百万灯祭り篇
「はい、お疲れさん」
その言葉に送られて、自分は冷房の効いた室内から、吸い込んだだけでむせ返るような熱気の中へと出ていく。
湿気をたっぷりと含んだ夏の空気がやけに重たく感じられ、もう一度空調の効いた空間へと引き返したくなる。
しかし今の自分はサッパリしている。行き付けの床屋で髪を切ってきたからだ。
その床屋は新河岸川に架かる旭橋の袂にあり、子供の頃から髪を切りに来ている。
短くなった髪をサクサクと音を立てながら撫で付け、剃刀を当てて滑らかになった顎に手を当てる。
髪の長さは調度良く生え際はビシッと決まっている。髭の剃り跡は手に全く引っ掛かることも無く、かつヒリヒリすることも全くない。
さすがに自分が二十年来通い続けた床屋さんである。実に良い仕事だ、床屋さん。
しかしやはり暑いのには変わりなく、暑さ苦手な自分は涼しい所へと早々に非難することにした
そして、自分はこれまた旭橋の近くに店を構える駄菓子屋でアイスキャンディーを舐め舐めしている。
「毎度どうも」
会計に座って読書をし、団扇で自身を扇ぎながらゆったりと自分に声を掛けてきたのがこの店の主人である。
主人は細身で背は低く、髪はタップリとしたロマンスグレー、少し色の着いた眼鏡を掛けた好々爺。
以前からそうであったが、最近はほぼ毎日のようにこの店に通っているのなら、さらに顔見知りとなってしまった。
この駄菓子屋も自分が子供の頃から行き付けにしている店である。
この店に来る場合、たいてい自分はアイスキャンディーを買っている。そして今日もいつも通りアイスキャンディーに舌鼓を打つ。
ソーダ味の爽やかさがベタ付く暑気を内側から振り払ってくれる。
しかも今日がウィークデーだというのだからその爽快さは格別である。
七月の終わりに近づき、期末テストを乗り越え、大学は夏休みに入った。
例のごとく自分の名前を書けずに幾つかのテストでは赤点を出したが、既に十分な単位を取得している自分には特に関係ない。蹴ってしまえばいい。
大学の夏休みは九月の末まで続く二か月ほどの長期間に及ぶ。
この長期休業を利用して自分は毎年のように伊豆諸島へ火山の調査へと出かけているが河越を出ることが叶わなくなった今年は河越で大人しくしていることにした。
「アイスばかり食っていないでさ、たまには餅菓子を買って行ってくれないかな」
なんで駄菓子屋で餅菓子なのか? 店主がそう言って、草餅を進めてくるのにも訳がある。
この店は駄菓子屋であるが和菓子も扱っている。というよりもむしろ和菓子の方がメインである。
ここの和菓子はとても美味しいため家の節句の度には毎度お世話になっている。
桜の季節には桜餅を買い、端午の節句には柏餅を買い、お月見には月見団子を買う。
しかし今は七月。七夕はあるが餅菓子の出番はない。
その上このクソ熱い炎天下。こんな中で甘ったるい餡子と粘り付く餅を食いたいとは自分は思わない。
だから自分は主人にやんわりと拒否の意思を示す。
「ご主人、アタリが出たからもう一本下さい」
アイスを舐め舐めしながら家路に付く途中、自分は酒屋へと立ち寄る。
この酒屋も自分の家の行き付けである。
ここの酒は日本全国の銘酒や美酒を取り揃えているだけでなく、西洋各国のワインを多く取り扱っている。
「やあ、いらっしゃい」
来店した自分をハキハキとしたアルトボイスが出迎えた
彼は長身痩躯で茶髪だが、知的に光る眼鏡は実に実直な印象を受ける男性。一昔前に一世を風靡した韓流ドラマ「冬のソナタ」に出てくる主演男優に似ているこの人がこの店の若旦那である
ちなみに若旦那には美人の奥さんと可愛らしい娘と息子が一人ずついる。
彼もまた自分が子供の頃からの付き合いであり、店に訪れたときはもちろん、自分の家に酒を配達してもらったときや、店前の道路でばったり会ったときにも気さくに話をする仲、まるで兄貴のような人物である。
また彼は勉強熱心な人物でもあり、ワインの本場ヨーロッパへと渡り、そこでソムリエの資格を取得してきたのである。
この店に並べられているワインはどれも若旦那が選定した珠玉の品であり、自分の好みに合わせた一本を提供してくれる、何とも客にありがたいサービスである。
だが、この店。実を言うと川越にはないサービスがある。そう、その河越限定サービスとは『角打ち』である。
角打ちとは簡単に言えば酒屋での立ち飲みである。
細かく言うと角打ちでは店頭に並べられている酒の内から好きな銘柄の酒を呑むことができる。
そして酒は通常の様に瓶単位で買うのではなく量り売りにしてもらうのが角打ちの特徴である。そして、アタリメやサバ缶などを肴にして酒を楽しむのである。
自分はこのシステムを特に気に入っている。
量り売りしてもらうことで、少量ずつ様々な酒を楽しむことのできるシステムで、酒の味を楽しみたい自分のような人間には実に好都合である。
角打ちの醍醐味は川越では味わえない。
自分はアルバイトで溜めた資金でよくここへ呑みに来ていることも若旦那との付き合いが親密であることの理由の一つでもある。
「真昼間から酒とは豪勢だね。今日は何にする?いつも通り『鏡山』にするかい?それともワインかい?」
「いいえ。今日はこれを下さい」
そう言って若旦那に差し出すのはキンキンに冷えたラムネである。
栓となっているガラス玉をポンッと抜くと、一気呵成に溢れてきた泡を啜る。
この時期のラムネは本当に美味いものだ。
サイダーともコーラともまた違う味わいが自分は好きで堪らないのである。
ラムネを一気に飲み干して今度こそ誰もいない自宅へと戻ると、そのまま二階の自室へと上がる。
自分の部屋は周囲に遮るものも無く、直射日光によって焼かれた壁により外よりも熱くなっている。
自分はこんな中でもクーラーを使うことはしない。どういう訳か使う気にならない。
世のエコブームに便乗したわけではないし、クーラーが部屋に付いていないわけではないが、自然の風と扇風機の力によって涼を取るように心がけている。
だからこそ自分は部屋の中では汗だくになりながらパンツ一丁シャツ一丁の姿で耐え続け、板の間に茣蓙を敷いて朦朧としながら寝そべっていると不意に自分の携帯が鳴る。
着信したメールを確認すると先輩から来たものであった。
メールにはこう書いてあった。
『暇しているなら大学に来い』
行きたくないものだ。暇しているが。
しかし、自分はやってきたしまった。大学へ。
サークルにも所属しておらず、尚且つ卒論も既に仕上がっている自分が、この夏の長期休暇中に大学に来る必要など微塵もないのだが、自分は先輩の呼び出しに応じてノコノコとやって来てしまった。
学校に来るまでの道程。骨の髄まで熱気と湿気が浸みこんでしまうような暑さの中をやってくれば、先ほどアイスとラムネで取った涼は既に吹き飛び、染み込んだ熱気は体温を上昇させ、湿気は汗となって滲みだしてくる。
汗みずくとなって大学に到着した自分は、真っ先に三号館にある軽食ルームへ向かうと、そこで大学名物の『さつまいもソフトクリーム』を舐め舐めした。
さつまいもソフトの冷たさが内側から熱気と湿気を締め出してくれる。
コレが無かったらイッタイどうなっていたことやら。
「うまそうだな。一口くれないか?」
汗の引いて一心地付いた自分の隣には、いつの間にか先輩が座っていた
「それで、先輩。一体何の用ですか?」
自分が食べているさつまいもソフトに魅入られ、羨ましそうに見つめていた先輩はハッとして我に戻る。
「おお、そうだった。今日は用事があって呼び出したんだった」
先輩はソフトクリームに気を取られて完全に用事を忘れていたようだ。サッサと要件を言ってもらいたいものだ。
「お前も河越市民なら百万灯祭りは知っているよな」
もちろんである。この街に暮らしていてそれを知らない人間はまず居ないだろう。
川越及び河越には二つの大きな祭事がある。
一つは毎年十月の第二土曜日と日曜日に行われる川越祭り(河越では河越祭り)であり、もう一つこそが毎年七月末に行われるこの百万灯祭りである。
この祭事の起源を紐解けば、江戸時代の1850年にまで遡る。
聞くところによると、その年の盆に魚子という河越藩の家臣である三田村源八の娘が、同年に逝去した藩主の松平斉典を偲び軒先に切子灯籠を掲げたことが起源とされている。
現在では市民の祭りとして町中に灯篭が飾られ、河越藩火縄銃鉄砲隊保存会による実物の火縄銃の演武など時代行列も行われている。
ここまでの説明で川越の百万灯祭りについては理解していただけただろう。
ここからは河越の百万灯祭りについて説明しよう。
もちろんこのビックイベントに『街興しの功罪』が関わっていないはずがない。
そしてこの悪フザケによってその様式は大分変化してしまっている。
河越に来てまだ四ヶ月しか経っていない自分は実際に百万灯祭りを見たことは無いが、図書館で調べた限り、その内容は実に馬鹿らしい。
河越の百万灯祭りもまた町中を提灯の明かりが照らし出すのは同じだが、その明かりの種類が違う。
川越の場合は白熱電球による明かりだが、河越の明かりは正真正銘蝋燭の明かり。炎の明かりである。
そして違うところのもう一つは河越では飾る提灯を市民が用意するという点で、この提灯は提灯としての機能を果たしていれば何でも良いという。
つまりは形や昨日はどんなものでもよく、実に『街興しの功罪』らしい、面白さ至上主義的な判断基準によって選定されており、結果的に飾られる提灯は様々な形となる。
そしてその中からコンテストが行われ一位になった提灯には市から賞金が与えられる仕組みになっている。
このコンテストの一位を皆が狙ってくるから面白い。
どうにもこのコンテストは奇抜であり技巧を凝らしたデザインのものが好まれるようである。
一昨年の優勝は全長50mにも及ぶ火を噴く昇り竜を模した提灯であり、去年の優勝は熱の力で河越中を闊歩する全長20mのマシュマロマン提灯であったらしい。
「だからお前にも提灯のデザインをやってもらいたい。もちろん優勝を狙ったやつをな」
だからこそ先輩の提案はもはや予想の範疇であった。
「どうしてもですか?」
「うん。どうしても」
いつものように自分は先輩を断れそうに無い。
しかし今回はいつものように酷い目に合うようなものではないだろう。
ただ単に提灯をデザインしてそれを出品するだけで良く、直接的な被害を受けるようなことは無いはずである。
これは実に楽である。
今回は今までの『川越レターボックス』や『扇橋チキンレース』の様に、一つ間違えば自分の命に関わる様な、そんな危ない橋では無いのである。
しかも今回は報酬が破格である。なんと優勝した場合コンテストの賞金をソックリそのまま貰えるというのだから。
「今回は優勝することに意味があるんだ。実を言うとね、これは先生からの依頼なんだよ」
「―――? 何ですって? 本当に先生からの依頼なんですか?」
「ほら、うちの研究室はほとんど人がいないだろう?」
「確かにそうですね。今年入ってきた新人もあの後輩だけしかいませんし」
「だろう。先生の話ではこのままでは生徒が居らず研究補助員が居なくなり、研究室として立ち行かなくなる可能性があるらしい。そこで俺が思いついた案がこれ。コンテストで優勝するってことさ」
「コンテストと研究員集めに何の関係があるんですか?」
「それはあれだよ。プロモーションを狙っているのさ」
「つまり優勝して世間に『火山岩石学研究室』の名前を知らしめようというわけですか…安易すぎませんか?」
「まあ、そう言うなって。この百万灯祭りには市民のみならず、県外、果ては海外からも大勢の人たちが見物しに来る」
「そうらしいですね」
「そういった人たちの中には優秀な人材もいるわけだ。そんな人材に研究室を知ってもらい興味を引くために我々は是非とも優勝する必要があるわけだ!」
熱烈に語る先輩。自分はこういう時の先輩を知っている。ならばと自分はカマをかけてみる。
「先輩。先生から幾ら貰っているんですか?」
ギクリとする先輩。やはり図星であったか。
自分は静かに先輩を睨みつけていると先輩は渋々ジーンズのポケットから十万円を出してきた。
「まさかとは思うのですが、先輩。それ隠していたんですか?その資金が既にあるから優勝賞金はいらないと言ったんですか?」
「いやー、隠していたわけではないんだよ。ちゃんと後で渡すつもりだったんだよ」
「言い訳はいいです。その金はいったい何なんですか?」
「こいつはね、先生から預かった提灯の製作費用だよ。先生に提灯を作ってうちの研究室の名を広めようと提案したら先生も思ったより乗り気でね。喜んで資金を出してくれたんだ」
「なるほど、先生も本気なわけですね」
「そういうことだ。だからお前も真剣に取り組んでくれよ」
そう言うと先輩は半額の五万円を自分の目の前に置く。そして自分から『さつまいもソフト』を奪い食って帰っていく。
呆れながら先輩を見送った自分は一人軽食スペースに残って考え耽っていた。
先輩から提灯のデザインを託された自分だが、自分にはデザインに関しては本当カラッキシである。
子供の頃から図工の成績は振るわず、ライオンを描いた絵は誰にも理解されずカバだと言われ、捏ねた粘土で作ったテレビのヒーローの像は逆に怪人だと勘違いされる。
そしてこんな自分の書いた字はまた酷い。自分の書いた字はことのほか悪筆で、まるでミミズがのたうった様であり、後で見返すと書いた本人すらも理解できないほど難読である。
こういった経緯から自分はデザイン関係に関しては完全に自信を失っている。
ゆえに自分で提灯をデザインしようなどとは努々思わない。
然らば、
「アイツに連絡してみるか」
そう言って自分は携帯を取り出し、早速メールを打ち始めた。
次の日曜日。自分は自転車を漕いである人物に会いに来た。
家から十分ほどの距離を走り、その人物の家の前に着くと自分は携帯を取り出した。
文面に『着いた』と打ち込んでメールを送る。
一分ほどしてからその家の扉がほんの少し開く。開いたのは本当に僅かな隙間で、覗き込んで初めて外をようやく窺うことができる程であった。
できたほんの僅かな隙間男がヌルヌルと這い出してくる。
そしてその男は表に出てくると門扉のところまでやって来て自分に話しかけた。
「久しぶりだな。何しに来た?」
そんな男の様子に自分はため息一つ付く。
「いい加減まともに玄関から出て来れないのか?朋友」
この男こそ自分が唯一『朋友』と呼ぶ男である。因みに『朋友』の呼び方は『ポンヨウ』である。
もし仮に一番の友達は誰かと聞かれた場合、真っ先に自分は朋友のことを挙げる。
そのくらい自分は彼に一方ならぬ友情を感じている。例によって名前は思い出せないのだが。
朋友との付き合いは中学校の二年生の頃から始まる。
どういう経緯で出会ったのかは自分も覚えてはいないが、自分たちは妙にウマが合い、中学を卒業するまでにグダグダとした友情を育みあった。
だがどんなに親しい友情であっても、大抵の場合学生時代の付き合いは卒業とともに終止符が打たれるものである。
それは違う学校となってしまえばほぼ確実である。そして、自分と朋友もまた別々の高校へと進学した。
しかし、自分と朋友との関係はそんなことでは終わらなかった。
なんと自分と朋友とはどういう訳か朝の通学電車の中で鉢合わせたのだった。
それからというもの自分と朋友との朝の会話は日常行事となり、再びグダグダとした友情を深め合った。
ここまで来てしまったらもはや因縁である。奇妙な友情を感じる。
高校卒業後はというと自分は大学、朋友は専門学校へと進学したが、因縁となった腐れ縁はもはや断ち切れることなく、未だに続いている。
朋友は細身の長身で自分よりも頭一つほど高い。
少し面長の顔の上には洒落たメガネが乗っかっており、着ているものも休日だというのに黒のスラックスとベストとワイシャツを着ている。
しかし細身で長身の彼にはこの服装がよく似合っている。垢抜けている。
自分と同じように東京へ行っていた朋友がここまで垢抜けているにも拘らず、自分の垢は溜まる一方であった。擦ればボロボロと剥がれ落ちてくるほどに。一体この差はいったいどこから生まれたのだろうか。
しかし外身は自分との間に確執が生まれてしまったものの、中身に関しては差が無い。
朋友は所謂オタクである。そして自分もオタクである。だが自分よりも朋友の方が内容的に遥かに濃い。ガチオタである。
と、言うよりも自分がこの道を行くのは朋友に引き込まれたところが大きい。
上映会や読書会と称して自分のことをひっ捕らえ、サブリミナル効果を起こす勢いで彼の推奨するアニメやゲームや漫画などの作品を延々と見せられたのだから、感受性が豊かでピュアで無地であった頃の自分が影響を受けないわけがない。
そうして自分は朋友の同類となった。しかし彼に言わせれば自分はまだまだらしい。底の知れない世界である。
そんな彼はイラストの専門学校を卒業し、プログラミングの会社に勤める傍ら、イラストレーターとしても活動している。むしろ後者の方が彼の本領と言えよう。
そんな朋友だからこそ、自分は朋友に提灯のデザインを任せることにしたのである。
「畑が違う」
しかし、自分の頼みに対しての朋友からの返答はこれであった。
「ダメかい?」
自分はなおも食い下がる。しかし朋友は自分を突き放す。
「わかってんの?ボクがやっているのはイラストだぞ。提灯のデザインなんてやっていない」
「そう言うなって。今までやったことの無いことに挑戦すれば何かしらの役に立つかもしれないぞ」
「詭弁だな」
「自分もそう思う。とはいえ頼むよ。お前しか頼めるのはお前しか居ないんだ」
その後も断り続ける朋友に一時間以上に渡り食い下がり続ける自分。その熱意が通じたのか朋友は最終的にデザインを了承してくれた。了承するというより彼が折れたのだろう。
なんだかんだ言って自分に力を貸してくれる朋友のことが自分は大好きなのである。
その後、自分たちは朋友のパソコンに流れるアニメを見て相も変わらずグダグダとした時間を過ごした。
しかしそんなことを四時間に続けていれば既に夕方となってしまい、自分は家に帰ることにした。
まったく何のためにここへやってきたのだろうか。しかし自分と共に不毛に時間を過ごし怠惰な時間を共有できたことが何よりも自分にとって有意義な時間だった。
こうして自分は朋友に作業を一旦丸投げしたのである。
後は野となれ山となれ。朋友よ任せた。
こうして自分は暫く、再び昼間から寝て過ごす日々へと後戻りしたのである。
朋友に呼び出されたのは百万灯祭りを五日後に控えた7月25日であった。
茹だるような暑さの中自転車を漕ぎ、彼の家へと辿り着き、いつものようにメールを送ると、相も変わらずドアの隙間から朋友がヌルヌルと這い出してくる。
こいつ、どう見ても寝起きである。自身で自分の事をこの時間に呼び出したにも拘らず。
その顔はベッタリと眠気が張り付いており、少し浮腫んで目は腫れぼったく、眼下には隈が色濃く残り、髪は寝癖だらけである。
「おはよう、朋友。良い夢見られたか?」
自分からの爽やかな挨拶を朋友は返すことも無く、目をショボつかせながらゾンビのような呻き声を上げている。
そのままヌラヌラと門扉の前に立つ自分の所までやってくると何も言わずに自分に二号サイズの茶封筒を渡した。
そして自分にそれを渡すと早送りで逆再生するように扉の向こうへと消えていった。
そんなにこの夏の空気に触れることが嫌なのだろうか?それとも安らかなる寝床へといち早く戻りたいのか。
声を掛けるまでも無く消えていった朋友に話しておきたかったことがあった。
だからこそ自分は再び彼にメールを送ることにした。
そして返ってきた朋友のメールはOKであった。
一応、念のために封筒の中身を検める。
そこにはA4のコピー用紙が一枚だけ入っていたが、その一枚だけを見て自分はついついほくそ笑んでしまう。
その作品はそれほどに会心の出来であった。
この作品を生み出すために彼は寝る間を惜しんで作業したのであろう。その結果が先ほどの半睡半覚の朋友なのであろう。
さすが朋友。いい仕事をしてくれる。そして安らかに眠れ。
自分は朋友の労を労うため、この場は静かに去って行った。
自分は自宅へと帰ることは無く、そのままクレアモールへと自転車を飛ばす。
丸広からさらに奥の方まで進むと一件のさびれた商店が見えてくる。
一見の客が入りづらい印象を受ける店構えだが、実はそれほど恐るるに値しない店である。
特にこの時期の河越ではこの店に厄介にならない市民は少ないことだろう。
その店の前には雷門に吊るされた提灯と見まごうほどの巨大な赤提灯には『提灯屋』と書いてあった。
自分は店に入ると多くの提灯が吊るされている。
御用と書かれた提灯。居酒屋と書かれた提灯。ひな祭りに人形と共に並べられる雪洞。神原と書かれたボロ提灯。
他にも魔性が出て来そうなアラブ式のランプやアウトドアに重宝しそうなランタンまで置かれている。そんな炎の明かりに頼る照明器具がズラズラと並べられる店の中央には頑固そうな男が座っている。
この店の主人、提灯屋である。その男は自分のことを睨めつける。その面構えはまるで平家蟹の甲羅の様で実に恐ろしい。
「いらっしゃい。御用は何かな」
しかし自分の事を怖い顔で睨みつけているにも拘らず、掛けられる言葉は実に営業向きな言葉をかけてくる。ものすごくチグハグな光景である。
「百万灯祭りに出す提灯の注文をしに来ました」
自分が提灯屋に言うと当の提灯屋は渋い顔でニカリと笑う。笑ったのだろう、おそらくは。そのくらい提灯屋の表情は変化が判りづらいほど渋い。
「そうかい。ならそこにある提灯がそうだよ。色は赤や青、黄色に緑など全部で二十四色ある。好きな奴を選びな。それから今なら、提灯の字入れを頼んでくれたなら、サービスで家紋も書いてやるけれどもどうする?」
にじり寄りながら、頑固で無口そうな見かけによらず、歯切れの良い営業トークでまくし立ててくる提灯屋を手で制し、自分は彼に本題を告げる。
「いいえ、自分が頼みたいのは既製品の提灯ではなく、提灯コンテストに出品する特注の提灯なんです」
自分の言葉を聞いた瞬間、提灯屋の表情がにわかに変わった。しかし、相変わらず見かけは難しい顔のままであり、その変化には相当に顔を近づけられた今の状態でなければ気が付かなかっただろう。
「今からかい?それはちょっと遅すぎるな」
そう言って提灯屋は呆れ返ったように溜息を付く。
「いいかい?特注の場合、注文は少なくとも一か月前に頼んでもらわなきゃ困るわけだ。あれを一個作るのにかなりの時間が掛かるからね。それなのにあと五日しかない状況で特注のを作れなんて土台無理な話だ。悪いけど帰ってくんないか」
ここで断られたらもはや行く宛も無い。提灯屋はこの店の他には隣のふじみ野市や鶴ヶ島市の方に行かなければ無く、河越を出られない自分には注文しに行くこと
また、朋友のデザインした大作を自分のような素人が作り上げる自信は無い。
つまり、この提灯屋こそが自分の頼みの綱であり、最後の希望なのである。
これで食い下がらないわけにはいかない。
「そこを何とかしてもらえませんか?貴方に断られたら自分は困ってしまいます」
「そう言われてもなあ…」
「そこをなんとか!」
自分は恥も外聞も無く額が地面に付くくらいの勢いで首を垂れたのである。
何度も何度も。大の大人がこんな情けないことをしている。
自分は人に頭を下げることも下げられることも嫌で仕方がない。
自分が頭を下げれば自分自身が情けなくてしょうがなくなり、頭を下げられればそういう状況に甘んじている自分にムカついてしまう。
自分が思うに土下座とか謝罪とかは自慰の一種である。謝ったところで結局は自己満足にしかならない。そういう風に自分は考えている。
そんな風に思っている男がやるもんだから、その姿は実に見るに堪えない。心が籠っていないのだから。
「…とりあえず図面を見せてくれないか?」
自分の府外のない姿に居た堪れなくなったのだろうか。渋々ながら提灯屋は、
自分から朋友の描いた提灯のデザインを受け取った。
提灯屋はそれを繁々と眺めていたが、その顔は見る見るうちに興奮の色が沸き起こってきた。
「おい、君、これは!」
提灯屋の興奮は目に見えて解るほどであった。
自分もそれは理解できる。それほどの魅力を朋友のデザインから感じた。
「そうでしょう。こいつを出品すればいい線まで行けると思うんですがね」
「君、是非これを俺にやらせてはくれないか」
「それは願ったり叶ったりです。しかし、祭りの当日までに間に合いそうですか?」
自分の問いに提灯屋は愚問だとばかりに鼻を鳴らす。
「舐めて貰っちゃ困るな。こちとら職人だよ。やると言ったら意地でもやるもんだ。だが出来上がりはギリギリになるだろうから、できたら直ぐに俺が会場へ運んで飾り付けておいてやるよ」
こうして提灯屋は提灯の作成を引き受けてくれた。
どうにも話が上手く行き過ぎているようにも思うが、どうにか五日後の祭り当日には間に合いそうである。
その後自分は果報は寝て待てとばかりに、再び暑さに茹だれながら冷たいものを食べ、茣蓙の上で寝て過ごす日々を厭きもせず続けた。
7月30日、百万灯祭りの当日。自分は河越駅の雑踏の中にいた。
さすがにこの河越全体を舞台にした祭りである。駅を行き交う人の数もいつにも増して多い。
人混みに揉まれながらも、自分は待ち合わせ場所である通路の中央に立つ案内板にしがみ付いていた。
すると東上線の改札口が俄かに人があふれ出してくる。どうやら次の電車が到着したようだ。
下車してきた多くの人たちが一斉に改札まで詰め寄ってくる様は、傍から見ていると津波のようにも見えて自分の中にある根源的恐怖に働きかけてくる。
だがその津波の中に見知った顔の漂流者を見つける。
奴もこの人の津波に揉みくちゃにされて完全に前後不覚となっている事だろう。
もはや人の流れに身を任せきっており、だんだんと自分から遠ざかって行こうとしている。
『義を見てせざるは勇無きなり』と自分はこの人の津波に飛び込んで哀れな漂流者を救助することに決めた。
安息なる案内板の小島を離れて奴の下へ辿り着くために人を分け入っていく。
そして手を伸ばしその男を捕まえた自分はすぐさま駅中のルミネへとそいつを引っ張り込んだ。
「いったいどこまで行くつもりだったんだ?朋友」
「いや、さすがに今日は人が多いな」
朋友は幾分憔悴したように見える。ここまで来る電車の中は駅構内など比にならない込み具合だったのだからそれもしょうがないだろう。
自分は五日前に朋友にメールをし、今日の祭りを共に回る約束をした。
朋友と自分とは百万灯祭りのみならず、河越祭り、ふじみ野市の七夕祭りにも毎年共に行っている。
またこういったイベント事のみならず、南古谷にあるシネコンにも共によく行っている。
傍から見ると実にむさ苦しい男二人組である。どうせなら彼女の様な女の子一緒に回りたいものだが、さすがに今の自分には叶わぬ夢である。
駅の雑踏を抜けた自分たちは混雑するクレアモールではなく裏道を行くことにした。
百万灯の名に偽りは無く、道の両側には数えきれない提灯が吊るされている。
赤、青、黄、緑、橙、桃色など色取り取りの提灯には店の名前のみならず、出品した個人の名前も書かれており、この祭りに対する市民の心意気を感じ取ることができる。
しかし今は時の鐘が三つ鳴ったばかり。つまり午後三時である。
こんな明るい時間に提灯には明かりが灯っていない。
しかしこの時間もたくさんの出店と人によって通りが埋め尽くされており、幾分通りにくい。
ゴミゴミした通りを通り過ぎ、自分たちは市役所の前にやってきた。
そこには通りの人だかりよりも更に多くの人が集まっていた。
力ずくで人込みを分け入っていくとそこには十数人の鎧武者が闊歩していた。
自分たちはどうやら河越藩火縄銃鉄砲隊保存会による鎧武者行列に出会ったのである。
河越藩火縄銃鉄砲隊保存会の方々は多くの観衆に囲まれた市役所前の大通りを貸家横丁の方面から群を成して行進して来る。
方々は各々足軽の様な鎧を身に纏い、左肩には火縄銃を担いでいる。そして火縄を右手に持ってその灯を絶やさないように、円を描くように振り回している。
火縄の先端には赤い炎が灯されており、振り回される赤い点が残光として目の奥に残る。それは彼らの手に橙の円環が握られているように見えた。
そんな方々は市庁舎の前で立ち止まると、一斉に鬨の声を上げる。
そして、すぐさま二手に分かれて忙しなく何か用意を始めた。
通りの一方では銃身に弾を込め、火薬を押し込み、火縄を取り付け、火蓋を切る。
もう一方では木でできた台座に、正方形の白木の板に円と円の中心点が描かれた的が用意される。
準備が整うといよいよこれから本番が始まる。
火縄銃で狙いを付けると周りが一瞬で静まり返る。隣に立つ朋友の固唾を飲む音すら聞こえるほどに。
そしてそんな静寂を一発の銃声が掻き消す。ダァンッ!という岩を金槌で砕くような音が市役所前の通り中に響いた後、アスファルトに木屑がバラバラと落ちる音が聞こえる。
その音が聞こえた後、周囲から一気に歓声が上がる。
放たれた弾丸が的の中央を射抜き粉々に砕いたのだ。否応なく意気が上がるものだろう。
自分も朋友も例外ではなく、人一倍大きな歓声を上げる。
その歓声は次の用意が済むまで止むことが無く、射撃に入ると再びの静けさの後に前にも増して大きな歓声が上がる。
まるで寄る波のような歓声のサイクルが幾度となく繰り返される。
片側の鎧武者が両手に何枚もの的を用意した。
そしてそれを一気に宙へと投げると通りの反対側から何発もの銃声が聞こえる。
すると一瞬遅れて的は次々と中心を射抜かれ、微塵に砕かれた木っ端に代わる。
その様子はまるでクレー射撃の様であり、動く的を正確に射抜く方々の技量の高さがわかりその場から爆発的な歓声が上がった。
そしてその後も何発となく的は射抜かれ何度となく歓声が上がり、市役所前の大通りは最高潮に湧き上がったのである。
演武はその後三十分間にわたって続けられた。
方々は互いに向き合って発砲し空中で弾丸を撃ち落としあったり、縦に並べられた空き缶を達磨落としの要領で倒さずに射抜いたり、果ては弾痕で点描画の時の鐘神業めいた技量を見せつけ観客を大いに沸かせ続けたのである。
そして河越藩火縄銃鉄砲隊保存会の方々は全員全弾打ち終えると、方々は再び火縄で円を描きながら通りを博物館の方へと去って行ったのだった。
火縄銃の演武を堪能した自分と朋友は、そのまま大学へと足を運んだ。とはいえ大学は市役所の向かいに建っているので大した移動ではない。
自分たちがこの大学へ来たのには理由がある。
それはここの中庭こそ自分たちが提灯を設営する会場だからである。
提灯コンテストは市民が街中の提灯を見て回り、良かったと思った提灯を三つ選んで駅や役所などに設けられた投票箱に投票し、その結果を集計して優勝者を決めるという流れになっている。
かといって街の中ならどこにでも出品して良いというわけではなく、コンテストの参加者には実行委員会からそれぞれ展示する場所が振り分けられており、キチンと自分の場所に出品しなければならない決まりとなっている。
場所としてはクレアモールなどの繁華街が最も人目についてベストなポジションであるが、大学校内も生徒や教職員など大勢の人が集まるため、不利な場所ではない。
案の定、校門を潜ると学校内も数え切れない人で賑わい、お祭り気分であった。
多くの出店が立ち並び、学生たちは浮かれ、そこら中で踊り、花火が何発も上がっている、
既に多くの提灯が並べられており、そのどれもが奇抜なデザインをしている。
お辞儀をする福助、東京タワーに巣食うモスラの幼虫、ミロのビーナス、等々。これらを提灯にする必要があるのかというような形のものばかりである。
一際自分気を引く提灯があった。
その提灯は中庭に入った時から目に付いていた。というよりも目に入らない方がおかしい。というくらい巨大である。
目測では全高三十m、底径二十五mにも及ぶ巨大な山。
隣に立つ三号館も見下ろすような浅間山の提灯であった。
その側に立つ男が自分たちのことを見つけるとニカリと笑う。
「おう、暇そうだな。ちょっと設営手伝ってくれないか」
何の気なしに自分に常套句で声を掛けてきた先輩であったが、ふと自分の隣に立つ朋友に気が付く。
「おや、初めて会う人だね。お前の知り合いかい?」
「彼は自分の朋友です。今回の提灯のデザインも彼が担当しています」
「そうかそうか、それじゃあ初めまして。俺は彼の先輩です。彼の友達というのなら今後とも会う機会があるだろうからよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします」
「しかし、提灯をデザインしたってことは、何かデザイン関係の仕事か学校でも行っているのかな?」
「いいえ、普段はプログラミングの仕事をしています。ですがその傍らイラストを描いているのです。いつかはイラストの仕事で飯が食っていけるようになりたいと頑張っています」
朋友の話を聞いて莞爾と微笑むと、そうかそうかといって朋友の肩をポンポと叩いた。
「良いじゃないか夢や目標があるなんて。俺にはそういうものが無いから感心しちゃうな」
「いえ、夢だなんて。そんな大それたものじゃありませんよ」
「そんな謙遜するなよ。目標があるってことはそれだけで素晴らしいことなんだからさ。―――よし、それじゃ創作活動に従事する一つ自分の好きな言葉を君に伝えよう。『人間は誰でも狂人だが、人の運命というものは、この狂人と宇宙とを結び付けようとする努力の生活でなかったら何の価値が有ろう?』。アンドレ・マルロオの言葉だよ」
「―――?どういう意味なんですか?先輩」
その言葉の意味を理解し感心している朋友とは違い、自分は先輩の言った言葉の意味が解らず質問をすると、
「わかってねぇな」
まるで日本海溝よりも深い溜息を吐かれてしまった。
「何だ?こんなことも解らないのか?もうちょっと勉強しろよ。良いか?つまりだ、彼が創作活動に関わり続けるなら、自身の狂気性を肯定してそれを臆面も無く曝け出さないと駄目だということだ。なあに、周りの人間も狂ってんだから恥ずかしがることは無いだろう。そして、認められなくても世間や宇宙と繋がり続けようとする努力を続けることが大事だということだ。その情熱があってこそようやく自分の意志が相手に伝わるってことが俺は言いたいの。わかったか」
そんなことをここで言う必要があるのかと未だに先輩の訳が分からないでいる自分の隣では朋友が目を輝かせている。かなり感銘を受けているようだ。
その様子を見て自分はいけないと思った自分は早々に先輩に別れを告げて朋友を引っ張ってその場を去る。
早足で駆けていけば設営の協力を投げ出したことに対する先輩の文句が次第に小さくなってくる。
しかし引っ張られる朋友は先輩の話を聞いていた時の瞳のまま自分に熱を持って話しかけてくる。
「お前の先輩っていい人だな。優しくって教養もある。こんな人が自分の先輩だったらいいよな」
―――朋友よ。確かに先輩は外面だけはいい人だ。しかし先輩のことを尊敬するのハッキリ言って危険である。
それは自分が一番骨身に滲みていることである。
声を大にして言いたい。朋友よ、先輩に関わるな。
朋友を引き連れて進むと、朋友が会場を幼い女の子が走り回っているのを見かける。
彼がそれを可愛らしいと言っていたので自分も目を向けると、何のことは無い、それは彼女であった。
確かに矮小なる彼女のアクセクしている姿は幼子が一生懸命頑張っているようで実に愛らしいのは確かである。
しかし、彼女もまた先輩と同じくらいに外見に騙されてはいけない、注意しなければならない御仁である。
そのことを朋友にも重々承知してもらいたいが、彼女が自分たち近くにいる手前、大声で伝えるのも憚られる。
すると彼女も自分たちに感づいて近寄ってくる。この展開、最悪だと思うべきだろう
「ねえ、ここで何してんの」
そんな常套句で彼女は気兼ね無く自分に話し掛けてくる。
「いえ、このコンテストに自分は出品しているんですよ。それで割り当てられた場所がここだったので設営のためにやってきたんです。…そう言う貴女もどうしてここへ?」
「あなたと同じ。私も出品しているの」
彼女が指差す方向を見るとそこには何やら科学の実験器具のようなものが置か
「これはいったい?」
「蝋燭の熱の力をそのまま逃がしてしまうのは勿体ないから、同時に実験できるようにしたの。サイフォンの原理を使って水道水から純水を作り出すシステムなんだけど、蝋燭のような小さな火でも効率よく熱回収できるように設計にして、私が新開発した特殊素材を使っているからすぐに沸騰する優れものなのよ。なんなら後でコーヒーでも飲んで行く?純粋で入れるから雑味が無くておいしいコーヒーよ」
「御言葉に甘えて後ほど」
自分と彼女との睦言の様な会話を繰り広げる中、朋友が自分の肩を何度も叩いてくる。
しばらく無視をしたり、手で振り払っていたりした自分だが、あまりにも朋友がしつこいので彼女から離れた位置で応じてやることにした。
「で、さっきから何の用だ?朋友」
「質問したいのはこっちの方だ。あの子いったいどこの子だよ?可憐で可愛い子だけど、どう見てもあれ小学生みたいじゃないか。そんな子がどうしてこの大学にいるんだよ?お前の知り合いみたいだったけど」
「―――おい!小学生みたいとか言うな。彼女は自分たちと同い年なんだぞ」
この事実に朋友は心底驚いているようだった。
確かに彼女は背も低くて脚は短く、童顔で矮小な女性だが列記とした成人である。御年二二歳になる乙女である。
そんな彼女のことを捕まえて幼子だという輩は彼女のことを侮辱している。
紳士が淑女に対して執る態度としては最低である。
そう自分が声高らかに朋友に対して熱弁を振るったのである。しかし、
「そうかそうか、あれが前にお前が言っていた彼女か」
当の朋友はしたり顔をして自分の事を見てくるので自分の熱は冷めて空恐ろしい気持ちが広がっていく。
「確かにそうだが。それがどうした」
「率直に言おう。お前彼女に惚れているな」
その推測は当たらずとも遠からずである
どういう訳か、何の因果か、運命のイタズラか、自分は彼女のことを悪くは思っていない。
今までに筆舌に尽くしがたい仕打ちを受けてきたにも拘らず、意中の彼女がいることはもはや紛れも無い事実である。
とはいえ、身を焦がすほどの恋をしているわけではなく、ただ傍に居て満更でもないといった関係である。そしてできれば傍に居たくないとも思っている。
しかし、だからと言って自分と彼女との関係に無関係な朋友に対して真意を告げる必要は無い。
逆にここで声を荒げて真実を告げたところで朋友は自分の真意を曲解して照れ隠しだと受け取るだろう。そうなったら余計にややこしくなる。
そう思って自分は自身の黙秘権を無言で主張した。
「やっぱり彼女のことが好きなんだな、お前は昔から図星だと黙る癖があるから逆に解り易いよ」
現実は黙っていても曲解された。
こういう時、長い付き合いによって育まれたツーカーの仲というものは、むしろ厄介である。
もはや言葉を介さなくても自分と朋友とはある程度の意志疎通が可能であるが、このように曲解された上で非常にセンシティブな部分にまで触られてしまっては
この関係を考え直す必要がある。
人の心には誰にも知られたくないヤワヤワした部分があるものである。
それをいくら気の置けない中だからと言って土足で踏み入り、泥だらけの諸手で触れて良いわけがない。
親しき仲にも礼儀あり。弁えよ朋友!
そして曲解するな!せめてちゃんと理解しろよ!
―――などとは黙秘を続ける自分の口からは出ることは無く、暫くそのまま朋友の尋問に黙秘を続けると、中庭に一台の軽トラが乗り入れてきた。
土煙を上げながら中庭を疾走してくる軽トラの運転席には提灯屋が乗っており、荷台にはカーキ色の幌を大きく膨らませる何かが積まれている。
「おう、待たせたな」
自分たちの目の前で止まった軽トラから飛び降りてきた提灯屋が威勢よく声を掛けてくる。
そして、徐に幌を引っ掴み、風を起こすほどの勢いで取り払うと、ようやくお目当ての物が日の目を見る。
それは戦闘機の形をした提灯だった
鋼鉄のボディの代わりには竹の骨組み、強化ガラスと鉄板の代わりには白と青色の和紙が張られている。
大きさも実物と変わりが無く、人が実際に乗り込むことができそうである。
その出来栄えには自分も朋友も感嘆の溜息を吐いた。
「さすがに素晴らしい出来栄えですね。しかし、この短期間でよくこれほどの物を作れましたね。ざっと五日間くらいですよ」
自分の問いに提灯屋はヘヘンと鼻を鳴らす。
「侮ってもらっちゃ困る。俺は職人だぜ。上等なものを期日までに仕上げるのは当たり前だ。それに今回は俺が頼んでやらせてもらった仕事だ。半端も遅刻も尚更出来ねぇ」
そう言って提灯屋は鼻の下を掻いている。それは自分の仕事に誇りを持っている職人の姿であった。
その様子を見ていた朋友が提灯屋に気になることを問いただす。
「ところで、提灯屋さん。例の仕掛けの程はどうなっていますか」
「もちろんバッチリだ。後は中で火を灯せば仕掛けが動き出すって寸法さ」
どうやら仕掛けも会心の出来らしく、提灯屋も誇らしげに胸を張っている。
「さあ、こんな所で立ち話をしていてもしょうがない。日暮れまでに設営を終えないとならないからね。二人とも手伝ってくれ」
自分たちは慎重に提灯を降ろし、自分たちのスペースへと運んでいく。
そこには既に鉄で出来た台座が置かれており、上にはフックが設けられている。そのフックに提灯を掛けると丁度良い高さで提灯は宙づりになった。
それは宛ら本当に戦闘機が空を飛んでいるようにも見えた。
提灯の設営を終え、代金を受け取った提灯屋が帰った後、自分たちは一息つく。
鐘の音が六つ聞こえると大分日も傾いてきた。
すると俄かに中庭が騒がしくなる。
皆が視線を送る先を自分も見つめると、そこには河越藩火縄銃鉄砲隊保存会の方々が行列を成してやってくるのが見えた。
方々はやはり火縄を振り回し、橙のサークルを描いている。
そして、河越藩火縄銃鉄砲隊保存会の方々は中庭に整列すると鬨の声を上げて一斉に散らばっていく。
その様子を見ていると、どうやら彼らは手に持った火縄の火を提灯に移しているようだ。
次々に火を灯された提灯たちは中から煌々と照らし出され、夕闇に包まれつつある中庭をほんのりと照らし出し始める。
散らばった方々の一人が自分たちの所にもやってくる。
彼は振り回している火縄の火を戦闘機の蝋燭に移していった。
火の灯った戦闘機提灯は内側から発せられる光のせいか更にその存在感が増したように感じられた。
十分もしない内に河越藩火縄銃鉄砲隊保存会の方々により中庭にあるすべての提灯に火が灯される。
そしてここからが河越の百万灯祭りの見せ場、火が灯された提灯たちは熱の力によって動き出す。
福助は虚空に向かって何度となくお辞儀をし、モスラは繭を割って成虫になり、ビーナス像はその美しい肢体を回りながら見せている。
その光景はテーマパークのナイトパレードの様でもあった。
さて、自分たちの提灯はどうなっているだろうか。そう思って振り向くとそれは朋友が設計通りに動き出していた。
自分たちの作り上げた戦闘機型の提灯は、その光が特に後退部に設けられたジェットエンジン部分に集まるようになっており、宛ら実際に火を噴いているように見える。
また光はコックピット部分にも集まるようになっており、点滅する計器の光が実際に戦闘機が息づいているようにも見せる。
しかし、この提灯の本当の姿はこれではない。
そう思った矢先に、その変化が始まる。正確に言えば変化というよりは変形であった。
機械的な音がやおらに立つと戦闘機の翼は折りたたまれ、手が生え足が生え頭が飛び出す。
変形は一瞬だった。一瞬のうちに提灯は戦闘機からヒト型の戦闘兵器へと完全変形していた。
そして変形が終えると戦闘兵器は当初の計画通り銃を構えたり、格闘を始めたりと実に多彩な動作を始めた。そしてその動きはどれも滑らかで、まるで本物の人間の動きの様に実に自然なものであった。
その作動に朋友と提灯屋は大いに感激して狂喜し大声を上げ、ギャラリーたちも感心し歓声を上げる。
それもそうだろう。百万灯祭りに於いて動く提灯はもはや珍しいモノでもなくなってしまったが、ハリウッドのCG班もビックリの変形機構を目の当たりにし、アシモなんて足元にも及ばないモーションを見せ付けられたのだから騒ぐのも無理はない。
正直、自分もこの変形とモーションは予想以上に凄いと思っている。
「あなたの提灯、予想以上に凄いわね」
気の合うことにどうやら彼女も同意見らしい。
いつの間にか自分の隣に立っていた彼女は、言葉も無く自分に何かを差し出してくる。
注視すると彼女が差し出したのは白磁のマグカップのナミナミと注がれたコーヒーであった。
これが先ほど彼女の言っていた純水コーヒーなのだろう。
極楽チャンポンの前例があるように、彼女から差し出される飲食物には幾何かの不安はあるものの、断ろうにも自分は先ほど彼女にコーヒーを飲むと言ってしまっている。
そして何よりコーヒーから立ち上る芳醇な香りがコーヒー好きの自分の意識を捕らえて離さない。
自分は無意識のうちにそれを受け取り、いつの間にか一口啜ったところでようなく我に返った。そのコーヒー美味さに自分たちの提灯が変形を見たときと同じくらいの感動を覚たからである。
提灯蒸留器で作り出した純水で淹れたコーヒーは水道水を沸かしたお湯とは全く違い、カルキ臭も妙なミネラルの味も無い。
また、彼女の淹れ方も上手いのだろうか味に過剰な苦みとエグ味が無く、口に残コーヒーの後味もしつこくない。
実に飲み易いコーヒーで自分の好みに大変合っている。中毒になりそうな美味さである。
隣を窺えば朋友も自分と同じようなリアクションをしている。
そしてコーヒーを早々に飲み干した自分たち二人はついつい、
「お代わり下さい」
と、声をそろえて要求してしまった。それほど美味かったのだ。これくらいのシンクロは許してほしい。
しかし、
「ごめんね、もう無いのよ」
彼女からの返答は自分たちの期待に満ちた心を簡単にへし折ったのである。
「そんな…。さっき渡された分の余りって本当にもう無いんですか?」
自分はそれでも諦めきれず、彼女を問いただすと、
―――しつこいわね。
とでも言いたげな視線を送りながら彼女は理由を応えてくれた。
「本当に無いのよ。さっき淹れたコーヒーはここに居る人たちに全部配っちゃったからもう無いのよね」
彼女にそう言われてあたりを見渡すと、確かに周りにいる観客の誰もが彼女のコーヒーを口にしている様子が目に入った。
それを見た自分は、ならば、もう一度コーヒーを淹れて欲しいと彼女に催促するが、
「残念だけどすぐには無理よ。いくら私の提灯蒸留器がすごく効率が良いからってすぐにそんな大量にできるわけじゃないのよ。少なくとも三十分くらい待ってちょうだい」
と、顔面に喜色を張り付けながら完全に袖にされてしまった。
取り付く島も無く、ただ三十分もの間コーヒーに飢えながら過ごすなんて。
そう言う思いに支配された自分たちはどちらからともなく項垂れてしまった。
そんな打ち拉がれる自分たちを見ながら彼女はいつもの様にコロコロと笑い声をあげている。相変わらず酷い人である。
観客の誰もが彼女のコーヒーに舌鼓を打ち、その味に感嘆のため息を漏らし称賛の歓声を上げている。実に恨めしい限りである。
「提灯の動きを見せるだけじゃ物足りないじゃない?そう思って私は味でも楽しめるようにと工夫してみたわけ」
なけなしの意地を振り絞って彼女にコーヒーを提供する理由を聞いてみると、どうやら彼女の考えはやはり自分たちとは一線を画していたようである。
動きとデザインの奇抜さだけを追い求めてきた自分を含めた他の参加者とは違い、視覚以外の別のアプローチから迫る彼女の発想はさすがだと素直に賛辞を贈る気になる
「おう、お前たちここに居たのか」
そんな、夏の夕暮れよりもベタ付いた声色が聞こえる方向には、先輩がコーヒーを片手に手を振っていた。
自分はついつい目が行ってしまう。先輩の方にではなく、コーヒーの方に。
この際彼女が淹れたコーヒーならば何でも良い。途中にどんな工程を経てきたかなんて問題じゃない。たとえそれが先輩の呑み差しであったとしても構わない。
それを飲むことで先輩との間接キスになるとしても関係ない。そんなことなど屁にも思わないくらい自分は彼女のコーヒーに飢えている。
そう考えると頭がボーっとし、血が沸いて、動悸が速くなってくる
自覚はしているが、既に自分は彼女の純水コーヒーのジャンキーとなってしまった。
やはり数分前に懸念した通り彼女の差し出すものには恐るべき何かが含まれてか、もしくは信じられないような変化が起きているのだろう。駄々のコーヒーでこれだけ人間を魅了するのだから強ちウソとは言えまい。
しかし、そうとわかっていながら口にしてしまった自分は愚かなくらいに手遅れである。
しかしこの状況はあまりに拙い。こんなに自分が抑えられないのは初めてである。普段は冷静沈着を自称する自分がこんなにも取り乱したこと生まれてこの方など数えるほどしかない。数えていないので覚えていないが。
もしこの場に鏡が在ったのなら、焦点が合わず、どこを見ているとも解らず、まるで、そう、画鋲で紙に空けた穴のような瞳。そんな瞳をした自分が写っていたことだろう。
もし、先輩がコーヒーを飲み干すのがあと一秒でも遅かったら自分は先輩に大怪我をさせてでも無理やりコーヒーを奪っていたことだろう。実際にそのとき自分は先輩に向かって飛び掛かっていたのだから。
そんな勢いで自分は飛び出し、目標を失ったことで失速して地面に顔面をこすり付けてしまった。
目の前のコーヒーが無くなり、以前よりもさらに意気消沈した自分の肩に先輩の手がポンと置かれる。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫です。むしろ今ので目が覚めましたから」
「何を言っているんだ。それよりもオレの提灯の所へ来いよ。特等席で凄いものを見せてやるから」
そう言われて自分は先輩に引きずられるようにして後に続く。
辿り着く先には先輩の浅間山提灯がある。それにはすでに火が灯されており、山頂部で橙色の光が明滅している。
その様子は今にも噴火しそうに見える。
「どうだ? なかなか凝っているだろう?」
「確かに勇壮な景観ですね。さすがにこれだけスケールが大きいと圧倒されます」
「そうかそうか。だがな、これだけがこの提灯のすごい所ではないんだよ」「―――?なにかあるんですか」
先輩はクツクツと笑うと
「まあ、見てなって」
と言って浅間山提灯から延びるタコ糸を一気に引っ張ったのである
するとどうだろう。噴火寸前の浅間山提灯がついに噴火したのである。
勢いよく噴出したのは花火の火の粉であり、ハワイ式噴火の溶岩噴泉の様に噴出している。
噴き出す花火は高々と上がり、火柱は遠く新河岸の方からも見えたという。
しかし、これは火力が尋常ではない。はっきり言っては危険過ぎる
降り注ぐ火の粉がまるで雨の様で、逃げ場がない。
「先輩!これはちょっと危な過ぎなくないですか!アツゥ!ほら火の粉が!アチッ!これ絶対火事に成りますって!」
「ハハ。大丈夫。そこらへんはちゃんと考慮してあるよ。まあ、もしこれが少し傾いたりして、火柱が噴き出す方向が変わったりしたらヤバイけどね」
まるで心配をしていない先輩の顔色が変わったのにはそれから一秒の時間も掛からなかった。
火柱を轟々と吹き上げる先輩の浅間山にどこから飛んできたのか福助が激突したのである。
自分と先輩とは三秒間ほど唖然とした後、福助の元々在った方向を見ると、そこでは暴動が起こっていた。
見るに堪えない。血で血を洗い、肉を食んで、骨を踏み砕くというような表現が似合いそうな、そんな醜い暴動が繰り広げられていた。
これはいったい?
そう思って自分はその場へと駆けてゆき、暴動の中で揉みくちゃにされていた朋友を引っ張り出す。そして問いただそうとするが、途中で思い止まる。
それは朋友の目を見たからである。
というよりその場に居るほとんどの人間が同じ目をしていた。
焦点が合わず、どこを見ているとも解らず、まるで、そう、画鋲で紙に空けた穴のような瞳。
実際にその瞳を目の当たりにすると本気でヤバイと思った。
この目に自分は覚えがある。と言うよりも体感している。
この目は彼女の純水コーヒーに禁断症状を起こしている人間の目であった。
そして朋友の口から洩れるコーヒーという譫言を耳にするとこれは決定的だと思ったのであり、同時に自分は朋友に押し倒され、マウントを取られ蛸殴りにされ始めたのである。
腕で作ったガードをすり抜けて飛び込んでくる朋友の拳はどれも重かった。今にして思えば我を失っているので加減が効かないのだから当然であろう。
とはいえ、その瞬間そんなことに気が回るわけも無く、かといって黙って殴られているほど自分も人間ができてはいないので、頭に血の上がった自分は、
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
と、獣じみた怒声を上げて朋友の鳩尾を力いっぱい突き放すように蹴り上げた。
勢いよく東京タワーとモスラに激突する朋友を一瞥すると、自分は即座に周りの様子を見渡した。
阿鼻叫喚とか地獄絵図とか、そんな言葉がまず真っ先に出てくるような、そんな醜い暴動が大学の中庭の至る所で起こっていた。
誰もがあの目をして標的を睨めつけており、コーヒーという単語を涎のごとく垂れ流し、わずかに残されたコーヒーを奪い合って暴力を振るっている。
さらに状況が深刻なのは暴動の中に河越藩火縄銃鉄砲隊保存会の方々も加わっているということである。
彼らも既に純水コーヒーの亡者となっており、それを手に入れるためには手段を択ばないという点では他の暴動参加者と一緒である。
しかし、その手段がマズ過ぎる。火縄銃はマズ過ぎる!
次の瞬間、広場に銃声が何度も上がり始め、それと同じ数の絶叫と人が倒れる音が響きだす。
方々が使っているのは実弾ではなく演習用のゴム弾であるらしいが、それでも大の大人を一人気絶させるには威力充分である。
この時、はっきり言って自分は気が動転してしまい、頭を働かせることも体を動かすことも出来なかった。ただただ勝手に震えが込み上げてくるだけだった。
こんな光景が法治国家の日本に在っていいのだろうか?ここは、どこかのスラム街なのか?
ようやく出てきたそんなどうしようもない発想は急に顔に射した橙の光と熱気によって消し飛んでしまった。
光指す方へと目を向けると今までの人生で見たことも無いような光景が広がっている。
皆さんはその人生の中で見たことがあるだろうか? 燃える福助を。
相変わらず大学の中庭で繰り広げられる暴動は止むことを知らず、そこら中で怒声と打撃音と銃声と絶叫が響いている。
そんな中、自分はただ茫然としていた。
火を噴いていた浅間山に突っ込み燃え盛る福助を前に自分は何もできなかった。
提灯を形作っていた紙も骨組みも次々に炎に変わっていく。
そしてそれは先輩の浅間山も然り。火山どころかアッと言う間に火そのものになっていく。
火は炎となり、まるで仲間を求めるように他の提灯に伝播していく。
モスラも、ビーナスも、自分たちが心血を注いだ可変式戦闘機も、その形を失って、ただの炎の塊となる。
そうしてこの中庭が火の海になるのに五分とは掛からなかった。
しかし、暴動は治まる素振りを見せない。むしろ辺りを包む炎の様に苛烈に燃え上がってしまい収拾がつかない。
そして今はこの状況を打破する特効薬である彼女の提灯蒸留器も火達磨になってしまった。
もうどうすることも出来ない。
「おい!しっかりしろ!」
先輩にガクガクと揺さぶられ自分は正気に戻る。力任せにガクガクと揺さぶられたせいで目眩はするが。
「先輩…」
先輩はどういう訳か普通であった。見る限り先輩には純水コーヒーの中毒症状が出ている様子は無かった。
前々からどこか計り知れない所のある人だが、やはり計り知れない。
先輩はピンチの時に役に立つ、そんな人物である。と願いたい。
「おい、こいつはマズイな」
「―――まずいとは?」
「お前まだ頭がフヤケてんじゃないのか?周りをよく見てみろ!火の手の周りが速い。このままだと炎は河越中に広がって河越大火の再来になるぞ!」
血相を変えて先輩はその言葉を発した。
河越大火。それは河越市民にとって忌まわしい記憶。
四月から図書館に通うようになっていた自分には河越大火についての知識は既に有った。
簡単に言うと、文字通り河越のほとんどを焼き尽くした大火災の事である。
そもそも河越では江戸の昔から何度も大火災が起こっている。
例えば寛永十五年一月二八日の火災では徳川家の庇護を受けた河越一の寺院である喜多院が焼失し、その後も享保三年、文政八年、文政十二年の大火など江戸時代だけでも四回の大火によって河越は焦土と化している。
また維新を経て年号が明治となっても河越と火災の因縁が切り離されることは無く、明治二一年三月二二日の大火では高澤町の建物一二〇戸が焼失した記録が残っている。
しかし、河越大火を指す場合、明治二六年三月十七日に起きた火災を指すのが一般的である。
旧城下の養寿院の門前から上がった炎は吹き付ける強い北風と連日の晴天によりカラカラに乾いた街並みを瞬く間に飲み込んでいき、当時の河越の中心部であった本町や多賀町、南町や上松江町、連雀町を初めとした計十七町を焼き尽くしたと言われている。
記録ではこの火災により一三二〇戸が焼失したとある。この数は当時の河越の町域の三分の一に相当する戸数であり、また街のランドマークであった時の鐘もこの大火一度焼失している。
また、焼死者や負傷者を出さなかったものの、当時栄華を誇った河越商人たちは一夜にして全財産を焼失したのである。
この河越大火は、戊辰戦争や関東大震災、太平洋戦争の戦火を経験しなかった河越にとって最も大きな火災であり、かつ最も忌むべき記憶となった。
この火災を機に、河越の町並みは火災に強い建築物が建てられるようになり、それが現在では街の風物詩である蔵造りの町並みとなったのである。
それほど、この火災は河越に大きな影響を与えた大事件であった。
そんな大火が現在に蘇ろうとしている。
これは看過できない一大事である。
しかし、火の手はもはやどうしようもないくらいに勢いを増している。手持ちの消火器を持ってきたとしても焼け石に水。このままでは校舎に燃え移るのも時間の問題だろう。
自分が導き出した答えは一つ。逃げることだった。
「先輩、早く非難しましょう。ここに居たら焼け死んでしまいますよ」
自分は逃げ出そうと先輩の袖を引っ張るが先輩は頑として動こうとしない。
「何をやっているのですか!早く!」
「いや、ここで火の手は食い止める」
「―――!何を言っているのですか!もう手詰まりですって。自分たちでどうにかできるレベルを超えてしまっています!後は消防に任せて自分たちは避難するべきです」
「いや、まだ手はある。こいつを使えばな」
そう言って先輩が差し出したのはおそらく河越藩火縄銃鉄砲隊保存会の誰かから奪った者であろう火縄銃であった。
「―――先輩、火縄銃でいったい何をしようというんですか?」
「なあに、簡単な話だ。あれを見てみろ」
先輩の指差す先は三号館の屋上であり、そこには強大な貯水槽が設けられていた。
「こいつで一発屋上の貯水槽をぶち抜けばいい。そして貯水槽を爆発させて水を中庭中に振り撒けば火を消すことができるはずだ。そしてその役目を、君に任せたいと思う」
「何ですと?冗談は止めて下さい」
「聞くところによると君はなかなかの射的の腕前だそうだな。屋台のオヤジどもからは『射場荒し』なんて呼ばれているようだが、その腕を見込んで君に託したい。君にこの状況を何とかしてもらいたい」
「さらに冗談じゃないです。自分にそんなヒーローみたいなことをやれですって?ヒーロー役なんてそんな貧乏籤、誰が引くものですか!ヒーローになんて成りたい奴が成ればいいんです。そして自分は願い下げです。それに、火縄銃に込められているのはゴム弾でしょう。そんなものであの鉄の貯水槽をぶち抜けるわけがないでしょう」
「そこら辺は抜かりないさ。この火縄銃に込められているのは実弾だ。しかも彼女お手製の鉄板も易々ぶち抜けるような特別製だ。だからちゃんとあてることができれば大丈夫だ」
「それが無理だって言っているじゃないですか!そもそもなんで自分なんですか!言い出した先輩がやってくださいよ」
「いいや、これをできるのは今ここに居る人間ではもうお前しか居ないわけだ。見てみろ」
そう言って先輩が見せつけた左手はブルブルと震え気味悪く戦慄いていた。
「どうやら俺も限界らしい。今まで我慢をしていたが、彼女のコーヒーの症状が回ってきたみたいでとてもまともに銃を構えられそうにない」
「そんな!だって今まで大丈夫だったじゃないですか。先輩なら純水コーヒーの毒にも勝てるんじゃなかったんですか?」
「おいおい。俺は化け物じゃないし超人でもないんだぜ。ちゃんと毒は回るさ。それにオレから言わせてもらえば頭を打っただけで回復できたお前の方がよっぽど人間離れしていると思うけどね。まあ、どの道今の俺じゃあどうにもならない。からお前に頼みたいんだ」
「無理ですって!できません!許して下さい!そんなことよりも早く逃げましょうって」
「それこそ無理だ。コーヒーが回ってしまってもう俺はまともに動けそうにないし、もうすぐ俺も我を失って何をするかも解らない。逃げたってしょうがないんだよ。それにお前はここに居る他の人たちを見捨てて行くつもりなのか?さっき君が朋友と呼んでいた彼の事も見捨てて行くのか?」
先輩の言葉に自分は朋友を探して中庭に目を走らせる。
中庭の雑踏は以前にも増して酷い状況となっており、朋友の影を見つけることができない。
しかし、この中に朋友は確実に居るのである。
彼は自分にとって生涯一人の朋友と決めた男である。
相手が困っている時には利益など関係なくどんなに遠くからでも駆けつけて助け合う存在。それが朋友である。
もしその言葉を示す場所があるとすれば今この時である。
ならば、と決意を決めた自分は先輩から火縄銃と特製弾丸を受け取ると、銃身に弾を込め、火薬を押し込み、火縄を取り付け、火蓋を切る。
照準を約20m先の貯水槽に合わせる。
ヒーローに成るつもりは無い。だからと言ってそれができることをしない理由にはならない。
今の自分にできることが有るなら何だってしよう。朋友のために。
「南無八幡平菩薩!」
自分は那須与一に肖ってそんな言葉を呟くと火縄銃の引き金を引いた。
ビギナーズラックという言葉がある。初心者が幸運にも成功を収めることを指す言葉だが、そういった言葉があるのだから現実にもそういった事象が存在するのだろう。
それに自分は運良く巡り合ったのである。
自分が放った弾丸は幸運にも貯水槽をぶち抜き、爆発させ、貯水槽から噴き出した水が滝の様に降り注いだのである。
降り注ぐ水の勢いはアッと言う間に火を消したものの、中庭を占拠していた暴徒たちもアッと言う間に押し流したのである。
もちろんその奔流には自分も呑み込まれてしまった。
ようやく自分が目を覚ましたのは一時間後。保健室のベットの上であった。
朦朧とする意識の中で隣の病床を見てみると、そこには朋友が横たわっていた。
朋友もようやく目を覚ましたところらしくフラフラと体を起こす。
朋友の様子を見るとどうやらコーヒーの毒が抜けきっているようで、既に素面に戻っている。
「大丈夫か朋友」
「ああ、何とかな。しかし、いったい何があったんだ?記憶がぼやけているんだけど…」
自分は事の顛末を話して聞かせてやった。
彼女のコーヒーによって参加者が亡者となってしまったこと。出品された提灯が残らず燃え尽きてしまったこと。そして、先輩の奇策により河越大火の再来を未然に防げたこと。それらを自分は順を追って話してやった。
話を聞いている最中の朋友の顔色は蒼白と紅潮を繰り替えし、口をパクパクと開け閉めして、目を白黒させていた。
しかし、話を多方聞き終わると落ち着いた表情に戻り、一拍置いた後フゥと小さな溜息を吐いた。
「僕の知らない間にそんな一大事があったなんて…やっぱり『街興しの功罪』は大変だな。生半可に関わっちゃいけないものなのかな」
「そうは言ってもなぁ朋友。おれは月一のペースで『街興しの功罪』に関わっているんだ。しかも自分が望まないにも拘らず」
「―――大変なんだな。お前も」
そんな言葉を憐みの表情で呟く朋友。そんな表情をされると自分も自身が哀れに思えてきて思わず目頭が熱くなる。
何で自分が毎回こんな目に合わなければならないんだ。
項垂れる自分であったが、隣では朋友が同情しながらも、さっきとは比べられないほど深く大きなため息を吐いた。
「しかし、こんな状況じゃコンテストなんて無理だよな」
「それはそうだろう。コンテストが始まる前に提灯が全部燃えてしまったんだから。恐らく他の地域に出品されていた提灯がグランプリを取ることだろうよ」
「せっかく頑張ってデザインした提灯が何の評価も受けずに焼け落ちてしまうなんて、本当に残念だよ」
そう言って朋友は三度目の溜息を吐いた。
確かに、あのデザインと機構を搭載した可変式戦闘機提灯が何の賞賛を受けることも無く、ものの数時間のみ展示されたただけで灰に成ってしまったのである。
これには落胆しているが、朋友の落胆は自分の落胆を遥かに深いものだろ
そんな朋友にどんな言葉を掛けるべきなのか解らなくなってしまう。
「だけど、またこんな機会が有ったらまた挑戦するさ」
「本当か?」
「本気さ。次こそは一位を取ってやる」
自分の懸念など関係なく、朋友は前向きであった。朋友よ、そのまま前へ進めばいい。そうすれば道は自ずと開かれるであろう。
「それはそうと朋友、百万灯祭りも一緒に回ったんだ。河越祭りも一緒に行くだろ
「ああ、今年も一緒に回ろうぜ」
「しかし、むさい男二人で相も変わらずイベント巡りをしているなんて、実に体臭が濃くなりそうな話じゃないか」
「まあ、気にするなよ。もう何年も繰り返してきていることだし」
朋友は盛大に笑う。釣られて自分も笑う。
その保健室には実に和やかな友情が溢れていた。
そして、今の自分は河越祭りにこそ最大最悪の『街興しの功罪』が潜んでいることを知らなかったのである。
自分は川越への帰り道を見失っている。




