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TENDER SPOT  作者: 佐倉蒼葉
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第5章

「中嶋さんと飯塚さんの婚約を、みんなでパーッと祝って…」

「それがおもろかったちゅう話やねん」

「会社で?だよね、話の流れで言うと」

「うん。みんなで…」

「そらもう全社員一丸となって」

「へえ、会社を挙げて祝った訳だ。社員全員となると、どこでやったんだろう」

「……」

「……」

 私は右斜め前方の品書きの文字から、すーっと左隣の澤田さんに目を遣った。澤田さんの視線の先を追うと、そこには一升瓶の『男山』の文字。また澤田さんを見ると目が合ったが、彼は目をそらして前方のおでん鍋を注視する。私も何となくそちらを見た。

「すんません、コンニャクください」

「私もコンニャク」

「婚約祝いだけにコンニャクか」

「アホか」

「それでどんな婚約祝いだったんだ」

「……」

 澤田さんは崖っぷちに立たされた。私はコンニャクの皿を受け取って、辛子の器を引き寄せながら頭を低くした。黙っているのに限る。コンニャクに辛子をつけて器を戻し、コンニャクを口一杯入れてゆっくり噛む。辛子がツーンとして涙目になった。

「どうした由加、悲しい事でもあったのか」

 ううん、と首を振る。

「まるで貼り紙を捨てられたようだ」

「知っとるんか和泉!」

 ガタンと澤田さんが立ち上がると、諒介は「僕の質問に答えて由加がそう書いた。知ってるって何を」と言いながら煙草の火を消して頬杖を突いた。

 澤田さんが崖下の墓穴へまっ逆さまに落ちていった。がっくりとうなだれて座り、また『男山』の方を見る。私はまだコンニャクをもぐもぐと噛み、ドラえもんの居なくなったあとのピンチをどう切り抜けるか必死に考えた。

「まるで婚約祝いと貼り紙が関係あるような口振りだ。お祝いなら熨斗紙か?違うな、全社員一丸となって書いたら熨斗紙が真っ黒になってしまう」

 ごくん。コンニャクはもう呑み込んだが、噛んでいるふりをする。

「それに普通、贈り物に貼り紙は貼らないだろう。大抵、掲示板とか壁だな。すると婚約祝いに壁でもプレゼントしたか。しかし持って帰れないな。ここはやはり貼り紙が贈り物だろう。それなら由加が貼り紙を捨てられて悲しかったというのも判る」

「嫌味なやっちゃな」

 澤田さんは両手で頬杖を突くと『男山』の瓶に向かって言ったが、諒介に「否定しないのか」と言われてまたがくりと俯いてしまった。

「さて問題は由加の貼り紙は誰になぜ捨てられたのかという事だ」

 突然、諒介は真顔になった。私は慌てて口を挟んだ。これ以上喋らせたら何を言うか判らない。

「判らないの。原因不明」

「じゃあ、なぜ二人とも僕に黙ってるんだ」

「それは…」

「何で言わないんだ!」

 諒介は掌でバンとカウンターを叩き、皿やコップがカチャンと鳴った。

「君は自分の身に何が起こっているのかちゃんと自覚しているのか?途切れた記憶を戻すためには、どんな些細な事も見逃しちゃいけないんだ!それが判っているのか?」

「ええ加減にせえや」と澤田さんが拳でドンとカウンターを叩くと皿に載せた割り箸が転がり落ちた。「覚えとらんもんを責めてどうなるっちゅうねん。困っとんのは由加やで。自分一人で何でも解決出来るんか、何様のつもりや」

「そうだ僕は全能じゃない、だから訊いてるんじゃないか!なぜ隠そうとするんだ!」

「そんな、」と私は立ち上がって諒介を見下ろした。足がガクガクと震えているのが判った。

「何でもかんでも諒介に話せると思うの?言えない事だってあるわよ!」

 諒介の向こうの客達が「威勢のいいネエちゃんだ」「やれやれ」と野次を飛ばす。

「隠したい事だってあるのよ!しょうがないでしょう、私は、私、わた、」

 私は。

 その先が言えない。口が動かせない。

 涙がぶわっと出てきた。後ろから澤田さんが「由加」と呼んだ。

「バカ野郎」

 右腕を伸ばしてブンと振った。拳も握れない右手が諒介の頬をぺちゃっと鳴らした。

 客達が「おーっ」と声を上げて笑い、手を叩いた。私はそちらに向かって「黙れ、バカども」と叫び、バッグを掴んで駆け出した。

「由加」と二人が立ち上がる椅子の音と「お客さん」と呼び止める声。私は立ち止まって振り向いた。

「ついてくんな!」

 こんな泣き顔で電車に乗れない。新橋駅を通り過ぎて有楽町の方へ走った。

 私は。

 バカ野郎。

 私はバカだ。




 翌朝はとても憂鬱だった。

 エレベーターが五階に着いて降りる時、ちらりと左手に下げた紙袋を見た。明日の土曜の休みを見越して、今日は一日早いバレンタインデーなのだ。

 とても気まずい。澤田さんと顔を合わせたら何て言おう、と思った。

 廊下を曲がった開発部の前で、私はがくうっと脱力した。

 『チョコレート受付 開発』の貼り紙をされた箱が置いてあった。段ボール箱にピンクの花柄の包装紙を貼った可愛い箱だ。箱にぐるりと掛けられたリボンは紅白の二色で、水引のように結んである。毎年使っているらしく、端をガムテープで補強してあるのが少しなさけない。この会社がイベント好きだという事を失念していた。

「…ここに入れるの?」

「向こうで二人きりになって告白してくれてもいいよ」

 古田さんがマシン室の方を指さして言った。

「矢島部長に渡したかったんだけど」と私は袋をロッカーの上に置いていちばん大きな箱を取り出した。「うわあ、そんなに大きいの?」と古田さんが驚く。

「…皆さんで召し上がってください、って…」

 恥ずかしくて小声になってしまう。やっぱり矢島部長が居なくて良かった。次に小さい箱を一つ出した。

「それから古田さんにもお世話になってるから、ほんのご挨拶代わり…」

「おぬしもワルよのう、駿河屋。フフフ」

 私はぷっと笑った。こんなふうに冗談混じりに受け取ってもらえるとほっとする。

「ありがとうねえ。真紀子さんが妬くかも」

 真紀子さんは奥さんの名前だ。澤田さんの分はデスクの上に置いておく事にした。先客が置いて行ったチョコの包みが二つあった。大きな箱を段ボール箱に入れる。見ると側面に、以前佐々木さんが描いた開発のメンバーの似顔絵のコピーが貼ってあった。何度見てもよく似ている。隅に描かれた諒介の顔にバツ印がついていた。ここに居ないからだろう。

 じっと見ていたらだんだん悲しくなってきた。

 私は古田さんのデスクからサインペンを取って、諒介の顔の上をキュキュキュと塗り潰し始めた。

「何やってんの泉ちゃん」

「完全に塗り潰そうと思って。バツ印じゃ可哀想だから。居ないなら居ないで、顔が見えない方がいい」

「うーむ」

 キュ、キュ、キュ、と塗る。右手ではペンの先が滑って上手くいかない。ようやく黒い四角に塗り潰して、私はそれを呆然と見た。ペンを戻して「それじゃ」と入力室とは逆方向へ歩き出す。

「どこ行くの」

「トイレ」

 ポトポトという足音と一緒にトイレへ行った。ドアを閉めて鍵をかける。もう誰も見ていない。そう思った途端、涙がぽろぽろと落ちた。

 それから一日、仕事がはかどった。何も考えなくて済む。目で見て反射的に手を動かす仕事だからだろう。右手が思うように動かないのも気にならなかった。ゆっくり、一つずつキーを押していくだけ。

 休憩時間にトイレに行って泣く。時間が来たら仕事をする。昼休みには入力室から出なかった。午後の休憩で開発部の前を通った時に呼び止められたが、「トイレ」と言ってそのまま通り過ぎた。

 澤田さんが「やっとつかまえたわ」と言ったのが、定時に上がって開発部の前を通った時だった。奥のデスクの方まで引っ張られ、椅子に座らされた。

「一日、ぼーっとしとったな」

「うん。…あの、昨日、ごめん」

「いや、口滑らせた俺が悪いわ」

 澤田さんは上目遣いで意味もなく天井を見て言った。

「うーん。和泉の気持ちも判るんやけどな。こっちにおられんから焦っとんのやろ」

「知ってる」

 時間がない、と諒介はいつも言う。

「あの後どうした?」

「うーん?まあ、泊めてはやったが」

と言って澤田さんは両手の人差し指でチャンバラした。「あらら、そうだったの」と古田さん。

「話しちゃった?蓼喰い虫さんと私の怪我の事」

「いいや。どうするか、由加の好きにせえ」

「…ありがとう」

「あ、由加もありがとな。ブッサイクなラッピングと中身の煎餅ですぐ判ったわ」

 もう開けたのか、何だか恥ずかしくて俯いた。

「だってお煎餅屋さんはラッピングしてくれなかったんだもの」

 澤田さんはふふ、と笑って煎餅をばりんと食べた。甘い物は食べられないと言っていたので煎餅にしたのだが「しかしまあ、見事にほんのご挨拶で」と古田さんに言われてしまった。

「和泉には?」

「ああ、もうあいつにはやらんでええで、由加」

 澤田さんはそう言うとばりんばりんと煎餅を口に押し込んだ。

「うん。用意してない」

「ええっ」と二人は目を剥いた。

「だって帰って来るって知らなかったし」

「郵送するとか思いつかなかったの?」

「…あ」

 二人は顔を見合わせた。

「どうしよう。あの食い意地の張った諒介に何を言われるか」

「放っときゃええ」

「人が一度に食べられるチョコの量の限界ってどのくらい?」

「俺は一口が限度や」

「それじゃ参考にならない」

「澤田、報われない奴」

「…ま、いいや」と言う私に、二人はまた「ええっ」と同時に叫んだ。

「うん。もう帰るね」

 多分、諒介はどこかで待っている。寒いから早く帰ろうと思った。

 エレベーターに乗り込むと、追いかけて来た澤田さんが閉まろうとする左右のドアを手で押さえた。周りに誰も居ないのを確認して、真顔で私を見た。

「由加、俺や古田には言えんのか」

「……」

「近くにおるんやから言え」

「…うん」

 澤田さんが両手を下ろした。ドアがスーッと閉まった。




 電車を降りて部屋に向かう。坂道の脇の公園を通る。マンションの入口には坂を歩いた方が早いが、ほんの少しの遠回りをする。ブランコやジャングルジムなどの遊具と夏には賑わう幼児用のプールのある公園を抜けて階段を上ると、そこは木々に囲まれ、噴水を中心に花壇とベンチを円形に配している。噴水の向こうに人影が見えた。私はタイルの道に沿ってまっすぐ進んだ。出口のガードレールに、両手をポケットに突っ込んだ諒介が腰掛けて私を見ていた。

「やっぱりここを通ったね」

「ここに居ると思ったから」

 諒介はふと視線を外して俯きがちに微笑んだ。

「ここは好きだ」

 私達の吐き出す白い息がふわふわと流れていく。諒介はそれを目で追ってしばらく黙っていたが、「ごめん」と頭を下げた。

「昨日はつい、その、…カッとなってしまった。考えてるし判ってるけど、その、」

「いいよ、もう」

「いや、今言う。ちゃんと言う」

 掌をこちらに向けて『待て』の仕草だ。私は彼が「ちゃんと言う」などと言い出したので驚いた。

「…つまりその、由加が言えないのは仕方ない。順序を追って思い出したり、そういう経過が必要だと思ってる。ただ、澤田も判っている事を、二人で示し合わせて黙っている、というのはその、困る…」

「諒介だって、私達に何も言わない」

「言えない」

「判るよ。だって私の事だもの。私には言ってよ」

 諒介は目を閉じた。

「…時間が欲しい。もう少し待って」

「どうしてそんなに時間が欲しいの?」

「え?」

 ぱちっと目を開けて、彼は私を見た。頼りなく苦笑する。「それは…」と辺りを見回してうなだれた。

「ごめん、それも答えられるように考えておく。その時間もください」

「変なの」

「うん。変なんだ」

「何が」

「まだ判らない…」

 冷たい風に耳が痛くなってきた。私は何を聞いているのだろう。諒介の言葉じゃないみたいだ。様子がおかしいのは澤田さんと喧嘩したせいかもしれない。

「…澤田さんと」

 私が言うと彼は首を傾けてこちらを見る。癖なのかな、と思う。

「示し合わせて黙ってたんじゃないの。私が言えないのに気づいた澤田さんが黙っていてくれただけ。諒介に言うかどうかは由加が決めろって言った。だから喧嘩しないで」

「…判った」

「寒いね」

「うん」

「肉まん買う?」

「…うん」

 諒介は照れくさそうに笑った。立ち上がった彼と並んで歩き出した。


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