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誰がために時の鐘は鳴る  作者: 楠木 陽仁
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居酒屋難民篇

既にお気付きだと思うが自分の語る話には固有名詞は出て来ない。自分は先輩のことを先輩、また彼女のことを彼女と三人称で呼んでいる。

それは何故か?

それは自分には人の名前を致命的なまでに覚えられないという欠点があるためである。

この欠点は友人・知人のみならず家族・親戚までに及ぶ。極めつけは自分自身の名前すら思い出せない時がある。

そのため役所で住民票を取るにしても、自分の名前を書き込むだけで一時間以上かかり、記帳台には長蛇の列ができる。

また、新学期の自己紹介では全く自分の名前を語ることなく趣味や誕生日、好きなものなどを延々と語ることで時間を消費して何とかごまかす。

そして一番困るのが学校のテストのときである。自慢ではないが基本的に自分はほとんどの教科で90点以上を取れる実力はあるが、テストで名前を書くことができないために0点を取ることも多い。

そのため、赤点を取り今までに何度も補修を受けてきたか分からない。しかし、社会科だけは人名を覚えることができないために元から点数が低いため自分は補修の常連になっている。

では、自分と相手の名前をメモしておけば良いではないかと言う人もいるだろうが、そんなことはもうとっくの昔に試している。

古い手帳にはその名残がある。確かに名前が書かれている。

しかし、数えただけでも五十を超える人名が書かれており、しかもただ書き込まれただけなので、今ではそのどれもが誰の名前なのかもわからない。

そのため今もこうして自分のことを自分と呼び、他人のことを主に三人称で呼んでいるのである。

以上のように自分はただでさえ今の自分に関わり合いのある人物の名前すら覚えていない。ゆえに新しい出会いには全く対応できない。

それなのに、自分が望んでもいないのに出会いは訪れる。

自分の所属する研究室にも新しい生徒が一人入ってきたのである。自分は彼の名前も例によって覚えられないので、とりあえず『後輩』と呼ぶことにした。

出会って一か月ほどしか経っていないこの後輩のことについてまだ知らないことが多いが、今の自分の主観で後輩について語ろう。

後輩は身長が自分よりも頭半分ほど低く、茶髪だがその面相は糸目で出歯(でっぱ)。さながら伝説のギャグ漫画に出てくる「シェー」が決め台詞のキャラのようである。もちろんそのキャラの名前は思い出せないが。

そんな訳でこの後輩、見るからに小男で揉み手が非常に良く似合いそうな男である。

その実、彼は根っからの子分肌である。生まれながらの太鼓持ちである。その体躯でコロコロと動き回るさまは実にコミカルであり、語る言葉は講談師のように調子がいい。

そんな彼に自分はどういう訳だか好かれてしまい、彼は自分のことを『(あに)サン』と呼んで慕ってくる。小恥ずかしいから止めてほしい。まあ、悪い気はしないのだが。

そんな後輩が入ることになった『火山・岩石学研究室』は彼が入ってくる以前まで自分と先輩と彼女しか在籍していなかった。

理由は後で語るがウチの研究室には3年の学生が在籍しておらず、この度入ってきた一年ぶりの後輩の歓迎ぶりは目に余るものがあった。

そうして5月の第2水曜日、ゴールデンウィーク明けの最初の研究会がある日。毎年恒例の新人歓迎会が開かれることとなり、その幹事をどういう訳か自分がやることになった。

運命とは皮肉なものである。

自分が知る限りで一番酒盛りという行為を嫌っている人物である自分が、自分が知る中で五本の指に入るほど酒癖の悪い人物である先輩と彼女と先生のために酒の席を用意しないといけないなんて。

つくづく思う。神様は基本的にサディストだと。

自分は飲み会というものが至極嫌いである。

かといって自分は酒が嫌いというわけではない。むしろ旨い酒を飲むことは好きである。

しかし、飲むことが好きな人物がまた大酒のみであるかという問いには自分は自信を持ってノーと言える。なぜなら自分が酒のあまり飲めない酒好きだからである。

自分の酒の許容量は、ビールで言うとグラス五杯が限度。日本酒はお銚子一本分。ウィスキーや焼酎などの蒸留酒はロックなど以ての外で、ハイボールやお湯割りにしないと飲むことはできない。酒飲みの位で言うと中の下であろうか。

そもそも酒は嗜好品である。好きなように(たしな)む品である。各々が好きに勝手に楽しく呑めばよかろう。

それ故に自分は酒を飲むことを強引に進める人物は反吐(へど)が出るほど嫌いである。

自身が楽しむために他人に苦しませながら酒を飲ませる。そのような人間はトットと地獄へ落ちてくれと願う。

そんな自分が理想とする飲み会はみんながワイワイ楽しくやるのはもちろん、アルコールだけでなくソフトドリンクなど、好きなものを自分のペースで飲むことができ、美味しい食事も腹いっぱい食べて、自分が帰りたくなったら自由に座を抜けることができる。

自分はそんな飲み会を望んでやまないが、悲しいことに川越にも河越にもそんな飲み会は存在しないのだ。

なぜ自分は飲み会がこんなに嫌いなのか。それは研究室のメンバーである先輩と彼女、そして先生に原因がある。

彼らの呑みは凄まじいの一言に尽きる。

彼らは酒の席に於いて、様々な伝説や武勇伝に彩られており、そのハチャメチャ振りから三人は総じて『河越の三酔傑(さんすいけつ)』と呼ばれており、河越在住の酒飲みでこの名を知らない人物はいない。そのくらい彼らの悪名は河越に知れ渡っている。

また、彼らは各々『通り名』を持っている。

先輩は酒飲み連中から『赤鬼』と呼ばれて敬遠されている。

先輩の飲みは群を抜いており、酒を水のように飲むという言葉がどういうものかを実感することができる。

酒に対してあまり強くない自分からするとまったく信じられないが、先輩は飲むほどに顔がドンドン鬼灯(ほおずき)のように赤くなっていくものの、いくら飲んでも酔っぱらうこともないほどのザルである。

真っ赤な顔で大酒を煽りながら、ケロリとしているその姿から先輩は『赤鬼』と呼ばれるようになった所以(ゆえん)である。

先輩を飲み放題に連れて行ったのなら、店一軒分の酒を丸々飲み干し、その上店の従業員を夜の街に走らせて酒を買いに行かせたほどであり、2時間の時間制限が終わった後にはその店の経営が傾いたという逸話を持つ。

しかも何故か先輩は酒を一人で飲むことを至極嫌い、必ず自分を同伴させた上で、自分にも先輩自身と同じように酒を飲ませようとするために、先輩と飲みに行って自分が吐かなかったことは一度もない。

彼女は酔っ払い連中から『蟒蛇(うわばみ)』と呼ばれて恐れられている。

彼女は飲む方にも悪名高いが、チャンポンづくりに関しては警察から追われるレベルにまで性質(たち)が悪い。

彼女の作り出すチャンポンは劇薬の類に入る。特に彼女の酔いが回ってから作り出すチャンポンは人間が口にして良いものではない。

ラーメン(どんぶり)にビールやサワーはもちろん、ウィスキー・焼酎・ウオツカ・ジン・テキーラ等の強い酒をナミナミ注ぎ、モツ煮の煮汁やサラダのドレッシング、寄せ鍋のだし汁、その他もろもろの飲んで良いのかわからないエキスを調合した彼女特製のスペシャルブレンドである。

これを飲めば極楽浄土が見え、すぐさま意識を失う。そして本当に恐ろしいのはこの合成酒があり得ないほど体から抜けるのが遅く、呑んだ次の日から八日間の地獄を見る羽目になる。

その効用から彼女の作るチャンポンは『極楽チャンポン』などと呼ばれる。

因みに自分はその一番の被害者である。

先生は飲み友達から『猩々(しょうじょう)』と呼ばれて畏怖されている。

先生は酒癖の悪さで他の追随を許さない。

普段は生徒思いで、面倒見の良い、自分が尊敬してやまない頼りになる先生であるが、酔っぱらってくるとアルハラとセクハラとパワハラの三大ハラスメントを同時に仕掛けてくる性質の悪いオッサンになる。

この時の先生は全くもって尊敬できない。むしろ侮蔑(ぶべつ)の対象である。

『猩々』となった先生の無茶ブリには、自分は何度となく散々な目に合ってきた。

ある時は一発芸では物足りないので2発やれと言われ渋々応じたものの、気に入らなかったからと結局50発も芸をするまで許してもらえなかったり、またある時は酔いつぶれて床に寝ている自分の口に漏斗(じょうご)を無理やり突っ込んで、彼女特製の極楽チャンポンを注ぎ込んだりと、思い出しただけで体が拒絶反応を起こして戦慄(わなな)くほどのトラウマを刻み付けられてきた。

以上の様に自分が飲み会という行事を嫌悪しているのは、明らかにどう考えても彼らに原因があるだろう。

こんな凶悪な面子が揃う『火山・岩石学研究室』に所属していた同級生と3年の後輩たちは次々と恐れをなして別の研究室に移ったり、別の学科へ転科したり、最悪では退学したりして今では自分一人が残るのみとなってしまった。

何故自分だけ残っているのか。自分でもそれはわからない。

しかし律儀な自分は酒の席を用意するべく河越で一番の商店街である『クレアモール』へと足を運んだ。

河越駅から続くその商店街には多数の個人経営の小売店や外食チェーン店、そして河越一の百貨店『丸広』の本店が軒を連ねている。

その中には多くの呑み屋も立ち並んでおり、全国チェーンの居酒屋はもちろん、通好みの大衆居酒屋も立ち並んでいる。

そして自分がこの商店街に来たのは、この商店街を当たればすぐにでも予約が取れるだろうという思惑があったからだ。

しかし自分は甘かった。

自分が所属している研究室の悪名は前述のように河越中に知れ渡っており、自分が研究室名を持ち出しただけで予約を拒否され続けた。

後で聞いた話であるが、先輩たちの酒癖の悪さが呑み屋に与える悪影響は、店中がさながら荒れ地の様になってしまうといった直接的なものだけでない。

酒盛りに付き合わされてメンタルをズタズタにされた店員たちが次々と店を辞めてしまうといった人事的なもの、また度の過ぎた酒盛りが店に悪いイメージを与えることでその後の風評被害へと繋がるといった人心的なものなど、様々な方面から店の経営に大きな打撃を与えているようである。

その被害総額は河越の一年分の地方交付金に匹敵するとさえ言われている。

しかし、そんな先輩たちの暴挙に対して居酒屋たちはやられっぱなしと言うわけではなかった。

なんと被害を受けた呑み屋たちは結託して先輩たちに立ち向かうことを決め、『居酒屋被害者の会』を結成したのである。

普段は商売(しょうばい)(がたき)同士ではあるが、敵の敵は味方として、呉越同舟(ごえつどうしゅう)といった気概の下にその団結は秘所に固かった。

そして被害者の会はブラックリストを作成し、それを同業者に配布することでこれ以上の被害を食い止め、そして彼らを徹底的に排除しようと画策しているようである。

今では先輩と彼女と先生がクレアモールを歩くだけで、通中の呑み屋が一斉にシャッターを下ろすらしく、彼らは呑み屋から完全に隔離され迫害を受けているようである。

それは完全に自業自得だが。

彼らが落ち着いて酒を飲む場所はもはや河越の何処にも無いのかもしれない。

そんな彼らのことを人々は恐れと嘲りを込めてこう呼んでいる。

―――『居酒屋(いざかや)難民(なんみん)』と。



時の鐘が二十二回撞()かれる。どうやら今は午後十時を迎えたようである。

個人が経営する小売店は既に店を閉めており、いよいよ以てこの通りが夜の街へと姿を変え始める。

しかし自分は行く宛もなくクレアモールを徘徊していた。

あれから数日間、通りにある店は隈なく訪れ、脇道に佇む大衆居酒屋にも果敢にアタックを続け、一度断られようとも再度足を運び頼み込んだ。

しかし結果は全敗。もはや何処も酒を呑むことを許してくれない。

とは言えこのままでは帰ることができない。何故ならこのまま帰れば研究室内での呑みとなり、周りを気にしなくなった先輩たちはさらに呑みの荒さが増長することは確実である。そうして自分は死ぬであろう。

そんな最悪の事態を避けるためにはどうしても酒の席を予約する必要があった。

だが、もう既に宴会開催予定日の前日である。もはや尻に火が付くなんて次元の(あせ)りではない。

その時の自分は焦燥と不安に(まと)わり付かれており、もはや自分がどこをどう歩いているのかも理解しないまま、いつの間にか丸広本店の前まで来ていた。

そうしてふと気が付くと、何やら丸広の通りを挟んだ向かい側から楽しそうな声が聞こえてくる。

目を向けると、そこには重厚な作りの木製の門が開け放たれており、近づいて門の向こう側を覗いてみると、寺社づくりの建物が見え、電飾や蛍光灯で明るく照らされた周囲の店とは明らかに一線を画した厳かな空間が広がっていた。

ここは浄土宗沸(じょうどしゅうふつ)名山(めいざん)西雲寺(せいうんじ)である。

西雲寺は川越にも実在する由緒正しい寺院である。

その歴史は古く、江戸時代初期に開山し、約360年前に行われた川越城の大拡張に伴って現在の新富町に移転してきた。その後幾度もの火災に合うものの、そのたびに再建され、現在に至っている。

繁華街の、しかも丸広本店の目の前に忽然(こつぜん)と姿を現す寺院の存在はある意味異様ではあるが、西雲寺の方が商店街よりも先にこの地にあるということを覚えておいてほしい。

境内に入ると目の前を通るクレアモールの賑やかさがウソのように静かで落ち着いた空間が広がっている。

思わず現生の悩み、もっぱら新人歓迎会について忘れてしまいそうになるものの、奥から聞こえる声につられて永大供養塔の前を覗いてみると、そこでは屋台が組まれ、オヤジたちが大人数で酒盛りをしていた。

屋台の軒に吊るされた赤提灯はところどころ裂けてボロボロになっており、屋台から漂ってくる湯気と気化した油によって黒く薄汚れている。

近寄って見てみると、その薄汚れた赤提灯にはおそらくこの店の屋号である『神原-kabara』という文字がようやく読み取れた。おそらく『カバラ』と読むのだろう。

この屋台は仏の庭で神の原を名乗るのか。

赤提灯と白熱灯に照らされた屋台の中は、何畳もの畳が敷き詰められており、その中央には地面に穴が掘られ、そこに焼き場が設けられている。これにより焼き場は座敷から一段下がった位置にあることになり、畳に座りながらカウンターで呑む気分を味わえるようになっている。

またその周りでは、何基もの丸い卓袱台(ちゃぶだい)が組まれており、そこでも各々好きなように飲むことができるようになっている。

焼き場の中では、禿げ頭にねじり鉢巻きをした男性が、焼き鳥の焼き加減を見たり、鍋の中のおでんに出汁を回しかけている。

その立ち上る湯気と煙が香りを運んできて、その匂いを嗅ぐだけで出される食べ物がどれだけ旨いかが解る。

そんな中で行われる酒盛りは非常に盛り上がっており、あちこちから笑い声が上がり、歌が聞こえてくる。

そして自分はここで信じられないものを目にする。

皆が仲良く飲むのは酒ばかりではなく、ソフトドリンクも飲まれており、誰もそれを飲むことを咎めようとはしない。

また、酒を他人に無理強いすることは決してなく、自分が飲みたいときに自分が飲みたいペースで飲むことができる。

出される料理もどれも美味しそうなものばかりで、量も多く、洋の東西を問わない酒の肴がレパートリー豊富に提供される。

そして、座を先に抜けることに関して誰も嫌な顔一つせずに、皆が笑顔で帰る人を送り出している。

まさに自分が理想とする飲み会の姿がそこにはあった。

自分がその宴に見惚れていると、座に加わっていた中年の男性が自分に気付いて声をかけてきた。

「おう、(わけ)ぇ衆。どうしたんでぇ?」

これが自分とオヤッさんとの出会いである。

オヤッさんは日に焼けて茶色くなった浴衣を着流しながら、妙な江戸弁を喋る中年の男性である。

髪はゴマ塩で角刈り、肌は小麦色、顔の彫りが深く、シワが幾筋も刻まれている。これに一つ、蛇の目傘でも差しさえすれば、まるで任侠映画で出てくる親分の様な見てくれの人物である。

「まあ、そんな所に突っ立ってねぇでこっちに来ねぇ」

そういってオヤッさんは手招きしつつ、自分の隣の空席をポンポンと叩く。

「はぁ…それじゃぁお邪魔します」

自分は恐々オヤッさんの隣へと腰を下ろす。

「まずは何を飲むんでぇ?ここなら酒はどんなものでも置いてあらぁ。飲めなくても茶でもジュースでも沢山ある。好きなだけ楽しんでいきねぇ」

「―――ですが、自分、持ち合わせがあまり…」

「んなこたぁ心配(しんぺぇ)するこたぁねぇ。なんてったってここの酒と食物ははいくら飲んでも食べてもタダだからな」

一瞬自分は耳を疑った。オヤッさんが何を言っているのか理解できなかったのである。

社会の常識に照らすなら、好き勝手に飲食いしてそれでいてお代を払う必要が無いなんてことが許されるわけが無かろう。

しかし周りのあまりに後先考えない呑みっぷりをするオッサン連中の様子を見るとその言葉が満更(まんざら)嘘ではないように思えた。

そして憂いの無くなった自分は河越の地酒『鏡山』とおでんの盛り合わせを注文した。

自分が好きなようにおでんを食べ、鏡山をチビリチビリとやっていると、実に愉快そうに微笑むオヤッさんが自分に声をかけてきた。

「楽しんでいるか若い衆」

「ええ、こんなに楽しいお酒は初めてです」

「そいつぁ良かった。心行くまで好きにやっつくんねぇ」

「そうさせて貰います。―――しかしどうしてここではダダで飲むことができるんです?」

オヤッさんはその質問に渋い顔をすると、こめかみのところを人差し指でグリグリしながら、小出しに思い出して自分に語って聞かせた。

「これは俺のダチに聞いた話だがな、この西雲寺では元々お布施の一環として飯も喰えねぇ貧しい奴らに炊き出しをしていたようでな、そのことに目を付けた昔の市長がここを誰でも自由に酒を飲むことのできる場所にしようてぇ考えてだ、今のようにタダで飲食いできるようになったらしい」

どうやら自分はまた例の市長による『街興しの功罪』と出くわしてしまったらしい。

四月末に先輩に(そそのか)されて関わってしまったこの傍迷惑な企画のことなんぞ、二度と思い出したくもなかった。

あの生死を賭けた冒険からもう二週間ほど経つが、未だに思い出すだけで自然と体が戦慄いてくる。

あの体験は明らかに負のものである。

しかし、『功罪』というからには罪だけではなく、功もまたあるはずである。

河越市民の見解で『街興しの功罪』は罪八割功二割であるが、自分はイカレた街興しの希少なる功の側面に巡り合えたようである。

これならば自分も大歓迎なのに。

「ちなみに、焼き場に立ってるのがここの住職さんだ。普段は精進料理を作っているが、夜はこうやって屋台の主人をしてるんでぇ。このおでんのガンモは何と、住職さんの手作りなんだぜ」

なるほどこの主人はただのハゲオヤジではなかったのか。毎日作っているためか道理でガンモが旨いわけだ。

そうして自分はオヤッさんと酒を酌み交わす内に、周りで各々盛り上がっていたオヤジ連中も次第に自分たちの輪に加わってきた。

しかし、それでも酒を無理強いする者のいない、実に紳士的な宴会である。

オヤジたちと自分が語る話は、立て板を流れ下る水の様に淀みなく紡がれ、酒飲みの語る自慢話を聞く自分の耳は聖徳太子の耳に匹敵するほどに鋭くなっていた。

まさにこの時の自分は『話し上手は聞き上手』を体現していた。

そんな自分はオヤッさんを初めとした酒飲みたちにえらく可愛がられ、また来るように誘われた。

そのとき、悪魔が自分に囁いた。仏の庭で神の屋台に座っているにも関わらず。

―――ここを新人歓迎会の会場にしてしまえばいい。

いい案だ。だがこのようやく出会えた楽園をあの酒乱どもに蹂躙させるのは忍びない。

―――楽園の一つや二つ良いではないか。地獄を見るよりマシだろう。

だがしかし、河越どころか川越にも今まで見つけられなかった場所である。安息の地なのである。

―――こうは考えられないだろうか。先輩たちをここへ連れてきて、ここのルールで呑ませる。そうすればいかに紳士的な飲み会が素晴らしいかを彼らに教えることができるのでないか。

その考えはなかった。だが、自分はあの酒乱三人を抑え込むことができるのだろうか。

―――それならば大丈夫だ。今日ここでオヤッさんたちと仲良くなったのだろう。この人脈を活かさない手はない。自分一人ではどうにもならないことも力を合わせれば何とかできるものだ。頭数ではこちらの方が有利だぞ。

…ならば。

「じゃあ、今日はありがとうございましたオヤッさん。明日もまた来てもいいですか?そのときは自分の知り合いも連れてきてよろしいでしょうか?」

「おう、大歓迎でぃ。十人でも百人でも連れて来やがえれ」

オヤッさんから許可された自分はしめたと思ったが、自分の心にも仏は勿論住んでいる。オヤッさんたちが何も知らないことを良いことにあんな酒乱どもを勝手につれてきていいのだろうか、という思いが心に湧き上がった。

しかし今の自分の心の中は悪魔の方が優勢であった。ほんの一欠片残っていた良心が首を出したところを邪心が捉え、それを盾にオヤッさんたちに対してダメ押しの言葉を投げかける。

「―――ですが、少々問題がありまして…」

「おう、何でぃ?言ってみな」

「その仲間というのが大層酒癖の悪い者ばかりで、連れてきたら皆さんの迷惑になるのではないかと」

「ホゥ……そんなに悪いのか」

「ええ、あまりに酷すぎてどこの居酒屋からも立ち入り禁止になるほどでして」

オヤッさんは自分の言葉を手で制すると渋く微笑んだ。

「もしかして、オメェさんの仲間っていうのは、かの『赤鬼』と『蟒蛇』。それから『猩々』かぃ?」

その質問が返されたとき、自分の中で数日間宴会の予約を断られ続けた記憶がフラッシュバックする。

そして、走馬灯が駆け終わると胸の中を何故先輩たちのことを言ってしまったのかという後悔が支配していた。

しかし、気を落とす自分の方に載せられる手があった。夜風に当たったせいか少し冷たくなっている手はオヤッさんのものであった。

「何も心配するこたぁねぇ。大丈夫だ、連れてくりゃ良い。昔はオレも酒飲みとしては少しばかし名が通っていてな、仲間内では『(なな)ツ(つ)(がま)』なんて呼ばれて、自分で呑むは、他人に呑ますは徒党を組んで騒ぐは暴れるはと、大分酷い酒をやっていた。だがよ、ここで静かに酒を呑むことの楽しさと大切さを知ってから酒との付き合い方を悟ったんでぇ。だからよ、『三酔傑』もここに来れば何か悟れるんじゃねぇか」

大昔の川越に存在した七つの底なし沼の名を通り名に持っていたオヤッさんはそう言うと、そこが抜けたように豪快に笑う。まるで自分がこの世のすべての酒欲を絶ったかのような、あまりに神々しい笑い方だった。

「それにここでは皆呑み仲間だ。もしそいつらが座を乱すような真似をしたりすれば俺たちも抑えるし、オメェさんがそいつらに絡まれていたら助けに入ってやるから安心しな。見たところオメェさんはそいつらと酒呑むのが嫌でしょうがないって(つら)ぁしてんな。だがよ、其れは百薬の長に非ず! 寂しい酒と辛い酒ってのは命を削る(かんな)だぜ。そんなつまらねぇ酒をする奴ぁのは放っては置けねぇってもんよ!そうだろ!皆!」

心強く頷きあうオヤッさんたちは自分が新たな仲間を連れてくることを心から大歓迎し、そして清く正しい宴を守ることに一致団結していた。

こうして悪魔の囁きに乗せられて、オヤッさんたちの言質を取った自分は、逞しいオッサンたちを見て花園に猛獣を放つことに何の躊躇も無くなっていた。

しかし帰る足取りは酔いが醒めて騒ぎの疲れが出てきたことと、楽園を自分の手で踏み荒らす選択をした後悔の念に思いのほか足取りが重く、生気がゴッソリ持って行かれたが如く、草臥(くらびれ)れたまま家路についた。

自分が座を後にした『神原-kabara-』の席で、オヤッさんがグラスを傾けて独り言ちる。

「イイねぇ、新しい仲間が増えるということは。夜が賑やかになることは尚更イイ」



次の日の夜、自分と先輩たちは連れ立って西雲寺へとやってきた。

この日も仏の庭では神の屋台『神原-kabara-』が組まれていた。そしてその席には相も変わらず自分が理想とする宴を催すオヤジたちが座っていた。

そして、その中で賑やかにやっていたオヤッさんが自分たちに気が付くと、莞爾と笑いながら手招きをする。

「おう、若けぇ衆。お揃いで」

それを聞いて自分は挨拶を返す。

「こんばんはオヤッさん。今日はよろしくお願いします」

「おう、よろしくな。そっちにいるのが昨日言ってたお仲間かぃ?」

そう言ってオヤッさんは先輩たちに視線を送る。

先輩たちは、酒が呑めるとあってだいぶ浮かれているようであり、後輩を囲んで楽しげに語りあっていた。

それを見てオヤッさんが不敵に笑う。

「フッ、ああ、見ただけでわかるぜ。奴らの底知れない実力がよぉ。今夜は楽しくなりそうだぜぇ」

実に生き生きとしているオヤッさんを見て、まさかこの人も乱れるのではと不安に囚われた自分を元気づけるように、オヤッさんは未だに冷えた手を肩にポンと置いてくる。

「安心しねぇ。ちゃんと約束は守るからよ。オメェさんもちゃんと楽しむんだぜ」

そういうとオヤッさんは他のオヤジたちに話をつけると言い残し、また宴の中へと戻って行った。

自分はそれを見送ると、先輩たちを案内するべく彼らの元へ戻った。

「おう、やっと戻ってきたか」

「遅いわよ。いつまでかっているの」

「早く酒を呑ませてくれないかな」

待ち草臥れた先輩たちが、口々に自分に非難の声を上げてくる。

自分はこの人たちは、もう既に悪酔いしているのではないかと疑っていると、

「まあまあまあ、一つ落ち着きましょう、皆様方」

と、歯切れの良い喋りと手刀(てがたな)を切るように両手を振るいながら仲裁をする小男がしゃしゃり出てきた。

彼が今日の主賓の後輩である。

「皆様方。今日は楽しい席なんですよ。それを初っ端から険悪な雰囲気で始めたんじゃ成功するはず無いですよ? ここは僕の顔に免じて収めてくださいな。先ずは仲直りから始めましょう」

何故か今回の主賓である年下の小男に取りなされてしまった自分たちは、互いに握手を交わす。

その際に先輩から「普通はお前が仲裁するのが筋じゃねぇの?」と言われてしまうが自分もそう思うので反論できない。

仲直りを終えた自分たちは屋台へと向かった。店の前まで来ると先輩が吊るされた赤提灯をしげしげと眺めている。

その表面にはやはり『神原-kabara』と書かれた墨文字がようやく読むことができる。

「なあ、あの赤提灯に書いてあるのってここの屋号だろ。何て読むんだい?『カンバラ』かい?」

先輩がどうでもいい質問をしてくる。

「先輩、これは横にアルファベットで書いてある通り『カバラ』と読むんですよ」

「『カバラ』か。ユダヤ教の神秘思想と同じ名前だね。実に隠れ家って感じがして良いじゃないか」

先輩は変なことに博識だなと思いつつ、後輩たちを空いている卓袱台に座らせると、自分は皆にメニューを手渡した。

「まずは何にします?やはりビールですか」

この問いに座から嘲笑が漏れる。それを聞いて自分はメニューから顔を上げると先生が出来の悪い生徒を見下す目でこちらを見ていた。

「君は相変わらず解ってないな。初めにそんなアルコール度数の低い酒を飲んでどうする。まだ酔っていない時こそキツイ奴をやるべきなんだぞ。酔ってからじゃとてもじゃないが手を出せないからね」

素面(しらふ)で既に訳の分からないことを言ってテキーラをジョッキで頼んでくる先生に、先輩と彼女は大いに同意し同じものを頼んでくる。

もはやこの人たちに関わってもしょうがないと見切りをつけた自分は後輩に注文を聞くことにした。

「君はどうするんだい?先輩たちはあんなだけど好きなのを頼んでも良いんだよ。ソフトドリンクも沢山あるし」

「お気遣いありがとうございます、兄サン。それじゃ僕はビールでお願いします」

自分は後輩も行ける口なのかと思いつつ、自分もビールに決め、おでんや焼き鳥など適当に肴を注文した。

自分たちが囲む卓袱台の上にそれぞれの飲み物と肴が並べられる。

自分はビールのナミナミと注がれたジョッキを掲げると、乾杯の音頭を取るべく立ち上がる。

「えー、今回は皆様お忙しい中、火山岩石学研究室の新人歓迎会にご出席いただき有難うございます。この春に我が研究室にも新しい風が吹いて参りました。彼がこの研究室の一員として自身の研究に精を出していただくことと、早くこの研究室の一員として馴染んでくれることを心から願っております。それでは研究室の新しい仲間に乾杯!」

そうして自分はジョッキを呷る。もちろん自分は一気飲みなんて芸当はできないため、二口ほど飲んで席に着く。

そこで自分は信じがたいものを目にする。

テキーラの正しい飲み方を知っているだろうか?

テキーラは器に注がれた酒を一口で呷あおり、塩とライムを絞って飲む。

しかしあまりにアルコール度数の高いテキーラはあまり量を飲むものではなく、通常はカバジートという縦長のショットグラスに注がれたほんの少量を呷るだけであるが、先輩方たちはジョッキで呷っているから信じられない。それも一口で飲み干すのだからもはや人間業ではない。

その様子に唖然としている自分を差し置いて後輩がメニューを持って先輩たちにすり寄っていく。

「それで、次は何にします? 見たところ古今東西のありとあらゆる酒が取り揃えてあるようですが」

「それならブランデーと芋焼酎とバーボン、それからマッコリにスコッチ。それから…」

彼女のこの注文を聞いて自分はもう既に極楽チャンポンの製作に取り掛かったのだと気が付いた。

彼女の作る極楽チャンポンは毎回混ぜられる酒の種類も数も違う。しかし(もたら)される効能は前にも述べたとおり、即昇天させ八日地獄へと誘う。

なぜ全く違う混ぜ物をするのに同じ効能が得られるのか全く分からないが、これはもはやある意味安定したクオリティと言えるだろう。

「ところで兄サン、次は何にします?」

後輩は垂れた糸目でニヤけながら次の注文を聞いてくる。

「自分は暫くイイよ。それよりそんな気を使わないで君が飲みなよ」

「いえ、僕はまだ飲み終えていません。それより兄さんのグラスが空いているのはいけませんね。ヨッシャ!中瓶を頼みましょう。僕がそのジョッキにドンドン継ぎ足していきますから」

そういうと後輩は自分の意見なども聞かずビールの中瓶を五本も頼み、運ばれてきたビールを自分が制止するのも聞かず、まだ2/3ほど飲み残していた中ジョッキを再び満杯にする。

「さあ、兄サン。グッとやって下さい」

後輩は期待に満ちた眼差しで自分のことを見つめてくる。

後輩からこんな目をされた手前もう引き下がることはできないだろう。

ここは一つ自分も先輩としての威厳を見せるべきだと考え、注がれたビールを無理しない範囲で呑んでいく。

3口ほど飲んで一息吐くと自分は妙な違和感を感じた。その違和感とは手の中にあるジョッキの重さが変わっていないのである。

自分は驚いて確認すると確かに飲んだはずのビールが再びジョッキの縁のスレスレまで注がれているではないか。

「あら、兄サン全然減ってないじゃないですか。もっといっちゃってくださいよ」

思考が追い付かなくなりかけるも、自分の左隣に座っている後輩がニヤニヤしながらこんなことを言うものだから大凡(だいおよ)その事情は読み取れた。

どうやら自分がジョッキを置いた瞬間に後輩はすかさずビールを継ぎ足しているようである。

マッタクもって気が付かないぐらい目にも留まらぬ早業で、かつ気配無くこんな荒業をやって退けるのだから後輩もやはり只者ではないようだ。

それでいて後輩は、まるで椀子蕎麦のように強制的にエンドレスで酒を人に呑ませ続けるにも関わらず、その間自分は一滴の酒も呑まないのだからある意味先輩たちよりも性質が悪い男である。

「まだまだ冷えたビールはありますよ兄サン。速くジョッキを空けて下さいな」

―――この野郎!

と、自分の中で堪忍袋の緒が切れたことを感じた。そしてコイツだけは素面で帰ることを許してはいけないと思った。

どうやってこいつを酔い潰してやろうかと画策していると、すでに出来上がりつつあった先輩が覚束(おぼつか)ない足取りでやってきた。

「おおう、暇そうだな。何呑んでんだ?」

「先輩、お疲れ様です。だいぶやっているようですね」

「んん~、そうでもないぞ。まだまだいけるぞ」

ここでまた悪魔が自分に囁く。仏の庭で神の屋台に座っていることなど知ったことか。

―――後輩に先輩の相手をさせればいいじゃないか。

イイ案だ。だがどうやってそのように二人を誘導する。

―――ここは自分が幹事であることを利用しろ。二人の仲を取り持つと言って酒を進めるように唆せばいい。

だが、そうすると自分も先輩の呑みの被害に巻き込まれないだろうか。

―――そこの見極めが重要だ。とりあえず5分くらいは二人に付き合え。その後に二人が盛り上がっているようならすぐに席を離れるんだ。すぐにだぞ! 自分は幹事なんだから言い訳なんてどうにでもなる。

―――ならば!

「先輩。今日の主役であるお酒を呑みながらお話しされてはどうですか……ぁ!」

自分が悪魔との作戦会議を終えた後二人の方を振り向くと、既に先輩が後輩と楽しそうに話をしているではないか。

しかも信じられないことに後輩は先輩と差しで遣り合っているのにほとんど酒を呑まないのである。

後輩はその軽快な喋り口で先輩から話を巧みに引き出し、会話に溝を開けさせないようにしている。

そして、先輩のグラスが空くとすぐさま例の目にも留まらぬ早業で酒を注いでいく。それも先輩の様子を常に観察し、先輩の状態に合わせて酒の種類と温度を変えている。

お前は気配りの達人か。

既に出鼻を挫かれた自分の耳に先輩と後輩との会話が聞こえてくる。「そうかそうか。だいぶ研究室にも慣れてきたようでよかった」

「ありがとうございます。これも先輩がいつも気に掛けてくれるからです。それよりグラス空いてますよ。もう一献いかがです?」

「じゃあ頂こうかな。……ととと、はい有難う。君ももっと呑んだらどうだい」

「頂いてますよ。それよりも先輩、兄サンがジョッキ空けたままでいるんですよ。さっきから寂しそうにブツブツ独り言をしているようですし、ここは先輩が誘ってあげたらイイと思いますよ」

危ない矛先が自分の方へと向かいつつあることを聞いた自分は、最悪の事態を回避するためにソロソロと席を離れようとする。

「おい、どこへ行くんだ?」

しかし逃亡は先輩の力強い手によって阻まれた。

「まま、ここに座ってください、兄サン。先ずは一献」

そう言って何故だか後輩は嬉々として自分のジョッキにウィスキーと注いでいく。

「やめろ!自分はウィスキーをロックでなんて呑めない!」

「任せてください。でしたら今からハイボールを作りますから」

そう言って後輩は実に手慣れた手つきでハイボールをあっという間に作り上げた。

自分の目の前に再び現れた酒に目眩を起こしかけてしまう。

「おいおい、せっかくお前のために心を込めて作ってくれた酒を無駄にするんじゃないぞ。チャンと飲み干してやることが何よりの感謝の証だぞ」

酔っているくせに正論を口走ってくる先輩と、キラキラとした目で事らを見てくる後輩。

もはや自分に逃げ道は無かった。

自分は意を決してハイボールに挑む。二口ほど飲んだのち一息入れるために口を離すが先輩たちは目敏(めざと)それを咎めてくる。

「おいおいどうした?お前の本気はそんなもんか?」

「そうですよ。兄サンのイッキが見たいです」

少し休むことさえ許されない状況にまで追い詰められた自分は、死ぬ気でハイボールを飲み下していく。

何とか飲み終えた自分はもうダメだと観念していた。そして急にアルコールを摂取したことにより目が回り、耐え難い吐き気がこみ上げてきて大いに悶える。

そんな自分を称賛する拍手が先輩と後輩から起こっていた。

「いやー良かったよ。良いモノを見せてもらったよ。……よし、じゃあ二杯目行こうか」

その地獄の審判に酩酊の泥沼へと沈みかけていた自分の意識が、恐怖と共に一気に舞戻ってくる。

「いや、もうだめです。無理です。死んでしまいます」

「兄さん。ハイポールお待たせしました」

「この野郎! イイ加減にしやがれ! これはアルハラだ! 何で自分バッカリこんな思いをしなきゃならない! これだから飲み会は大嫌いなんだ! 何でまた自分がハイボールを呑まされなければならない!」

自分は精一杯呂律が回らなくなった口で抗議を続けた。そうでないと本当にこの二人に殺されかけない。

「大丈夫ですよ。今回のヤツは酒の量を少し減らしてますし、シークァーサーの果汁を入れてますから」

しかし、先輩と後輩は自分の講義など何処吹く風で、まったく聞き入れようともしなかった。

そんな風に先輩と後輩に地獄を見せられている自分の肩にまたしても冷たい手が置かれる。

振り返るとそこにはオヤッさんがあの神々しい笑みを浮かべながら立っていた。

「おいおい、お(めえ)さんがそんなんでどうすんでぃ? 紳士的な呑みの良さを解らせてやるために、仲間たちを連れてきたんじゃねぇのか?」

オヤッさんの言葉を聞いた瞬間、自分の中に立ち向かう勇気が湧いてくる。

そして先輩たちに流されて為すがままに成っているこの状況を、何とか打破しようという気持ちになってくる。

「よし、それじゃそのハイポール貸してみな。どうせもう呑めねぇんだろ。だったら俺が代わりに呑んでやるよ」

そう言ってオヤッさんは自分の目の前にあったハイボールをグイグイと呑み乾していく。

それだけに止まらず、後輩が手を付けずに置いてあったジョッキを一息に干すと、さらにビールの中瓶を瓶呑みで流し込んでいった。

ものの3分足らずで自分たちの卓袱台の周りにあった酒はすべてオヤッさんに呑まれてしまったのである。

「ゲフーッ、ごっつぉさん。やっばり酒は旨いねぇ」

そう言ってオヤッさんはまた神々しく笑っていた。その天晴な呑みっぷりに先輩と後輩も驚愕の表情で拍手を送る。

そこへ千鳥足で歩み寄ってくる影が一つ。

「おや、なんだ、久しぶりじゃないか『七ツ釜』。何時河越に戻ってきたんだァ?」

先生がオヤッさんに声をかけてきたのである。

先生は既に顔が赤銅色になり、トロンとした眼の奥で瞳だけがギラギラと輝いている。完全に今の先生は『猩々』と呼ばれる状態になっていた。

「やはり『猩々』はお前だったのか。相変わらず悪い酒をやっているみてぇだな」

会話から察するにどうやら二人は知り合いの様である。

まあ、それもそうだろう。なんせ二人は(かつ)て名を馳せた酒飲みと、今も猛威を振るい続ける酒豪である。どこかで接点があったとしても可笑しくはない。

「ハハハ!『七ツ釜』! 酒は呑んでも呑ませても、実にイイもんだなぁ。それはお前だって解っているはずだろ。さあ速くお前も呑めよ。一緒にヘベレケの向こう側へ行こうじゃないか」

「生憎だが『猩々』よぅ。俺ぁそういう酒は俺はもう止めたんでぇ。今はゆっくりと自分のペースで飲むことにしてるんでな」

「何言ってるんだ。お前らしくないじゃないか。河越で私と双璧をなす酒飲みとして恐れられ、世界中の酒を呑むために酒呑み武者修行に出るほどの奴が言う言葉とは、とてもじゃないが思えないな」

「ここで呑んでいれば自然と悟るもんだ。一期の栄花は一杯の酒だってな。だったらその一杯を自ら味わい尽くすべきだって俺ぁ考えるようになったんでぇ」

しかし先生はその言葉を遮るように、卓袱台の上に一升瓶をドンと叩きつける。

銘酒は地酒『鏡山』であった。

「能書きはいい。さっさと席に着くんだ。覚えているか? 十年前にサシでやりあった最後の酒闘(しゅとう)のことを」

「忘れるわきゃねぇだろ。あれは一昼夜やっても勝ち負けが付かねぇつって持ち越したはずだったな」

「そうだ、だから今日こそ決着を付けようじゃないか『七ツ釜』!」

それを聞いたオヤッさんはヤレヤレといった表情を返す。

「そんな昔の話どうでもいいじゃねぇか。とにかくオレはもう酒闘はやらねぇて決めてんだ。勝ちはお前にやるからもう止めにしねぇか。それにここは酒を静かに楽しむ場所だ。

どうしても酒闘がやりてぇんなら、他所で他の誰かとやってくれよ」

その言葉を残してオヤッさんは元居た席に戻って行こうとする。先生はそれを「待て!」と大声で叫んで制した。

「『七ツ釜』。勘違いしないでくれ。私は勝ち負けがドウのコウの言うために、また酒闘がしたいわけじゃない。ただ、お前との(わだかま)りを無くして再会を喜び合うために、お前ともう一度やり合いたいだけなんだ。その為にこの酒闘はどうしてもお前じゃないといけないんだ。解るだろう?」

そう言うと先生は『鏡山』の栓を抜き、目の前にあったグラスに表面張力が起こるほど注ぐと、口から出迎えをして一気に飲み干した。

「私はね、お前が居なくなってからどうも張り合いが無くてしょうがなかったんだ。なんせ最後の酒闘のすぐ後にお前は酒呑み武者修行に出て行ってしまったからね。それにお前が旅の途中で死んだなんて噂を聞いたものだからさ。それからの私はお前のことが気になるあまりいくら呑んでも呑んだ気に成れなくてね、周りに迷惑をかけることも多くあった。実につまらない酒が続いたものだよ。しかし今日十年ぶりに巡り合えた。頼むからもう一度だけ私と酒闘してくれないか⁉ 後生だからさ」

それを聞いたオヤッさんは頭をボリボリと掻きながら自分たちの卓袱台に座り、先生と向かい合う。そして渋々といった表情で先生のことを見つめた。

「解った。そこまで言うなら受けて立ってやらぁ。ただし、俺が勝ったらもう二度と乱暴な酒をしねぇと約束してもらうぜ」

その言葉に居酒屋の中が不意にザワめきだす。半分は乱暴な酒を禁じた場所であわや酒闘の火蓋が切って落とされようとしていることに心配する声であり、もう半分は伝説の酒豪同士の酒闘を生で見ることができることへの期待に(たかぶ)る声がであった。

そして、それらの声が仏の庭の静寂を一気に喧騒で塗り替えて行った。

しかし、その喧騒の中、自分は思い至る。

昨日あれほど協力してくれると言っていたオヤッさんと酒場のオヤジたちも、なんだかんだ言いながらこの酒闘に乗り気になっていては元も子もない。

ミイラ取りがミイラになった。やっぱり酒飲みは信用できない。



西雲寺の永大供養塔前、仏の庭に組まれた神の屋台『神原』の特設の闘技場が汲み上げられる。

その中央に置かれた卓袱台を挟んで向かい合う中年男性が二人。

一人は今も『猩々』と呼ばれ酒飲み連中から恐れられている先生と、もう一人はかつて『七ツ釜』と呼ばれ羨望を集めていたオヤッさん。

その二人がついに十年の時を超えて再び相見(あいまみ)えようとしているのである。

この状況に酒飲みならば昂ぶらないはずがない。

歓声が止まない中、それを全く意に介さずに先生は語り始める。

「ルールは覚えているかね」

「おうよ、覚えているぜ。一つのグラスを交互に呑みまわし、先に酔い潰れた方の負け、だったな」

「そうだ。ただし、酒を飲み乾したことを証明するためにグラスを逆さにした後に、そこの盆の中の水で濯いでから相手に渡すこと…返杯することも忘れるんじゃないぞ。それから今回は特別ルールとして、負けた方はうちの研究員特製の極楽チャンポンを呑んでもらう。イイな?」

先生の目線の先を追うと彼女が何やら怪しげに輝くラーメン丼を持っている。

もう説明するまでも無いだろうが、これこそが酒飲みの間でも悪名高い『極楽チャンポン』である。

そんな劇物で満たされた丼をその両の掌で掲げる彼女の表情はいつも以上に嬉々としたものであった。

「先生もオヤッさんも期待していてね♪ 今回のチャンポンは私の最高傑作よ」

傍目から眺めている自分からでも解るとおり、今回のチャンポンの出来栄えは、いつも以上の自信作のようである。もちろん悪い意味である。

こんなものを呑んだら即昇天八日地獄どころでは済まないだろう。

そんなチャンポンを目の前に自分は根源的に恐怖した。

しかし、このチャンポンの危険性を知ってか知らずか、オヤッさんはニヤリと片側の口角を上げる。

「んじゃ、ルールの確認も済んだことだし、さっさと初めっか。最初は俺から行かせてもらうぜ。その『鏡山』もらうぜ」

そう言うとオヤッさんは一升瓶から『鏡山』をナミナミと注いでいく。そしてグラスを傾けると、酒を一気に呑み干していく。

呑み干すのに掛かる時間はまさに瞬く間であり、呑むときの音はグイグイでもゴクゴクでもなく、カパッ!という音がする。

一瞬にして酒を呑み干したオヤッさんは、どうだと言わんばかりの表情でグラスをひっくり返して見せる。

そして、グラスを濯いだ後、卓袱台にタンッ!と音を立てて置いたのだ。

「相変わらずの良い呑みっぷりだね。十年経ってもまったく衰えを見せないじゃないか。それでこそ『七ツ釜』だ。では私の番だな」

そういうと先生は(おもむろ)にグラスを掴むと、オヤッさんが注いだ量以上の酒を注ぎ、カパッ!とオヤッさん以上の音を立てながら、オヤッさんより速く呑み干した。

「そういうお前さんはさらに腕を上げたようだな、『猩々』。呑みっぷりがさらに勇ましくなってやらぁ」

クツクツとオヤッさんは笑うと、返されたグラスに再び酒を満たし、カパッ!という音を立てて先生よりもさらに速く一気に呑み干す。

その様子に先生は実にうれしそうに笑うとさらに速く酒を呑み干す。

そんなことを二人で繰り返すうちアッという間に『鏡山』の一升瓶は空になり、次の栓が開けられる。次なる酒は芋焼酎『富の紅赤』である。

「へっ!『富の紅赤』か。なかなか乙なものを出してくるじゃねぇか」

「河越で作られている焼酎で一番私は好きな奴だね。河越名産のさつまいも『紅赤』を使っているから、香りもいいしね。それでは頂こうかね」

そうしてまたカパカパと音を立てながら、二人はアッという間にこれも呑み乾していく。

二人の酒豪の人間離れした呑みっぷりに場が一気に湧き上がる中、次に運ばれて来たのは、河越を代表するプレミアムビール『COEDO』である。

「『COEDO』じゃないか!いやー嬉しいな。私はこれに目が無いんだよ」

「よしよし…ちゃんと加羅、瑠璃、白、漆黒、紅赤の五色が揃ってやがるな。よう、『猩々』。先ずはどの色からいくかい?」

「迷うなぁ…。…よし、やっぱり最初は瑠璃からにしよう」

二人は頷き合って『COEDO』の栓を抜き、別の卓袱台からもう一つグラスを持ってきた。

そして互いにお酌しあうと、グラスを高々と掲げて乾杯する。ものの一秒足らずでビールを一気に呑み干すと二人して盛大に笑いあった。

そうして、また互いにカパカパと音を立てながら、五色の『COEDO』をすべて空き瓶にしていった。

その後も二人の呑むスピードは全く衰えることが無く、次々と運ばれてくる酒をアッという間に空にしていく。

そんなこんなで何十本もの空き瓶と何百個もの空き缶が生み出されていき、それが二人の周りで山のように積み重ねられていった。

自分はそんな二人の様子を傍から見ていたのだが、呑み比べをする二人は実に楽しそうであった。

まるで、長年親交を深め合った親友同士の様でもあり、互いに力を認め合った好敵手の様でもあり、男同士の仲とはかくあるべきという見本の様でもあった。

そのときに自分の隣に先輩がナメクジの様にすり寄ってくる。

そのフテブテしいニヤケ顔が、いきなり磨り寄ってきたことに肝を冷やしている自分など(かえり)みず、先輩が楽しげに酒闘を繰り広げる二人を羨望の眼差しで見つめる。

「いやー、先生羨ましいよね。ああいった飲み友達に巡り合えるなんて」

「…先輩はそんな人は居ないんですか?」

「居ないねぇ。お前じゃ話にならないし、彼女はチャンポン作りに夢中だし、先生は俺なんかじゃ到底及びもつかない。詰まるところ、自分のレベルに合った相手がいないと酒は楽しくないんだよね」

「…先輩ほどの酒豪もそうは居ませんよ。いくら飲んでも顔色以外、素面と変わらない人なんて」

「いや、そうでもないぞ。特に今日はいい心地でね。体が軽くてまるで宙を浮いているようだ」

そういうと先輩はクルリと一つ宙返りを打つ。

ビックリして先輩のことを注視すると、何やら先輩が少しばかり透けて見えた。

そして、先輩の霞んでほとんど見えなく成っている足元には、何故か倒れて動かなくなっているもう一人の先輩がいた。

「! 先輩⁉ イッタイこれはどういう事なんですか⁉」

自分は元気に飛び回る半透明の先輩に質問しつつ、倒れ伏して動かなくなったハッキリと見える方の先輩に手を伸ばした。

しかし、驚くべきことに自分の手は何度やっても先輩をすり抜けてしまい、まったく触れることができなかった。

するとそこへ後輩が駆け寄ってくる。その様子はかなり驚いているようだった。

「兄サン! 先輩! 二人ともどうしてしまったんですか⁉ まるで幽霊の様ですよ!」

そう言って慌てふためく後輩は見る限り異常は無いようだった。

しかし、後輩の隣には、何故か自分が白目を剥きながらぶっ倒れている。そして、気が付く。今の自分が幽霊であることを。

そして幽霊と成ってしまった自分は、後輩以上に取り乱した。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!死んでる! 自分が死んでしまっている! 嘘だ! 酔っぱらい過ぎて頭がおかしくなったんだ! こんなの嫌だ! こんな所で死にたくない! 大嫌いな酒盛りなんかが自分の死に場所なんて認めたくない!」

完全に平静を失ってしまった自分に、どういう訳かか冷静でいて楽しげな先輩が語りかけてくる。

「俺はこういう死に方は本望だけどな」

「だったら一人で逝って下さい!地獄への道連れなんてマッピラご免です。それに連れて行くなら自分ではなく後輩を連れて行ってください」

「兄サン、さりげなく酷いことを言いますね。ですがまだ僕は呼ばれないようですよ。魂抜けてませんし」

「だったらすぐにこっち来い! 今すぐ来い! 人間は簡単に死ねるんだから!」

「物騒ですね兄さん。けれど残された人が元気に生きていることが何よりの供養だって僕のお祖母ちゃんが言ってましたよ。僕は二人の分も精いっぱい生きますから、どうか安心して成仏してください」

「ザケンナ! てめぇぶっ殺すぞ!―――って、先輩! 引っ張らないで下さい! 自分を地獄への道連れにしないで下さい! お願いですから! 後生ですから!」

「ヒトを勝手に地獄域に決めんなよ。それに幽霊のクセに後生もへったくれもないじゃないか。取り合えず落ち着け」

そうして自分は先輩からのビンタを受けた。

自分が片頬を抑えて打ちひしがれていると、先輩が片手をヒラヒラさせながら、実に面白そうに笑う。

「―――痛いじゃないですか。いきなり殴るなんて」

「落ち着いたか? まだの様なら偉い人が(のたま)ったように、もう片方もビンタしてやってもいいぞ」

自分は手で拒否しながら自分は立ち上がる。どうやら先輩のビンタが功を奏したようで、自分は冷静に周りを見ることができた。

そして、自分で観察したことと後輩の言葉からある仮説へと辿り着く。

「二人とも、どうか呆れないで聞いてください。自分はこの事について考えたのですが、もしかしてこの宴は死者の宴なんではないでしょうが?」

「死者の宴? イッタイ何のことです。兄サン」

「目を凝らして周りを見てください。そうすれば解る筈ですよ」

二人は暫く目を凝らす。そして彼らも気付いたようである。

「おい、俺たち以外の奴ら全員幽霊なんじゃないか⁉」

先輩が指摘したようにオヤッさんも店主の住職も、酒闘を観戦している酔っ払いたちも全員幽霊であった。

彼らは周りに人魂を灯し、青白い顔をしている。

そして、着ている物はどれも薄汚れて変色しているが、白地の着流し、即ち死者が着込む白装束であった。ここまで露骨に幽霊である彼らに、今まで気が付かなかったのは自分としても相当な不覚である。

そして、何より衝撃的だったのはオヤッさんも幽霊だったことである。

昨日、自分にあれだけ良くしてくれた人物が、既にこの世に居ない人であることを知り、自分は何か裏切られたような、それでいて寂しい気分に陥っていた。

そんなことを考えている内に、漸く事態を把握し終えた後輩と先輩は自分の方を向く。

「しかしですね兄サン。いくら死者の宴だからって、兄サンたちまでも幽霊になる必要は無いんじゃないですか。それに、どうして自分は幽霊に成ってないんですか?」

「それについては俺に思い当たる節がある」

そういうと先輩(幽霊)が無い足で歩み寄ってくる。

「おそらく、それは君がここの酒を呑んでいないからだろう」

「僕が…酒を…ですか?」

「そうだ。民話や神話の中では、死者の世界の食物を口にすると、二度と生きては戻って来られないというエピソードが多く出てくる。今回の幽体離脱もその例で、酒を呑んだ俺とコイツは魂が抜け出してしまい、逆に酒を呑んでいない君は何ともないという事なんだろう」

そう言って先輩の見つめる先には先生とオヤッさんが酒闘を繰り広げている。

いや、より正確に言えば先生とオヤッさんの幽霊が酒闘を繰り広げている。もちろん先生の霞んでいる足元には、白目を剥いた先生が転がっている。

「それにこの屋台の名前も今となってはこうなることを暗示していたのかもしれない」

先輩が指さすその先、店先には相変わらず『神原-kabara-』と書かれた提灯がぶら下がっている。

「ここに入る前に言ったように、カバラというのはユダヤ教の神秘思想を指す言葉だけど、その教義には多くの戒律があるんだ。そしてその戒律の中には『心せよ、悪霊を装いて戯れれば悪霊となるべし』という言葉がある。つまり、俺たちは自分から悪霊の側へ足を踏み入れてしまったということだ」

「じゃあどうするんですか先輩⁉ 自分はこのままなんて冗談じゃないですよ。何とかならないんですか?」

「そうだな、見たところまだ俺たちの体は死んでいないようだ。どうやら今は精神だけが肉体から離れてしまった状態。幽体離脱というものだろう。繋がりが切れていない以上戻る方法があるはずだ」

自分が先輩の言葉に安堵している矢先、周りから異様な気配を感じた。振り返るとさっきまで酒闘に熱中していた酒飲み連中の全員が黙ってこちらの方を凝視している。

そして、次の瞬間、まるでゾンビの様に、ヨロけた足取りでこちらに歩み寄ってくるではないか。

「逃がすかぁ、逃がすかぁ。生きて返すものかぁ」

人魂を灯し青白い顔をした男たちが、口々にこんな(おぞ)ましいことを口にしながら近寄ってくる。その状況に、後輩は声も出せずに腰を抜かす。

「コイツら襲ってきやがる! ヤッパリここは生きた人間をあの世へと連れて行く罠だったのか! おい! お前ら早く逃げろ! 捕まったら向こうに連れていかれるぞ!」

先輩は咄嗟(とっさ)にこの場を去ろうとするが、既に八方を塞がれ、無数の手によって捕まってしまい、その後いくらもがいても逃れることはできなかった。

そうこうしている内に先輩は幽霊の山の下に埋もれてしまった。

その様子を見ていた自分も恐ろしくなって、今すぐにでも逃げ出そうとしたが、足が竦すくんだせいかまったく動くことができなかった。

そして、数えきれない手によって体中を雁字搦(がんじがら)めにされる。自分に触れる手の全てがオヤッさんと同じく、氷のように冷たかった。

パニックを通り越して呆然自失に至る直前、自分は思う。

5月でホラーは早いだろ、と。

―――そのとき、

「ねえ、こんなところで何してるの?」

彼女が飄々と現れた。

彼女もまた例に漏れず、幽体離脱し霊になっていた。彼女も酒を呑んでしまったのだろうが、足が霞んで見えないこと以外、マッタク以て素面と変わりない雰囲気であった。

そしてどういう訳だか酔っ払い幽霊たちは、何かを恐れるように彼女から距離を取るような動きをしていた。

「今日のお酒はホントにホワホワした気分で気持ちがイイわね。ありがと。こんな良いところを紹介してくれて」

彼女はこんなホラーな世界の中でも、その猛烈な適応力を見せつけて、我関せずといった体であった。

そうして、彼女が自分の前までやってくると、やはり酔っ払い幽霊たちは一目散に離れていく。

自分はこの現象を訝しんでいると、彼女の両手にはナミナミと極楽チャンポンが注がれたラーメン丼が収められていることに気が付いた。

「どうして君はそんな劇薬を持ってきているんですか?」

「先生とオヤッさんの決着がなかなか付かないから持ってきちゃった。…欲しいの?」

「いりません。断じて。酒なら先輩にくれてやってください」

「お前! なんてこと言うんだ! 確かに俺は酒場で死ぬのは本望だが、彼女の極楽チャンポンで死ぬのはご免だね!」

既に幽霊となっている先輩の叫びが、黒山の幽霊集(だか)りからの下から上がる。

「やっぱりここは今日の主賓である後輩君に呑んでもらうのが良いんじゃないか」

一方、生身のままである後輩は幽霊に捕まることはなかったが、彼女のチャンポンに対して本能的に命の危機を察知したのか彼女から後ずさる。

「いえいえ、僕が頂くなんて滅相もない。それより、こちらの方が欲しがっているんじゃないですか? ぜひ味あわせてあげてください」

そう言って後輩は自身に群がる幽霊の中から一人を指さす。それは禿げ頭に捻り鉢巻をした店の店主こと住職の幽霊であった。

「そうね。それじゃ味見してもらおうかしら。今日のヤツは史上最高よ」

彼女は迫りくる恐怖のあまり逃げ出そうとする住職の首根っこをムンズと掴むと、開きっぱなしになっていた口に勢いよく極楽チャンポンを注いでいく。

すると不思議なことが起こる。

もはや時間は深夜だというのに、天から日光のように明るい一条の光が降ってきて、チャンポンを呑んだ住職を照らし出す。

そして、そのまま住職は光が指し示す先に導かれるように天へと昇って行った。

その様子を目の当たりにした自分はこの状況を乗り切る方法を思いつく。

「ねえ! お願いです。そのチャンポンをドンドン作ってください」

「良いけど、いくら何でも一人で沢山飲むのは体に毒よ」

「良いから早く! 早く作ってください。ほら君も手伝って」

「えぇ… ガスマスク着けなくて大丈夫ですか? これ」

そうして彼女と後輩の二人は極楽チャンポンを急ピッチで作っていく。

彼女のチャンポン作りにレシピは存在しない。ただ手を伸ばして無造作に掴んだボトルの中身をぶちまけていくだけである。

偶に料理や調味料などの酒以外のものを入れてしまうが、マッタク彼女は気にするような様子はない。

そして、出来上がったチャンポンをなるだけ自身の体から遠ざけるようにして持ってきた後輩から受け取り、自分はさっきのお返しとばかりに幽霊たちに躍り掛かって行った。

自分は次々と捕まえた幽霊の口にチャンポンを流し込んでいくと、彼らは先ほどと同じように一条の光に導かれて天へと召されていく。

「やっぱり思った通りだ」

丼の中のチャンポンをすべて使い切った自分は肩を回しながら立ち上がる。

そこへ後輩が実に不思議そうに尋ねてくる。

「イッタイどういうことなんですか? 兄サン。どうしてこれを呑んだ幽霊たちは一斉に成仏してしまうんですか」

「良い質問だ。実はね、彼女の作り出すチャンポンは『極楽チャンポン』という異名があってね。呑めばたちまち極楽へ昇天し、その後八日間の酔い地獄を味わうほど性質の悪い飲み物なんだ。生身の人間でもこんな風になるのなら、幽霊だったら一発で成仏するんじゃないかと閃いたんだ」

「さすがです、兄サン!これなら、幽霊たちを一掃できますよ」

「私としては、イッタイどういう原理でこんな現象が起きるのか興味があるわね。もっと実測値を集めるのがいいかしら。幸いサンプルはここには沢山いるしね」

彼女は子供の様に無邪気で、とても残酷な笑みを見せると、早速チャンポンづくりに取り掛かる。

出来上がったチャンポンはすぐさま自分と後輩が受取り、二人で先輩を押しつぶしている幽霊の山へと躍り掛かり、チャンポンを幽霊たちにぶちまけていく。

やはりチャンポンの効果は絶大の様で、見る見るうちに幽霊たちは成仏していく。

幽霊が成仏して山が無くなると、今まで押し潰されていた先輩が出てくる。

「いやー、助かったよ。マジで死ぬかと思った」

「先輩。それってジョークですか?そんなことよりも先輩も手伝って下さい。今こそ反撃の時です!悪霊狩り(ゴーストバスター)ですよ!」

そうして今度は自分たちが幽霊を追う番となった。

逃げ惑う幽霊たちはやはりゾンビの様に覚束ない足取りであり、面白いように捕まえることができた。そして自分たちは片っ端から彼らを成仏させていった。

ほんの十数分前まで西行寺の境内を埋め尽くしていた人集りも喧騒も、今は何処にも見当たらなかった。

ただそこにあるのは自分と先輩と彼女と後輩。それに余計にうらぶれたように見える屋台と、その下で未だに呑み続けている先生とオヤッさんだけであった。

「まだやっていたんですね、この二人」

「いやー、さすがに先生はすごい。それに『七ツ釜』とかいう相手のおじさんもかなりできるね」

「でも、そろそろお終いの様ね」

確かに見る限り二人ともベロベロになっていた。二人とも常人離れして酒に強い人だが、さすがに今日はあり得ないほど呑んだようである。どう見てもいい加減にした方が良い。

二人の周りには空になった瓶や缶が積み重ねられており、これがバリケードとなって二人の空間はその周りの騒動とは切り離されていたようだ。

そのバリケードの隙間から辛うじて二人の様子が窺える。

「ククッ。『七ツ釜』よぉ。…うっぷs…そろそろギブアップじゃぁないかぁ?」

「『猩々』よぉ…うぇぁ…お前イッパイなんじゃあねぇのか?いい加減もうグラスを置けよ」

互いに挑発し合うと二人はさらに酒を注ぎ、再び傾けようとする。

しかし、二人の手はもはやプルプルと震えており、グラスからは震えに合わせて酒が零れてしまっている。

だが二人は一気に酒をカパッ!と煽ると、グラスをタンッ!と音を立てて置いた。

そしてその瞬間、二人は同時に卓袱台にドウッと倒れ伏した。

「イッタイどうなってしまったんですか⁉ 二人同時にぶっ倒れたましたよ!」

「落ち着いてください!兄サン。これで最後に立ち上がった方の勝ちですよ」

自分たちは固唾を飲んで見守った。すると片方からうめき声が上がり、やがてその身を起こした。

立ち上がったのは先生の方であった。

一方のオヤッさんは未だに起きる気配もない。

「ギブアップ? ギブアップ?」

 オヤッさんの様子を窺うように、何度も彼に問いかける彼女だが、当のオヤッさんは呻くばかりで、中々顔を上げようとはしない。

 それでも闘志は残っているのか、震える腕を卓袱台に突き立てて、必死の形相でオヤッさんは立ち上がろうとする。

「オヤッさん…」

 その光景に男の意地を見た自分が漏らした不意の一言が耳に届いたのか、オヤッさんがこちらを振り向くと、形相を崩して穏やかな笑顔を見せてくれた。

 だが、そこまでだった。

 オヤッさんが体重をかけ過ぎたのか、それとも元から古くなっていたためか、体重を支えていた卓袱台の足が、バキリッと盛大な音を伴って折れてしまい、そのままオヤッさんは上に在った酒の瓶缶諸共に崩れ落ちてしまった。

 舞い上がる埃が収まって、中の様子が見え始めると、その場で未だに立ち続ける先生の視線の先には、穏やかな表情で倒れ伏したオヤッさんが見て取れた。

「勝者! 先生!」

 彼女が高らかに勝敗を宣言する。

こうして先生は十年にも及ぶ因縁に対して勝利という決着をつけたのだった。

オヤッさんが目を覚ましたのはそれから5分後であった。

自分たちも空き瓶と空き缶のバリケードを突破して、先生の元へと駆けつけた。

「ヘッ!どうやら勝負あったみてぇだな」

「ああ、今回は勝たせてもらったよ」

そう言うと先生とオヤッさんは互いの健闘を称え合うためにキツく握手を交わす。

そして、互いにビールの注がれたジョッキを持つと、腕をクロスさせながらビールを飲む、いわゆるドイツ式の乾杯をした後、この上ないほど豪快に笑いあった。

自分が二人が未だに呑んでいることに呆れていると、オヤッさんは自分たちの方に歩み寄ってくる。

「さぁて、負けた奴ぁこのチャンポンを飲まなきゃならねぇんだっけ?」

オヤッさんはなんの躊躇も無く、『極楽チャンポン』を彼女の手からヒョイッと取り上げる。

その所作があまりに自然であったため自分は一瞬失念していたが、オヤッさんも幽霊であることを思い出した。

「――― ! それを飲んじゃダメです! オヤッさん!幽霊がそれを飲んだら成仏してしまいますよ!」

その言葉にオヤッさんがニカリと笑って答えてくる。

「イイんでぃ。誇りを賭けた闘いでの決りごとは絶対だ。負けたら従わなきゃやる意味がねぇんだよ。それに、もうここに居た連中は皆成仏しちまったんだろ?こんな寂しい所で一人で酒を呑むのはご免だね。お前さんにも言ったように寂しい酒や辛い酒は命を削る鉋だ。さっさと向こうで仲間たちと宴の続きでもするさ」

そういうとオヤッさんは手の中の極楽チャンポンを一気に(あお)る。

やはりその呑みっぷりは清々しく、ラーメン丼一杯分のチャンポンをカパッ!という音のもと、一瞬で飲み乾してしまった。

するとオヤッさんの頭上にも光が一条降り、オヤッさんを天へと誘っていく。

「おい、『七ツ釜』!」

先生が大声でオヤッさんに呼びかける。

「お彼岸やお盆でこっちに来たら、また酒闘をしようじゃないか!」

「ああ!次は負けないぜ。それから若ぇ衆もまた酒を酌み交わそうじゃないか。それまで楽しい酒をするんだぞ!」

その言葉を残してオヤッさんは天へと召されていった。

後日調べて分かったことだが、先生が聞いた噂はどうやら本当だったらしく、オヤッさんは酒飲み武者修行の道半ばで息絶えたようである。死因は肝不全だったという。

そして、その後引き取り手のなかったオヤッさんの遺骨は、市の判断の下この西雲寺に無縁仏として埋葬されたらしい。

そんなオヤッさんは酒の無念から、いつまで経っても成仏しきれず、こんな死者の宴に参加していたのだろうと自分は結論付けた。

オヤッさんが去った後に残ったのは、ボロボロの屋台と空き瓶空き缶の山、そして自分たちだけであった。

自分の画策は失敗に終わった。結局先輩たちの酒乱は治ることなく、ただただ自分の理想郷が踏み荒らされて破壊されてしまっただけであった。

オヤッさんを送り出したことで悲しさが心に滲みてきたのか、興奮が冷めて酒の酔いもすでに引いていた。

すると急に自分が後ろに引かれる感覚に襲われ、次の瞬間には元の体の中へと魂が舞い戻ってきた。

「―――ハッ!元に戻った」

「酒が抜けたから元の体に戻れたようだな」

どうやら先輩と彼女、先生も元の体へと戻ったらしい。

「みんな無事なようで何より。私も久しぶりに楽しい酒が呑めて良かった。それに『七ツ釜』これで浮かばれただろうしね」

空を見上げながら先生が実に満足そうな顔で語りかけてくる。その言葉に自分はこれで良かったのだと、そう思うことにした。

「今回の飲み会は新しい発見がイッパイで良かったわよ。これならしばらく退屈しないで済みそうね。でもあんまりは長持ちしないでしょうから、早く私をまた楽しませてね」

彼女はさも嬉しそうにコロコロと笑う。その言葉に自分は本当に良かったのかと不安になる。

「じゃあ、一回締めようじゃないか。締めはいつものように『河越締め』でイイな? それじゃ幹事さん音頭をよろしく」

自分は先輩から宴の締めを任された。

『河越締め』とは河越に伝わる手締めで、三拍を二回繰り返した後、一回だけ手を鳴らすというものである。

因みに川越に伝わる『川越締め』とこの『河越締め』とは全く同じものである。

この二回三拍一拍手の手締めは川越では『川』の字の三本線を表しており、河越では『河』の字の『サンズイ』を表しているらしい。

そして自分は(おもむろ)に両手を宙に掲げると、天へと召されていったオヤッさんにも聞こえるように腹から声を出して叫んだ。

「先輩からご指名に預かりました自分が僭越(せんえつ)ながら音頭を取らせていただきます。それでは皆様お手を拝借。ヨーォ!」

タンタンタン!タンタンタン!タン!

「どうもありがとうございました」

すぐさま西雲寺に火山・岩石学研究室の歓声が上がる。なんだかんだ有ったけど宴会は成功であったようだ。

自分も幹事として宴会を成功させることが出来てホッと一安心をする。

―――だが、しかし。

「いやー。今回の飲み会はいつも以上に面白かったな。―――しかし幽霊騒ぎのせいですっかり酔いが醒めちまったよ」

「そうね、せっかくだし、このまま二次回に行きましょうよ」

「良いですね。僕も今日が初めての飲み会ですから二次回にはちゃんと参加しますよ。それから一次会が知るも知らぬも皆でワイワイやる形態の呑みでしたから、二次回は仲間内だけで盛り上がれる個室が良いと思いますが皆さんどうですか?」

「それがイイ。それじゃ幹事さん、次の店に話を付けてきておくれよ」

「いや…今日はもういいんじゃないですか…こんなことがあった夜ですし…今日は静かに寝ましょうよ」

「何言ってんのさ!まだまだこんなもんじゃ終われないよ。それにまだ夜は長いんだし。今日はエンドレスナイトだ!」

先輩のその言葉にみんなが賛同する。自分を除いて。

自分はその集団からコッソリ抜け出そうとするとも、すぐに先輩によって首根っこを掴まれてしまう。

先輩たちは自分をそのまま引きずって西雲寺を後にし、夜のクレアモールへと繰り出していった。

頼むからもう勘弁してくれ。



未だに自分は川越に帰れそうにない。


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