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誰がために時の鐘は鳴る  作者: 楠木 陽仁
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河越レターボックス篇

誰がために鐘は鳴る。

だが自分のためではない。



時の鐘が九つ鳴っている。この埼玉県河越市に9時が来たことを街全体に知らせるために。

 自分は河越市役所の目の前に位置する大学へ向けて全速力で自転車を漕いでいた。

講義は9時からなので時間的には完全に遅刻である

自分はこの大学に通っている。学年は4年生だ。

専攻している科目は地質学である。一年中、野山に籠っては、華やぐこともない土と石をいじくり回している。

このことから周りからはモグラ組呼ばわりされているようなむさ苦しい集団である。だが不思議なことに女子の割合は低くはない。男7に対して女3といった割合だろうか。

自分も山に籠って土と石をいじくり回しているモグラの一匹ではあるが、それなりに友達を作り、それなりに女性と話し、それなりに勉学し、それなりに遊んで、それなりに旅行に行っている。

かといって世の大学生のようにダラけているわけではなく、やるべきことはシッカリやっている。それどころか、単位も卒論も就職も三月中にすませてしまっているため、あとは好きな授業を受け、好きな場所へと出かけようかと計画するほど非常に気ままである。

実に平穏な大学生活である。


―――三月三十一日までは。


 自分がこの異変に気付いたのは今年の四月一日からである。

 実を言うとこの四月一日まで、自分が通っていた大学は今向かっている場所にはなかったのだ。

 もともと自分は東京の大学に通っていたが、四月一日にどういうわけか大学が建物も通っている人間もそのままこの河越市役所前まで移ってきてしまっていた。

 先ずは考えてもらいたい。四月一日の朝、新学期に学校へ向かうための準備をしている最中、定期券が無いため母に聞いてみた時の呆れ返った顔を。そして、時間が無いからと、家を叩き出されてしまった時の自分の顔を。

 どうしようもなくなった自分は切符を買い、新河岸駅から東武東上線の上り方面に乗り込んで大学へ向かうことにしたのだが、何故か乗れないのである。電車に。

 別に神秘的な何かによって阻まれているわけではない。ただ、電車に乗ろうとした瞬間にトイレに行きたくなったり、乗り込もうとした車両が満員であったりと、人的な何かによって自分の東京行きは阻まれ続けた。

 このようなことが続いたことにより、遅刻することはもはや確定してしまったので、同輩に連絡を取り遅れることを伝えたのだが、その同輩におかしなことを聞くような反応をされ、さらに自分はおかしなことを言われてしまった。

 同輩が言うには自分は電車ではなく自転車で大学へ通っていたらしい。

 このことに関して自分は全く身に覚えがない。

 それどころか自転車で埼玉県の川越市と東京とを通学するのは無理である。

 すれ違う自分と同輩との会話の末に見出された結論が、自分の大学がこの河越市に移動してきてしまったということである。



これはさすがに神秘的な力が働かなくてはならない。

自分も納得いかないのだが実際にそうなっているのだからしょうがない。

そんなこんなで河越に移動してきた大学に通い続けて既に二十日経っているが、未だ大学は東京に帰る気配がない。

大学がよほどこの河越市を気に入ったのだろうか?

それは自分にとっても嬉しいことである。自分も故郷である川越市を愛してやまないのである。


―――そう。『河越』ではなく『川越』を。


一つの結論を言えば、この人口十万人を抱え、埼玉県中南部に位置し、『小江戸』の名が示すように多くの歴史と文化を持つ地方都市である埼玉県河越市は、自分の住んでいた埼玉県川越市とは似て非なる街である。

アニメやゲームなどに出てくるパラレルワールドといえば解り易いだろうか。

ウソを吐くなと言われるだろうが、この河越市で起こる奇妙な出来事の数々を考えると、まるで自分が鏡の国に迷い込んだアリスのように、この河越という異界に迷い込んでしまったと考えるとうまく説明がつく。

それと信じられないだろうが、自分は電車どころか自動車・自転車・徒歩などどのような交通手段を使ってもこの河越から出られない。

このことも『河越パラレルワールド説』を考えるようになった理由の一つである。

この境界を超えることを阻止しようとする力は半端ではなく、神秘的・霊的・自然的・人的・その他もろもろの力によって自分の越境を阻止してくる。

まったくいい加減にしてもらいたいものだ。たった一人の大学4年生を相手にここまでするとはどうかしている。イッタイ誰の力なのだ。明らかに力の無駄使いだ。

そもそもこの河越と自分のいた川越とは違っている点が多い。街のシンボルである時の鐘にしてもそうだ。

川越では時の鐘は朝と夕方にしか鳴らなかったが、この河越では毎時間ごとに時を河越市民に知らせている。

しかし川越市民の自分には迷惑な話である。なぜなら河越市民はこの鐘の音に頼り切っており、市内のどこにも時計というものが存在しない。いったい何時代の話だろうか。

この時計がない生活は二十日過ごしても慣れることはできず、今日のような遅刻という醜態を幾度となく晒しているわけである。

もちろんこのままでは素行不良として単位にも響く恐れがあるが、最初にも言ったように、この鐘は河越市民でない自分のためには端から鳴っていないのだろう。鐘は自分の苦悩を知らん顔をして響き続けている。

そして河越が川越でないことに気が付いている人間は自分以外にはいない。自分は物語の主人公なのか?



などと説明しているうちに大学に到着してしまった。

講義室へ駆け込むことで、自分がいかに急いでこの教室へ向かってきたかを示したつもりではあるが、時間の鬼として知られる教授には20分オーバーでは言い訳する間もなく教室から叩き出されてしまった。

行く宛もなく校庭の芝生を歩いていると、芝生を縦横無尽に徘徊している男と出会ってしまった。

外見は糸目でペカッとした七三分け、背は自分より低く、顔は全体的にボールの様に丸っこい。この男を絵に描くにはコンパスを使うと正確に描けるだろう。

彼は自分が『先輩』と呼んでいる人物である。



『先輩』は先輩であった自分と同じ大学の4年生である。少々ややこしくはあるが、この表現は間違いではない。

自分の大学は2年になったときにどこかの研究室やゼミに所属することになっている。

その例に漏れず自分も2年生に昇級した時に現在の先生が主催している研究室に入った。その研究室に所属していた2年上の生徒が先輩であった。

しかし先輩は一昨年、卒業に必要な単位を充分に取得し、卒論も提出し終え、就職先もバッチリ確保していたにもかかわらず、うちの学科が通常の科目とはまた別に取らなくてはならない特別専攻科目の単位を一単位落としていたために卒業できなかった。

そして去年、卒業に必要な単位を充分に取得し、卒論も提出し終え、就職先もバッチリ確保し、特別専攻科目の単位も取れていたにもかかわらず、卒業申請を学校に提出し忘れるという離れ業をやってのけ、それが元で卒業できなかったがために現在も大学4年生をしている。

こんな経歴のせいで先輩に対する周囲からの態度は少しよそよそしく、また所属している研究室にも4月から一度も顔を出してはいないが、自分と先輩の関係は以前と変わりない。なぜなら先輩が自分に図々しくも関わってくるからである。

「おう。暇そうだな」

先輩が自分に話しかけてくる際の常套句である。先輩はと自分が川越にいたころからの付き合いであるが、先輩自身はこの異世界河越に来たことにはやはり気が付いていない。

「暇ではありません。これから家に帰ってもう一眠りする予定が入っているので」

「まあ、時間があることには変わりはないな。だったらチョット手伝ってほしいことがあるのだが」

「嫌です。帰らせてください。」

「そう言うなよ、お前と俺との仲じゃないか。それと今回の件は金になる」

「自分を誘惑しないでください。それに頼むなら自分ではなく彼女に頼めばいいじゃないですか。自分より絶対役に立つはずです」

「彼女?」

「ええと、ほら、同じ研究室の、背の小さい」

「ああ、あの子のことね。もちろん探したけど何処にも見当たらないんだ。」

「それは残念でしたね。でもだからと言って自分を頼らないでください。ではこれで失礼します」

「成功報酬として五十万円でどうだ?」

「やります」

 このような感じで自分は先輩の巻き起こす騒動に巻き込まれてしまう。先輩はトラブルメーカーとしても有名であり、その上そこら中に借金を抱えているため、留年が決定する以前から学校全体から敬遠され、逆に借金取りからはしつこいぐらい注目を浴びている人物である。

自分もできるだけ先輩とは関わりたくないが、何が気に入ったのか自分に目をかけてくれる。マッタク要らぬお世話だが。

 しかし自分も幾度となく危ない橋を渡ってきたにもかかわらず、先輩とつるむことを止めないのだから、自分でも理解しがたい。

イッタイ自分は先輩の何に惹かれているのだろうか? 自分でもよく解らないがついついそうしてしまうのである。



今回先輩が取り組んでいることは『河越レターボックス』である。

『レターボックス』という遊びをご存じであろうか?

この遊びはイギリスのダートムーアが発祥の地であり、街のあちこちに隠されたスタンプを集める一種のスタンプラリーである。

しかし、たかがスタンプラリーと侮ってはいけない。街全体を舞台とするスケールの大きさもさることながら、スタンプの数は合計で数千個にも及び、それらを少ない手がかりで見つけ出さなくてはならないという途方もない作業なのである。

そんな途方もないことをこの河越を舞台としてやろうというのだから、物好きにも程がある。

しかも河越レターボックスは、悪ノリした参加者がスタンプを持ち込み、勝手に隠していくため、スタンプの数は日を追うごとに増えていき、現在では登録してあるもので数十万、未登録のものを含めると天文学的な数字に達すると噂されている。

ちなみに川越にはこのような企画はない。



実を言うとこの河越には物好きな企画が多い。その一つ一つを挙げていては切りがないので、いずれまたの機会に語るとしよう。

ではなぜ河越にはこのような物好きな企画があるのだろうか。

この河越に流れ着いてから十日目、そのことに気付いた自分は川越に帰るためのヒントになるのではと考え、独自に調査を開始した。

しかし宛が外れ、残念ながらそれらは川越へと帰還する直接のヒントは無かったため、今現在も自分は河越にいる。

だがその結果として河越に企画が存在することの原因は、何代か前の市長に原因があるという事実に辿り着いた。

今から十年前、その当時の市長は市民に大変人気のある人物であった。支持率は常に70%以上を維持し続け、一時期河越は熱狂の時代を迎えていた。

この圧倒的な支持率を背景に市長が打ち出した政策が『ディスカバー・河越』政策である。この法案が成立までに1時間とありえない速さで審議を通過し、実行されたことからもこの当時の市議会がどうかしていたことが伺えよう。

この政策は河越に今ある名物に手を加える、もしくは新しい名物を作ることで、観光客を呼び込もうというものであり、簡単に言うと何の変哲もない街おこし計画である。

時の鐘による時報も『河越レターボックス』もこの政策によってできた新名物であった。

だがこの政策のおかげか、河越の観光客数は前年比2倍という上昇を見せ、市長は満場の拍手のもと退任していった。

しかし熱狂が去り、皆が冷静になっていくと、この政策のボロが次第に見え始める。

前市長の独断により『面白ければそれで良い』という風潮のもと、河越とは全く関係のないような名物ばかり作られたために、イッタイ何が河越の良いところなのかが分からなくなってしまった。

またこの政策によりできた新名物も、その後の参加者たちの悪乗りにより従来の姿からかけ離れたものとなってしまった。

古き良き『小江戸河越』はこのようにして失われたのである。

これを総じて河越市民は『街おこしの功罪』と呼んでいる。

ちなみに功が二割、罪が八割というのが一般的な見解である。

もちろん川越にはこんな市長が存在したという記録は無い。

つまりここ河越は十年前を境に自分がいた川越とは少し違う歴史を辿った街、やはりパラレルワールドなのである。



「それで功罪の一つである『河越レターボックス』をどうして先輩がやっているのですか?」

「実はな、河越レターボックスはあまりのスタンプの多さと、登録されていないダミースタンプの存在から、未だかつて誰もコンプリートした者がいないスタンプラリーとしてネットでちょっと有名な話なんだ。」

 何か飲み物をおごると先輩に誘われて、ノコノコとカフェテリアまで付いて来てしまった自分。そして振舞われた給水器の水を啜りながら、先輩は地震の企みについて告白している。

「そうなんですか。それで、自分の五十万円はどのように捻出されるんですか?」

「簡単な話だ。そんな幻のスタンプ台紙をコンプリートしてオークションに出品すればどうなると思う? 高値で売れることは間違いなしだ。百五十万は下らないだろう。そこから君の五十万は捻出される」

 まさかそんな稼ぎがあるなんて。世の中にはもの好きがイッパイいるのだろうが、スタンプラリーの台詞だなんて、大金を出して買うだけのものだろうか?

「それがいるから面白んだよ。ピカソやゴッホも誰かが良いと言わなければ、あんな大金を出す絵にはならないのさ。それと同じで、この河越のアイテムに熱狂的なファンがいる。そいつらが唸るほどの金を払ってくれるのさ」

「確かに理にかなっていますね。きっとその人たちは金が余って仕方がない人たちなのでしょう。それより五十万と言わず半額下さいよ。七十五万円下さいよ」

「そんな欲張りは五万にしちまうぞ」

「すみませんでした。ですが、そんな難攻不落のスタンプラリー、完成できるんですか?完成するまでに五年はかかるんじゃないですか?」

「大丈夫だ、既に残りのスタンプはあと一つだ。ここまで五年かかったが。そしてそのスタンプが大学の校内にあるとのヒントを手に入れて、こうやって探しているんだ」

「イッタイどんなヒントなんです? 見せていただけますか」

 先輩から受け取ったヒントの紙には確かに『大学校内』とだけ書いてあった。

 こんなアバウトなヒントだけで総面積10キロ平米を超えるこの大学をどう探せばいいのか。

 今更ながら自分でも五十万では安過ぎたのではないかと思うようになった。

「しかしこんなデカい校内、(しらみ)潰しに探してもなかなか見つからないな。春休みからずっと探しているんだが」

「イッタイどこまで探したのですか?」

「芝生はさっき探し終えたし、あと体育館と記念館と噴水、それから食堂と本館から8号館までは探したよ」

「ということは、研究棟と図書館はまだ探していないわけですね」

「そうだな。じゃあまずは図書館から探そう。行くぞ」

 どうやら先輩は頑張っていたらしく、校内のほとんどは既に探索済みであった。これならば五十万で働いても充分だろう。自分は自分の選択に少し希望を持った。

 


 希望は見事に裏切られた。

自分の通っていた大学の蔵書量は、普通の市営図書館と変わらないはずだった。

 しかし自分はこの河越に来てから一度も図書館に来て、まだ一度も図書館を利用していなかった。そしてそれが仇となった。

今知ったことだが河越にあるこの大学は、建物は自分の通っていた大学と同じように、地上二階建てであるが、何故か国会図書館百ヶ国分の蔵書量を誇っている。

このミステリー、イッタイどのようにしているのか。

 その理由は図書館の地下にある。

なんと図書館の地下階は地下百階にまで達しているのである。 

その上、各階層に1万冊に上る本を収めた無数の部屋が存在し、それらが複雑に繋がりあっているため、さながら迷路のようになっている。まさに本の迷宮である。

 ―――という噂がある。なぜなら全容は誰として知れないのだから。

 


 自分と先輩は図書館の地表階を本棚から机の下、トイレと休憩室までくまなく四時間かけて探したが、どこにもスタンプは隠されていなかった。

「ここにないとすると、やはり地下階に隠されていると考えるしかないだろう」

「―――先輩。どうしても行かなくてはだめですか? 自分はそろそろ帰りたいのですが」

「ダメだね。一度乗りかかった船だ。沈没するまで乗ってもらうぞ」

 先輩はグズる自分の襟首を掴み、引きずりながら地下への入り口へと向かっていく。

 地下への入り口は重々しい感じは全くなく、学校内にある階段と見た目は変わりない。

 設置されている認証ゲートが無ければ気軽に下りて行ってしまいそうである。

 先輩はゲートの前にある受付に座った女性に話しかけた。

「すみません。地下に行きたいのですが」

 地獄のゲートを通過するには、門番たる司書さんの許可を貰わなくてはならない。

 司書さんはメガネをかけた朗らかな雰囲気を醸し出す五十路越えという外見の女性であったが、自分たちが地下へと向かうと聞いた途端、朗らかさは消え去り、代わりに真剣さを張り付けた青褪めた顔を向けてきた。

「悪いことは言わないよ、止めときな。ほしい本があるなら注文票で頼みなって。そりゃ見つけてくるまで一か月以上はかかるけど、若い命をこんな所で散らすんじゃないよ」

「それではダメなんです、俺たち自身がいかなくちゃならないんですよ」

「それはどういうことなのさ?」

「男には黙ってやらなくてはならないことが有るということです」

「ふざけんじゃないよ!命を懸けないといけないことってなんなの!お願いだからどうか思い止まってちょうだい!」

「ごめんなさい…司書さんの心遣いは嬉しいのですが、それでも地下に行かなくてはならないんです」

「…解ったわ。これ以上は止めないよ。そこの機械に学生証を読み取らせれば入れるわよ。それと行くんならそれなりの準備をしていきな。このバックパックには発信機とGPSが取り付けられているからね。他にも水と非常食、ナイフに救急セットとロープが入っているから。あとヘルメットとライトも持って行きな」

「ありがとうございます。必ず戻ってきますから。」

 ―――ええ…なんなの?

 目の前で繰り広げられる、B級映画のワンシーンめいた先輩と司書さんのやり取りに、自分は冷めた気持ちと共に底知れない恐怖を感じてしまう。

「…あの先輩、会話の最中にすみません。いったいこの地下はどうなっているのですか? こんな重装備の必要な図書館なんて聞いたことがありません」

「さあな、俺もここに入るのは初めてだから。とりあえず話を聞く限り(はぐ)れたら助からないと思ったほうがいい。貸してもらったロープでお互いを結んでおこう」

 先輩はバックパックから取り出したロープの両端をお互いの腰に結びつけた。このロープ、引きちぎることもバックパックのナイフでも切り裂くこともできないほど頑丈であった。しかもロープの端は自分の腰に縛り付けられ、とてもほどけそうにないほどキツく結ばれている。

こうして逃げられなくなった自分は強制的に地下迷宮への冒険に出かけることになった。

「さあ!準備ができたなら出発だ。では、司書さん行ってきます」

「気を付けて行きな。あと十人ほど地下で行方不明になっているから、見つけたらこのアラームを鳴らして連絡するんだよ。それと一人、前期の期末試験後に入ったきり出て来ない生徒がいるから。もし、死んでいたら持ってきてくれる? 頼んだよ」

 このとき自分は遺書を書いておかなかったことを真剣に後悔していた。



 地下は蛍光灯の青白く冷たい光で照らされた空間に、機械仕掛けの本棚隙間なく整列していた。

 この本棚の側面にはスイッチがついており、これを押すことで本棚がスライドし、人が一人通ることのできる空間ができる。この本棚の空間を通って目当ての本を探すようになっている。

 しかし、このシステムにより通路が毎回変わってしまうため、この図書館を更なる迷宮に変えてしまう要因となっていることは確かである。

「ですがこんな広大な図書館をどう探せば良いんですか? まさかここでも一つ一つ探すわけではないですよね」

「いや、さすがにそれじゃ時間がかかり過ぎるからな。もちろん手は考えてある。さっき司書さんが地下には行方不明者が何人もいるって言ってたよな。そいつらは、出口を求めてそこら中を歩き回っているはずだ」

「…つまりその途中でスタンプを見つけている可能性があると」

「解ってんじゃないか。それに遭難者の救助もできて一石二鳥というわけだ。それじゃあまずこのフロアから探すとするか」

 そして自分と先輩は遭難者の捜索を開始した。

 河越のほかの場所と同様この地下室にも時計が設置されておらず、自分も先輩も腕時計を着けない今どきの若者である。

その上ここは地下であるため時の鐘の音は届かず、充電器も持ってきていないため携帯電話の電池が底を尽きると、もはや時間の感覚がなくなってしまう。

 しかし食料と飲料水は各階に設置された無人救護施設に蓄えられているため、長期間ここで過ごしていても生き延びることはできた。また無人救護施設にはトイレも完備されていた。

 自分と先輩は腹が減ったら食べ、催したらトイレへ駆け込み、眠たくなったら寝るという、実にナチュラルな生活をしながら探索を続けた。

 おおよそ二桁を越える階層を下り、三桁を超える部屋を捜索している間に、自分たちは九人の遭難者を発見していた。

 遭難者は誰しも設置されている食料と水によって生きながらえてはいたが、長い期間彷徨(さまよ)ったせいでに憔悴(しょうすい)しており、傍目には死体のように通路に横たわっていた。

その誰もが譫言のように目的の本の名前を呟いているのだから、よほどの決意を持ってこの迷宮に挑んだ冒険者だったのだろう。しかし決意だけではどうにもならないのがこの迷宮なのだろう。

 自分たちは遭難者を救護し、救難信号を飛ばして図書館救護部隊を呼んだ。

 そして救護部隊を呼んでいる間に回復した遭難者からスタンプの情報を聞いたが、誰としてその所在を知る者はいなかった。

「先輩、これだけ聞き回っても見つからないんですよ。ここにはスタンプが無いということじゃないんですか?」

「いや、諦めるのはまだ早い。それにまだ遭難者が一人見つかっていないじゃないか」

「それって司書さんが言っていた期末試験後から行方不明になっている生徒のことですか?」

「そうだ。そいつがまだ見つかっていない」

「司書さんも言っていましたが、多分そいつは死んでいますよ。それに先輩、自分たちはスタンプを探しているのですよ。遭難者なんて図書館に任せておけばいいじゃないですか。下手すればこっちが遭難者になるかもしれないんですよ」

「お前…冷たいことを言うなよ。乗りかかった船じゃないか。沈没するまで乗ってやろうじゃないか」

「沈没するのはなお嫌です。ねえ、もう帰りましょうよ、先輩。・・・・・・・・・先輩? 

 ―――まさかですが先輩。帰り道が分からない、なんてことは無いですよね?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よく解ったな」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あのですね先輩、あまりにお約束過ぎる展開じゃないですか。迷宮に面白半分で入っていったら、道に迷ってさあ大変なんて」

「とはいえなあ、本当に道が解らないんだ」

「解らないんだ。じゃないですよ! ふざけないでください! 何とかしてくださいよ! 何かないんですか? 目印を残してきたとか」

「そんなものはないよ。俺だって人間なんだ。ファンタジーのヒーローじゃないんだから、道に迷うこともうっかり目印を付け忘れることもあるんだよ」

「そんなの詭弁だ! ヒーローでなくても責任とってなんとかしてください! 凡人でもヒーローの真似ぐらいはできるでしょう! 先輩が巻き込みキャラのくせに何にもできないなんて迷惑過ぎます! ヒーローのいない物語なんて不幸過ぎます!」

「『ヒーローのいない国が不幸なのではない。ヒーローを必要とする国が不幸なのだ。』  ―――ガリレオ・ガリレイの言葉だよ。それにその年になって現実とファンタジーとの区別が付かないのはどうかと思うぞ」

「うるさいです! わけの分からないことを言わないでください! ああ!いったいどうすればいいんだ! こんな所で遭難しながら一生を終えたくない!」

「落ち着け! こういう場合パニックになるのが一番危ないんだ。落ち着いて考えれば何かしらいい案が浮かぶかもしれないぞ。リラックス、リラックス。深呼吸深呼吸。

―――ッ! 危ない!」

 パニックに陥っていた自分は一体何が起こったか解らなかった。

 突き飛ばされて振り向いた先には自分がさっきまで立っていた通路は存在したおらず、本棚と本棚が隙間なく密着していた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・? ! 先輩! 先輩!」

 三〇秒の忘我から戻った自分は必死に腰に結ばれた綱を手繰った。

 先輩と自分とを結ぶ文字通り命綱。これが先輩と繋がっていることを信じて。

 しかし、手繰った綱の端には先輩はおらず、千切れた綱の繊維しかなかった。

引き千切ることもナイフで切り裂くこともできなかったロープが切れている。

そして、ロープの先端には、赤い血糊が滴っていた。

つまりは…

「先輩が…先輩が本棚の間で潰れてしまった。そんなっ、先輩がっ、先輩が死んでしまったっ! あああああああああああああああああああああああああああああああッ!先輩!」

 その時、時の鐘が鳴ったような気がした。

 


この時の先輩は確かにヒーローだった。この物語にもヒーローは確かに存在したが、それでもこの物語は不幸だった。ヒーローがいたところでヒーローが死んでしまえば結局は不幸なのだという事実を、自分は大切なものを犠牲にして知ってしまった。

 この後自分がどうなったかあまり覚えていない。気が付いたら自分は図書館迷宮の中を走っていた。自分は目の前に突き付けられた先輩の死から逃げ出すべく走っていた。おそらくはパニックの極致に陥ってしまったのだろう。

 狂ったように地下を走り回り、何度も転んで擦り傷を作り、背負っていたバックパックを何処かに落としてしまっても走っていた。

 ようやく冷静に戻った自分は、走り疲れてまるでボロ雑巾のようにクシャクシャになっており、途方に暮れながら場所もわからない通路の隅に膝を抱えて蹲っていた。

 疲れ果ててもはや理不尽な運命に怒ることもできず、自分はただただ川越に残してきた三月三十一日以前の平穏な日常を思っていた。

 両親と弟は心配していないだろうか。同級生たちは心配していないだろうか。入り口にいた司書さんは慌てていないだろうか。よくおまけをしてくれる学食のオバちゃんはどうしているのだろうか。同じ研究室の彼女はやはり自由に過ごしているのだろうか。

 


そういえば、彼女について説明していなかった。

冥土の土産だ、聞かせてやろう。

彼女は自分と同じ研究室の所属する女生徒である。この図書館迷宮に潜る前、芝生を徘徊する先輩に、自分が推薦していた人物こそがこれから語る彼女である。

彼女は自分とは仲の良い友達といった関係であり、所謂ガールフレンドというわけではない。

もちろん自分も恋愛に少なからず興味はあり、彼女のことを良いなと思ったことは何度かある。しかし他のことに興味が向いていたため、あえて恋人は作らなかった。

彼女の場合は自分のことなどどうとも思っていないのだろうが。

そんな彼女は探求の虫という表現がよく似合う。彼女の好奇心は並外れており、何事にも興味を示して首を突っ込んでいく人物である。

この間なんてアメリカで開催される学会へ、研究室の先生の付き人として出かけて行き、名だたる教授陣の前で流暢な英語で堂々と質問するに留まらず、それに対しての自分の意見を堂々と語り、満場の拍手を受けたほどの女傑である。

このように非常にアクティブな彼女のことだ、その溢れかえる社会適合能力でどこでも生きていけるだろう。

「ねえ、こんなところで何してんの?」

 そう、この迷宮のような図書館地下でも。



 彼女はそこにいることが当然のように、常套句とともに自分の前に立っていた。

 彼女の見た目はハッキリ言って自分と同い年だとは思えないほど幼く見える。

 身長は150cmに届いておらず、顔も童顔でクリクリとした目が愛らしい。肩に架かるほどの長さの髪はカラスの濡れ羽色、まるで市松人形の様な女性である。

彼女が真っ白いブラウスとひらひらのロングスカートを風に遊ばせながら、向こう側から歩いてくる姿は背景に花と蝶の幻覚が見えるほど実に愛らしい。

 また、このような外見に見合った内面が彼女には備わっており、感情も嗜好も幼い。

 このような人物であるが、彼女は研究室始まって以来の逸材である。はっきり言ってヒーローのようなスペックを持った人物である。いやヒロインか。

 そんな彼女でもこの河越が異世界だということには気が付いていない。ヒーロー体質なのに。いやヒロインか。

「ねえってば、何やってんの?」

「…それはこっちのセリフです。君は一体ここで何をやっているんですか?」

「何って、春休みの間に図書館中の本を読んでおこうと思って」

「まさか、期末試験の後からずっとここに籠っていたのですか?」

 彼女は胸を張って自慢げな顔を自分に向けてくる。

 どうやら十人目の行方不明者は彼女らしい。そして行方不明になった理由がいかにも彼女らしい。そして彼女は春休みの間に唯一、図書館の全容を知れる人物となったと言える。

「そうよ。ようやく全部読み終えて、これから帰る準備をしていた時に、あなたと先輩に会ったの。いったい何をしていたの?」

「ちょっと待て下さい、君は先輩に会ったんですか?」

「ええ、会ったわよ。先輩本棚に潰されそうになっていたとき近くで見ていたから。先輩必死になって逃げていたわ。」

「先輩が、無事? 良かった~」

「どうしたの? そんなに脱力してしまって」

「いえ、何でもないです」

「そうなの。―――ねえねえ、いつまで話をはぐらかすつもり? そろそろ質問に答えてよ、いったい何をしていたの」

「実はですね、先輩と一緒に『河越レターボックス』に挑戦しておりまして―――」

「なーんだつまらない、それならさっき先輩に聞いたわ。ちなみに図書館にはスタンプは無いわよ」

 あっさり告げられる真実に、自分は唖然としてしま。だが唯一、図書館の全容を知れる彼女の言葉だ。嘘はないだろう。

「―――そう、なんですか」

「そうよ。―――さあ、私もここの本はもう全部読んじゃったし、貴方ももうここには用は無いでしょ。一緒に帰らない? 先輩ももう地上に辿り着いたでしょうし」

「いやぁ…あまり君と一緒というのはどうも…」

「そんなぁ、悲しいこと言わないで。貴方は私のこと嫌いなの?」

「嫌いではないです。ただ何度も危機に陥らされましたが」

「むぅぅ!いいもん! 貴方には帰り道を教えてあげない。幽霊になって迷宮をさ迷ってればいいんだ!」

「帰り道がわかるんですか?」

「もちろん」

「教えてください!」

「嫌っ!」

「そんなグズらないで…」

「嫌ったらイヤっ!」

「・・・すみませんでした。君と一緒に帰らして下さい。お願いします」

「手もつないでくれる?」

「――――ッ! それはさすがに恥ずかし過ぎ―――」

「むぅぅぅぅぅっ!」

「つなぎます! ほらっ! つなぎましたから」

「アハハ、思ったとおりね。やっぱりあなたの手って温かい」

「――― !」

 前にも言ったように彼女は自分のことなどどうとも思っていないのだろう。

 だからこそこんな小恥ずかしいことを平気でやってのけてしまうのだろう。

 しかし、自分は、不覚にも、高鳴っていた。

 そして自分は再認識していた。こんな彼女だから、異性と付き合うのなら彼女が好いと。

「でも、冷たい手の人は心が温かいて言うじゃない? その逆だから貴方は心の冷たい人なのね」

 この一言で自分の高鳴りはあっという間にどこかに去ってしまった。

「君はそんな迷信で人を判断するんですか? やめた方がいいですよ」

「ウーン。でも、貴方の手は繋いでるとすごく落ち着くから好きよ。心の冷たい人はイヤだけど」

「それは良かった。じゃあトットとこんなところ脱出しましょう。ちゃんと自分の手を離さないで下さいよ」

「ウンっ、わかったわ。よろしくね」

「それと気を付けてくださいね。ここの機械本棚がさっき勝手に動いて大変な目に合ったんですから」

「それなら大丈夫よ。だって動かしたの私だから」

「―――⁉ やっぱりですか⁉」

「うん。だって通路内に人がいた場合、本棚がちゃんと動くかどうか確かめてみたかったから。」

 このとき自分は、不覚にも、ビビッていた。

 そして自分は再認識していた。こんな彼女だから、なるべく近くにいたくないと。

彼女は見かけだけでなく内面も子供っぽいところがあることは先ほども述べた。

 それは子供の様に可愛げがあるということだけではなく、子供の様に良識が欠如しているということである。

 例えば虫の羽をむしってみたり、犬を散歩ひもで首吊りにしてみたり、猫の体毛を電気バリカンで虎刈りにしてみたり。

 こんなものはまだ可愛い方であり、もっと倫理的にどうかと思うことを悪びれずやってのけてしまう。しかも人間に。

彼女をいたずら好きなんて言葉で呼ぶのは生易しい。子供の残額性を持った大人である。

「でも、ちょっと私の予想と違ったわね」

「? 何の話をしているんです? それよりも手を放してください。 やはり君とは離れていたい」

「イヤ。さっき手を離すなって貴方が言ったんでしょ。それに勝手に話を変えないの」

「君は勝手に話を始めたくせに」

「もう! ああ言えばこう言う。ほんと減らず口ね。いいから聞いて。あのね、私はね、あの状況で先輩なら先輩自身のことをまず優先すると思っていたの。なんせあんな性格でしょ。」

「確かに、そっちの方が先輩ぽいですね」

「だから意外なの。先輩が貴方のことをまず助けたのが」

「そう言われれば、そうかもしれないけど」

「ひょっとして、先輩は貴方のことを結構大切に思っているのかもね」

「―――…さすがに、それは無いと思います」

「アハハ、照れちゃってんのぉ。―――うん、予想通り貴方が照れても可愛くないわね」

「相変わらずサラリと酷いことを言いますね」

「けど、この結果もなかなか興味深かったわね。先輩が貴方のことを大切に思っていることと、結構走るのが速いことが知れて良かったわ」

「ですから!先輩が自分のことを大切に思っているわけ――どわああああああぁぁぁぁ!」

自分の手から彼女のぬくもりがなくなったと思った次の瞬間、自分は両側にそびえる本棚から降り注ぐ本の下敷きになっていた。

「アハハ、やっぱりね。貴方は予想通りだわ。予想通り私の仕掛けたトラップに掛かってくれるなんて。おもしろいわ」

「―――ヴぉはッ 何してんですか! ふざけないでください! 命に係わります!」

「でもね、思い通りというのも案外つまんないものよ。たまには予想を裏切ってくれなきゃ…あたし飽きちゃう」

「君は暴君ですか⁉ 悪女ですか⁉ 自分は貴方を楽しませるために生きているわけじゃない! 」

「ふうん、相変わらずパニクるとよく喋るのね」

「ほっといてください! もう嫌だ! いったい出口はどこなんだ!」

「あっちよ」

「サヨウナラ!」

 これ以上彼女に関わっていたら本当に生きて日の目を拝めなくなりそうなので、自分は逃げるように出口へ向かい駆け出した。

 しかし彼女はアハハと笑い声をあげ、蛍光灯に照らされた青白い光の空間をブラウスとスカートをはためかせ、両手を前に「待てまて~」と言いながら、まるで自分の影の様に、市松人形みたいな彼女がシタシタと追いすがって来る。

その時間、図書館地下迷宮には可愛らしさとホラーが融合した世界が繰り広げられていた。

そして、こういう場合に限って出口がやけに遠いのもまたお約束である。

それもそのはず。彼女は出口と逆方向を示したのだから。

 自分は出口に辿り着くまでに少なくとも十回は彼女の無邪気な残虐性の犠牲者となった後、ようやく図書館救護隊に保護された。

 


 自分が彼女の案内のもとボロボロ成りながら地表までたどり着くと、先輩が購買名物のソフトクリームを舐め舐め待っていた。

 こちらがどれだけ心配していたか、そしてそれ以上にどれだけつらい目に合ってきたかも知らず、実に呑気な態度である。殺意がこみ上げて来る。いつの間にか手に持っていた手帳を握る力が強くなってゆく。

 殺意をこらえながら先輩の話を聞くと、現在は午前9時。そしてなんと日付は四月三十日。気が付けばゴールデンウィークに突入。四月ももう終わりである。

どうやら自分たちは十日も図書館迷宮をさ迷っていたらしい。全くもって奇跡の生還と言いたい。彼女から与えられた臨死体験も含めて。

「先輩、もう勘弁してください。もう家に帰らせてください」

「まあまあ、この後は研究棟だけなんだからさ」

「モー嫌ですもう嫌です。先輩とつるむのはもう嫌です」

「そう冷たいことを言うなよ。もう少しでスタンプが完成するんだから」

「そうよ、貴方もついでなんだから。やってあげたらどうなの」

「自分には関係がないです。もう疲れたんです。帰らしてください。お願いです」

「いや、帰られたら困るんだ。なんせ研究棟には先生がいるじゃない。俺、こんなだからなかなか近づき難くってさ。だからお前が行ってくれ」

「! 何を理不尽なことを言ってるんですか。だったら彼女に頼んで下さいよ先輩」

「嫌ッ。興味無いから。それに新学期が始まってるのも知らないで迷宮をさ迷っていたのよ。早く提出しないといけない書類が山のように溜まっているから、早く何とかしないといけないの。だからもう行くわね」

「さて、彼女も行ってしまったことだし、行ってくれるか」

「だから嫌です。これで失礼します」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほんとに帰っちゃうの?」

「帰ります」

「・・・・・・・・うぇぁぇぇぇ!ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぁん! 行ってくれなきゃやだやだやだぁ! ふぁぁぁぁぁぁん!」

「いきなり泣き出さないでください! 二十四の男が号泣するなんて見苦し過ぎます!」

「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだいやだやだやだやだやだやだやだ」

「もう、わかりました。行きますよ。行きますから」

 こうして自分はしぶしぶ先輩に付き合うことにした。

 自分が承諾しても号泣し続ける先輩を放っておいてどこかに逃げてしまうことも考えたが、先輩の号泣に引き寄せられた周りの目があまりにも痛く自分に突き刺さる。

 その中に自分が見知った人物の顔を見つけると同時に

「ヒッ!」

という先輩の悲鳴が背中から聞こえる。

先輩は自分を盾にこの人物から隠れようとしているのだろう。完全に自分からはみ出してしまっているが。

 この人物、齢五十五歳であるが、背は180㎝よりも高く、山登りで鍛えた体つきはガッチリしており、髪はロマンスグレー、顔輪彫りが深く、知的に光る眼鏡の奥の両目はまだまだ黒く鋭い。

 自分と先輩と彼女の所属している研究室の先生である。

「おや、来てたのか」

 これが自分と会った際の先生の常套句である。

「先生お久しぶりです。今日は休みのはずですが、どうして大学にいるんですか?」

「んー、4月になってから研究室に一回も顔を出していない生徒が二人もいたんもんでな、学生課からちょっと事情を聴かれていたところなんだが…どうやら一人は見つかったようだ」

 そして自分の後ろにコソコソと隠れる先輩を先生は目ざとく見つける。

「おいおい、人の影に隠れてないで、出てきたらどうだ」

「いや、これはぁ、ですねぇ、別にぃ、隠れてるぅ、わけでは…」

「だったら隠れてないで出てきたらいいだろう」

「まともにぃ、顔を合わせづらいのですがぁ」

「卒業申請を出し忘れたこと気にしているのか? それで新学期が始まって以来私の研究室に顔を出さなかったのか?」

「それもありますがぁ、俺たち四月下旬からついさっきまで図書館地下で遭難していたのでぇ」

「…言い訳ならもう少しまともなことを考えろ。あそこで遭難して無事でいられるわけがないだろう」

「先生、それは自分が証人です。自分と先輩は十日ほど図書館でさ迷っていました。ちなみに彼女も図書館に春休み中籠っていたそうです」

「うぅん、そうなのか。けど研究室に顔を出さなかったのは頂けないな。ちょっと後で二人とも研究室に来なさい」

 そういうと先生は去って行った。

 先生に呼び出された先輩はいつになく青褪めた顔をしており、先輩に巻き込まれた自分はいつも以上にウンザリした顔をしていた。



 結局、研究棟の探索は自分と先輩の二人で行うことになった。

 大学の北の端にある研究棟は自分が四年に昇級したのと同時に完成した、この大学で最も新しい施設である。

 地上三階、地下一階建て。それぞれのフロア約十部屋あり、そこへうちの大学で理系に属する研究室が居を構えている。

 情報操作研究室、バイオ兵器ラボラトリ、空想科学研究室など、もともと自分が通っていた大学には存在していなかった、もはや何をやっているのかも解らない、怪しげな研究室が立ち並ぶ中を歩き、棚の影から机の下まで、隅から隅まで探したが、お目当てのスタンプを見つけることができなかった。

 さすがに何をやっているか分からない研究室は調査する勇気はなかったが。



 研究棟の探索が終了したころには午後六時の鐘が鳴っていた。

 このまま帰ってしまいたかったが、自分と先輩は先生に呼び出されているため、それを無視して帰ることはできなかった。

 研究室のドアをノックして開けると、先生が研究をしていた。

「おや、来たのか。まあ、まずはそこのコーヒーでも飲んで落ち着け」

 研究室にはコーヒーメーカーが常備してあり、自分のカップを置いておけば自由に飲むことができる。

 今日のコーヒーはハワイのコナコーヒーである。去年研究室のメンバーでハワイの火山を調査に行ったときに大量に購入したものである。

 自分も先輩もコーヒーが好きであるが、研究室に立ち込める何とも重苦しい空気のために実に味気ないコーヒーだった。

「ご馳走様でした先生」

「…ゴチソウサマッす」

「飲み終えたか。よし、本題に入ろうか」

 研究が一段落した先生は、回転椅子を回してこちらへ振り向く。その貫禄でその動作はなかなかに威圧的な様子である。

 否が応でも緊張感が高まってくる。

「別に私は怒っているわけじゃないんだ。そのことは勘違いしてもらいたくない」

 先生はそう言うと、逸らし続ける先輩の瞳をじっと見つめながら語りかけた。

「お前は去年にミスをして卒業できなかったのは知っている。そのせいで肩身の狭い思いをしているのもちゃんと判っている」

 そして、先生はもう目を逸らされないように先輩の顔ボールみたいな顔をその大きな両手でガシッと包み込んだ。

 先輩から「ヒッ!」と短い悲鳴が漏れる。

「けどな、だからこそ。だからこそ私を頼ってくれなかったことが悲しい。私は今でも君の担当教員であるんだぞ」

「力入れ過ぎです! 離してください! 放してください!」

「さっき学生課に呼び出されたのもそのことでな。一時は退学処分になる寸前だったが、何とか収めることができた。私に頼ってくれればこんな大事にならずもっと早く何とかすることもできたんだ」

「先輩のことそんな大変なことになっていたんですか⁉ 先生!」

「俺も初耳です」

「何度も通知を出していたにもかかわらず、まったく答えなかったうえに、4月になっても連絡が取れなかったのだから。親御さんも失踪届を出そうかとしていたらしい」

「先輩…なんて傍迷惑な」

「いやー、『河越レターボックス』に夢中になってまして。アハハハハ・・・・・・・・・・・・・・・・・スミマセンデシタ」

「まあ、明日一緒に学生課に一緒に来てくれれば全部丸く収まる。それに丸く収めたといっても、もちろんお前にもペナルティがあるぞ。去年提出した論文とはまた別に卒業論文を書いてもらうことになった」

「――― ! 先生それは殺生な」

「これは私が決めたことではない。まあ、前回の論文の内容をもっと深くやってくれればいい。それとゴールデンウィーク明けからはちゃんと研究室に顔を出すように」

「うへへ…。分かりました…」

 先生は厳格そうな雰囲気とは裏腹に取っつきやすい性格をしている。

そしてなんだかんだ言って先生は自分たちのことを気にかけてくれる。そして自分たちを守るために一生懸命に走り回ってくれる。

 だからこそ自分は先生のことを尊敬しているし、先輩も本当は先生のことを頼りにしている。

 彼女は先生のことなどどうとも思っていないのだろうが。

「よし! じゃあ頑張ってもらうせん別にこれをやろう」

「――― ! 先生それはまさか」

「『河越レターボックス』のスタンプだ。これを探していたんだろ?」

「確かに、自分たちはそれをずっと探していましたが。どうして先生がそれを?」

「なぁに、私の趣味はレターボックスのスタンプを登録することでね。今までに大体百個は登録したかな? 最近も氷川神社の社殿に隠してきてね」

「先輩…灯台下暗しとはこのことですね」

「…しょうがないじゃないか、ずっと研究室に近寄ってなかったんだし」

「ほらほら、スタンプ台を出しなさい。押してやるから。―――おや?もしかしてこれ押したらコンプリートか⁉ はー……初めて見るな、コンプリートした台紙。私も開催当時から挑戦していたんだが、最近スタンプ集めの方は断念していてね。ではおもむろに…」

―――ペッタンッ

「これで完成だ」

「ありがとうございます!」

「やりましたね先輩! 先生ありがとうございます」

「うんうん、いいってことさ。それからキミも卒論が終わってるからと言って気を緩め過ぎてコイツみたいなことになるなよ。さすがにこんな問題児は懲り懲りだから」

 


先輩と自分は研究室を後にした。

 一つの仕事をやり終えた達成感よりもようやく家に帰れる安堵の心が自分を支配していた。

「ようやく終わりましたね、先輩」

「おう、だが俺は明日の事情聴取に卒論と二つも新しくやることが増えてしまったがな」

「それは先輩自身の問題ですから。自分は手伝わないですよ」

「まあ大丈夫だろ。先生がもうだいぶ手を打ってくれたから事情聴取もそんなに厳しくは無いだろうし、卒論の方も既に提出してある卒論にチョット手を加えれば良いんだから」

「それで良いんですかねぇ? それよりも先輩、報酬の五十万のこと忘れないで下さいよ」

「なんだ、覚えていたのか。もちろん支払うさ」

「必ずですよ」

 自分はしつこいぐらい先輩に念を押すと十日ぶりの家路についた。そして十日ほど風雨に晒された自分の自転車は、もともと十年目の中古車であることも手伝って、ガタピシと今にもバラバラに分解してしまいそうな悲鳴を上げていた。



「いやー、悪いねぇ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「さあさあ、冷めたら美味しくないから早く食ってくれ」

 先輩は見事に期待を裏切ってくれた。ある意味期待通りであったが。

 つまり先輩は自分に払われるはずの五十万を用意することができなかったのである。

 先輩が言うには先輩のスタンプ台は五年前から使っているものであったことが問題であるらしい。

 どうやらその五年の間に新しいスタンプが新しく登録され、その数は当時の五倍にまで膨れ上がっていたらしい。

つまり、自分たちは本当の意味で河越レターボックスをコンプリートしていなかったのである。

常に新しいスタンプが増え続けるスタンプラリー。正に看板に偽り無く難攻不落のスタンプラリーであった。

しかも五年前のコンプリートしたスタンプ台はけっこうな数が市場に出回っているらしく、百五十万円が付くほどの希少価値は無かったらしい。

もちろん、それでもコンプリートしたスタンプ台はそれなりの価値が有ったらしいが、そのほとんどが先輩の借金に消えた。

結局先輩の手元に残ったのが840円であり、現在自分と先輩の目の前に置かれている学食のチキンカツ(420円)を二つ買うのがやっとであったらしい。

「どうした? 食わないなら俺が食ってしまうぞ」

「いいえ、いただきます」

「な、五十万のことはこれで手を打ってくれよな」

「・・・・・」

 自分は渋々ながらチキンカツにがっついた。学食のチキンカツはサクサクとした触感と言うよりもカリカリとした触感である。

しかも揚げたてのアツアツで染み出る肉汁のジューシーさは、本当に五十万のことなんて忘れそうになるくらいうまい。

飲み込んだ後もその余韻は冷めやらず、後から後から唾が口に溜まっていき、次の一口が欲しくなる。

 ソースの香りと鳥の香ばしさがマッチして思わずご飯が止まらなくなる。

 もちろんご飯はオバちゃんのサービスで少し多めにしてもらっている。そうでないととてもご飯とカツの比率が合わないくらい旨いカツである。

 はっきり言うと大好物である。

このチキンカツの味は河越でも変わらない。そこがいかにも嬉しい。

 自分と先輩は無言でチキンカツを平らげた。アツアツの肉汁とカリカリした衣で口の皮がベロベロズタズタになってしまったが、そんなことも関係ないくらい旨かった。

「いやー旨かったなー」

「ええ、美味しかったです」

「まあ、今回はこんな結果になってしまったが、まだまだ金になる『街おこしの功罪』はあるから。次も頼むよ」

「もう勘弁してくださいよ先輩。そもそも今回のは何ですか? まったく河越とは関係ない企画じゃないですか」

「だから言ってんだろ、『ディスカバー・河越』政策は面白ければ何でも良いってコンセプトだったから。まあ、もともと河越にあるものを利用した企画もあるから次はそれに挑戦しようか」

「ですから嫌ですって」

 自分は再認識していた。こんなイカレた街はトットと脱出してしまった方が良いと。

 早く川越に、故郷に帰りたい。この時、自分はそう強く思っていた。


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