに止まってはいられないからである。

 オヤッさんに言われたこともそうだが、もっと現実的にヤバイことがある。

 それは船問屋の出社時間が刻々と近づいてきているということである。

 早々に元の場所へと船を戻しておかなければ、自分が勝手に舟を持ち出したことがバレてしまう。

 そうなっては破滅だ。借金を背負ったまま路頭に迷うことは請け合いである。

 そんなのは自分の望むところではない。ならば動くしかない。望む結果を得るために。

 ならば今の自分がすべきことは未だに使いこなせない竿を使って何とか船を岸に寄せることだ。そうして今度は上流に向かって綱で船を曳いていくしかない。

 ようやく岸にたどり着き船を引っ張っていく自分。流れに逆らってでも前に、目的地へと進んでいく自分。肩に食い込む荒縄の痛みに耐えている自分。

 そうして苦労した甲斐が有ってか誰にも知られずにことを終えることができたのは幸運であった。

 しかし夜通し船に乗り続け、朝からずっと船を引っ張り、その上休む間もほとんどないままバイトへと駆り出された自分の今日一日は、お察しの通りメタメタなものであった。



 そんなことのあった週の日曜日。お盆の送り火を行う日であった。

 そして自分はクレアモールの一角にある西行寺へと足を運んでいた。

 もちろんオヤッさんの墓参りをするためである。

 自分の家の送り火は先ほど済ませ、その足で自分は来たのだが、寺に足を踏み入れると思いのほか頭数が多いことに驚く。そしてその大半が幽霊であることにさらに驚かされる。

「おう、若ぇの。こっちだ」

 声のする方を見るとオヤッさんが手招きをしているのが見える。

 オヤッさんに呼ばれていくとそこには苔むした(おびただ)しい数の墓石が置かれている一角がでった。

 言うまでも無くそこがオヤッさんの根城。西行寺の無縁墓である。

「ありがてぇな。ホントに来てくれるなんて」

「約束ですからね。これ、花と線香です」

「悪りぃな、だが俺だけが貰っちゃ他の仲間たちに悪いからよ。全員に手向けてやっちゃくんねえか」

 確かにその通りだ。そう思った自分は共同で設けられた場所に花を生け、火を灯した線香を手向ける。

 濛々(もうもう)とあがる線香の煙が厳かな気分にさせる。

「どうですかオヤッさん。こんなんで」

 自分は桶に組んだ水を柄杓(ひしゃく)で万遍なく、すべての無縁墓に行き渡るように水を掛ける。

「ああ、これで心置きなくあの世に戻れるってもんよ」

 水を得て色が少し濃くなった墓の群れを見て、オヤッさんは満足そうに頷いている。

「やっぱり帰ってしまうんですね。ちょっと残念です」

「そう言うなって。今度はお彼岸に帰ってくるからよ」

 オヤッさんはそう言ってケラケラと笑う。

「なんだ、来ていたのか」

 聞きなれたセリフを吐いてやって来たのは言わずもがな先生である。そしてその方には一升瓶を担いでいる。

「あれ? 先生いらしたんですか?」

「何でそんなに驚くんだ。友人なんだから当たり前でしょう?」

「いえ、オヤッさんが言うには先生は友達甲斐が無いから自身の墓の世話などやってくれないだろうと言っていたので」

「おい、お前ぇ! 何言ってやがんでぃ!」

「…おい、『七ツ釜』。お前そんな風に思っていたのか? それこそ友達甲斐のない話だとは思わないのか? せっかくお前のためにと思って『鏡山』を持ってきてやったのに。こいつを俺の腎臓で濾過してから掛けてやろうか?」

「真面目に受け取るなってぇの。いつもみたいな悪ふざけに決まってんだろぅ?なぁ『猩々』」

「まあいいだろう。それよりも君がここに来ているのは正直驚きだね」

「この前バイト先でオヤッさんに来るようにと誘われたんです。差し出がましいことでしたか?」

「いいや、嬉しいよ。きっと天国の『七ツ釜』も喜んでいる事だろう」

「俺ぁ目の前に居るんだがよぅ」

 自分と先生とはそんなオヤッさんの様相を見て声をあげて笑う。

そんな自分たちに釣られてオヤッさんも笑ってしまう。

墓地であることを忘れるくらいの明るい雰囲気に包まれていた。

「ああ、そうだ。『七ツ釜』。お前の墓はどこなんだい? この酒を墓石に掛けてやろうと思っているんだが」

「そりゃ嬉しいね。けどよ、無縁仏になってから俺ぁ自分の墓なんざ忘れちまったんだ」

「それじゃどうすればいいんだよ」

 困り果てる先生だが、自分はどうすればいいのかを知っている。

「先生。こういう場合は全部に掛けてやるんです。無縁仏と言うのは全部ひっくるめて一人の仏様みたいなものですから」

「成る程、そうすれば良いのか。それでは」

 先生は一升瓶の栓を抜くと順々に酒を掛けていく。

酒は優しく、ゆっくりと、決してバシャバシャと注がれることは無く、その所作こそ先生がどの墓石もオヤッさんの物の様に接しているのだと見て取れる。

 瓶から流れ出る琥珀色の酒は石に触れると芳醇な香りを漂わせる。

 すべての墓石に酒を掛け終えると無縁仏の一角は酒の香りに包まれており、その場にいるだけで酔っぱらってしまいそうになる。

 先生は自分の隣でそれを眺めると満足そうな顔をしてほくそ笑む。

そしてオヤッさんも嬉しそうに微笑んでいる。その顔が幾分赤らんでいるのは多分夕焼けのせいだろう。決して酒のせいでなく。

「ところでバイトの調子はどうだい? だいぶ慣れてきたかな?」

 先生は自身が斡旋した仕事の様子が気になるらしく、少し心配げに自分に聞いてきた。

「お陰様で。だいぶ体力が付いてきたのか、最近じゃ楽に仕事がこなせるようになってきました。それにお給金も良いですし、先輩は残業をがんばってますから、多分今月末には借金を返済できると思います」

「それは良かった。けど無理して体壊さないように気を着けなさい。特に残業は天視しない方が良い。夜はしっかり休むべきだ」

「そうですよね。自分は残業に参加していませんが、先輩はいっつも参加するんです。今度先生から注意してやってくれませんか」

「わかった。それよりも思った以上に速く借金のカタが付きそうだな。これはまたウナギが高くつきそうだ」

「ちゃんとウナギ奢ってくださいよ。約束ですからね」

「羨ましいねぇ。ウナギ奢って貰えるなんてよ。それより『猩々』。奢ってばっかりで財布は大丈夫なのか?」

「正直厳しいね。とはいえ約束だから、遠慮はしなくていいからな」

「まったく、現世ってぇのは(しがらみ)が多くて嫌んなっちまうねぇ」

 照れ笑いをして頭を掻く先生とヤレヤレとばかりに両手を水平に広げて溜息を吐くオヤッさん。

 旧交を温めだした二人を邪魔しないように自分は別れを告げて西行寺を後にした。

 自転車を漕いで家路に付く間、自分がここ数日考えていることが再び頭の中に浮かんでくる。

 オヤッさんはああ言っていたが、自分は一体どうすればいいのだろうか。

 自分は河越から出られるのだろうか。

 自分は川越に帰ることができるのだろうか。

 そして何より、自分は川越に帰ることを本当に望んでいるのだろうか。

 結論は未だ闇の中だ。自分の事なのに自分でも解りきっていない。

 それでも足踏みばかりしているわけにはいかず、時間が自分を推し進めてくる。

 ―――とりあえず、一歩だけ。一歩だけ進んでみるか。

 自分はそう思うことで再び結論を先送りにするのだった。



 自分は河越でほんの少しだけ重い腰を上げることにした。



「ところで『七ツ釜』」

「何でぃ?」

「ちょっと協力してもらいたいことがあるんだ」

 先生が語る計画を一通り聞き終えたオヤッさんはヤレヤレと呟きながらボサボサに生え散らかした髪の毛を掻いた。

「こりゃぁ暫くあの世に戻れそうにねぇな」


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