平凡
"本当に夏目漱石はI love youを月が綺麗ですねって訳したと思う?"
"ちーちゃん、今授業中でしょ。携帯しまいなさい"
"性格上、私はあり得ないと思うんだけど、今授業してる唐澤先生はこれ信じてるの"
"…そっか、俺もう休憩終わるから行くね"
"夜家行くね"
"了解"
既読マークが付かなくなったので私は携帯をスカートのポケットにしまい込んだ。目線をかなり離れた黒板に戻すと、夏目漱石について熱く語っていた唐澤先生は、大学に備え付けられたテレビのスイッチを入れ、古びたビデオを差し込んでいた。音割れして、映像も荒いビデオが始まったと同時に教室の電気も消された。私は隣にいる友人に「終わったら起こして」と言って、マフラーを毛布代わりに頭から被って、そのまま深い眠りについた。
11月の下旬くらいから急に寒さが増した。12月に入ってまだ間もないが、この寒さの中で一人で眠るのは嫌だなと思った。寒いから、という理由でほぼ毎日、大学から徒歩五分にある、フリーターの彼氏の家に居座る私はただの迷惑な奴なのだろう。この前、「もう毎日俺の家居るんだったら一緒に暮らさないか」と言われたけれど、それはまた何か違う気がして却下した。私ってとことん我儘なのだろうけど、それに付き合い続ける彼氏も彼氏だなと思った。私と彼氏のいっくんは付き合ってそろそろ二年が経つ。大学のサークルで知り合い、気づいたら付き合っていた、というよくある話。私の一つ年上のいっくんは途中で大学を辞め、アルバイトで生活費をなんとか稼ぐギリギリの生活を送っている。友人たちからは「千夏が就職したらいっくんヒモになるよ」と脅されたが、私はそれでもいいと思う。行き当たりばったりで生きている私達は、未来の事なんて大して考えないのだ。
晩ご飯の食材を持って、半年前に貰った合鍵でいっくんが住むアパートのドアを開けた。煙草の匂いで包まれたこの部屋に顔をしかめて、私は一直線にベランダに向かい、窓を開けた。冷たい風が流れてきたが、換気が終わるまで我慢するしかない。煙草を吸う時はいつもベランダで吸え、と口が酸っぱくなるほど言ってきたのに、未だに部屋の中で吸う癖は治らないらしい。テレビの電源を点けて、ニュース番組をぼんやり眺めた。今朝していたニュースと全く同じ内容で、画面には頬がこけ、青白い顔をした犯人の顔が映し出されていた。
「こんな世界はもう少しで終わるのだから、先に殺しただけだ!」
「結局皆消えていなくなるんだ!」
手錠を付けられたまま喚き続ける犯人は、数人の警察官に取り押さえられて、無理矢理パトカーに乗せられていた。その場面が終わると、キャスターと専門家が話し合う画面に切り替わり、同時に鍵の開く音が玄関から聞こえた。
「どうしたの、ボーっとして」
はっとして顔を上げると、いっくんが玄関で靴を脱ぎながら、こちらを不思議そうな顔をして見ていた。いっくんは完全に上の空だった私を心配して、少し眉を下げながら近づいてきた。
「なんでもないよ、おかえり」
「ただいま、晩ご飯どうしようか」
「水炊きにしようかなって、今から準備するね」
「じゃあカセットコンロ出さなきゃな」
私は立ち上がってテレビの電源を消した。テレビが消える瞬間、不気味に微笑む青白い顔をした犯人と目が合ったような気がした。私はそれを見てまたボーっとしていたらしく、いっくんが私の顔を覗き込んできた。モヤモヤしているわけじゃないけれど、心に薄い霧がかかったような、何とも言い切れない感情が生まれた。きっとそれがモヤモヤしているということなのだろうけれど。
その日の夜はここ最近で一番寒かったと思う。毛布二枚と掛け布団一枚を頭まで被って、いっくんの腕の中に潜り込んでいた。勿体ないから、という単純な理由で暖房はまだつけていない。流石にもうつけてもいいんじゃない、と言ったけれど、布団の中に二人でいたらどうせ暖かくなると言いくるめられてしまった。腕の中で携帯を弄っていると、いっくんの私を抱き締める力が少し抜け、寝たのだろうと思った。時刻を確認すると深夜の二時になろうとしていた。明日、大学は昼からだけど、いっくんは朝からバイトなので結局朝から起きなければならない。今からすぐ寝れる気もせず、私はもう一度携帯を手に取った。
「…電波悪い」
インターネットに繋ごうとしたけれどなかなか繋がらず、終いには"読み込めませんでした"の文字が表示された。私は諦めて、携帯のアラームを設定してからいっくんの顔を覗き込んだ。「千夏っていっくんの顔好きでしょ」そう言われるくらい、付き合う前から私はいっくんのことをまじまじと見ていたらしい。凄くかっこいいわけではない、多分平凡。笑ったら可愛いけれど、目の奥は死んでいるような感じ。これは決して貶しているわけではなく、むしろ私の中では褒めている。これをいっくんに伝えると、「ちーちゃんって少し歪んでいるのかもね」と私の好きな顔で笑った。爽やかだったらモテてしまいそうだし、優しすぎてもなんだか気を遣うし、お姫様扱いされても嘘くさいし、いっくんは丁度良いのだ。
「そんなに俺の顔好きなの」
半目がちに眠たそうな顔をして、私の頭を優しく撫でた。どうやらゴソゴソしすぎて起こしてしまったらしい。平凡。平凡かもしれないけれど、私はこの平凡さがどうしようもなく好きなのだ。
「飽きない顔だから好き」
いっくんは優しく微笑んで、また寝息を立てた。私が眠りにつく直前、ぼんやりと夢を見た。きっとそこは今から何百年、何千年後の世界で、倒壊したビルや住宅地のど真ん中に、私といっくんが手を繋いで立っていた。二人は何も会話をせず、道とは到底呼ぶことができない道をひたすら歩き始めた。このままどこへ向かうつもりなのだろう。今の私の心の奥底にある本音がそのまま夢に出ているような気がして、少し不安を覚えながら完全に意識が途切れていくのを感じた。




