雨の扇橋篇
時は六月。日本全国雨日和である。
大方の人はそうであると思うが、自分も雨の日が苦手である。
特に雨の日の満員電車は殺人という言葉すらも生易しい。
ただでさえ狭苦しい所に寿司詰めにされて辛い思いをするのが満員電車だというのに、手に持った雨傘のせいで人が立っていられるスペースはさらに少なくなる。
また、雨に濡れた床は滑りやすく、揺れ動き不安定な電車内がさらに足元が覚束なくなる。そんな中押し合いへし合いしていれば、池袋に到達するころにはアクロバットのような態勢になってしまうことは請け合いであろう。
そして、雨の日の電車内の湿度は異常なほど蒸し暑く、不快指数は余裕で百を超えてくるだろう。
しかし、それは今は昔。自分は河越を出ることができなくなったため、東武東上線に乗る機会もめっきり減ってしまった。
今では通学の足も自転車になり、新河岸の実家から市役所前の大学まで、片道三十分の実に健康的な日々を過ごしている。
しかし、雨の日にはそうもいかない。自転車での通学はできず、また地獄より酷い満員電車の中に身を投じなければならない。
大学に行く際、川越に居たころは電車は上りを使っていたが、河越では下りを使うことになる。
とはいえその窮屈さはさして変わりはない。
東武東上線は通勤通学の足として朝夕のラッシュ時には多くの人で賑わう。
上り方向はもちろん、下り方向も多くの学校施設があるために学生たちが多く利用するため、やはり満員電車となる。
こんな電車の中にいると朝っぱらから疲れ果ててしまうのは請け合いだ
そんな最悪な電車に揺られて新河岸駅から二つ先の駅、川越市駅で降りてから雨の中を歩いて大学へと向かう。
駅から二十分ほどの道のり。雨の河越に立ち並ぶ蔵造りの町並み、時の鐘を過ぎ去って歩けば、ようやく大学へとたどり着く。
校内では雨の中で歩いている人も無く、水溜りには雨粒が描くいくつもの波紋が浮かぶだけであった。
雨を共に独り歩き、一号館を通り過ぎ紫陽花が咲き乱れる中庭へ至るとようやく人影を見つける。
それは小柄な女性であり、白いレインコートを羽織り、空色の傘を手にしている。
そんな彼女が紫陽花と戯れるさまは実に絵になる風景である。
彼女が伸ばす手の先にある紫陽花におそらく六月の風物詩、カタツムリが止まっているのだろう。
これも絵になる。
自分は彼女に近づいていき声を掛けようとする。その瞬間、自分はふとした違和感を感じる。
その違和感の正体は彼女が戯れているのが雨の名脇役カタツムリではなく、ナメクジだったからである。
殻を背負っているかどうかという違いだけで断然絵にならないこの害虫と嬉々として戯れている彼女に自分は思わずため息が漏れてしまう。
何でこんな子のことが自分は気になるんだろう。
気を取り直して声を掛ける。何故なら今日この大学へとやってきたのはこの人物に呼ばれたからだ。
そして掛ける言葉はもちろん、
「ねぇ、こんな所で何してんの?」
それを聞いて彼女こと自分が彼女と呼んでいる女性が振り返る。
「それ、私の常套句でしょう!」
こちらを振り向いた彼女の顔は焼けたお餅を思わせるようにプックリと膨れ、実に可愛らしかった。
「別に誰が言ってもいいじゃないですか」
「そうはいかないわ。私のアイデンティティに関わる問題よ」
「それはさておき、一体何をやっているんです?」
「フフッ、ちょっとした実験」
彼女はニコリと微笑み手に持った白い粉の入ったビン詰をヒラつかせる。もう片方の手には薬缶が重そうにぶら下がっている。
「実験?」
「そう、実験。カタツムリやナメクジって塩を掛けると溶けるっていうでしょ。それで思ったんだけど、どのくらいの時間塩を掛けて放置しておいても生きていけるのかを試しているの」
聞いた瞬間に自分の背筋には悪寒が走った。
恐ろしい。末恐ろしい。
子供っぽく倫理や道徳というものに疎い彼女のやることは毎回残虐である。そして今回もかなり残虐である。
非力な軟体動物たちに地獄の責め苦を味あわせ、死ぬギリギリのところを生かし続ける。
いつの時代の拷問だと思うほどの残酷さである。
こんなことを考えているにも拘らず、目の前の彼女はナメクジに塩を振りかけ、のた打ち回る様をウットリと眺めた後、別の手に持った薬缶から水をかけて塩を洗い流すことを繰り返していた。
そんな様子を見ているとついナメクジに同情してしまう。
ついに自分は居た堪れなくなり、彼女を止める決意をする。
「いい加減にしたらどうです?可哀そうだとは思わないんですか?」
「……不思議なことを言うのね。あなたが病気になった時、モルモットを使って実験された薬を使っていないわけじゃないでしょ」
「―――この実験で人類に利益があるとは思えません」
「『瓢箪から駒が出る』って云うじゃない。思いがけない発見の多くは意図しないところから生まれるものよ」
「そんな途方もないもののために、いったい今までに何匹のナメクジを殺してきたんですか⁉」
「何言ってんの?これはカタツムリよ」
自分は一瞬耳を疑った。次の瞬間には彼女が間違っているんじゃないかと思った。
しかし最終的には自分の間違いに気づかされた。
彼女の足元には彼女の手によって砕かれたカタツムリの殻が無残に転がっていた。
どうやら彼女はわざわざカタツムリの殻を割られ、剝かれて真っ裸にされた上、塩の責め苦に合わせているようである。
彼女は確かに雨の名脇役と戯れていたようだ。しかし歪んだ形で。
彼女にこんな虐殺行為をするその理由を聞くと、まるで愚問だと言わんばかりの表情で
「殻に閉じ籠ってしまったら塩がちゃんと掛からないでしょ。だから殻から引っ張り出してきたのがわからないのかしら」
と、せせら笑いながら言った。
残虐さここに極まれり。
彼女の来世は生き物を妄りに殺めた罪で畜生道へと落ちるだろう。そしてカタツムリとなって何処かのクソガキに同じような目に合わせられる因果なのだろう。
こうなってしまっては、もはや自分にはどうにも救いようがない。閻魔様も匙を投げることだろう。
彼女の実験を止めようも無く、自分は少し離れた所から五分ほどその様子を窺っていたが、どうやら彼女は実験に厭きたらしく、紫陽花の花壇から離れていく。
彼女のいたところには無数のナメクジとなったカタツムリの死体と死にかけ、そして彼らが背負っていた殻の残骸がゴロゴロと転がっている。死屍累々とはこのことだろう。
だが問題はそこではない。猟奇的な彼女が自分に近づいてくることが目下最大の問題である。
―――この流れ、ヤバいのではないか?
どうやら次に彼女の興味が移ったのは自分らしく、彼女のそのクリクリとした愛らしい目は自分のことをじっと見つめながら怪しげな光を湛えている。
こうなるともう自分は逃げられない。蛇に睨まれたカエルよろしく、自分もその場に釘付けにされたような感覚に襲われた。
そして彼女が「ねぇ」とかけてくる声を聞いた瞬間、自分の背筋が痺れて縮み上がってしまう。
自分の運命はもはや彼女の次の言葉に託された。
モルモットの代わりとして投薬実験されるのか、はたまた先ほどのナメクジの代わりに地獄の責め苦を味わうのか。
できればいっそ楽に死ねる方が良い。
そんな考えを走馬灯よりも早く巡らせていると、ついに彼女のその花びらのように愛らしい唇が開く。
そして運命の一言。
「私と付き合ってほしいの」
一瞬、意味が解らなくなる。
付き合うというのは一緒に行動するという意味か、それとも男女が親密な関係になるという意味か、まったくもってどちらとも取れる言い回しである。
これは、率直に受け取るべきなのだろうか、それとも曲解して受け取るべきか。
そもそも何が率直で何が曲解なのか。それすらわからなくなって答えに辿り着かなくなってしまう。
そして、その答えは彼女からもたらされる。
「今から研究棟へ行きましょう。そこで見せたいものがあるの」
答えは前者であった。
研究錬にやってきた自分と彼女とはエレベーターの前に立つ。
自分たちの所属する『火山・岩石学研究室』も入っている三階建ての真新しい建物を利用する機会は自分も多いが、自分は階段しか使ったことが無いため、ここのエレベータには乗る初めてである。
彼女の後についてエレベーターに乗りこむ。彼女は背が低いため一生懸命爪先立ちをしてエレベーターのボタンを押そうとしている。
「何階に行くんですか?」
ここは一つ彼女に紳士的なところを見せようと思い、自分は手を差し伸べる。
しかし彼女はそんな自分のことなどなんとも思っていないように、素気無い態度でこう答える。
「地下7階」
またも自分は彼女の言っている意味が解らなくなった。
研究棟は地上3階建てであり地下階は存在しないはず。その証拠にエレベーターの階数ボタンは1から3までしかなく、Bなんてアルファベットは一文字も存在しない。
しかし、彼女は存在しないはずの地下階を目指そうとしている。しかも地下7階を。
一体どうやってと思っていると、五分ほどボタンと格闘を続けていた彼女が自分の方に振り向く。
その顔はどうにも困ったというように、彼女によく似合う、そして自分の心を一瞬でとらえて二度と離してくれそうにない笑顔だった。
「ちょっと手を貸してくれない?毎回のことだけどなかなか手が届かないのよ」
彼女は自分に助けを求めてきた。ならば応じるのが男だろう。
そうして自分は彼女の指示に従ってエレベーターのボタンを操作する。
「まず、閉ボタンを押しっぱなしにして、それから3、1、3、3、2の順に押してちょうだい」
言われた通り操作し終えると、エレベーター内部にヴェーッ!とブザー音が響く。
もしかして壊してしまったのだろうか?
呆気にとられる自分を差し置いて彼女は読み取り機のような装置に学生証を翳す。
読み取り機からピピッという認証音が聞こえ、続いて彼女の指示通りに閉ボタンを二度押して1ボタンを七回押す。
するとどうだろう、エレベーターが動き出したではないか。
しかも体に感じるのは落下の動きである。
液晶パネルの階数表示ディスプレイも見る見るうちに地下7階を映し出す。
5秒ほどしてようやく落下運動が収まり、扉が徐に開くと、その先には様々な実験器具や工具、薬品、資料などが所狭しに置かれた100㎡ほどのフロアが広がっていた。
図書館迷宮と言いこの大学の地下にはいったい幾つの謎が埋蔵されているのだろうか。
驚く自分よりも先にエレベーターから降りていた彼女は、五歩ほど歩んでから手を広げくるりと半回転をしてこちらへ振り向く。
室内にいるというのに未だに身に着けたままの真っ白なレインコートの裾が翻る。それはデザインが白衣の様で部屋の雰囲気に不思議と会っていた。
そして彼女はまるで友達を初めて家に招待し、嬉しさのあまり燥いでいる少女のように弾んだ声で自分に呼びかける。
「ようこそ、私のプライベートラボへ」
嬉しそうな彼女に誘われながら恐る恐るフロアに降り立つ。
彼女と接するときは何らかの罠に気を付けなければならないことは、2年間の付き合いの中で学んだことである。
そしてここは彼女の牙城、女郎蜘蛛の巣、地雷原の如きプライベートラボである。
一瞬でも注意を怠ったら確実に彼女の興味の犠牲となるだろう。
二人連れ立ってガラクタ置き場同然の彼女のプライベートラボを縫いながら、彼女は頭を向けて語ってくる。
「あなたをここに呼んだのは他でもないの」
「お言葉ですが、自分はやるつもりはありません」
彼女はキョトンとする。そして自分を非難する。
「何をやるかも知らないのに断るなんて、科学を専攻する人間の風上にも置けない心構えね」
「確かに何をやるかは知りません。しかし結果は大方解っています」
「あら、どうなるのかしら?」
どうなるのかしら?だと?
自分は彼女の言葉に立ち止まる。彼女も釣られて振り返る。
彼女は知っていてこんなことを聞いてくるのではないだろうか。
今まで散々同じ結末を見てきた自分と彼女である。自分が言いたいことがわからないはずもないだろう。
それを知っていて惚けているのなら、自分の口から言ってやる。
耳の穴をカッ穿って聞け!これが答えだ。
「自分は貴方に酷い目に合わせられるという結末です」
それを聞いた彼女はクスクスと笑う。さもそれが面白いことの様に。
「そうね。今まではそうだったわ。でも今回はそうとも限らないでしょ?」
何を言うか。彼女こそ科学者の風上にも置けない。
科学とは再現性を求める学問だろうに。
誰がやっても同じ条件で同じ手順を踏めば同じ結末を見る。それが科学である。
これに当て嵌めれば、彼女が自分に対して無理やり行うことが自分に同じ結末を見せるということである。それが科学である。
その事を裏付けるように自分の見てきた結末はどれも悲惨なものばかりであった。ゆえに思い出したくもないし話したくもない。
こんな前例が有る訳だから、やはり拒否する覚悟は断固として揺らがない。
「そんなこと言っていつも大変な目に合わされるじゃないですか。信用成りません。だから帰らせてもらいます」
そう捨て台詞を残して自分は踵を返す。
ここで振り向いてはならない。一言でも彼女の後の台詞に反応したら負けである。そうしたらもはや自分に生き残る道はない。
心せよ。逃れる以外に道は無いのだ!
「アルバイト料100万円と私の手料理で手を打たない?」
「打ちます」
即答だった。そしてどこかで聞いたようなやり取りだった。あれは二月ほど前だったか?
しかし、あえて自己保身のために言わせてもらうと、自分は百万円に釣られたわけではない。彼女の手料理に釣られたのだ。
だってそうだろう。若さに満ち溢れる好青年が意中の女性から手料理を御馳走してもらえると言われたらどうする?
食い付かなければそいつのは嘘であると自分は断言したい。
ゆえに自分は己の心の欲するままに彼女の誘いに乗った。
そして今更ながら自分に言い聞かせる。
心せよ。もはや逃れる道は無いのだ!
彼女に導かれるまま付いていくと、だんだんと機械油の臭いが立ち込めてきた。
そして、ラボの一角に街の整備工場の様な、大型のジャッキやレンチにドライバーなどが揃えられた場所に辿り着く。その中央には一台のスーパーカブが停まっていた。
何でこんな所にカブがあるのだろう。どう見ても彼女の趣味ではないだろう。
自分のイメージとして彼女がバイクをいじくるイメージは全くない。
どちらかというと自分の中にある彼女の理想的なイメージは白い自転車で野原を走っているようなイメージである。
そして実際の彼女は、軍用ヘリを駆って、笑顔で花畑に枯葉剤をばら撒くようなイメージがある。
それなのに彼女の研究室には何故か庶民的でありながら、世界で最も普及しているエンジン駆動車が置かれている。
これはいったい?
「どういうことですか?カブなんて」
「あら?カブが有っちゃ悪いのかしら?」
「別に悪くは無いですが…何というか、あなたのイメージに合わないというか…そもそもあなたに機械弄りするイメージが無いんですよ」
「それは偏見よ。私、機械弄りって結構好きよ。私は科学的に興味を惹かれたことならなんだってするわ」
「機械弄りも科学ですか?」
「機械工学も立派な自然科学の一分野よ。現象の仕組みを理解して同じように動かすという意味じゃ他と何にも変わり無いわ」
確かに彼女の説明は的を射ている。
しかし、自分は思い至る。今までに彼女が原付に乗っている様子なんて見たことも無いし聞いたことも無い。
「でも貴女が原付に興味があったなんて初耳ですよ。以前からこういうことされていたのですか?」
「いいえ。まったく初めてだったわ。乗ったこともないし」
帰ってきた答えは自分の予測した通りであった。だからこそ疑問は深まる。
「じゃあ何で、またこんなことをしようと思ったんですか?いつもみたいに気紛れに興味を惹かれたとか」
それもあるけど、と彼女は視線を天井に泳がせる。そしていかにも言いたくなさそうに歯切れの悪い口調で説明してくれる。
「ある処からの依頼なのよね。改造マシンを作ってほしいって。ああ、これ以上の詮索は止めてよね。私とあなたのためにも」
言われるまでも無い。自分は自称〝紳士〟である。嫌がる女性に無理強いをするような卑劣な真似などするはずもない。
そしてそれを聞いてしまうととんでもないことに巻き込まれることになるだろう。
話を元に戻すけど、と言い彼女は話題を切り上げてしまう。
そんなに言いたくない話題だったのだろうか。逆に興味を惹かれてしまうも、今は彼女の話の続きを聞くことに専念する。
「機械に関しては私もズブの素人だったから、春休みに図書館迷宮に籠っている間に専門書の類を読み漁ったのよ。専門知識ならもう誰にも負けないわ」
誇らしげに語る彼女は胸を逸らして背伸びをする。彼女のことだ、彼女の言うことは事実なのだろう。
「そんでもって今までやってきた他の研究の成果も詰め込んで、自分なりにアレンジを加えてみたの」
自分は改めてカブを見てみるが、
「見た目は普通のスーパーカブと変わらないようですけど」
などと言った程度の感想しか湧かなかった。
だが、自分の感想を聞いた彼女はチチチとリズミカルな舌打ちをしながら指を振る。
「わかってないわね。これをスーパーなんて言葉では表現して良いスペックじゃないわよ。強いて言うなれば…そう……!グレート!グレートカブよ」
…スーパーとグレートってどっちがランクとして上なんだろうか?…。しかもカブであることは変わりない。
「このグレートカブはそんじょそこらの原動機付き自転車と訳が違うわよ。グレートの名に恥じないように私が丹精を込めたんだから」
自信気に語る彼女は後部のカウリングを外す。そこにはこのマシンの心臓部であるエンジンが積み込まれていた。
「どう! 素晴らしいエンジンでしょ」
「…いや…よくわからないのですが…」
その瞳を煌めかせる彼女の意見に率直な答えを返すと、彼女の瞳の光は立ち消え、逆に絶望的な視線をこちらへ投げかけてくる。
そして、ヤレヤレといった体で求めてもいないのに説明を始めてくる。そんなに嫌ならしなければいいのに。
「良い?この二四気筒エンジンはオフロード用の四輪駆動車に積まれるような代物よ。だからそのパワーは半端無くて最大で一二〇馬力ぐらいは出せるの」
「それは凄いな。そんなエンジンを積みこんだらそりゃグレートになるでしょう」
自分は当たり障りのない返答をしたつもりであったが、さらに心証を悪くしてしまったようで彼女の視線は悪化の一途をたどる。
「素人さんはよく誤解してるけれど、強力なエンジンをただ積み込めばいいわけじゃないのよ」
と、つい最近まで素人だった彼女が自分を啓蒙する。
「というと?」
無知蒙昧な自分は応える。
「高性能なエンジンほど重量が重くなる上、どうしても大型化してしまうの。そんな代物じゃ原付のような小型車にそもそも積み込むこともできないし、仮に実装できたとしても重さによって逆に走りの妨げになってしまうのよ」
「でもこのグレートカブのエンジンは小さいようですが」
この時、ようやく自分を見つめる彼女の目に光が灯る。どうやら彼女のツボを捕らえたようだ。
「そう!そこなのよ。それをこの研究室で小型軽量化したのがこのグレートエンジンな!大きさはスーパーカブに採用されているものと変わりがないのに、そのパワーは従来の二十四気筒エンジンに比べて約百倍にまで改造したの!シュミレーションではこれ一台で十両編成の電車を楽々引っ張っていくことが可能なのよ!勿論燃費にも配慮してあって、たったガソリン1ℓで河越から四国の桂浜まで走ることができるんだから」
さすがにここまで言われるとバイクに興味のない自分もその凄さの一端を理解することができるだろう。
どうやらこの原動機付き自転車には原動機という言葉を鼻で笑うような化け物じみた心臓が取り付けられているらしい。
オーバースペック甚だしい。
「それだけじゃないのよ」
これだけ語ってもまだ語り足りない彼女はまだ語り続ける。
「このグレートカブには私の特別改造を加えてあってね、スピードメーターの下に着いているタッチパネルのボタンを押すことで7つの秘密システムを作動させることができるの」
自慢げに語る彼女の様子に自分は幾何か気持ちが引いてしまう。
いくらなんでもこれは遊び過ぎだろう。本当にマンガに出てくるようなスーパーマシンじゃないか。しかも7つと言う数字が実に意識している様な気がしてならない。
「いったいどんなシステムなんですか?」
「言ったでしょ、秘密だって」
別に隠す必要もないだろう
「じゃあトットとテスト走行とやらを始めたらどうなんですか?」
「そうね。じゃあこれ」
手渡されたヘルメットに嫌な予感がする。このまま彼女に押し返そうとするが彼女はクスクス笑いながら一向に受け取ろうとしない。
「何しているの?あなたがテストパイロットでしょう」
「いや、今の話からして相当に危険なテストなんじゃないですか?自分みたいな普通免許奴じゃなくて、もっと熟練したプロの人に頼めばいいんじゃないですか?」
「それだったらあなたをここへ呼ぶ必要は無いんじゃない?」
確かにその通りだ。だが、それにしても寝耳に水じゃないだろうか。
「こんな化け物マシンに乗るなんて聞いていません。他にできることは無いんですか」
「無いわ。それにあなたさっき言ったでしょ。協力してくれるって」
そうだった。確かに言った。そして覚悟したはずだった。もう逃げ道はないと。
だがしかし言い訳はしたくないが、あの段階ではやる内容など知らなかったのだ。
今からでも辞めることはできないだろうか?まあ、できないだろうが。
諦めて適当に流し、早々に切り上げることにしよう。そして給料と彼女の手料理に有り付こう。
「わかりました。だったら早速始めましょう。どこで走らせればいいんですか?」
「悪いけどテストは夕方からにしてもらえないかしら」
何だこの意味深な発言は。その真意を確かめるべく自分は彼女を問いただす。
すると帰ってきた答えは自分の予想を遥かに超えていた。
「あなたには今晩の『扇橋チキンレース』に出場してもらいます」
何を言っているんだ、彼女は。『扇橋チキンレース』だと⁉
それではもはやテストではなく実戦ではないか。
『扇橋チキンレース』。
もはや言うまでもないがこれも『街興しの功罪』の一つである。
江戸時代から大正にかけて、新河岸川が川越および河越と江戸そして後の東京とを結ぶ舟運のために使われていたことは川越市民および河越市民ならば周知の事実である。
新河岸川の舟運の起源は江戸時代に起きた川越大火のせいで焼失した仙波東照宮を再建するため、木材を江戸から運び入れる手段として船が用いられたことが始まりである。
仙波東照宮の再建後もこの航路はライフラインとして活用され、河越からは米や農作物を江戸に運び、江戸からは油、砂糖、小間物などを輸送していた。
現在では物資の輸送手段としてはもちろん、観光名所としても人気があり、休日には一万人を超える観光客が押し寄せ、三十便もの遊覧船がこの川を行き交っている。
因みにこれは「街興しの功罪」として復興された河越だけの話であり、現在の川越を流れる新河岸川にはイベントの時にしか船が浮かべられることは無いので悪しからず。
話を戻そう。
この新河岸川には荷物の中継地点として『河岸』と、すなわち船着場が設けられ、多くの積み荷のやり取りがなされている。
それらの河岸は『河越五河岸』と呼ばれそのもっとも上流部に設けられたのが『扇河岸』である。
その扇河岸は河越市立砂中学校の近くにあり、新河岸川と不老川との合流地点に存在している。
二筋の河川が合流する地形が『扇の要』のように見えるため、扇河岸と名付けられ、周辺地域の地名にもなっている。
そしてこの扇河岸のすぐ近くに架かる橋が扇橋である。
この橋にはある特徴がある。
扇橋の近辺ではJR河越線が新河岸川に並走しており、扇橋は新河岸川諸共この線路を越えて掛かっているのである。
すなわち河川橋と陸橋とが合体したような形をしており、非常に大規模かつ長大な橋となっている。
将来的にはこの橋は河越を走る主要道路を繋ぐバイパスの一部として活躍する計画があり、橋から続く道では現在も着々とバイパス建設工事が進められている。
そしてこの橋にはもう一つの顔がある。
それは『扇橋チキンレース』の舞台となっている事である。
年に二度ほど行われるこの扇場チキンレースは、扇橋の形状を活かしたスポーツとして主に市内在住の若年層から人気がある。
扇橋は建設中のバイパス道路部分も含めると全長約400mにものぼり、全体的に長く緩やかなスロープ形状をしている。
また緩やかなカーブはあるものの基本的に直線的なコースであり、車ならば30秒足らずで通過してしまう。
まさに超短距離レースには打って付けのロケーションである。
因みに出場できるマシンはタイヤさえ付いていればOKであり、自動車とバイクはもちろん、自転車や一輪車、果ては人力車ですら出場することができる。因みに戦車は参加できない。足回りがクローラーだから。
扇橋チキンレースのルールは簡単。スタートは浄水施設側の端から、川を越えて橋を渡った先の丁字路までより速く駆け抜け、多くのタイムポイントを得たものが勝つ。
しかしただ駆け抜ければ良いというわけではない。
ゴール地点には何本ものラインが引いてあり、停止する位置によって10から100までのエリアボーナスが加算される。そしてより遠くのライン方が高いポイントを得ることができる。しかしラインオーバーしてしまった場合は失格となってしまう。
こういったところがチキンレースと呼ばれる所以なのだろう。
しかしこのチキンレースに対しては開催を反対する意見も多く挙がっている。
その理由の一つとして、このレースがあまりにも危険を伴うことが挙げられる。
トップスピードで橋を駆け抜け急激に停車するこのレースでは、マシンを制御しきれずにゴールの先にある畑へと突っ込んでしまう事故が何度となく起きている。
その上、暴走したマシンによって沿道を越えて川へと落下するといった事故が続出し、多くの負傷者が毎回のように出ている。
また周囲の騒音も問題である。出場するマシンが挙げる爆音と集まってくるギャラリーの歓声が周辺民家に騒音公害を与えている。
しかも扇橋チキンレースの行われる時間がまずい。毎回夕方から深夜にかけて行われるため騒音に対する苦情はさらに激しいものとなる。
そして、ギャラリーとして集まってくる若者たちが落としていくゴミも苦情の対象となっていく。
そんなこんなで開催取りやめの嘆願書が何度も市役所に出されているが、開催による集客力の高さから取り止めになることは無く続けられてきた。
そしてこの記念すべき第20回大会。それへ自分は急遽参加することになった。不本意ながら。
「あなたのエントリー番号234番です。それではお気をつけて」
午前中降り続いた雨も今は降っていない。
しかし今にも降り出しそうなぐらい空は鼠色をしている。
また、降り続いた雨の影響により、新河岸川の水位は土手の淵ギリギリまで上昇し、今にも溢れんばかりの濁流と化していた。
だがそれがどうしたという事か。本日は河越在住の若者たちが待ちに待った日。『扇橋チキンレース』の開催日である。
もちろん橋は超満員で、橋が今にも折れそうなくらい撓んでしまい、若干川の水面に橋の底が付いてしまっているこれは実に危険である。
自分は受付で受け取ったエントリー番号入りのゼッケンを羽織り、同じく番号入りのステッカーを今日彼女から受け取ったばかりのグレートカブに張り付ける。
「調子はどうかしら?」
振り向くとそこには彼女が立っていた。彼女は自分のことを応援しに来てくれたわけでもちろんなく、テスト走行の成果をその目で確かめに来たのだろう。
「上々です。ですが、こいつの調子は解らないですね。自分もまったく乗っていないものですから」
そう言って自分はカブのサドルをポフッと叩く。
彼女の手により化け物の如き心臓を埋め込まれ、七つの特殊機能を搭載したモンスターマシンがこの殺人レースに於いての相棒である。
思うことは一つ。せめて自分を取り殺さないでくれよ、相棒。
そのとき、騒音が遠くから近づいてきた。
自分たちは騒音のする方向を仰ぐと、砂中の裏側に広がる広大な田園地帯の畦道を何者かが猛烈な土煙を上げながらやってくる。
それは初め点の様にしか見えなかったが、十秒も経たない内に自分たちの目の前にやってきた。
自分が見た光景を一言で言うと、熊がバイクに跨ってやってきたようだった。
太い四肢、デカい顔、高い背丈、ごつい肩幅。どれをとっても熊の様であった。
自分は敬意と怖れを込め、この男のことを『首領』と呼ぶことにした。
乗っているのはハーレーダビットソン。アメリカの巨漢どもが乗り回すような代物である。これにははっきり言って驚かされた。
見た目にも迫力があり、まるでサラブレッドのような力強さを感じる。日本人離れした彼に実によく似合っている。
そんな首領はハーレーを停めるとノッシノッシとこちら側へやってくる。そして自分たちの前へと立つと、野獣の咆哮のように野太い声を掛けられる。
「退きな、坊主ども。ここは子供が遊びで来るところじゃない」
聞いただけで縮み上がってしまうような声が、髭面に向う傷のある威圧的な顔をした巨漢から響いてくる。
以前にも増して今すぐにでもここから逃げ出したい気分になる。
そんな自分のことを無視して首領は受付へと過ぎ去っていく。
「すごいわね、あの人。なんというかオーラがすごいというか」
さすがの彼女も首領に畏怖の念を抱いたようだ。
その後ろに控える先輩と後輩の小物コンビは言うまでも無い。
「いったい何なんです?あの人」
「あら?そんなことも知らないでこのレースに参加するの?」
「―――元々参加するつもりなんて無かったですからね」
そんな様子に彼女はヤレヤレと肩をすくめる。
「彼はこの扇橋チキンレースのディフェンディングチャンピオンよ。しかも十回も連続で王座を防衛しているわ」
なるほど。それであの貫禄か。納得がいく。
そうこうしている内にレース開始の時刻となる。
第一回戦はスピードレースである。ゴールまでのタイムと停車位置による加算ポイントにより上位10名が決勝ステージへと進むことができる。
レースは二人一組で二車線を使って行われる。
そして、自分の番。自分の隣には、
「おう、暇なのか?こんな所にまで出張ってくるなんて」
梅雨の空気よりも湿っぽく辛気臭い声が常套句とともに聞こえてくる。
「―――何で貴方もこれに参加するんですか?……先輩」
見つめる先にはやはり先輩がいた。
しかし出で立ちがいつもと違う。この蒸し暑い時期に全身を包む真っ赤なライダースーツを身にまとい、その上に黒い革ジャンを羽織っている。
両手には黒い皮手袋。ヘルメットはウッドブラウンの頭だけ被るタイプ。その上には飛行機操縦士がするようなごついゴーグルを着けている。
バイク乗りのイメージを曲解したらこうなるのだろうという出で立ちだ。
しかもボールの様に丸い先輩の体型では滑稽以外の何者でもない。
「まったく、なんて格好しているんですか、先輩」
「何言ってるんだ。ライダーはこんな恰好だろう」
「違うと思います。それにそんな、格好ばかり付けたってしょうがないじゃないですか」
「『人はその制服どおりの人間になる』。かのナポレオンの言葉だよ」
確かにその服装どおり先輩は滑稽な人間であることは間違いない。かのナポレオンもこんなことでその言葉を裏付けられては立つ瀬がないだろう。
しかし先輩が連れているマシンはすごい。
ワインレッドのハーレーダビットソン。首領が駆るのとほぼ同型のマシンであり、やは底知れない力強さを感じる。
矮小な先輩が並んで立つとその力強さがさらに際立ってくる。もはやどっちが主人なのかもわからなくなる。
先輩はハーレーに跨っているが、まったくその短足は地面に着いておらず、弥次郎兵衛の様にフラフラと左右に揺れて不安定である。
そのとき沸き立つ歓声の中、彼女の声が自分の耳に届く。
「いよいよ本番ね。グレートカブのスペックを出し切れば必ず優勝できるはずよ」
ピットの方を向けば彼女はモミジのような両手でガッツポーズを見せる。
「応援ありがとうございます。ですがそろそろ七つの秘密装備について説明してもらえないでしょうか。もうすぐ始まってしまうのですが」
彼女は答える代りに自身の耳を指で二回ほど突く。
彼女のジェスチャーを見て自分も手で耳を触れる。するとそこには小さな機械が取り付けられていた。
「それは小型通信機よ」
彼女の言う小型通信にから彼女の声が聞こえてくる。再び彼女方を見ると、彼女の耳にも通信機が取り付けられている。
「あなたが付けている通信機と私が着けている通信機とはリンクしているの。それによっ私瞬時にあなたの状況を把握して指示を出すことができるわけ。それにマイクロカメラも装備されているから、こちらのディスプレイであなたの視線と同じものも見えるようにしてあるの」
だから、と彼女は言う。
「今秘密機能について知らなくても必要な時にすぐに指示が出せるから問題ないわけ。安心して行ってきてちょうだい」
あまりに無責任な返答だったためマイクに向かって文句を言おうとした瞬間、目の前のシグナルが赤に灯る。ついにレース開始の、スタートの合図が灯ったのである。
「さあ、さっさとレースに集中して。私たちがサポートしてあげるんだから、何にも心配いらないわ」
そのサポート自体が信用ならない。
そして黄色信号が灯る。先輩のハーレーが唸り声を上げる。
自分も仕方なくエンジンを吹かす。
青に変わるまでの一秒間。二つのエンジンはけたたましく鳴り響いた。
そして青。自分と先輩はスタートダッシュを切る。はずだった。
自分はここへきてミスを犯してしまう。
エンジンをガンガンに吹かしたまま、いきなりローギアに入れたものだから、カブは鎖を解き放った狂犬の様に急発進する。
結果カブは数メートルほどウィーリー走行で暴走してしまい、観客が大勢立ち並ぶ沿道へと突っ込んでしまった。
観客が悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすようにワラワラと非難していく中、急いで体勢を立て直すと、既に先輩は坂を越えようとしていた。
見る限りだいぶ離されてしまっている。これはもはや諦めるべきか。
「諦めるのはまだ早いわ」
通信機から響く彼女の声はどことなくこの惨事を楽しんでいるように弾んでいた。
「何を楽しんでいるんですか!こっちは早速酷い目に合わされているんですよ!」
「今のは完全に貴方の操縦ミスよ。私は悪くないわ」
「うるさいです!そもそもカブのクセに馬力がオカシイんですよ!こんな化け物なんて普通自動車免許しか持ってない自分に扱えるはずが無いんですよ!見なよ!この惨状!死傷者が出なかったのが不思議なくらいじゃないですか!」
「もしそうなったら私は声をあげて笑っているわ」
「鬼ですか!悪魔ですか!どっちにしても人でなしです!」
「…ひどい…何でそんなひどいこと言うのよ…」
通信機越しに彼女の鼻声とすすり泣きが聞こえてくる。
予想外の事態に自分は取り乱してしまう。さすがに言い過ぎたか。
失念していたが彼女も人だ。ましてや女の子だ。
心に傷付き易い場所もあるだろう。
あたふたする自分が仰ぎ見る大型スクリーンには、自分とは対照的にスムーズに走る先輩が映し出されていた。
先輩は自分と彼女のことなどお構いなしに、そもそも知りもしないから、下り坂へと差し掛かり、ぐんぐんとスピードを上げながら下っていく。
「お願いですから機嫌を直してください。先輩はもうあんな所まで行ってしまっているん
はそれでも自分に助言してくる。」
スンスンと鼻をすする彼女はそれでも自分に助言してくれる。
「だから諦めには早いって言っているでしょ」
立ち直りの早い彼女は未だに自分がレースを降りることを許してくれそうにない。
「良いからもう一度乗り込んで。そして操作パネルにある白いボタンを押してみて頂戴」
ヤレヤレと思いながら自分は再びカブに跨る。そして彼女の気が済めばという気持ちで言われた通り白いボタンをポチリと押す。
次の瞬間のことはあまりの出来事だったため記憶が曖昧になっている。
覚えている事のみ話すと、自分は坂を越え、空に飛び出していた。
眼下には雄大に流れる新河岸川とその上に架かる扇橋、そしてその上で自分のことを見上げる観客と身もくれずただただゴールへと疾走する先輩が一目に捕らえられた。
そのくらい自分は高々と宙へ飛び出していた。
「まずまずの加速だったわね。秘密装備の一つ『グレートターボエンジン』の出力は計算概ね及第点と言ったところかしら」
通信機越しの彼女の声は、テスト走行が上手くいっていることに満足し、声が弾んでいるようである。
説明しよう。彼女たちの言うグレートターボエンジンとは先ほどの有り得ないくらいの疾走が示した通り、瞬時に時速270㎞まで加速させることのできる夢のスターターシステムである。
普段はグレートカブの後部にマフラーに偽装されて取り付けられており、コンソールに取り付けられた白いボタンを押すと瞬時に展開し、内蔵していた圧縮空気とガソリンとを一気に燃焼・爆発させることで驚異的な加速力を生み出す。
その加速は浄水場側のキツイ上り坂を一気に駆け上がり、あまつさえそのまま宙へと駆け上るほどであることはすでに実証済みである。
だが、三点ほど取り扱いに注意されたし。
一点目はあまりの加速によりカブに文字通りしがみ付く様にしていないと慣性の法則で自身がその場に置き去りにされる、もしくは頭だけ遅れてやってくることでむち打ち症になる恐れもある。
二点目は連用が不可能であるということである。この加速には圧縮空気とガソリンとをマフラー内に充填する必要があり、それには一定の時間が掛かる。充填状況は逐一備え付けられたディスプレイに表示されており、自分の感覚では凡そ7秒間の時間が必要だと思われる。
そして最後の一点は、今回の自分の様に坂を駆け上ってそのまま宙へと飛び出してしまった場合、その後の対処法を考えていなければ地面に激突することは免れない。
そして、そろそろこっちは失速して落ちようとしているのだ。
絶叫の尾を引きながら自分とカブは扇橋に向かって放物線を描きながら落ちていく。
このままだと確実に橋と激突してしまうだろう。そうなれば先ほどのウィーリー事件の比ではないほど自分は酷い目に合うことは請け合いである。
助けを求めて絶叫する自分の声が届いたのは神でも仏でも何でもなく、通信機を付けた彼女であった。
「今度は水色のボタンを押しなさい!早く!」
とっさに自分は彼女の指示に従うことにした。溺れる者は藁をも掴む。頼れるものならなんだって試してみてやる。
すぐさま彼女が言ったとおりにしたところ、すると一瞬のうちにタイヤは横倒しになり、カブの胴体から水平に伸びる翼が飛び出す。
そして翼が揚力を生み出すと、自分の描いていた放物線は上昇方向へのカーブへとその流れを変えた。
「それは『ウィンドライダー』というシステムよ。説明するまでも無く空を飛ぶことができるようになるの。まあ、スーパーマシンには標準装備されるべき機能かしらね」
実際には落ちるのが緩やかになっただけだが、カブの翼は風を撫でるように空を行く。
この日、自分は初めて空を飛んだ。
空を数秒間翔け抜け、自分は鳥の様に着陸する。実に芸術的だ。そしてそのままスピードに乗り走り出す。
隣には先輩が走っている。先輩も自分が空を飛んできたことに驚いているようだ。
そしてゴールまで残り100m。自分と先輩はラストスパートをかけた。
あっという間に50mを駆け抜け残り半分。自分たちはいよいよゴールエリアへと差し掛かった。維持のぶつかり合いである。どちらも速度を落とそうとしない。
そしてここからレースの駆け引きが激化する。
タイムポイントを取るか、それともエリアボーナスを取るか。エンドラインぎりぎりで停車するまでスピードを緩めず走り続け、どこでブレーキを掛けるかを並走者の様子を見ながら行う。
レーサーはこのゴールエリアを通り過ぎる3秒足らずの間ですべての判断をしなければならない。
しかしこのとき既に自分は判断を終えていた。というより委ねていた。
自分は滑空している間に彼女から指示を受けていた。
停まるときは赤いボタンを押せ。それが彼女の指示であった。
前に押した二つのボタンの効果はレースに於いて絶大な威力を発揮したが、どれもこれも搭乗者の度肝を抜き、大きな負担をかける両刃の剣である。
なるべく多用することは避けたいが、もうすでにゴールエリア内に自分は居る。
迷っている暇はないと自分は力強くタッチパネルに映し出された赤いボタンを押す。
すると再びマフラーが展開する。しかし今回は後方にではなく前方に向かって展開した。
展開したマフラーから十秒ほど前に有りえないほどの超加速を生み出した推進力が逆噴射されると同時に、サドルの後ろ、ちょうどバックライトの取り付けられているところから何かが勢いよく飛び出し、風を取り込みまるで花の様に盛大に広がった。
それはご存じの通りパラシュートであった。
バックファイアとパラシュートによって作り出された強力な逆方向のベクトルが急激に前進するエネルギーを相殺する。
そして一秒足らずで自分の跨るカブは完全に停止した。
自分は急激なスピード変化により猛烈な目眩と吐き気に襲われる中、足元を確認するとなんとエンドラインぎりぎり、1000ポイントのところでカブは停車していた。
この快挙に開発に関わった彼女は人一倍気が昂ぶっているようだった。
「やったわ!『サドンエンドシステム』大成功よ。思っていたよりも操縦者への反動が少なくってよかったわ。計算では殺しきれなかった慣性によって血液とか内臓とかが飛び出すはずだったものね」
不吉な予想をさも当然のように語る彼女に抗議しようとしたその瞬間、コースのさらに先で何かがぶつかる様な爆音が聞こえた。
仰ぎ見ると案の定、自分と並走していたはずの先輩が大きくラインアウトをし、向かい側にある畑の方へと突っ込んで行ってしまっていた。
ディスプレイでレースの様子を見ていた彼女から聞いた話では、この時の先輩はグレートカブの急停車システムに圧倒されていたようで、思わずこちらを余所見してしまい、自分と張り合って出し過ぎたスピードを停めることに遅れてしまった結果、このような事故につながったようだと彼女は分析してくれた。
すぐさま救護スタッフによって運び出された先輩とハーレーは、どちらともポンコツの様であった。
そうこうしている内に予選はすべて終了し、自分は次の二回戦、三回戦へと順調にコマを進めた。
その後も自分は着々と勝ち進め、何の間違いか終に自分は決勝戦までコマを進めたのである。
そして決勝の相手はやはりと言うべきか、ディフェンディングチャンピオンの首領であった。
決勝戦の直前からついに雨が降り出した。
降りしきる雨は次第にその雨足を強めて行き、自分と首領とがスタートラインに立つころにはまるでスコールの様に水煙が立つほどの強さになった。
新河岸川もさらに水嵩が増し、既に橋の上にまで一センチほどの水が被っていた。
その様子まるで怪獣の様に唸りを挙げ、土手を削りながら流れ下っていく。
江戸の昔より度重なる氾濫を繰り返してきたこの川のまたあるべき姿の一つと言えよう。
そんな川から周囲1キロほどは強制避難命令が発令されても可笑しくない様な状況にも拘らず、一向にギャラリーは減る様子もない。
いや、むしろその逆、その数は次第に増えているようだった。
そしてギャラリーの生み出す熱狂の渦の中心には自分と首領の二人しかいない。
自分は左コースを走る首領の様子を流し見た。
年季の入ったハーレーに跨った彼は、相変わらず蟹の甲羅のようなゴツい表情でまだ見ぬゴールを睨み付けている。
しかし彼は自分の視線に気が付いたのかこちらを向いてくるなり話しかけてくる。
「まさかお前が勝ち進んでくるとはな。小僧」
あまりに意外な出来事だったため、自分はどう答えるべきか戸惑っていると、彼はさらに語り続ける。
「しかしお前の走りは無粋だ。マシンの性能に助けられてばかりでお前自身が戦っていない。そんな走りでは負けていった者たちも浮かばれないだろうよ」
そう語る首領の表情は幾分ガッカリしたような雰囲気であった。
首領の言うことも尤もである。
はっきり言ってここまで自分が勝ち残れたのは偏にスーパーモンスターマシンであるグレートカブの功績が大きいとしか言いようがない。
このマシンにとって自分などはおまけに等しい。実にアンフェアである。
こんな自分では、首領の言うように対戦相手にも失礼だろうし、恨みを買いかねないだろう。
対して自分が首領の走りに対して思うことは実にフェアだという感想である。
自分がグレートカブの卓越し過ぎた性能によって勝ち進んできたのとは正反対に、彼は自分の持てる力によって決勝までコマを進めてきた。
自分の力量を完全に理解し、相手の実力を一部の狂いも無く推し量る。そして愛車の性能とコンディションを誰よりも読み取り、すべてを自身の中でプランとしてまとめ上げ、寸分違わずハーレーを乗りこなすことで誰にも負けない走りを実現する。
技術と経験と精神に裏打ちされた走り。
そんな実にスマートな走りによって首領は勝ち進んできたのである。
まさに王者の走り。自分も思わず憧憬の念を抱いてしまうほどである。
そんな彼だからこそ正々堂々と実力をぶつけ合うことができないことに落胆しているのであろう。
まったくもって申し訳ない。しかし自分は降りることができない。
このカブに搭載されている秘密機能には『セミオートコントロール』というシステムがある。
これは目的地までのルートを入力すれば後は自動的にルートを選択し、最も効率的に安定したスピードを出しながら短時間にやって来てくれるというすぐれた能力である。
入力は簡単。手持ちの端末に入力してあるカーナビシステムとリンクさせるだけの新設設計で、子供でもお年寄りでも楽々使いこなせる。
しかしこの機能が今は自分を縛る鎖となっている。
自分がわざとレースに負けようとしても、このシステムによって横道に逸れることも不自然にスピードを遅くすることも出来なくなってしまったのである。
乗っていても操縦できないなんて、カブのお飾りここに極まれり。
勝者は常にカブである。まったくもって情けない。
黙っている自分を見て首領も呆れてしまったのか、それとも怒りのあまり言葉を失ってしまったのか、話はここで途切れてしまった。
そして聞こえるのは降りしきる雨音だけになる。見据える先には赤いスタートシグナルが点灯していた。
決戦の火蓋が切って落とされようとしている最中、もはや言葉はいらない。只々その時を待つだけである。
黄色いスタートシグナルが灯ると雨音をかき消すほどの爆音を上げ、カブとハーレーは競うようにエンジンを唸らせる。
そして青。雨が弾丸のごとく突き刺さるほどの勢いで自分と首領は飛び出した。
スタートダッシュで自分はターボを使用しなかった。
ターボはその絶大な加速力で一気に相手を突き放すことができるが、その後のチャージに時間が掛かるため、これを最後まで温存しておくのか自分の作戦である。
しかし、やはりスタートダッシュで技量に勝る首領に空けられた距離は大きく、坂の上に到達することには約50m離れている。
このまま一気に突き放してやろうとスロットルを叩くと、自分はいきなり襲いかかってきた水しぶきに面食らってしまう。
嵩を増し、橋の上にまで達した泥水が自分の顔面に掛かり視界が奪われる。
そのとき既に橋の上は濁流の一部と化していた。行く手を泥水と運ばれてきた流木や瓦礫が埋め尽くし
こんな状況にも拘らず、橋の上にはギャラリーが犇めいている。
だが、これではまともに進むことなどできるはずもない。
しかし、そんな自分を嘲笑うように首領が激流に挑んでいく。その走りはやはり無駄が無く、難なく進んでいるように見えた。
このままでは自分が負けることは必至である。そう思った時にやはり彼女の助言が聞こえてきた。
「お困りの様ね」
「ああ、どうしたら良いんですか? 空を飛ぶにも加速する距離も暇もありません。ですが何か他に打開策はあるんですよね?」
「もちろん。抜かりはないは。今度は緑色のボタンを押してみて」
彼女の指示通り緑色のボタンを弾く。すると今度はタイヤに変化が生じた。
タイヤからミョインミョインという妙な機械音が聞こえてきたと思うと、タイヤが地面に吸い付くような手ごたえをハンドルから感じた。
「それはね、『3Dドライブシステム』と言ってね、タイヤのチューブ中に強力な電磁石を内蔵してあるの。その電磁石の力によって鉄を使った構造物なら垂直な壁だろうと天井だろうと普通の道路と同じように走ることができるわ」
彼女はすごいシステムを開発していたようだ。どんな所でも道に変える。まさに究極のオフロードではないか。
「物は試しよ。橋の欄干を走って見なさい。そこには川の流れが届いてないからスムーズに進めるはずよ」
聞き終わるまでも無く、自分は欄干を目指して走り出した。そしてそのまま欄干に張り付くと、横倒しの状態で走り続ける。
自分の右耳は今にも川の水に触れてしまいそうな、そんな体勢で走った。
しかし横倒しの体勢は確かに危ないものの、これで難なく走れるようになったことは事実である。
前方を走る首領はもうあと十メートルで橋を渡りきろうとしている。しかしその差は着々と縮まっていった。
―――そんなときである。盛大な破砕音が夜の扇橋に響いたのは
上流から流れてきた鉄砲水や度重なる共振現象により遂に扇橋は耐えきれず崩壊してしまったのだ。
崩壊する扇橋の瓦礫や流木たちが自分を襲う。絶体絶命とはこのことだ。
―――南無三!
その瞬間に自分が思ったことは走馬灯でも断末魔の台詞でもなくそんな言葉だった。
激流に呑みこまれた自分は上下の間隔を一瞬にして失った。なんとか水上に上がろうとするものの、服の一部がカブに引っ掛かってしまっているらしく思うように身動きが取れない。
そうしてようやく走馬灯が見え始めたころ彼女の声が耳に届いた。
「生きているかしら?ネエ、ちょっと」
「がぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼ!」
「まともに話せなくても声は聞こえているようね。ところでグレートカブは近くにあるかしら?」
彼女が危惧するまでも無く自分はグレートカブから離れずにいた。なぜならさっきも言ったように服の一部が引っかかってしまい、そのままカブに引かれて水底へと沈んでいる最中だからである。
「ごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ!」
「何言っているかはさっぱり解らないけれども、もしカブが使える状態ならばオレンジのボタンを押しなさい」
溺れる者は藁をも掴む。もはや最後の命綱となったカブを自分は彼女に言われるままに操作した。
そのときの一瞬に、何事かが起こった。
カブの全面から全体を包み込むように透明なエアバックが展開したのである。そしてドーム状に膨れ上がったエアバックは水を弾き、流木を弾き、瓦礫を弾く。
彼女の説明によるとこのシステムは『エアバックフィールド』と言い、強化塩化ポリビニール製のエアバックで全体を包むことであらゆる物理的な攻撃を防ぐことができるらしい。しかも内部空間はあらゆる環境から隔絶され、安定した状態を保つことができる。
何と安全な空間なのだろう。
そのままエアバックに浮力によって自分は水上まで生還することができた。
しかし再び新河岸川に投げ出された自分はものすごい勢いで流されていく。
一体どうすれば。その答えは彼女が持っていた。
「次は青いボタンを押してみて」
彼女に言われるまま青いボタンを押すと一瞬のうちにカブは水上バイクのような形態に変形した。
「それは『ストリームライダー』というシステムよ。水上を最高時速180キロのスピードで走ることができるの。また、エアバックと併用すれば四十五分間の潜水走行も可能よ」
そして水上に辿り着くとまるで疾風のごとくカブは激流を逆走していく。
助かったと思う反面、現状を見るとだいぶ下流まで流されているのに気が付く。いくら猛スピードで橋へと駆け戻っているとはいえ、相当なロスをしてしまったようである。
雨の戸張の向こうでは、あの惨事を掻い潜った首領が既に橋を渡りきろうとしているのが微かに見える。
その時ふと周りを見るとどうやら川に投げ出されたのは自分だけではなかったようだ。
多くの人たちが家族の名を叫び、運命を呪い、暗闇に恐怖する。
その叫びに交じって通信機から前言通り彼女の爆笑が聞こえてくる。彼女はヘルメット蔵されたカメラからの映像に歓喜しているのだろう。
ここは地獄か!悪夢なのか!
しかし自分も自分の事だけで精いっぱいである。とても他人を助けるような余裕なんて無い。
所詮凡人がスーパーマシンに乗ったところでヒーローになど成れるはずがないのだ。
せめて自分を恨むことなく成仏してくれ。新河岸川もいずれは三途の川と繋がっているだろう。そう祈って瞼をキツく閉じるしかなかった。
一気に遅れを取り戻すために自分は再度白いボタンを叩く。ターボによって生み出された強引な推進力が、カブと自分とを水切りの石の様に跳ねさせる。
そして自分はようやくコースへと戻ってくることができた。
もはやギャラリーも一掃されていなくなってしまったものの自分たちのレースは終わっていない。
しかしやはり首領は前を走っている。やはり奴は化け物か。
そして自分は勝利のために再び走りだす。なぜなら勝負は終わっていないのだから。
走り出したもののコースの残りは短い。既に残り20mしか残されていない。この距離で逆転するのは普通は無理である。
だが自分には出来る。このカブがあるのだから。
先ほど使用してから5秒ほど経っている。チャージ状況を表すゲージも八割ほど溜まっている。
あと二秒。この時自分はできる限り首領との距離を詰めておき、尚且つ慣性力を和らげるためにアクセルを全開にする。
あと一秒。この時自分は白いボタンに手をかけて、直ぐにでもターボが使えるように身構える。
そして0秒。
思いを込めて白いボタンを押すといつも通りターボが発動する。そしていつも通り猛烈な反動やられて自分から色々と吹き出す。さすがに今日三回目のターボは堪える。
意識が朦朧とする中、一瞬のうちに首領を追い越す。そして自分とカブはゴールエリアへと差し掛かっていた。
カブは10と書かれたエリアと通過した。
ここまで来たら後は赤いボタンを押し緊急停止するだけである。
50と書かれたエリアも通過した。
霞む視界を振り払い目を凝らしてエリアポイントを見極める。
100のエリアも通過して、200のエリアに踏込む。
狙うは1000点。後はボタンを押すタイミングを間違わなければ確実に仕留めることができる。
500のエリアは既に背後。
おそらく発生する慣性に自分の体は耐えることができないだろう。しかし勝利は目の前にあるのだから掴まなければ男ではない。
そして750のエリアで自分は力強く赤いボタンを押す。
するとカブの後背部が開きパラシュートが広がる。そしてマフラーが前面に展開してターボがバックファイアを噴くはずだった。
しかしターボから噴き出してきたのは今までのように力強く盛大な推進力ではなく、何とも間の抜けたプシューという音だった。
意味が解らず目を白黒させていると通信機から彼女の声が聞こえてくる。その声は笑い疲れて幾分シャガレて聞こえた。
「ダメじゃない、ゴール手前で『グレートターボ』なんて使っちゃ。『サドンストップ』のバックファイアも同じエネルギーを使っているんだからチャージしないとパラシュートしか使えないわよ。……?ねえ?聞いてる?もしもし?」
その時既に自分は彼女の言葉は耳に入っていなかった。
スピードを殺しきれなかった自分とカブは、そのままゴールエリアを大きく通過してしまい向かい側の畑へと突っ込んでしまったのである。
最後に見たのは鈍色の雨空とぬかるんだ土の色、車輪が空転し、白煙を濛々と上げるカブの車体。
そして自分は意識を失った。
自分は埼玉医大総合医療センターで目を覚ました。
どれほどの時間を寝て過ごしていたのかは分からないが長い時間寝ていた実感はある。
眠り過ぎて頭が冴えない自分が目を横に向けると見知った顔が見える。
冴えない頭でも挨拶をするべきだとは頭が回った自分は声を掛ける。
「ねぇ、こんな所で何してんの?」
その言葉を聞いた彼女が喜ぶでもなく、驚くでもなく、自分の方を向いてその柔らかそうな頬を膨らませる。
「前も言ったでしょ!私の常套句を言わないで! まったく、ホントにこんな所で何しているのよ…」
そんな可愛らしい仕草をする彼女が数日前にあの惨事に歓喜し爆笑していた彼女と同一人物だとは到底思えない。
そして、どうして彼女が自分の隣に座っているのかも理解できない。
その後自分は彼女からレースの後の出来事について聞かされた。
レースの結果はゴールエリアから大きく逸脱してしまった自分は失格となり、首領が優勝したようである。
自分はあの後救急車でこの埼玉医大総合医療センターに運ばれた後、実に二日間昏睡状態にあったらしい。
その間中彼女は甲斐甲斐しく看病していたというのだが、事実かどうかは知れない。むしろ彼女の実験の道具にされていたのではないかと気掛かりである。後で自身の体に不自然な傷が無いか調べてみることにしよう。
また、あの鉄砲水の中に投げ出された観客たちだが、大会スタッフや地元の消防団の迅速な救護活動により、無事全員救出されたようである。
とは言え,多くの観客が荒れ狂う新河岸川に投げ出され、多くの参加者が負傷し、扇橋が崩壊してしまうという大惨事となったこの扇橋チキンレースは、今大回以降は無期限の延期となることが決まったようである。
「むしろ今まで止めなかったのが不思議なくらいですね」
「それほどこの大会を希望する声が多かったんでしょうね。でも今回の件でそんな人たちも懲りたって話じゃないかしら」
そう言って彼女はカットしたリンゴを薦めてくる。リンゴは器用にウサギの形に飾り切りにされており実に可愛らしく仕上がっている。フォークがちょうどウサギの目にあたる部分に突き刺さっていることを除けば。
「いいですって。自分で食べられますよ」
どうにもこうにも小恥ずかしくなってしまい顔を背ける自分であるが、彼女はなおも執拗に詰め寄ってくる。
「そんなこと言って自分の状態が分かっているの?あなたは今両手ともギプスで固定されてて一人では食事もできないのよ。だから食べさせてあげるんじゃない。ほら、アーンして、アーン」
どうにもこうにも逃れることはできないと観念した自分は渋々リンゴを齧った。甘く香り立つジュースが口に広がるいたって普通のリンゴだ。
「切っただけで他に何も手を加えてなんかいないわよ。お望みならするけども。糠漬けとかおでんとか」
「いいえ、料理はシンプルが一番です」
その後も彼女がフォークで刺したリンゴを自分は食べることを繰り返し、丸々一個分食べきった後に彼女は優しく微笑む。
「やっぱり二日間も寝ていたらお腹が空くわよね。あなた、タダのリンゴを本当に美味しそうに食べているんですもの。なんか美味しそうに食べる様子って、見ていてこっちまで幸せになるわよね」
両肘をベットについて両掌の上に頭を乗せ若干の流し目および上目使いでこちらを見てくる彼女。これを狙うでもなく、気取るでものなく、意識せずに自然にサラリとやってしまうのだから彼女は侮れない。
思わずベットの横に設置されている心電図が速くなってしまう。
話変わるけど、と言って彼女は椅子からチョコンと飛び降りる。
「おかげさまでグレートカブのテストは上手くいったわ。搭載されていた機能も充分に役に立ったようだし。まあ、最後に貴方ごと畑に突っ込んじゃって少し壊れてしまったけれども、何とか期日までには納品できたしね。本当にありがとう」
改めて彼女の口から感謝の言葉を言われるとどうにも調子狂ってしまう。
まるであの辛いテスト走行が良かった出来事のように感じてしまうのだから恋は盲目だ。だがしかし二度はご免だ。
「ところで報酬なんだけども」
そう、ここからが本題である。彼女との約束は礼金としての百万円と彼女の手料理がご馳走に慣れること。それが今回の報酬である。
それを期待して自分はあのレースに参加したのだ。忘れるはずもない。
「もう両方ともやり終えたから」
何を言っているんだ。それがそのとき自分の心に浮かんだ唯一の言葉であった。
彼女の説明によるとこの百万円は大会の優勝賞金とカブの納品代から支払われる予定であったようだが、自分は優勝することができず、また納品代も開発費と相殺されてしまい、実質手元に残ったのは自分の入院費用分しかなかったようである。
「ですがもう一つの方はどうなんですか。貴女の手料理が食べられるというのは」
「あら?もう食べたじゃないの」
―――なんとなくだが彼女の言いたい内容は理解できる。そして自分は空っぽになった白いお皿を眺める。
「もしかして…このリンゴが手料理ですか?」
「そうよ。何でそんなこと聞くのかしら?」
「―――いや…でも、これはあんまり…」
「料理はシンプルなのが一番なんでしょ」
「それとこれとは話が違います!」
「もう…自分の言った言葉には責任を持ちなさいよ。そうじゃないと女々しいわ」
なおも食い下がろうとする自分を放っておいて、彼女は梅雨のジメジメとした空気のせいで忘れかけていた初春の風の様に爽やかに病室を後にする。
残された自分は意気消沈してしまい、その後一週間に渡り再び昏睡状態に陥った。
そしてようやく退院できたのは六月ももう残り三日となってからの事であった。
しかしその際に研究室で設けられた退院パーティーで念願の彼女の手料理を食すことができたのは嬉しい誤算であった。
味はどうだったかって? もちろん旨いに決まっているじゃないか。
今の自分には川越はまだ遠いようである。




