時の鐘篇 上
「ねぇ、君はシェイクスピアの劇を見たことがある?」
ある日の昼下がり、大学の中庭、そのベンチに腰掛けて、山積みにした何冊もの文献を読みふける青年に、まるで猫のように戯れつく小柄な少女がそう問いかけた。
最前から何分も戯れつかれていた青年だが、少女のことを歯牙にも掛けず黙々と読書を続きていたのだが、何を思ったのか、その問いかけに対して「ない」と短く返答した。
「そうなの! だったら今度見に行きましょうよ!」
始めて帰ってきた青年の反応に心躍らせたのか、少女は綻ぶ花のような笑顔と、天にも届くような弾む声になる。
「丁度演劇サークルの知り合いからチケットを貰っていて、今週末に講堂で公開されるのよ。題目は『ハムレット』と『マクベス』だけれども、日替わりでやるから、どっちかしか見られないのよね」
少女が言うようにチケットは1枚ずつ。仮に二人で行くとすれば、見られる題目は一つのみとなる。
どっちがイイか問いかける少女に対して、青年は「どうでもいい」とすっかり興味を失ったとでも言うように、文献に目を落としながら生返事をしている。
「そんなこと言わないでさ。きっと楽しいわよ。そもそも、私たちまだ一度も一緒に出かけたりとかした事が無いじゃない」
唇を尖らせる少女だが、そちらへ視線を向けることもしない青年はそれすら気付いていないだろう。
「つれないなぁ~」
すっかり意気消沈してしまった少女は、青年が座る同じベンチに腰掛けると、彼の背に凭れながら、駄々をこねるように足をバタつかせている。
そんな少女の囁かな抵抗を鬱陶しく思ったのか、浅い溜息を吐いた青年が「触りだけ教えてくれ」と言う。
「まあ、簡単に言うと、『ハムレット』は父親の幽霊を疑い抜いたせいで身を滅ぼす話で、『マクベス』は信じた魔女に誑かされて身を滅ぼす話よ」
掻い摘み過ぎて内容がまったく伝わってこない少女の話だが、青年は「そうか。わかった」と返事する。
その返答に興味が湧いたとでも思ったのか、少女は先程にも増して青年を劇に誘うため躍起になっている。
そんな熱意が通じたのか、もしくはイイ加減鬱陶しくなったのか、青年は「仕方がないですね」と溜息混じりに少女の誘いに乗る。
「ヤッタ! 約束だからね。絶対よ。ところで、『ハムレット』がイイ? それとも『マクベス』がイイかしら?」
えらく上機嫌な少女とは対照的に、冬の湖のようなテンションの青年は「好きな方でいい」と投げやりだった。
彼からしてみれば、どちらにしても終わりに破滅が待つならば、さして変わり無いと言う事なのだろうか。
これには少女の上機嫌も萎んでしまい、逆に頬が膨らんでいる。
「イイもん! こうなったら阿弥陀籤で決めてやるんだから」
取り出したメモ帳の一片に、紙面が真っ黒くなるほどの線を書き殴った少女が運を天に任せるのを横目に、青年は渡されたチケットの印字を興味無さ気に眺めている。
「しかし皮肉な話よね」
阿弥陀の線を指でなぞりつつ、少女はそう話しかける。
「人を疑い抜いたとしても破滅して、誰かを信じて頼ったとしても身を滅ぼして。そう思わない?」
少女の問いかけに、青年は振り向いた。
「どっちに転んでも地獄行きだって言うのなら、作者はイッタイ私たちにどうしろって言いたいのか解らないじゃない」
皮肉るように、笑い話のように、少女は軽口を叩く感じでそう呟いている。
一方、青年は少女の言葉を受けて、何か落胆したように溜息を吐いた。
「そんなの簡単だ。信じるのも疑うのも、相手のせいにしなきゃいい。他人のせいにするから納得ができなくて愚痴が出るのだろ」
青年の一言に、それまで線を追っていた少女は目を丸くしながら顔を上げる。
そして、彼にとても悲しそうな表情を向けながら「優しくないのね」と呟いた。
「?何を言っているんだ」
自分の話し相手が唐突に訳の解らない様な、頭がどうにかしてしまった様な事を口走った際、自分は冷静にこう答えるようにしている。
言葉の字面を見るとまるで自分が思慮の足りない人間の様に思えるが、この言葉は相手の話に対してワンクッションを入れたり、牽制目的のジャブ代わりにしたりするのが目的であり、決してまったく理解していない訳でもない。
着かず離れず、突っぱねず受け入れもせず、考慮はするものの結論を先送りする。そうった意図の言葉として自分はこのセリフを口にしている。
しかし大概これを言うと、自分は相手から理解が足りない人だとか冷たい人だとか思われてしまい、何度かそのせいで失敗をした事もある。
それゆえ、自分はこの口癖をなるべく言わないように気を付けているつもりだが、ついつい口を滑らして意図せず出てきてしまう悪癖である。
しかも今回のこのセリフは本心から出た言葉である。
目の前に座る無表情の男。彼の言っている言葉の意味はまったく以て理解できないものであった。
彼は言った。自分は彼で彼も自分なのだと。
まったく、本当にこの人物は何を言っているんだ。イッタイどういう意味なのかも解らない。
「おい、コイツにあまり係わらない方がいいんじゃないのか? 身なりも汚いし、言っていることも可笑しい。絶対にヤバい奴だぞ」
傍らで様子を窺っていた先輩も警戒心をあらわにしている。
自分もまた鳥肌が立つほどの警戒心が脳から全身に駆け巡っているが、頭の片隅でこの男を無下にはできないという思いが有るのである。
この男を受け入れなければ、きっと自分は何かのチャンスを逃す。そんな強迫観念めいた思いが、この時の自分には有ったのである。
そしてその思いを解っているとでも言うように、その男は髭に囲まれた口角をニヤリと歪ませる。
「これは失礼しました。見知らぬ男から急に意味不明なことを聞かされてさぞ混乱したことでしょう」
謝罪と共に恭しく首を垂れるその男は、やはり身なりとは裏腹に礼節を重んじる様子が窺える。
「しかし、事実を端的に言うと、先ほど言いましたように、自分はそこに居る彼と同じ『自分』なんです」
「やっぱりよ、どういうこっちゃ解らねぇな…何だってお前さんが若ぇのと一緒、同一人物だってんでぃ?」
「まあ幽霊さん、口でいくら言っても分かってもらえないとは思っていました。そもそも彼と自分とでは似ても似付きませんし。…若干自分の方が美男ですかね?」
宛ら禅問答のようなその男の言葉に、オヤッさんは尚も説明を求める。しかし、当のその男ははぐらかす様に性もない冗談を言ってくる。
自分もっと具体的に説明してほしいと思っているのに、そんな肩透かしを食らうとどうにも馬鹿にされたような気分になる。何より実際に今さっき馬鹿にされたようなので尚更腹立たしい。
第一、何で自分がコイツと一緒なのだ。そもそも奴自身が言っているように見た目が違うじゃないか。
SFであるようなクローン人間ならまだしも、彼と自分とではまったく面立ちが違うし背格好も全然似ていない。全くの別人だと断言できる。
そもそも、この男自体、出会った時から気に食わないのだ。
口調は丁寧なようだが、どこか相手を見下しているような、自分の方が優れているのだと自負しているような、そんな慇懃無礼な言葉使いが癇に障る。
それに話も遠回りにして話す癖に、人の気持ちを逆撫でする様な事柄に関しては包み隠さずストレートに突いてくる。
付き合っていて何の得もない。そんなタイプの人間だと自分はこの男に対しての評価を下した。
そもそも『自分』を語る男に自分は端から相容れないのである。彼と自分が一緒なのだとすれば、これは同族嫌悪と呼べるものなのだろうか。
「それじゃあ、こうしよう。一つ君が本当にコイツと同じかどうか、いくつか質問をしてみようじゃないか」
そう言って先輩が歩み出る。一体何をするつもりなのかと心配する自分に気を使ってか、先輩はニカリと笑顔を向けてくる。
「なに、心配するなよ。お前は今、俺の目の前に居るお前しかいないだろ? それは二ヶ月近く地下で一緒に居たこの俺が保証してやるよ。偽物なんか気に掛けないでドンと構えていな。すぐに化けの皮を剥いでやるからよ」
そう言って男と向かい合う先輩は何時にも増して男らしく、頼り甲斐の有る人の様に思えた。
「では問題。コイツの寝ているときに見せる癖はいったい何?」
「―――右の親指をしゃぶる事です」
「正解。君は間違いなくコイツだよ」
腰砕けになる自分は恨めし気に先輩を見る。この人はなんてデマを流しているのだ。自分にそんな癖がある覚えなどないと、以前から何度も言っているのに。
先輩のそんな心ない一言のせいで、オヤッさんと僧正からは変態に向けられる視線がザクザクと突き刺さってくではないか。
「先輩! 自分にそんな癖が有る訳無いじゃないですか。勝手なことを言わないでください!」
「えー。シッカリしゃぶってたよ、お前は。てか、それの自覚がないお前の方が偽物なんじゃないのか?」
「相変わらず自分の扱いが酷いですね。そもそもそんな事を確かめたってその男が自分と同一人物だという証拠にはならないでしょう!」
「それじゃあもう少し質問してみるか? 例えば抜いた鼻毛を食べてしまうことや、普段は右利きだけど自慰をするときは左を使うことや、未だに年に一回はオネショしてしまうことを聞けば解るか?」
「!!!! 何を言っているんですか! なんてことを! 嘘だとしてもそんな事を人前で言ったら風評被害じゃ済みませんよ」
「…これに関しちゃ自覚は有ると思うんだが」
「―――有る訳無いじゃないですか、先輩」
「今の間、露骨に怪しいじゃあねぇか、若ぇの」
「やはり君は少しでも真人間になれるように、今一度ミッチリ本気で私の寺で修行した方が良いのではないだろうか?」
「オヤッさん、僧正、これは先輩の口から出任せですから本気にしないで下さい。取り合うだけ無駄ですよ」
「…やっぱり自分と君とは別人ってことで良いですか。何だか君と一緒にされるのはどうも人間的に終わりの様な気がしてきて、どうも…」
「今更否定しないで下さいよ、アンタ。否定するなら先輩の方を否定してください。一度自分を名乗ったからには自分とアンタは一蓮托生だ」
その後も自分は先輩の言ったトンデモナイことを否定することに躍起になった。
謎の男もまた自分と協力して否定してくれたため、何とか先輩から前言を取り下げる言葉を引き出すことができたのだが、それでもオヤッさんと僧正から向けられる疑いの視線を完全に消し去ることはできなかった。
そうして、先輩の暴露により大幅に脱線した話が元に戻るころには約30分の時間が過ぎていた
はたしてこの男が『自分』であるのか。そのことについて先輩は肯定していたが、自分はやはり腑に落ちないでいる。
よくよく考えてみれば、自分の秘密、その質問に答えたということが、この男が自分であることの証明になるのだろうか。
もしかしたら、こいつは自分のことを嗅ぎ回り、著しくプライバシーを侵害した不審人物なのかもしれない。ならばその罪は先輩と同じほど重い。
そんな不審人物の動きを一つも漏らさないように観察していれば、男は「どうしたものですかねぇ。解らないですかねぇ…」と実に面倒くさそうに頭をバリバリ掻いている。そして本の城壁の中から何かを探し始めた。
また訳の解らないことを言い始めるのかと、ウンザリしながら話半分で男の話を聞き流すことに決めた自分に目掛けて、男は「これを見て下さい」と探し出した一冊のレジュメを投げてよこした。
その冊子の表紙は『新・街づくり計画草案』と書かれている。
つまりこれは―――。
「今でこそ『街興しの功罪』と呼ばれるようになった様々な街づくり計画の元となった、その企画書ですよ」
そんな大事なものが何だってこんなところに。
男の言葉を受けて冊子を開くでもなく、ただ表紙を眺めていると、男が「そこにすべてが書いてあります」と言ってきた。
それほど重大なことかとパラパラと冊子を捲ってみれば、書いてある内容に驚愕し、のめり込んで読み耽ってしまう。
そこに書かれていた内容。それは河越が街づくりを行うに当たって市民の記憶操作を行という、荒唐無稽で非常識な計画であった。
市民の記憶を改竄することで反対意見を封殺し、都市計画をスムーズに進めようとする計画の全容がそこには記されていた。
「…て、どういうことだよ」
自分と一緒に冊子を読み終わった先輩は壮大なボケをかまされたような、実にバカバカしい気分になったようで呆れ顔をしている。
次に冊子を回されたオヤッさんと僧正も、先ほどの先輩が見せた表情とと同じように呆れ、意味が解らないとボヤく面々の中、自分だけはその内容に真面目に、そして戦々恐々とせざるを得なかった、
その冊子に書かれていたこと、集団催眠を用いた記憶改変は自分が目指していた川越への帰還方法とほぼ同じ内容であったからだ。
自分が狂った街を変えようとして目指そうとしていたことの結末が、その街自体だったことに驚きを越して深い絶望感すら抱かせる。
一体自分が成そうとしていた事とは何だったのか。未だに信じられない気分にさいなまれ、自分は我を忘れてしまう。
そんな自分のことなど露知らず、自分たち全員が冊子を読み終えたことを確認すると、男は「お解りいただけたでしょうか?」と問いてくる。
「さて、読んで頂いたその冊子に記されていますように、この街は全体に催眠術が掛けられています。そしてそれにより市民は記憶を改竄され、無かった物を在った物だと思い込まされるわけです」
自分たちが息を呑むのを確認し、男はさらに言葉を続ける。
「そして、その催眠術によって都市計画及び改革が歪められ加速された街。それがこの街の真実なのです」
「…少し待ってはくれないか。いったい何を言っているんだ? 催眠術をどうして街づくりなどに使おうというんだ」
僧正はいかにも訳が分からないといったように男に尋ねる。普通の考えを持った人間ならば催眠術と街づくりとは結びつかないだろう。
「確かに突拍子もない事だとは思います。でも実に理に適った仕組みなんですよ、悲しいことに。―――話を少し変えますが、ここで少し質問しても良いですか? 街とは新しい建物が建ったり、古い建物が取り壊されたりで何かと変化の激しいものですけれども、その『変化』というものの一番の障害とは、いったいなんだと思います?」
男の質問に自分たちは考えを巡らせる。変化するということを妨げるものとは一体何なのだろう。
二十秒ほど自分たちは顔を見合わせながら様子を窺っていたが、誰一人としてその答えを出せる者が居なかった。
それを見た男は頷き、一息吐くと徐おもむろにこう言い放った。
「―――それは『思い出』です。思い出が変化を堰き止めるのですよ」
「思い出…」
先輩がそう繰り返すと男が言葉を続ける。
「固い言葉を使えば保守的な意見がストッパーになるというわけです。人間は現状に慣れているからこそ、今のままで良い、変わる必要がないと考えるものです。けれども、もしその記憶を弄ることができたなら…。変化した後の光景が『前々からそうだった』と思い込ませることができるのなら…。改革に歯止めが利かなくなるという計画なのです」
男の言葉に自分たちの喉から固唾を飲む音が聞こえてくる。
もはや自分たちは言葉もなく男の言葉を聞き入っていた。
「例えば車を買い替えるとしましょう。その際には今まで乗っていた車は下取りに出すかもしくは廃棄をすることになりますよね。でもその場合には相当の決意が要るはずです。まだ乗れるのに…思い入れがあるのに…、もし故障や不具合さえなければ人はそう簡単に買い替えようとはしない。それほど人間の、特に〝勿体無い〟の精神を持つ日本人の物に対する執着心、『思い出』は強いものですよ」
そこまで一気に言って男は「ですが」と口にする。
「もしもその思い出自体を変えてしまったら、変わっているはずなのに変わっていないと。人は意図的に変えられてしまった現実に疑問を持つことなく与えられた偽物の現実の中で生きなければならなくなってしまう。それがこの街で起こったことなのです」
「いちいち回りくでぇな。言いてぇことが有るんなら、サッサとハッキリしたらどうなんでぇ」
チャキチャキの小江戸っ子であるオヤッさんは、延々と話される男の言葉は実に野暮ったく思えて苛立たされる様である。
痺れを切らせて啖呵を切るオヤッさんを宥めながら男は「もう少しだけ付き合ってください」と答える。
「皆さんは『街興しの功罪』はもちろん知っていますよね」
「ええ、散々酷い目に遭わされてきたから解りますよ」
「そうですよね。自分もその役回りですからお察ししますよ。それでこの『功罪』、一体何時から河越にあると思います?」
そんなことは河越の常識だろう。誰もが知っている。
事の起こりは十年前である。十年前、この街の市長が面白主義全面押しで始めた街興し計画。それが後に『街興しの功罪』と呼ばれる改革の数々である。
そのことを男に言えば、男は至極当然のように「そうですよね」と答える。しかし、その言葉の裏にはまるで無知蒙昧な愚民を見るような、そんな優越感にも似た感情が見え隠れしている。
そんな男の様子が腹に据えかねる自分のことなど知らん顔して、男は自分が手にしていた冊子を指して発行年代を見るように言った。
言われるまま確認する自分はまたも驚かされる。そこに書かれていたのは十年前などではなく三年前の年号であった。
これが示すこと、それはつまり―――
「つまり自分たちは功罪が十年前から在る様に思っているのですが、それはそういう『設定』に過ぎないということなのです。実のところ『街興しの功罪』と呼べる物のほぼすべてが、ごく最近に出来たものなのですよ」
男の言葉が終わると皆が皆黙ってしまっていた。自分が現実だと思っていたこの街が、趣味の悪い誰かの暗躍によって作られた街であるなんて。
それはまるで、自分が大きく黒い掌の上に居る様な気分がして、吐き気を催すような、言い知れない恐怖感が襲ってくる。
自分たち四人の沈黙はどれくらい続いたであろうか? かなり長く感じた無言を切り上げて、オヤッさんが「それよりもよぉ」と男に話し掛けた。
「この街で起きていることは解ったぜ。けれどもよ、話は戻るが、それがお前ぇさんが若ぇのと一緒たってことの説明にはなんねぇじゃねぇか。いったい何で二人も居るんでぃ。そこら辺の説明はしちゃあくんねぇのか?」
確かにオヤッさんの言う通りである。今までの説明でこの街がいかにして狂ったかについては説明が付いた。
しかしその事と自分が二人居ることへの関連性については、未だに謎に包まれたままである。
ところがオヤッさんからの問いを受け、男は自分を指さして「当事者に聞いてみれば解ります」と言うではないか。
男の言葉に三人がザワめきだす。対する自分はパニックになりかける。
「ちょっと!貴方は何を言っているんですか。自分が当事者?全く身に覚えがありません。言いがかりです」
「お前、何度も言うが、自分のことは自分が一番知らないものだったりするのだぞ。親指しゃぶり然りな!」
「黙ってください! 先輩は! 水を差す序でに油を注ぐつもりですか!」
アタフタと精一杯弁明する自分。身の潔白を晴らすためになりふり構わず言い訳する自分を男が手を振って否定してくれた。
「そうじゃないです、君のことを言っているわけじゃないんです。自分が言っているのはそのレジュメの事ですよ」
一通り読み流してみたが、ここにそんなことについて書かれていただろうか? 記憶を辿る自分に向けて男は「表紙を見て下さい」という。
「その話についてはより詳しい人を交えてしましょうか」
表紙に書かれていたのはレジュメの題名とその著者として何人かの名前に交じり、彼女と思われる名前も書かれていた。
自分たちは早速彼女に会うために図書館迷宮を後にした。
連れ立っていくのは先輩、オヤッさん、僧正、そして図書館の男こともう一人の自分である。
先程の出口から外へと出る瞬間、照りつける太陽の光に幽霊だった時の出来事を思い出してついつい及び腰になる。
勇気を出して外に飛び出し何ともないことに安堵しつつ、暫くぶりに浴びる日光に目を焼かれながら慣れるのを待つと、そこは大学の構内であった。
どうやらこの出口は大学と繋がっていたらしい。
これならばすぐにでも彼女に会いに行けると、急いで研究棟の地下研究室に向かえば、案の定そこには彼女がババロアを食いながら佇んでいた。
「あら、こんなところで何をしているのかしら? て、言うかあなた達まだ生きてたの?」
相も変わらず、いつものように何の気もなくそう言ってのける彼女は、本当にこの街の重大な秘密を担ってきていたのかと疑いたくなってしまう。
しかし相手はあの彼女である。さまざまなトンデモナイ発明を生み出し、数々の人道的ヤバい実験をコロコロと笑いながらさも楽しそうに行う彼女である。
むしろ係わっていない訳がないであろう。何だって今までそのことを考えもしなかったのだろうか。
そんな疑問を胸に彼女へと例の冊子を指しだした。
「貴女に聞きたいことが有るんです」
「やっとここまで来たのね。待ちくたびれたわ」
そう言って笑う彼女は、自分の後ろに控えるもうひとりの自分を見とめると「そう、『自分』に出会ったのね」と嬉しそうに微笑んだ。
「いいわ、何でも聞いてちょうだい。大分面白くなってきたみたいだし」
「それではまず、その冊子に書いてあることは本当の事なんですか。そしてその冊子に名前が載っていますが貴方はこの河越の異常現象に係わっているのですか」
「その答えはどちらもイエスよ。記憶の改竄が起きているのは本当だし、何よりその仕組みを作ったのはこの私よ」
彼女の言葉にザワめく自分たち。その反応を面白がるようにほほ笑むと、彼女は「それで、あなたたちは何処まで事実を知っているのかしら」と言葉を続けた。
自分はありのまま彼女に今までの事を説明した。
この街が催眠術によってこの街が改変されている事。『街興しの功罪』が十年前からあるものだと思っていたら実はここ最近の出来事であること。そのことに自分たちが気付かない事。そしてどういう訳か自分が二人になってしまった事を話した。
その話をさも面白そうに笑顔を見せながら聞いていた彼女は、すべてを聞き終わると「成る程ね」といつもの可愛らしい微笑みを向けてくる。
「そこまで知っているならば話が速いわ。あなたが他にも居る理由も、またこの街の催眠装置よって引き起こされた事なのよ」
彼女は「まあ、あなたたちの事例はイレギュラーなんだけれどもね」と一言挟む。
そして部屋の隅から黒板を持ってきたと思うと、チョークで図示しながら説明を始めた。
「順を追って話すから静かに聞いていてチョウダイ。ご存じの通り、この街は催眠装置によって作り変えられている街なのよ。元々無かった物を元から在った様に思い込ませているわけだけれども―――これを人間に応用した場合、元は河越には居なかった人間を元から居たように思い込ませることも、まったく別の人間を特定の人物だと思い込ませることができるのよ。そうしてできたのが、貴方が『自分』と言っている人物であり、以前はそこに居る彼が『自分』としての役を担っていたわけなのよ。まあ、解らなかったのも当然よね。貴方は役を変わる前の『貴方』の記憶を受け継いでいるわけだし、周りの人も貴方の事を『貴方』だと思っているわけだから」
つまりはどういう事なんだ。自分が自分だと思っている人間はどこにも居らず、まったく別の誰かが自分の役を担っているだけに過ぎないのか。
彼女からそう聞かされた時、この街を信じられなくなった自分は、自身の足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。
「言わば『演劇』のようなものなのよ。劇の中ではハムレットやマクベスといった登場人物が出てくるけれども、舞台によって演じる俳優さんたちが違うでしょ? けれども演じる人は違っても舞台の上では登場人物であることには変わりなく、演者も観客もその人をハムレットやマクベスだと思うわけ」
だからこそ、人が違っても『自分』という役柄に当て嵌まる人物がいる限り『自分』が存在する。つまりこの男は自分の前任者ということになるのか。それこそが自分と目の前のこの男との関係なのだろう。
「―――そう考えるとあの手帳はもしかして…」
自分のその問いかけに彼女は頷く。
自分が言うところの手帳、それは自分の名前を思い出そうと手がかりを探している最中に自室で見つけたもの。そしてどんなに手放してもいつの間にかまた手元に戻ってくるもの。何より中には五十以上の人命が書かれたあの薄気味の悪い手帳の事である。
「そうね、あの手帳に書かれている名前は、察するにすべて『貴方』の役を担ってきた人の名前だったんじゃないかしら。貴方は貴方の役を担っていた人たちの名前を思い出して記録しておこうと考えて、手帳に名前を書き込んだんじゃないかしら? それが意図的であったかは無意識であったかは解らないけれども。でもそれが逆に後々あなたの名前を更に混乱させて解らなくしてしまうだなんて、本当に迷惑な話よね」
「じゃあ、喜多院の五百羅漢像は? あれは市民全員分作られているんですよね。でしたら、あそこにも自分と同じ顔をしたのが有るはずですよ。第一、去年の8月にモデル写真を撮ったのですから」
「けれどもあなた、自分の分は見つけられなかったんじゃない?…いいえ、有ったはずなのに解らなかったのよ。何せその像は、今のあなたとは別人が演じていた時のあなたを模したものだから。河越祭りの前ならなおの事よ」
つまり自分の像が見つからなかったのは、像のモデルになった自分が今の自分じゃない、まったく別の誰かであったためだという。
そんな突拍子も無い事実に目の前が暗くなるのを感じる。
じゃあ自分は一体誰なのだ。哲学的な問いのようだが、こんな事は哲学の範囲で収まっていてほしい問いである。
こんな問いが実際に自分に降りかかったとしたら、もはや何を信じていいのかも解らなくなってしまう。
「この街は虚構なのよね。漫画でもアニメでも、ましてや小説でもない。川越という街を舞台にした、どこの誰とも解らないような演者たちによる『河越』という『演劇』。まさに現実の虚構なのよ」
そして彼女が「これはあなたに限ったことではなく、街の全員に言えることだから、あなた方も本当は違う誰かなのかも知れないわね」と聞かされたとき、流石に先輩たちも少しギョッとしたようだった。
そしてこのことに関して自分は先輩に思い当たる節がある。
四月の末に図書館迷宮へと彷徨いこんだ折、先輩は自分を庇って移動する本棚の間に挟まれているのだ。
あの時の切れた命綱にはハッキリと血の跡が残されていたにも拘らず、地上で再び会った先輩はまったくの無傷であった。
思えばあの時に先輩もそれまでの先輩ではない、他の誰かに役が変わっていたのかもしれない。
さらに十月の河越祭りでも、先輩は『ソレ』から放たれる光学兵器の直撃を受けている。そして確かに瀕死の重傷を負っていたはずだ。
にも拘らず、先輩は一時間もしない内に舞い戻ってきており、半死半生だったことが嘘であったかのように八面六臂の活躍を演じてみせいていた。
そのことを考えれば、瀕死の怪我を負った先輩が、無事な誰かと入れ替わっていたからこそ、そんな事が起こり得たのかもしれない。
むしろそう考えたほうが納得が入ってしまう。
そう考えてチラチラ先輩の方をのぞき見ていると、あからさまに不機嫌な様子でにらみ返されてしまう。
どうやら先輩も自覚があるらしい。
「さて代役システムの仕組みは解って貰えたかしら? じゃあ、次はそもそもどうしてこの街にこんな代役システムが必要になったのか。それについて話しましょう」
そう言って彼女は黒板を一回転させる。裏になっていた無地の面が表に来ると、再び彼女はチョークで書き込み始める。
「さっきから何度も言っているように、この街は催眠装置で記憶を改ざんすることによって町の変化を誤魔化しているわけ。けれども、いくらそれによって無理やり納得させているからと言っても、街を変えてしまっている事には変わりないのよね。だからこそ市民は、そこに少なからず違和感が生じてしまい反動が起こるのよ。特に『功罪』の様な奇抜な改革は大きな反発心が生じるのは当たり前な事なのよ」
「…でも、それについても記憶を変えてしまえば良い話じゃないですか。もしもそんな反発が起きていたとしたらそれはおかしな話ですよ」
「そうなのよね、それこそがこの仕組みの決定的な問題なのよ」
「…問題ですか」
「その催眠装置なんだけれども、制限があってね。どうしても十年以上記憶の改竄を遡ることができないのよ。だから本当はもっと昔、江戸時代から『功罪』が存在する街だと思い込ませたかったんだけれどもね。だからどうしてもそれ十年以前との記憶の差異ができてしまって、それが反発として現れてきたのよ」
「―――それを抑え込むための『代役』なんですか」
「正解。もともと『代役』は反発する市民を追放して、その人の立ち位置に『功罪』に対して肯定的な違う誰かを据え置くことで、反乱を未然に防ぐための方針だったの。けれどもいつしか『功罪』による死傷者を隠蔽するための仕組みにもなっていったわ。死傷者の存在自体が、反対派の批判する材料になるから。あなただってそうよ。去年の四月からあなたは少なくとも5回も役代わりしているんだから」
「!そんなに自分はコロコロと変わっているんですか?」
「だってそうじゃない。あの図書館迷宮から地図も道標も無く出られるはずもないでしょう。グレートカブに乗って命に係わる体液を吹き出しながら大事故起こして、無事で済むわけがないでしょう。芋畑に生き埋めにされて、都合よく浮かび上がって来られるわけないでしょう。私の自信作である『光学兵器』の直撃を食らって生きているわけがないでしょう。その度にあなたは他の誰かに取って代わっているの」
まったくもってその通りである。何だって今まで補正だなんだと思っていたのだろう。現実はそんなに甘くない。そんなものなんて端から有る訳が無いのに。
「そもそもあなたは補正だなんて受けられるほど大そうな役柄じゃないわ。だってあなた主役じゃないもの」
「―――えぇ? 何ですって?」
「それはそうでしょう。何の変哲もない取り柄も花もない、周りに振り回されるだけのシガナイ大学生が主人公に相応しい訳無いじゃない。もしもそんな話を延々と読ませてくる作者が居るとすれば、読者に謝らなくてはならないわ」
「…返す言葉もないです。じゃあ逆に聞きますけれどこの劇の主人公って誰なんですか?貴方ですか、それとも先輩ですか。そいつがこの馬鹿げた芝居を打ったんですか」
「そんな一度に何度も聞かないでよ。私は偉人じゃないんだから。一つずつ答えていくけれども、まず主人公が誰かということね。これは私にも解らないわ。ただ先輩も私も、もちろんあなたも主人公ではないということは明確に断言できるわ」
「そんなこと解るんですか?」
「簡単なことよ。あなたと同じように私たちにも名前が無いでしょう? これが脇役の証拠なの。ほら、モブキャラには男子生徒Aとかしか呼び名がないでしょう。要はそれと同じなのよね」
「なんですって!? 名前が覚えられないのは自分の悪い癖だと思っていたのですが…もともと全員名前が無かったんですか」
「そうよ、私もあなたの名前も知らないし、自分の名前も解らないわ。解っていたら名前で呼んでいるもの。それがマナーというものよ。まあ、だからきっとこの街の住民は全員脇役なんじゃないかしら。誰一人として名前を知らないのだから」
こんな事があっていいのか。この劇は始めから主役不在の物語であった。
誰も元締めのいないこの劇は、誰もが好き勝手に演じ続けた。誰が止めるでもなく、誰も咎める者も無く。
それ故に、この街は方向性を見失っていったのかもしれない。そして行き切ってしまったこの街は、遂に住民と市議会との正面衝突を起こしたのであろう。
それを思うと今すぐにでもこの街から逃げ出したくなってしまう。
だってそうだろう。降りかかる火の粉程度なら払えるが、既にこの街は大火事に見舞われている。だったらすぐにでも非難するのが常人の先ずやるべき事であり、消化は公共機関に任せればいいのである。
しかし自分は河越からは逃げられない。それは自分がこの街から出られないからだ。
現象を初めて経験した時、自分は超自然的な力が働いているのかと思ったものだが、その実は、脇役としてこの街に捕らえた人間を、街の外に出さないための策だったのかもしれない。
それもこれも催眠装置のせいだと言われてしまえば、もはや納得せざるをえない。
「ここまでの説明は大丈夫?それではお待ちかね、あなたが何故二人いるかについて話そうかしら」
「そうですよね、今までの説明では前任者がリタイアして居なくなった場合、代役が立てられるみたいですけれども、それでは二人も存在するわけが無いはずですよ」
それを聞くと彼女は「さっきも言った通り、あなたはイレギュラーなのよ」と再び言ってきた。
「ところで、唐突にちょっと確認なんだけれども、あなたたちには河越の記憶ってどこまであるの?」
彼女は自分と、その隣に立つ自分の前任者であった男を指してそう質問してくる。
いきなり何を聞くのだろうか彼女は。キョトンとした顔をしていると「重要な事だから」と念を押されてしまう。
仕方なく自分たちはこの河越の事について話すことにした。
しかし自分の話はもう話さなくとも解っていると思うことだろうから、ここではもう一人の自分が経験してきた事を話そう。
彼の河越の思い出はほとんど図書館地下迷宮での日々と言って良いだろう。
彼の場合、四月の終わりに先輩と共にこの図書館迷宮に入り込んだところまでは記憶が自分と同じである。
しかし彼の話では図書館迷宮から出ることはできず、そのまま今日、自分に会うまであの場所で彷徨い続けていた様である。
つまり図書館迷宮からの脱出が不可能となった時点で、『自分』の役が彼から別の誰かに受け継がれたというわけである。
「成る程ね、解ったわ。つまりあなたが『自分A』とするとあなたは『自分B』ということになるのね」
自分たちの話を聞き終えた彼女は、自分を指してBと呼び、図書館の自分の事をAと呼んだ。
何で自分がBなのか。自分も呼ばれるのならAの方が良い。
そのことが腑に落ちず彼女を解いてみれば、その理由は実に簡単な事であった。
「それはそうよ、貴方はBよ。だってあなたはAよりも後から『あたな』になったのよ。言うなればずっと後輩。Bでも足りないくらいよ」
彼女曰く、役の順番を判別する簡単な方法は、その人が持っている記憶がどこまであるかを確認することらしい。
この街では知らぬ間に役を演じる人間が変わること、そして役代わりの際にどういった仕組みなのか、以前の記憶も継続されることは既に判明している。
ゆえに本来は『自分』ではない、赤の他人の自分にも四月から続く『自分』としての記憶が有り、この記憶は先輩や彼女ともほぼ一致しているのである。
しかし、もう一人の自分はそうではない。彼には自分たちと違った道筋を辿った記憶が有る。
「つまり、Aは四月の時点で『あなた』が図書館迷宮で行方不明になった際に役を降ろされているわけ。そうして後任に『あなた』の役は受け継がれて、『あなた』は私たちと一緒に過ごしてきた。けれどもAは死んだわけじゃない。そのままあの図書館迷宮で生き続けてきたのよ。だから彼には図書館迷宮での記憶しかなく、あなたとは違う記憶を持った『あなた』になったという事なのよ」
これが彼の方が自分よりも『自分』の先代に当たるという証拠である。
四月に分かれた自分の道が今日再び合わさったために、自分はこの人物と出会ったのだ。
奇遇な話ではあるが、そこまで説明付られてしまっては、自分はこの人の事を素直に自分Aと認めざるを得ないようだ。
それに呼び名はこれが良い。自分の事まで『先輩』と呼ぶのはさすがにヤヤコシイ。ならば甘んじてBと呼ばれよう。
「本来なら行方不明になった場合、もう出てくることが無いと思われていたんだけれども、まさか戻って来るなんて想定外だったわ」
彼女は「後付の設定だし、無理が在ったのかしら」と独り呟く。
その姿は想定外の事に戸惑うと言った素振りは無く、むしろ未知なる出来事に心を躍らせているといった様子であった。
しかしそれは一瞬のことであり、次に見たときの彼女の顔は、真剣そのものに打って変わっていた。
「ところで、話は変わるけれども、あなたは今でもこの街を元の川越…いいえ、あなたの記憶の中に在る川越に変えようと思っているのかしら」
「そのつもりですが…何か?」
「まあ、些細な個人的意見なのだけれども、今この街は『河越』であることが現実だということなのよ。この一見狂っているような街こそが現実でいて、貴方が目指しているのは単なる独り善がりの妄想、嘘っぱち。そんなものを人に押し付けようとするのは、本当に正しい事なのかしら?」
「―――それは…」
「直球過ぎたかしら? それなら例え話にしましょう。例えばあなたが目の敵にしてやない功罪だけれども、その『功罪』で生計を立てている人も居るわけよ。新河岸川の舟運なんかその最たるものよね。そんな人たちも居るのに、あなたはそれを否定して無かった事にしてしまおうというのかしら?」
「…」
「つまり私が言いたいのは、あなたにはそんな平和な生活を送る誰かの日常を壊してまで、川越に戻る覚悟が有るのか確かめたいの。そもそも川越は帰るだけの価値が有るような所なのかしら」
「ですが…そうでないと自分のこの一年間は何だったということなんですか? 自分はただ一心に、故郷に帰りたいと思っていただけなのに」
「理由なんてどうでもいいわ。特に私には関係のない事よ。まあ、ヒトコト言わせてもらえば、迷うのなら止めてもらえるかしら、と言う事ね」
そう言われて自分の意思がグラグラと揺らいでしまう。いったい自分はどうすれば良いのだろうか。
確かにこの街は間違っていると思う。常識的に考えてどうかしているとしか思えないような出来事が、当然の様にまかり通っている街なのである。
だが、それが当然となったこの街で、間違いを革命の如く正せるほど、自分は大そうな人間ではない。だからこそ迷ってしまうのである。
「何を迷っているのです? 早くこの街を元に戻しましょうよ」
そう自分に語りかけてくるのは他でもない、自分Aであった。
「迷う必要もないでしょう。そもそも自分はこの一年間を『功罪』に関わったがために不意にしてしまったんですよ。それだけでもこの河越と言う街は罪深い。それに記憶を川越に改竄してしまえばきっと河越の事なんて忘れてしまいますよ」
Aはそう何の迷いもなく言ってのける。その様子は河越という街にまったくの未練も心残りも、思い出も無いといったような感じであった。
そんなAの事を見て、自分は大きな衝撃を受けてしまう。
こんなにも思い悩んでいる自分が居るというのに、Aは何の迷いもなくサラリと決断を出してしまうのだから。本当にAは自分と同一人物なのかとさえ疑ってしまう。
しかし考えてみれば、そもそもAには河越の思い出が無いのだ。
ただただAにとっては河越とは川越の紛い物であって、川越こそが自身の帰るべき場所なのだと信じているのだ。自分も四月のころにはそう考えていたからこそ、彼の気持ちがハッキリ解るのである。
それに比べて自分には十一ヵ月にも及ぶ河越の記憶が有る。その中で多くの河越市民に触れ合ってきたのだ。そして、今では河越も川越に劣らない良い街なのではないかと思っている。
それ故にAみたいに何も考えず恋い焦がれるように川越を、懐かしい故郷を求めることができないのである。
「随分と迷っているみたいですね。まあ、良いですよ。君も『自分』なんですし、そのうち自分の考えを持つはずです。とりあえず自分は川越に戻るために動きますから、気持ちが決まりましたら協力してください」
そう言ってAは研究室を出てゆく。それを見送る自分の目の前でオヤッさんと僧正が頷き合ってからAに付いて行く。
そして先輩は何も言わず、ただ自分の方を何度も振り返りながら部屋を後にしていく。
「さて、聞きたいことはこのくらいかしら。だったら私は行くわ。市議会にも『オーバー』にも協力を求められていて忙しいから」
「…そうやって貴女はこの街をかき回して。貴方はこの街をどうしたいんですか?いったい貴女は何が望みなんですか?」
「私はね、どちらでも良いのよ。ただ言えるのは私が面白い方の味方と言う事よ。街を面白くすることが私の役目なのよ。そして、今はこのゴタゴタしたような状況が面白いの。だから手を貸すのよ」
彼女は実に楽しそうに笑いながら軽い足取りで飛び出していった。
そして自分は一歩も踏み出せないまま、何もできず佇んでいた。
家に帰ろう。そう思い至るまでに自分は30分以上も彼女の研究棟の外、夜風に吹かれ呆けていた。
とりあえず家に帰って考えをまとめよう。一度そうしておかないと、自分はとてもじゃないがダメな気がする。
何よりどうしようも疲れている。数か月にわたり地下通路で彷徨い続けて、いきなりこの街のトンデモナイ事実を雪崩のように説明されたためだろうか、心身ともにこれ以上なく疲れ切っている。
一刻も早く家に帰るために大学の駐輪場で自転車を探すが、いつも通学に使っていた自転車は喜多院に置いたままであることを思い出す。
―――ああ、ダメだ。ダメダメだ。
そんな所までとても自転車を取りに行く気力が出ないため、今日のところは徒歩と電車を使うことにした。
学校を出てみて思ったことであるが、予想していた以上に街の破壊が酷くないということである。
オヤッさんから聞いた話では市議会と『オーバー』とは熾烈な争いを繰り広げているとの事だったので、自分はテッキリ街が原形を留めないほど焼け野原になっているかと勘違いしていた。
だが、実際は争いなど無かったかの様な、いつもと変わらない蔵造りの街並みが家路を急ぐ自分の目に映っている。
ここに被害が出ていないということは争いが街の外、郊外で行われているのだろうか? それとも蔵造りは『功罪』の影響を受けていないために、『オーバー』にとって破壊対象に含まれていないためなのだろうか?
そう考えた自分は、ならば一つ確かめてみようと、重い足取りながらも足を延ばして事態の確認をすることにした。
そして自分がやってきたのは菓子屋横丁。大学からもっとも近くにある『功罪』の場所である。
自分がこの通りに辿り着いたとき、思わず安堵の溜息が漏れだした。
横丁は元の通り、河越のままであった。通りは以前のように十字路になっており、それぞれの通りに和菓子、洋菓子、中国菓子、そして駄菓子のお店が立ち並んでいる。
この自分にとって異様であったはずの光景を見てホッとしてしまっている自分に少々自嘲してしまうが、戦火がここまで来ていないことが何よりであることは掛け値無しに喜ばしい事である。
争いなど本当は嘘なのではないかと思うほど、以前と変わらない観光客の人波に揉まれながら辿り着いたのは他でもない、後輩のご両親が営む飴屋であった。
何せ九月から半年に渡り通い詰めたお店だ。思い入れが一入のこの店が戦火によって失われていた場合を考えるとゾッとしてしまう。
しかし自分は同時に言い知れない後ろめたさと、本能が唸りを上げる恐怖心にも襲われる。
もちろんその理由はお嬢さんとのことである。
クリスマスのあの夜に自分はお嬢さんに大変失礼なことをしてしまった。意中の彼女から告白めいたことを言われてしまい浮足立った自分は、デートの途中にも拘らず、お嬢さんの事をそっちのけで彼女に目を奪われてしまったのである。
そしてそんな不義が祟ったのか、心を取り乱したお嬢さんが凶行に及んだのは、今思い返しても心胆寒からしめる。
そして、そんなお嬢さんから逃げるために、喜多院へと駆け込んだのは、このまま一生続く忌まわしい記憶と成ることだろう。
本来ならソレっきりで二度と顔を合わせないのが自分としてのケジメでもあるだろうし、何より今度顔を合わせたなら何をされるか解ったものではない。
しかし、そんな自分に訪れたのは吉報であろうか凶報であろうか、お嬢さんが自分を待っていると言伝に来た後輩であった。
自分に後輩はこう言う。すぐに会いに来れば良し、そうで無ければお嬢さんと自身の前に二度と顔を見せないで欲しいと。
だったら、シラを切れば願ったり叶ったりだ。いっそこのまま喜多院で解脱するまで修行に勤しんでしまおうか。
などと考えては見たものの、自分で言うのも何ではあるが、根が生真面目でいけないのだろう。
やはりお嬢さんの事が、引き攣れの様に気に掛かってしまう。
できるならば後腐れなく。それができれば最上なのだから。
それが許されるとは到底思えないながらも。
自分は大いに悩んだ。なんとかこの窮地を穏便に済ますことはできないかと。
メールをすることを考えた。アドレスをロックされておりダメだった。
手紙を書くことも考えた。後輩がそれを断固として許さなかった。
やはり寺に引きこもるべきかと考えた。後輩が足しげく通い詰めてくるため、それも叶わなかった。
遂に八方塞がってのっぴきならない状況となり、いよいよ返答の期日が差し迫ったその折に、例の地下迷宮へと真っ逆さまになってしまったのだ。
図らずも、結果的に自分はまたしてもお嬢さんから逃げてしまった。
何せ二月以上も彷徨い続けて漸く地下通路を抜け出せたのがつい先ほどの事。その間中お嬢さんの事を待たせ続けたことに成る。
…いや、さすがの御嬢さんも自分の事などもはや待ってなどいてくれないだろう。
お嬢さんほどの才女ならば、自分が来ないと解れば早々に自分の事など諦めているに違いない。寧ろそうあって欲しい。
それならば尚の事ここに来るべきではない。今更顔向けできないのならば、無事を知ることができたのだから、長居する理由など何処にも無い。
そう思い踵を返して立ち去ろうとする自分。
その視線の端に一台の自転車が引っ掛かる。
飴屋と隣の店舗との間にできた人が一人通れるような僅かな隙間。そこで壁に凭れかかる様に止められた何の変哲も無い銀色のママチャリだが、自分はどうしてもそれが気になって仕方がなかった。
―――これって…ヤッパリ!
見覚えのあるそのママチャリを触れて見てみれば、やはりそれは自分の自転車であった。その証拠にフレームには、自分のものと思しき名前が書き込まれている。
どうしてここにこれが有る。これは喜多院に停めておいたはず。鍵をかけ忘れたかと思ってみてみれば、鍵はチャンとかけられている。
後輩が持ってきてくれたのかと思い、乗って帰ろうとポケットの中の鍵を探すが見つからない。地下通路に落としてきてしまったのだろうか。
困ったことになったものだ。あまりここで自転車を弄っていては、周りの人から怪しまれてしまう。
それにお嬢さんと後輩に出会ってしまう恐れだって有り得ると、危惧していたら案の定、飴屋の中から人の気配が近づいてくる。
マズイと思って物陰に隠れて様子を見てみれば、出てきたのは見知らぬ若い男だった。
誰だアイツは?と訝しんでいると、その男の後ろから満面の笑みを浮かべた後輩とお嬢さんが出てきたではないか。
その二人の笑顔が自分に強い衝撃を与える。お嬢さんが幸せそうな笑顔を見せている。しかもその笑顔は自分ではない別の男に見せている。その笑顔に男も微笑み返すさまはまるで恋人同士の様ではないか。
―――これはどうも腑に落ちない。
その様子を見ていると自分は思わず嫉妬してしまう。
見限られてもしょうがないとは思っていたが、実際目の前に突き付けられると、腹の底からどうしようもない思いが込み上げてくる。
もちろんこの思いは本末転倒だとは気付いている。本当に下らない逆恨みなのだと気がついている。しかし思ってしまったのだからしょうがない。
そこまで自分は人間ができていないのだから。
しかもその男は、なんと易々と鍵を開けて、自分の自転車に跨って行ってしまうではないか。
アン畜生め! 他人の自転車パクリやがって。
と、嫉妬に怒りを上乗せした自分は、韋駄天の如く風を切って男の自転車を追いかけた。
追いかけた先、辿り着いたのはなんと懐かしの我が家であった。
ビックリする自分の前で自転車をしまった男が我が物顔で家へと入っていく。しかもご丁寧に鍵まで開けて。
訳が解らなくなって少々錯乱気味になる自分の耳に追い打ちをかけるように、聞こえてくるのは自分の家族の談笑の声であった。
カレンダーの感覚を失った自分には解らなかったが、どうやら今日は休日だったらしく、父と母と弟の笑い声が聞こえてくる。
その中にはさっきの男と笑い声が混じっている。
お嬢さんと自転車のみならず、自分の家族までもあの男は掻攫っていった。
これは悪い夢なのではないだろうか?
愕然とする自分に、庭で飼っていた愛犬が吠え立ててくる。あれほど自分に懐いていたはずの愛犬までもが自分を見限るというのか。
遠吠えに追い立てられるように逃げ出した自分は、新河岸川まで走り切ってようやく足を止めることができた。
いったい何がどうなってしまったのだ。
あの男は一体誰なのだ。
自分が居ない間に何があったというのだ。
自分の帰る場所が本当に無くなってしまったのだろうか。
どうしてあの男は自分の居場所を尽く占有しているのだろうか。
息も絶え絶え、頭もグチャグチャ、おまけに忘れていた疲れがぶり返してきて体に鉛のように重く圧し掛かる。
とてもじゃないが立っていられなくなって川原に大の字に倒れれば、三月の夜風が肌寒く吹き抜けてゆく。
思わず目頭が熱くなるのが悔しくて、歯を食いしばって耐えることおよそ30分。トップリ日も暮れて夜風に覚まされた頭は、すでに幾ばくかの冷静さを取り戻していた。
どうしてあの男は自分の居場所に我が物顔で居座っているのか。それについて冷静に考えてみれば、答えなど実に簡単なことであることに気が付く。
出した答えを確かめるべく、自分は再び自宅へと足を運ぶ。
そして、携帯を取り出してその男のものと思しき番号にかけることにした。
その番号は最も身近に有り一番よく知っていて頻繁に使うけれども、ほとんどの人はあまりかけることの無いであろう番号、『自分自身の番号』である。
「率直に言いますけれども、貴方は自分ですか?」
自分は電話で呼び出したその男と氷川神社の境内で対面していた。
こんな時間に呼び出した自分を警戒しながらやってきた彼に対し、自分は出会い頭にそう言ってやったのである。
「? 何を言っているんだ。そもそも貴方は誰なんですか」
そう受け応える男だが、そのセリフがいかにも自分らしい。おそらく自分もそう答えるだろうし、Aと初めて対面した時には同じようなセリフを吐いていたことだろう。
それを聞けた時点で自分は確信していた。この男は『自分』なのだと。
もしも自分の与り知らぬところで更なるリタイア劇が起こっていなければ、この男は自分の直後の後継者。差し詰め『自分C』と言ったところか。
おそらくCは自分が河越城跡地下通路に紛れ込んだ後に作り出された新たなる『自分』なのだろう。
仙波山全体が崩落するような大災害に巻き込まれたのだ。無事でいると考える方が普通に無理である。
そうしてリタイアした自分ことBの後釜として、そこに居るCが現役の自分を演じているわけなのだろう。
相変わらずハトが豆鉄砲を食らったような顔をしているCに、事の真実を伝えるために、自分は今日一日で知った河越の秘密について包み隠さず、すべてをCに打ち明けることにした。
街造りのためにマインドコントロールが行われていること、居なくなった人の代わりに代役が立てられていること、そして何より自分自身もどこの誰とも知らない誰かであるとうこと。そしてそれはC自身も同様であり自分とCとは同じ誰かを演じているということなど一気に伝えあげた。
すべてを語り終えた後に一息吐いてCを見れば、真剣なのだろうか深刻そうな顔をして黙って聞いていた。
視線の先、Cは頷くと静かに歩み寄ってくる。そしてニコヤカにほほ笑むとそっと手を差し出してきた。
これは握手を求めてきているのだろうか。
捻くれ者の自分にしては随分と物解りが良い。やはり女を知ると男は大人になるというのだろうか。
そんな他愛もない邪推に苛まれながらも握手に応えるべくCの右手を見てみると、そこには一枚の紙片が摘ままれていた。よく見るとその紙片には見覚えがある。それどころか自分も持っていた筈の代物である。
「ここに行ってみるのをお勧めします。知り合いの親戚が開いている精神科医ですよ」
「そんな事は知っています!そもそもそんな所に行く必要はありません。自分はいたってノーマルです」
「そう言う人ほど危ないって相場は決まっていますから」
「だから自分の話を聞いて下さいって。―――!ちょっと、携帯しまってください。救急車呼ぼうなんて許しませんよ」
慌てて携帯を奪い取った自分とそれを奪い返そうとするCとは揉みクチャの喧嘩になる。
自分は病院送りにされないため必死であるし、Cは是が非でも携帯を取り返そうと躍起になっている。
Cの拳が自分の鳩尾に炸裂し、今にも崩れそうになるほどの激痛が腹から込み上げてくるのを堪え忍ぶと、無防備になったCの顔面に打ち据えるように右を振る舞う。
怯んだCに追い打ちを掛けるべく再び顔目掛けて右を突き出すが、鳩尾の痛みのために踏ん張りが効かない。
腰の入らない拳は躱され、空を切ったところを掴まれてのまま一本背負いで投げ飛ばされる。
叩き付けられた衝撃が肺から空気を押し出して、一瞬意識が途切れかけたところ、Cの下段蹴りが襲いかかる。
マズイ、これを食らっては本当に持って行かれると直感した自分は、咄嗟に蹴りの打点を両手で庇う。
完全に捕らえたと確信していたのであろう、Cは自分の咄嗟の行動に意表を突かれたという顔をしている。
そんな顔をしているとは隙だらけだ。自分は掴んだ足を捻りあげると、Cはカンフー映画さながらに錐揉みをしながら横転する。
すかさず飛び上がり距離を取った自分の眼前で素早い身の熟しでCもまた立ち上がる。
そして自分とCとは睨み合う。敵はやはり自分、実力は伯仲している。
相手の出方を探るが相手が自分であるためか次にどう攻めてくるのか、何をどうしようとしているのかが手に取るように解ってしまう。
それはCも同じらしく、自分の攻め手を潰す様に守りを固め、いつでもこちらの隙を突ける構えを取る。
長い間睨み合っていたがその終わりは一瞬であった。均衡を切ったのはどちらも自分、二人同時に目の前の敵へと躍り掛かっていった。
どちらも手加減なしでの殴り合いを10分ほど演じた後、自分たちは力尽きて冷たい地面に倒れ伏していた。
昭和の青春ドラマのような展開と幕切れを夕焼けの中で親友と演じたわけでなく、こんな深夜にしかも自演でやったことの滑稽さに思わず高笑いが漏れだしてしまう。
一方のCも殴り合ってアドレナリンが過剰分泌されたためか、自分に負けないくらいの高笑いを上げている。
「まったく訳が解りませんね。どうして意味もなく殴られたのに笑っているんですか」
「自分でも何で笑うのかなんてわかりませんよ。それより訳が解らないのは貴方の方ですよ。やっぱり自分が貴方と同一人物だなんて信じられません」
「拳で語り合っても解らないのですか」
「そんなのはフィクションの話です。それに何より古臭いです」
ニコヤカでありながらも自分を警戒する様に、依然としてCの態度は変わる気配はない。
どうすればCに自分の事を信じてもらえるのだろうか。悩んだ挙句ふと一つの策を思いつくがこれには少々躊躇してしまう。
これを口にすることはさすがに躊躇われる。何よりあれほど否定していたにも拘らずそれを言い放つのは自分から認めるということになる。こんなところを先輩にでも見られたらもはや言い逃れなどできなくなる。
いつ何処から現れるかも解らない。神出鬼没な先輩を警戒するために辺りを見回してみるが、深夜なので人っ子一人いないことに安心する。
ならば躊躇うこともない。相手は自分なのだから、バラしたところで他人に知られることもないだろう。
「君、緊縛プレイが好きな性癖があるだろう?しかもロープとかじゃなくてセロファンテープを使うのが最も燃えるだろう?」
聞いた直後にCの顔は青ざめる。図星を突かれて思考が停止してしまったかのごとく固まっている。
「それだけじゃない。君は家に誰も居ないとき、トイレのドアを開けっ放しで用を足しているだろう。それと君の机の鍵と弟の机の鍵が同じだからって、勝手に開けて中に入れてあるエロ本を無断で拝借しているんだろ」
「なんでそれを! …何のことですか?自分にはまったく以て身に覚えは有りませんよ。それに自分はそのような世俗の欲は喜多院での修業を経て断ち切ったのです。ですから貴方の言ったことは自分にはもう一切関係の無い事ですよ」
「取り繕ってももう遅いですよ。いくら君が真人間になったところで過去は変えられないのですから。いい加減認めてくれないともっと恥ずかしい事情を公表することになりますけれども…良いんですか?」
さすがにこれには降参したのか渋々といった様子で事実を認める。
「まあ、貴方が言っていることが正しいと殴り合いしている間に薄々感じてはいましたがね。まさか渋ったら赤恥を晒されるとは予想外でしたが」
「殴り合いでは人は理解し合えないんじゃなかったんですか」
「他人の場合はいざ知らず、何せ相手は自分ですからね」
「まったく、余計な手間を取らせないで下さいよ。自分でも相当に恥ずかしかったんですから。それよりも聞きたいんですけれども…貴方はお嬢さんとどういった関係なんですか。12月にあれほどの事が有ったというのに、また随分と仲睦まじい様でしたが」
問い詰められるCはニヤけた顔をして照れくさそうに頭を掻いている。その何とも幸福そうに緩んだ顔を引き締めてからCは答えてくれた。
「実は自分とお嬢さんとは付き合っているんですよ。先月からですけれども」
「エェぇ…。そうだろうと思ってましたが、よくそんな気に成ったな」
苦虫を噛んだような顔をする自分に対して、さも心外だとでも言いたげなCの眉尻が上がる。
「そんな風に! 蔑ろにするから、お嬢さんがあんな風に常軌を逸するのでしょうが!」
「うるさい! 人のせいにするな!」
「それこそ責任逃れだ! あんたが一筋じゃなかったから! 自分はこれ! この通りです!」
そう言って肌蹴たCの胸には、件の焼き鏝の跡がクッキリと残されていた。
「うぁっ! お前! …素直に同情するわ」
「痛かったんですよ…。三日三晩魘されたのだから…」
一時は再び一触即発にまで膨れ上がった対抗心が、急に萎えてゆく。
今自分の目の前にいる人間が、いずれ辿っていたであろう自分の結末であると見せつけられて、震えが止まらなくなる。
そして、こんな災厄が我が身に降りかからず良かったと心底思うのだ。
「まったく、そこまでされて良く一緒に居られるな…」
「それは自分に責任があるからだ。自分が追い詰めてしまったから、あんな惨事が起きたのだから」
それもそうか。元は自分で撒いた種なのだ。その借り入れをCに任せてしまった事に些か申し訳ない気持ちに成る。
「しかし、それも過去の事。お嬢さんはヤッパリいい子なのですよ。こちらがチャンと誠意を見せさえすればね」
「…いい関係なのか?」
「勿論だ。代わってやらないぞ」
「今更いいよ」
逃げた自分にそんな事を望む資格なんて全くないのは解っている。
だから、せめて、災厄がCを襲わない事を願うに留めた。
「それよりどうするつもりです。今この街で起こっている争いについては。君はどちらに付く。市議会か?『オーバー』か?」
随分と話がそれてしまったが、自分はCに最も聞きたかった質問をする。
それはCが真実を知って、その後にどう動くかという事。つまり、『川越』かそれとも『河越』か。どちらに着くかという事だ。
サッサと自分の指針を決めたAとは違い、自分は迷いの中に居る。
それならばCはどうなのだろうか? そう思ったのは彼を見つけたときから考えていた事だった。
「―――自分は市議会に付きますよ」
しかし、自分の考えとは裏腹に、アッサリと市議会に付くことを宣言したCは実に晴れ晴れしい顔をしていた。
自分は、Cが思いのほか悩みもせずに答えを出されたことに面食らっていると、その間を縫うようにCが言葉を続ける。
「それはもちろん市議会に付きますよ。何せ自分は今の生活が守りたいですからね。お嬢さんと居られる河越の日々を守ります。そのために自分は立ち上がるんです、何か可笑しいですか?」
「いや、至極当然の事だと思うけど」
「そう言えばもう一人の自分、確かAでしたっけ? 彼は『オーバー』の側に付いているんですよね。そうしたら自分とAとは敵同士ということに成るんですね」
「そうなるな。自分同士で争うなんて何とも奇妙な話だが」
「まったくですね。ですからB、もしもAに会うことが有ればヨロシクと伝えてくれますか? 自分は絶対負けません、守る物が有る方が強いんだって」
「そんなの、自身で言えば良いじゃないか」
「もちろん、そのつもりです。ですが貴方が言っても自分で言っても同じでしょう」
それはそうに違いない。なぜなら自分たちは同一人物なのだから。
それでも何とも腑に落ちない様な、騙しを食らっているような気分の自分に別れを告げて、Cは自宅へと帰ってゆく。
Cを見送った後、自分はその自信に満ちた足取りと頼もしげな背中を羨ましく思っていた。自分と同じはずなのに、Cはまったくの別人と言って良いほどに見違えている。
どうやら、守るものがある方が人は強くなれるというのは本当の事らしい。
彼はまったく揺らぐこともなく、迷いなく、間も置かずに自分の愛する人のために戦うのだと言い切ったのだ。
それだけの自信を、考えの背骨となるものをCはもう持っている。
一切持たず流されるままに生きていた自分には、Cが実に輝かしく生きているよう見えて仕方がない。
そのような憧憬の念を込めて見送った背中はもう見えず、ただただ初春の肌寒い風が吹き抜けてゆく。
―――などと格好つけている場合ではない。この寒さはシャレにならない。
今着こんでいるものと言えば喜多院で支給された修行着だけであり、防寒着などは一着も持っていないのだ。
もしもこのまま過ごしていては、確実に朝には冷たくなっていることを想像し焦るものの、生憎自分には帰る場所もない。
家に帰ってもそこには既にCが居るわけだし、自分が行ってもややこしいことに成ることは請け合いだろう。
今までの様子を見る限り、もはや完全に自分は河越市民から自分ではない知らない人として目に映っているようである。
よって知人の所に助けを求めたとしてもまた同じこと。不審者扱いを受けて門前払いが関の山である。
唯一事情を知っている先輩に連絡を取ってみようと携帯へ連絡を入れるも、何度掛けたところで留守電になってしまう。これでは住所も知らない先輩の自宅へは行くことができないではないか。
では、マンガ喫茶やカプセルホテルで一夜を明かせば良かろうと言われるかもしれないが、如何せん先立つものなど一銭も持ち合わせていない。
ならばお堂に籠って夜風を防ごうと考えるも、鍵がかかっており開かない。
それでも何とか耐え忍ぼうと、震える手で体を抱きかかえながら、ガチガチと歯を打ち鳴らしていたところ、突如として懐中電灯の光が自分を照らし出した。
何かと驚いて右手の影越しに光源を睨みつけてみれば、そこに立っていたのは何と彼女であった。
「なんなんですか。眩しいんですから、もう止めてくださいよ。それよりどうしてこんな所に居るんですか」
ニコニコしながら懐中電灯の光で遊ぶ彼女。子供の様に実に楽しんでいるといった様子である。
「チョットあなたの後をつけていただけ。なかなかの見応えがあるものね、男同士の殴り合いのケンカって」
そんなところから見られていたのか、全く気が付かなかったと思う途端に、自分は気が付く、その後の出来事がトンデモナイ事だったことに。
「それよりも中々特殊な性癖よね。セロファンテープで緊縛だなんて。きっとそのジャンルを探すのにいつも苦労していることね」
「―――何のことで―――」
「イイのよ、別に弁明しなくても。もともと知っていたことだし」
どうにかして取り繕おうとする自分に聞かされたのは、彼女が自分の恥ずかしい秘密を知っているということであった。
これはつまり、自分が四六時中彼女に監視されているということなのだろうか。だとしたら一生隠し通そうと決めているあんな事やこんな事まで、既に承知だというのだろうか。
とてつもない羞恥心が込み上げてきて、今にも悶絶して死にそうな気分になる。
それに彼女から常に監視されていたとなれば大問題だ。ストーカーであるにしろ盗聴盗撮の類にしろ、列記とした犯罪であることには変わりない。
いったい何の目的でそんなことをするのかと問い詰めてみれば当の彼女はキョトンとしている。
「失礼ね。いったい何を勘違いしているのか知らないけれども、私はそんなこと一回もしてないわ」
「じゃあなんで知っているんです。自分の秘密を」
「それは、あなたが話してくれたからに決まっているじゃない」
そんなハズはない。自分が自分の恥を晒すだなんて、何たるマゾヒストだろうか。そもそも自分にそんな覚えはない。
「いいえ、確かにあなたが言ったのだけれども、君が言ったわけじゃないから」
「つまり、また他の『自分』が言ったと?…恨むぞ自分」
「まあ、そのことは後で話すとして、ここは寒くていけないわね。どう?私の家に来ない。お茶の一杯でも振る舞ってあげる。どうせ他に行き場が無いのでしょう?」
唐突にお宅へと呼ばれた自分は、宿を得たことと、彼女の家に行ける嬉しさを感じる。何より今夜はお宅にご両親が居ないらしい。
かといって、安易に浮かれていてはいられない。今日一日だけでも、以前の数倍にまで膨れ上がった彼女の胡散臭さが、自分の危機管理能力に強烈なまでに反応している。
果たして自分は無事に戻ることができるのだろうか。
そんな考えはクシャミに頭の中から吹き飛ばされてしまい、自分はイソイソと彼女の後を追ったのだった。
彼女の家は意外に自分の近所であった。徒歩でなら15分くらいの距離にあるのに、今まで気が付かなかったとは、何とも不甲斐ない限りである。
彼女が言うには、自分は何度も足を運んだ事が有るらしい。
しかし、川越の記憶を無くししまった自分にはそのような思い出などなく、ウンと頷くとこも無く生返事を返すしかできなかった。
「コーヒーでも飲む? 商品開発に協力した時に頂いたサンプルだけれども」
「いただきます。…いえ、遠慮しておきます」
自身の好意を唐突に断った自分に、彼女は少々驚いたような顔をする。
「そう言わずに騙されたと思って飲んでみなさい。これでも結構拘っているんだから。豆は理想の物を作るために、最新のバイオテクノロジーで品種改良したものだし、それを最高の状態で収穫するために、生産プラントで徹底管理しながら育てたのだから。それに製品化する際にも、画期的な工程を幾つも踏んでいるのよ。もちろんそれらの全ては企業秘密だけれども」
遠慮はいらないと笑いながらコーヒーの準備をする彼女であるが、自分は彼女のコーヒなどの飲食物に苦い思い出がある。
七月の百万灯祭りの際に彼女が振る舞ったコーヒーのせいで、会場であった大学どころか河越中が火の海に成りかけたことは記憶に新しく、その前は新入生歓迎会で極楽チャンポンを無理強いされて一週間酔いを経験したこともある。
それ以外にも彼女の振る舞う飲食物たちは、筆舌に尽くしがたいトラウマと呼ぶべき思い出を作ってきたのである。そして、そんな経験が今回も自分に危険が迫っていることを報せてくれる。
「お砂糖は幾つかしら」
ただ怯えて炬燵に座っているうちに、彼女がコーヒーポットと砂糖ツボを持って来て、自分の対面に座ってしまう。
逃げ出す機会を逸した自分は。真っ白なコーヒーカップに注がれ、ヴェールの様な白い湯気がカップに揺蕩う黒地によく映える、実に美味そうなコーヒー、と思われる真っ黒な液体を凝視して、脂汗をダラダラと垂らしながら「ブラックで」と答えることしかできなかった。
目の前に置かれたそれは確かにコーヒーの様である。
しかし彼女の事である。コーヒーとは全く別物の、恐るべき何物かの可能性があることが否めない。
何より、こんなに早く出てくるのが胡散臭い。彼女が台所に行ってからまだ1分しか経っいていないというのに。
匂いを確かめるべく嗅いでみれば、香りは紛れも無くコーヒーである。
その香ばしさは、匂いを嗅いだだけで口の中にあの独特の苦味と酸味を再現させる。
頭が冴え渡って来て疲れも吹き飛び、徹夜でも朝飯前と豪語できそうな魔力がある。そんな香りが鼻腔を満たしてくれる。
取りあえず様子を見てみようと、彼女が一緒に持ってきたティースプーンでコーヒーをかき混ぜてみる。
「熱すぎたかしら?ごめんなさいね」と謝る彼女であるが、言わせてもらうがこれはコーヒーを冷ます行為ではない。
このスプーンを引き上げてみて、もしも変色や溶解など何か異常が在った場合、確実に劇物であると認定できる。
そのための試薬としての役割をこのスプーンは担っているだけなのである。
故に彼女が謝るのはお門違い、謝るべきは疑っている自分自身なのだ。しかし、これは疑わざるを得ないので許してほしい。
30秒ほどかき混ぜてみた自分は、意を決してスプーンを引き上げてみる。恐る恐る見つめる先に彼女がニコやかにこちらを見つめてくる。
そして驚愕する。スプーンの先は溶けて無くなっていた。
スプーンは柄だけしか残っていないのである。普通じゃあり得ない。
目を剥く自分に対して、彼女は冷める前にコーヒーを飲んでしまうようにと、微笑みながら促してくる。
―――これを飲めと言うのか。スプーンの先端をわずか数十秒程度で影も形も無くなるほどに溶かしてしまったこの真っ黒い液体を。
こんなもの飲んだ途端に血反吐を吐き、内蔵に穴を開けて臍から黒い液体を噴きだすこととなるだろう。考えただけでも身の毛も弥立つ、壮絶な最期である。
こんな物どう考えたって命に関わる。一口だって致死量だ。
「どうしたの? もしかして警戒しているわけ。失礼ね。毒なんて入っているわけ無いじゃないの」
ですが、と渋る自分の目の前で業を煮やした彼女が「だったら毒が入っていない事を証明してあげるわ」と言ってあろうことかコーヒーを口にしてしまった。
自分が止める間もなくコーヒーを飲み干してしまった彼女をハラハラしながら見守る自分だが、彼女は至って平然としている。血反吐を吐くことも臍から黒い液体が流れ出る様子もない。
これはいったいどうした事だろうか。
あれから5分経とうとしているのに、一向に彼女は苦しむ様子を見せない。まさか先に解毒剤でも服用していたのだろうか。
どこまでも信用しようとしない自分に対して彼女の視線は次第に、いかにも不機嫌そうな冷たいものになってゆく。これ以上こんな辛辣な視線に晒されていては、どうにもこうにも耐えかねない。
彼女が口にしたのは同じポットから継いだコーヒーなのだ! 決死の覚悟でほんの少しだけコーヒーを啜ってみれば、その味の奥深さに思わず感嘆の溜息が漏れてしまう。
とある人がコーヒーの事を宇宙と例えたが、今この瞬間、自分はその言葉をようやく理解できた気がする。
複雑に絡み合う香り。一言で話表せない味わい。褐色とも黒ともつかない深い色合い。これはまさに宇宙である。
これだけの感動を自分に与えるコーヒーの美味さもさることながら、コーヒーの中に含まれる甘みに驚かされる。
確か彼女にはブラックと頼んだはずである。しかしながらこのコーヒーは砂糖を入れたみたいに甘いのである。
驚きを隠せない自分をしたり顔で見つめる彼女は、手元にあったティースプーンを弄びながらコロコロと笑っていた。
「ドッキリ大成功ね。驚いた?実はこのスプーンって、先端の部分がザラメでできているのよ」
彼女が言うには、これもまた商品開発を依頼されたものの一つで、レストランのシチューやスープに付いてくる、固焼きのパンでできたスプーンからヒントを得たものらしい。
彼女が一緒に持ってきていた他のスプーンを手にとってよく見たら、なるほど褐色の飴のようなものでできている。それを口に含んでみれば、口の中に甘さが広がるのだから彼女の言っていることは間違いない。
「話のネタとしても面白いしだろうし、何より洗い物を少なくできるから、暇を持て余したマダムのティータイムには引っ張り蛸だわ」
彼女に今度新開発する紅茶用のミルクスプーンとレモンスプーンも薦められたが、これ以上は極上のコーヒーの味を濁す必要はないと断った。
ユックリと味わいながらコーヒーを飲み下した自分は、口内に残る味と香りの残滓を味わいつつ暫く呆けていたのだが、コーヒーのカフェインが頭に巡ってくると、自分が彼女に呼ばれた理由がなんであるかという疑問が浮上してくる。
その疑問を彼女に質問すれば、今しがた思い出したように彼女はこう答えてくれた。
「集団催眠装置だけれども、あれは時の鐘に仕込まれているのよ。あの鐘の音がこの街は狂わされているのよ」
唐突に明かされた重大事実に自分は再び呆けてしまう。
「そもそも、覚えが無いかしら? 貴女が九死に一生を得た様な場面で、いつもどこからか鐘の音が鳴っていたことを」
「… !」
「あるでしょう? その時に前のアナタから今のアナタへと役が引き継がれているの。鐘の音を伝染してね」
「そんな馬鹿話…」
俄かには信じられない事だが、彼女の言う事に嘘は無い。
それに考えてみれば、時の鐘が催眠装置であるのなら、鐘の音に乗せて町中をカバーできる。至って理に適っているではないか。
そうなると目下の目標はあの鐘という事に成る。
あれをどうにかすることが、このまちの未来を左右することになる。
Aなら勇んで破壊しに行くだろう。アイツは川越に帰りたいから。
Cなら命懸けで守り抜くだろう。彼は河越の暮らしが好きだから。
だったら、間の自分はどうだろう。川越も河越も自分にとって思い入れがあるのだから。
だから、こんな重大な事実を開示されても、何もできず固まってしまうのだ。
しかし、なんでこんなことを彼女は自分に言うのだろうか。まったく訳が解らない。
自分はどっち着かずだ。河越を打ち壊そうとも守ろうともせずただこの二つの間でグラグラしている自分に打ち明けるべきではない。
もしも彼女に何か目的があるのなら、AかCに伝えた方が良いに決まっているではないか。
「いいえ、どっち着かずだからこそ話してあげたのよ。何せ私もどっち着かずだから。―――確かにこの街は面白くて気に入っているわ。毎日のようにトンデモナイ事件が起こってドタバタ劇を演じて、最後には茶番めいた終わりを迎える。こんな毎日が楽しくて仕方がないわ。けれども、わたしは川越に戻してほしいとも思っているのよ。そうでないとあなたが返ってこないから」
「―――それは一体どういう意味なんですか?自分が返ってこないって…そもそも貴女はこの件についてどういう風に係わっているのですか」
「―――相変わらず酷いわね。忘れたままなんて。私たち付き合っていたのに」
―――!なんだって。彼女は何て言ったんだ。
唐突に彼女の口から告げられた言葉に、自分は目を剥いて狼狽える。
付き合っていた!? 本当か? また彼女の嘘か誑かしではないだろうか。
もしそうでないのなら、それは喜ばしい事だ。ずっと恋焦がれていた彼女が自分の彼女だったのだ。
手を打って踊りだしたい自分だが、彼女の酷いわねの一言が楔となっている。
「確かに私たちは恋人として付き合っていたわ。それ以前にも小学校のころから友人として付き合っていたわけだから、あなたとは本当に長いことに成るわね」
「そんなに長く…ですが何で自分はそのことを忘れていたんですか。そんな重要なことを普通は忘れるわけがないのに」
もしもその事実を忘れていなければ、彼女のことで自分は苦しむことがもっと少なかったかもしれないし、Cの胸に焼き鏝の跡が付くことはなかったろう。
「それには私にも少なからず原因が有るわ。知っての通りこの街は誰かが誰かの役を担うことで人の穴を埋めるようにできているわよね。そのシステムの要となっている集団催眠装置、あれを開発したのは私と話したわよね」
そのことについては既に聞いた。むしろそんな物を作れるのはこの街で彼女くらいだろう。第一彼女は小学生の時点で既に催眠装置を作っているのだから。
「そしてそれ作る事を進めてくれたのが何を隠そうあなたなのよね」
それは知らなかった。自分がそんな事を彼女に進めていたなんて。
つまりは自分が彼女の背中を押したことだということか。
「それだけじゃないわ。催眠装置を使った街づくりのシステムを考えたのはあなただし、それを実現してもらうために市長に掛け合ったのもあなたなのよ」
つまりほとんど自分のせいではないか。忘れていたとは言え、この街の『功罪』は自分で撒いた罪の種であったのだ。
「覚えている?…覚えていないのよね。無責任な事に。あなたの趣味にも付き合ってあげたのに」
…いったい自分は彼女に何をしたのだ。
「それはさて置き、あなたが『あなた』を忘れた理由について話してあげる。あなたがこの街の事を忘れてしまったのは、あなたがこの街を純粋に楽しむためなのよ」
この街を楽しむためだと?何を考えているのだ、自分は。楽しむどころか非常に困った事に巻き込まれているというのに。
「この街のシステムを全部知っていては『功罪』も種と仕掛けが解っている手品みたいなものだからね。あなたは厭きてしまったんでしょう。昔のあなたには結構そういうところが有ったから」
そうして自分は彼女に相談したらしい。どうすれば河越を忘れられるのかと。
「だから私は手元に有った催眠装置の試作品を使ってあげたのよ。そしたら上手い事ケロッと忘れてしまったわ。私の事も含めてね」
そうして一度記憶を無くしたために代役システムでも記憶が受け継がれないままになり、役だけが受け継がれてきたのである。
しかし、自分の付き合っている彼女の事までも忘れてしまうだなんて、自分は何て薄情な男なのだろう。
その事を彼女の謝るが、彼女は手を振って否定する。
「気にしなくていいのよ。あなたは付き合っていたことを忘れていても私の事が好きだってことを覚えていてくれたから。それだけで私は嬉しかった。あなたの愛はどんな事があっても永遠だと思えたから。それに私も『あなた』のことが誰よりも好きだから、望むことをしてあげたかったの。それにこの街をより面白くしてあなたに喜んでもらえたなら、私はそれで満足なの。だからあなたが河越と私の事を忘れた後も、私はこの街で色々な事をやってきたわ」
彼女が様々なトンデモナイ物を作りだしてきたのも、それを死の商人の如く方々の組織に提供してきたのも、単に自分を思ってのためである。正直歪んでいながらも何という自分への愛の深さなのだろうか。
「毎日毎日、あなたの喜ぶ顔を思い浮かべながら様々な事を研究して色々な物を開発してあらゆる組織に手を貸したわ。そうやってこの街を掻き回してきたのよ。どう?楽しんでもらえたかしら」
彼女の話を聞く限り、彼女と言う河越の怪物を生み出したのは、大体自分の身勝手が原因だという結論に至るのだった。
自分が彼女というこの街を混乱へといざなう存在を作り、そして無責任にも彼女に汚れ役をすべて押し付けて、自分は勝手に楽しむために一傍観者となることを選んだ。
その上、忘れていたとはいえ被害者面をして恨み言を吐いてきた自分の姿を思い返すだけで反吐が出そうになる。
しかし、それが他人の事なら、彼女のために義憤に燃えることもできるだろうが、自分自身の事であるため脂汗を垂らしながら謝罪の言葉を口にした。
「どうして謝るの?何度も言っているように別に私は悪い事をされたと思っていないわ。それよりもね、これからもっと楽しい事をしてあげるから喜んで」
そう言って無垢に笑う彼女に自分は心底ゾッとする。彼女の真意を知った今では余計にその笑顔が恐ろしく感じる。
本能的に後退りしようとした自分だが、自分の体が動かないことに動揺してしまう。どういうわけか体に力が入らないのだ。それに強烈な眠気も襲ってくる。
「ちょうど時間通りね。調合が上手くいったみたいで良かったわ」
そう言った彼女はチラリと崩れ落ちる自分の様子を見て満足げに表情を綻ばせた。
まさか、やっぱり先ほどのコーヒーに睡眠薬が? そう思うものの一緒に飲んだ彼女は眠そうな様子など無い。ならばどうして?
「もしかしてコーヒーに薬を入れたと思っているかもしれないけれど、それは見当違いよ。薬が入っていたのはスプーンの方。溶けてしまった先端部分に砂糖と一緒に混ぜ込んでおいたのよ。だからあれはあなたが入れたの。自分で入れたんだから恨まないでね。…あら、もう寝ているのね。おやすみなさい。明日を楽しみにね」




