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TENDER SPOT  作者: 佐倉蒼葉
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第6章

 私の部屋に着くと明かりとヒーターを点けて、コートも脱がないまま肉まんの袋を開けた。テーブルの上のワープロを少しずらして、その横に皿を出して肉まんを載せた。椅子は一脚しかないので諒介は立ったまま肉まんを食べる。壁に寄り掛かる。私はそれをじっと見た。

「…何?」

 いつもの諒介だ。やはり澤田さんと喧嘩したせいか、と思った。私はううんと首を振って、ふと思いついて奥の間の棚の抽斗からリボンを取って戻った。澤田さんにあげる煎餅の包みに結んだリボンの残りだ。

 私は皿ごと、肉まんにリボンをかけた。右手の指が動かないので上手く結べない。ゆっくり結んでいると、もう肉まんを食べ終えた諒介が私の様子をじっと見ていた。

 白い皿、白い肉まん、白いリボン。

 ただの白いかたまりになった。

 しかもリボンはぐしゃぐしゃで曲がっていた。

 恥ずかしい。私はくるっと彼の方を向いて「どうだ」と言った。

「うん。なかなか…その、」と彼は軽く頷きながら、「シュールだ」

「ほんのご挨拶代わりです、代官様」

「うん。ありがとう」とまた頷く。

「昨日殴ったお詫びも兼ねて」

「うん」

 諒介はどこかの民芸品になったようにうんうんと頷いて、肉まんをじっと見た。

「食べないの?」

「食べるよ」と答えるが、壁に寄り掛かって動かないままだ。私がじっと見ると彼は「あとで」と付け足した。

「…お茶でもいれようか」

「いい」

「…灰皿は」

「要る」

 私が灰皿を取りに奥の間へまた行くと、諒介は「そんなに緊張しなくていいよ」と苦笑した。私は先刻からこの状況に耐えられなかったのだ。どうにも落ち着かず、じっとしていられなかった。諒介は煙草を一本、箱から抜きながら「まいったな」と呟いた。

「昨夜あれから」と言うとしゅっとライターで火を点けた。

「まあ、おでん屋に居られなくって、澤田の後について行った。部屋までずっと黙ってたんだが、何か言いたいらしくって」

 そこで諒介はフッと笑った。私は灰皿を渡して、正月のように玄関の三和土の前に膝を抱えて座った。壁に寄り掛かって並ぶ私達。

「後ろから見てるとね、こう、時々奴の頭が左右に揺れるんだ。だから、何かあったんだな、と思った。僕に言えない事。部屋に着いたらこう、僕を指さして『由加に免じて泊めたるが、待遇はそれなりや』って。僕は昨夜、台所にシュラフで寝た」

 手にした灰皿に灰を落とす。

「そうしたら、正月に由加と観た映画にそんな場面があったのを思い出して───あれは学校だったね。学園祭の前夜で、彼らが『トッタットッタッ』って歌いながら顔は天井を向いていて。そんなのを思い出していたんだけど、考えてみれば由加は言えないから殴るのだし、言えないから『居なくなった』のだと、既に知っていた事にあらためて気づいて、その、うん。言えないのは」

 諒介はスーッと壁に寄り掛かったまま膝を曲げて座り込んだ。

「僕も良く知ってる」

 こちらに顔を向けた彼はあの頼りない笑みを浮かべていて、かすかに何度も頷いた。

 私達の間にはいつも言えない言葉があって、私達はそれに名前を付けたのだった。

 橋、と。

 私は涙が出そうになったので目をそらして俯いた。

「…貼り紙は…飯塚さん達の婚約祝いでみんなが壁に貼っていて、私も貼ったら誰かに剥がされて捨てられ…ちゃって…、何だか嫌われているみたいで」

 苦笑しながら前髪を引っ張った。

「それで飯塚さん達に嫌な思いをさせてしまって…それ、は、悲し、かっ、」額を膝にくっつけて顔を隠す。「…たんだけど、みんな…が、良く、してくれたから…ただ…立て続けに…怪我したり、記憶が途切れ…ちゃって、そのせい、で言い辛かっただけ…」

 やっぱり言わないでおこうと思った。

 怪我の事も、故意か過失か未だに判らない。誰が背中を押した───いや、ぶつかったのか、市川チーフや古田さんがそれとなく訊き回ってくれたようだったが、結局名乗り出る人は居なかった。

 そしてもちろん、その人が私の貼り紙を捨てた人なのか判らない。その人が『和泉諒介さん帰ってきてください』の貼り紙をしたのかどうかも。

 そんな何の確証もない事を、古田さんや澤田さんが言う筈はないのだ。

 私はようやく顔を上げた。目の前の椅子に話しかける。

「仕事も…思うようにいかなくて、この前も貧血起こしちゃってチーフに『ちゃんと寝てから来い』って言われちゃって。ちゃんと自分を…管理するくらい当たり前…なんだけど、それで会議室に休みに行ったら部屋間違えちゃうし、『失礼すますた』だし」

 おかしくもないけれど自分で笑ってしまう。

「相変わらず私は粗忽でぼーっとしていて、何にもできないの。諒介は私の事、昨日も去年の春も、仕事が出来るって言ったけど、できないの」

 目の前がぼやけた。私はまた顔を伏せて隠した。

「何?『放っておけない感じ』って」

 にこやかな高橋さんが頭に浮かんだ。

「確かに、私、仕事以外に出来る事って何にもない。仕事が出来なくなったら、私、何にもなくなっちゃう」

「由加」

 体がガタガタと震えた。辺りが薄暗く感じられた。もしも仕事が出来なくなったらと思うと怖くてたまらなかった。

「仕事の他に自信が持てる事がないの。他に何にもないの。貼り紙捨てられちゃってもしょうがないかもしれない。だって他に何にもない、仕事出来なきゃだめなの」

「由加、だめだ」

「だめなの、私の」

「そうじゃない、やめろ」

「私の居場所がなくなっちゃう」

「由加」

 諒介の大声で顔を上げた。

 部屋が薄暗い。涙のせいか椅子が遠くに見えた。諒介が傾いて見える───首を傾げているのかと思うが傾いているのは私らしかった。貧血?

 左手を壁に突こうとした。壁が逃げた。

「いや、」

「由加」

「いや、落ちる」

「落ちる?」

 足元が暗い、慌てて横に這った。床が水を吸った土のようにへこんだ。

 諒介がそれを見た。

「約束を破るぞ」

 諒介は私の腕を掴んでグイと引き寄せた。強く引っ張られて私の耳が諒介の肩にぶつかった。「ちゃんと見ろ」と言って、バン、と空いた左手で私の足元の床を叩いた。「よし」くるりと向きを変えて私の目の前に腕を伸ばしてバンと壁に手を突いた。

「大丈夫だ」

 しんと静まり返った。

 諒介の肩の向こうに、椅子が元の場所にあるのが見えた。部屋も明るい。床も壁もいつも通りだった。

 ふう、と諒介が息を吐いた。見ると目の前に目を閉じた彼の顔があった。

「まいったな。…こうなるのか。澤田の部屋ではどうだった」

 私は事態がよく呑み込めないまま「周りが柔らかくなる感じは似ている」と答えた。

「柔らかく?」

「…溶けるみたいに…」

「そうか」

「どうしてそんなに落ち着いてるの?」

 私はまだ震えが止まらない。彼は首を少し傾け「僕には柔らかく感じられなかったから」と言った。

「由加の周囲だけ暗く見えた。由加の手元がへこむのも見た。だけど僕が触ると何ともない。だから落ち着いていられる」

「……」

「少なくとも僕は落ちない」

「…むう」

 ふふ、と諒介は笑って「もう良さそうだ」と手を放した。「ほら、」と言って再び壁に寄り掛かる。後頭部でこつんと壁を叩く。

「大丈夫。うん」

 私は諒介にくっついて膝を抱えた。壁に寄り掛かるのは嫌だった。諒介と離れるとまた周りが溶けてしまうように思えた。

「怖がりさんですねえ」

「うん」

 彼はぷっと笑った。

「これで澤田が気に懸けていた湯呑み、それは直接関係ない事は判った」

「え?」

「実は僕も湯呑みは気になってた。澤田が『茶碗が割れると由加のネジが飛ぶみたい』と言っていて」

 そうだ。勝鬨橋を二人で渡った時にも、澤田さんはそう言っていた。

「今日は湯呑み持参で来てたんだ」

「え?」

「良かった、無駄に湯呑みを割らなくて」

「何それ」と私が唇を尖らせると諒介はクククと笑った。

「仕方ない、試さざるを得ないと思った。この前は僕を怖いと言ったから怖がらせてみたんだけど、その時はこうならなかったね。なぜだろう」

「判らない」

「うん。自問だ」

 俯きながら前髪を掻き上げ、伸ばした膝をじっと見て何事か考え込んでいる。

「…そうか。やっぱり湯呑みだ」

「え?」

 よっ、と言って諒介が立ち上がるので私も慌てて立ち上がった。思わず彼のコートの袖を掴んだ。

「何?」と振り向く。

「え?」

 ちら、と目で自分の肘の辺りを見て、諒介は体を折ってテーブルに突っ伏し、ぶくくくく、と笑った。

「面白い」

「…昔、」

「うん」

「お兄ちゃんが毎晩寝る前に怖い話をしたの。怖くて眠れないから、こう、私は自分の布団から斜めに体を半分出して、隣のお兄ちゃんの布団の端っこを掴んで寝た」

「うん」

「毎晩、頭をさんざん蹴っ飛ばされて」

「それで背が伸びなかったのか」

「かもしれない」

 面白い、と諒介はまた笑った。気が済むまで笑って「はあ」と言うと体を起こして「怖いところを恐縮だけど」とテーブルの向こうの鞄の方へ向かった。私は袖を掴んだままついて歩いた。諒介がしゃがむと一緒にしゃがむ。鞄から紙袋を取り出して「湯呑みです」と言った。がさがさ、と湯呑みを包んでいた新聞紙を外す。

「湯呑みですか」

「湯呑みなんです。見てください。会社の湯呑みと似た物を探しました」

「お疲れさまです」

 二人で頭を下げたらごちっとぶつかった。「あイテ、」と彼は額を抑え、私は身をすくめて湯呑みを見た。

「…割るの?」

「割りません。どうぞ、存分に観賞してください」

 諒介はその場に正座した。

「茶碗は下の方で渡す。受け取ったら礼、落とさないよう背を丸めて床に近い所で見る」

「何、それ」

「由加はお茶をやった事がないのか、静岡出身のくせに」

「ない」

「こう、手首で茶碗を回して、次いでひっくり返してまた回す。底には銘が入っているし、側面の模様も鑑賞する」

「…深まる諒介の謎」

「うん。謎の家柄なんだ、僕の家は。帰りたくない気持ちも判るだろう。はい」

「……」

 右手では受け取れないし左手は諒介の袖を掴んでいる。どうしよう、と思っていると

「これが終わったら肉まんを食う」

 私は床に果ててしまった。気が付くと左手を放していたので、正座して湯呑みを受け取った。言われた通りに鑑賞する。丸い形。中は白。ひっくり返して、側面には青色の梅の木の模様。会社の湯呑みに似ているというより、どこにでもある湯呑みだ。

「由加、思った事を言ってごらん」

 こんな普通の湯呑みを見て、何を言えばいいのだろう。

「この梅の模様が何とも…」普通っぽい。

「はい。まだ寒うございますが早春でもありますし、季節をお感じいただければと」

「この内側の白さがまた…」普通っぽい。

「ええ、まだ残る雪のようですね」

 私は思わず丸めていた背をゆっくり伸ばして諒介を見た。彼は静かに微笑んでいた。冗談とも本気ともつかない。

「…ありふれていて…」

「はい。手の届く所にある物の美しさは」

と視線を湯呑みに注ぐ。

「見出しにくいものですが、それと知った時に手の中にある喜びは大きいものです」

 私は手の中の湯呑みを見た。

 つまらない湯呑みが、とてもきれいに見えた。

 じわっと涙が出てきた。

「ごめん、やっぱり怖かったか」

 諒介が私の手から湯呑みを取り上げた。俯いて首を横に振ると、涙がぱたぱたと膝に載せた手の袖口に落ちて染み込んだ。

 なぜ泣くのか自分でも判らない。

 私が今朝真っ黒に塗り潰した諒介は、いつもは黒い四角のような存在で、存在感だけがあってそこには居ない。けれど時々その四角の黒の中から不意に現れて手を差し出すのだ。トンとデスクを叩き、じゃんけんをし、湯呑みを見せる。

 左手で涙を拭って諒介を見ると、彼はじっと動かずに何かを見ていた。はっとして右手を後ろに隠した。

「見ちゃだめ」

 彼はゆっくりとこちらに顔を向けた。呆然としたような表情だ。

「澤田は手を切ったとしか言わなかった」

「…だって本当の事だもの」

「何で、そ、」と諒介は絶句した。

 右手の傷を見た人は、私と医者の他には澤田さんだけだ。その時の事を私はよく覚えていない。包帯が取れた後は澤田さんにも見せていない。だが回復の度合いは仕事の数字に全て表れてしまうので、入力室の皆は私の手を見なくても判っている。私が言わなくてもチーフが澤田さんに話しているかもしれないが、澤田さんからは手の事は何も言われない。

 長い沈黙を破って、諒介は低く訊ねた。

「何があった」

「…お茶当番の時に…転んで、たくさん割れた湯呑みの上に手を突いたの」

 本当の事だ。けれど諒介の真顔から目をそらす。私は笑ってみせた。

「ね、本当に、粗忽者でしょう」

 声が震えた。諒介は困り果てたような笑みを返した。


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