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TENDER SPOT  作者: 佐倉蒼葉
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第3章

 正月、澤田さんの部屋では触る物の全てが気持ち悪くて逃げ惑った。先月の給湯室では触ろうとする物の方が私から逃げていた。

「だから、二つは違うと思う」

「そうか。ふりだしに戻ってしまった」

 私は諒介の言う『居なくなった』時の事を簡単に説明した。怪我の事に触れないように気を付け、諒介を気持ち悪いと思った事も黙っていた。真顔で何事か考えながら歩く彼を横目でちらりと見る。

「また、私を試す?」

「え?」

「さっきの質問の手紙みたいに」

「あれは別に試してなんていないよ?いや、そうかもしれなけいけど」

 結局話は終わらずに、諒介はまた私の部屋の方まで来てしまった。坂の脇の公園を通りながら、彼は落ちていた木の小枝を拾い上げた。ブランコの周りの柵に腰掛けて、目の前の地面に線を一本引いた。

「最近あった事の質問をしたのは、何が印象に残っているのか知りたかった。突風の時は澤田の一言がきっかけだった。そういうきっかけになりそうな事を探している。…ここが」と真ん中に印をつけて紙を見る。

「給湯室から居なくなった時。勝鬨橋はその直後だから、理由にならないとして…ちりめんじゃこと貼り紙はいつの事?」

「どっちも同じ日だよ。お正月の休み明け。貼り紙が先で、それからすぐ後にちりめんじゃこ…」と私は線の前にしゃがみ込んだ。ここがお正月で、とつけた二つの印の間に指でチョンチョンと線を引きながら「自分でちりめんじゃこって言うのって…」と呟くと、諒介はクスッと笑った。

「そんなに腹が立った?澤田を殴ったか」

「ううん。そんなに…」

「そうだろうな。で、貼り紙って何」

 私はまた言葉に詰まって俯いた。諒介はふうと溜息を吐いて、

「それから、行きたい所の北海道はどうして」

「行った事がないし、森さんの彼氏が北海道に居て、よくその話をするから」

「北海道の?」

「うん。森さんが旅行した時の事とか…」

「なるほどね」

 参考になりました、と諒介は頷いた。何の参考になるのだろう。

「諒介って何考えてるか判らない」

「君が思う程、深く考えていないよ。古田に『心理学の心得でもあるのか』なんて訊かれたけど、知らない人に同じ様な答えを貰っても、きっと何が何だか判らないだろう。由加だから判る。それだけ」

 それから、と諒介は回答用紙に目を近づけた。

「幽霊が嫌いなのか、じゃあホラー映画も観ないよね」

「お兄ちゃんや友達に付き合わされて観た事はあるけど」

「血もだめか、スプラッタも観れないね」

「貧血起こしちゃう」

「実は僕もだ」

「えっ」

「嘘」

 何なんだ、一体。「何考えてるのよ」と言うと「これから考える」と答えが返ってきたのには驚いた。古田さんは「和泉は計算尽く」「あとは和泉がこれを見るだけ」と言ったのに、とその時の事を話した。

「まいったな」と彼は苦笑した。

「何でみんな僕を買い被るんだろう。澤田くらいだ、僕をよく判っているのは」

 私は澤田さんが「おまえが怖がらへんようそれだけ」と言ったのを思い出した。澤田さんは諒介をよく判っている。私には判らない。澤田さんが判っているから、今、私は諒介が怖くないのかもしれなかった。

「今日はもう遅いからお帰り。僕は週末までこっちだから、続きはまた明日にしよう」

 そう言われて私は立ち上がった。諒介はブランコの柵に腰掛けたまま私を見上げて「じゃあ、また」と軽く手を挙げる。私は頷いて歩き出した。公園の上の噴水の方へ階段を上る。途中で振り返ると、諒介はまだそこに座っていてこちらを見ていた。変なの、と思いながら階段を上りきり、横にまわって植え込みの陰から下を見下ろした。諒介は相変わらずブランコの柵に座っていて、ちょうど煙草に火を点けるところだった。ぽっ、と顔が照らし出される。黒縁眼鏡がやけに目立った。この寒いのに何をやってるんだろう、と私は小さく足踏みしながらそれを見ていた。

 諒介はしばらくぼんやりと煙草をふかしていた。両手を柵に載せて顎を上げ、彼の目の前の外灯を見ているようだ。

 と、彼は両腕をすーっと前に伸ばした。指で四角いフレームを作る。首を傾げてそれを覗く。私はぷっと吹き出した。またやってる。彼はビデオを撮るのが趣味なのだ。映画好きだからだろう。

 彼は腕を下ろして、不意にこちらを向いた。私は肩をすくめて頭を引っ込めた。植え込みの葉の隙間から下を覗くと、諒介は煙草を消して立ち上がり、帰るのかと思ったらこちらに向かって歩いて来た。階段を上る足音がして、椿の木の向こうを通り過ぎ、噴水の方へ向かっていく。私は「何か知らんが助かった」と心の中で呟いて、どこかで聞いた台詞だな、と思った。しゃがんだままじりじりと椿の方に移動する。私は何をやっているんだろう。

「由加」

 椿の方ばかり見ていたので、噴水の手前で諒介が振り返ったのに気づかなかった。「何やってるの」と近づいてきた。

「自分でも何やってるんだろう、と考えていたところ」

「はあ?」

 相変わらずの謎の行動、と言って諒介はクククと笑い、私は立ち上がってコートの裾の土を払った。

「そっちこそ何やってたの」

「え?いや、その、…うん、まあね」

 相変わらずの謎の言語形態。諒介はコートのポケットに両手を突っ込んだ。

「早く帰りなさい」

 諒介の命令口調には逆らえないものがある。私は従う事にした。

「お疲れさまでした」

と二人で頭を下げ、そこで諒介と別れた。私の部屋は公園の脇の坂を上りきった所、噴水の向こうに見える出口の向かいのマンションにある。部屋に戻って明かりとヒーターを点けた。部屋は冷え切っていて足の裏が冷たい。諒介も寒かったろう、とカーテンを少し開けて外を見た。公園を見下ろすと、諒介がちょうど階段を下りてゆくところだった。まだ帰ってなかったのか、そっちこそ謎の行動。窓ガラスに額をくっつけて見た。早く帰れと言ったくせに、と思って気がついた。諒介は私が帰ったのを部屋の明かりで確認したのだ。

 私は何をやっているのだろう。

 時々、判らない。

 自分に何が起きているのか、考えるのが怖い。

 けれどそのせいで諒介や澤田さん、古田さんや市川チーフにも気を遣わせてしまっている。給湯室で何があったのか思い出すのが怖いが、考えなければいけない。

 私はコートをベッドに脱ぎ捨てて、キッチンのテーブルに置いたワープロに向かった。電源は入れない。ただ、キーを叩くだけだ。右手が震える。早く元通り動くようにならなければ、仕事でもお荷物になってしまう。私は目をきゅっとつぶってキーを叩いた。

 『きおく』

 『お』と『く』で指を伸ばすのが辛いが、中指よりは動く。

 親指で変換キーを押す時に力が要る。

 『記憶』と頭の中で変換される。

 『ゆのみ』

 全部右手だ。『ゆ』まで中指がなかなか届かない。手首からガタガタと大きく震えだし、慌てて左手で右手を掴んだ。落ち着こう、とにかく落ち着くんだ。ワープロの横に置いたカモノハシのぬいぐるみを右手で持った。

 見るたびに和む顔だ。間抜けな顔をしているが、「泉ちゃんに似てると思って、つい買っちゃった」と飯塚さんがプレゼントしてくれたのだ。カモノハシの胴体にはビーズが入っていて持つと柔らかく、くたっと体を曲げる。私はその胴体を握って、力を入れたり抜いたりした。飯塚さんが私の手のリハビリのために買ってくれたのも気がついていた。

 泣きそうになるのを堪えて、私はカモノハシの顔をじっと見た。




 翌朝、病院へ寄ってから出社した。

 回復の具合を見てもらうために通っている。医師は手の震えを見て「焦らずに」と言った。判っているけれど、手が命の仕事だ。会社へ向かう足が重くなる。

 一階のホールで諒介と、その会社の人二人と出会った。どちらが昨日私を「新人」と言った人だろう、いずれにせよ、仕事の出来ない奴だと思われているのだ。私は会釈したまま俯いた。エレベーターに一緒に乗る。沈黙で周囲が薄暗い。気持ち悪い。

 諒介達は三階で降りていった。三階には会議室がある。私は俯いたまま、諒介の手がすっと視界から消えてから顔を上げて『閉』のボタンを押した。五階で降りるとフロアはしんと静まり返っていた。開発部の人達も会議室へ行っているのだろう。入力室のキーを叩く音はここまで届かない。

 ブーン

 トトトトトトトトトトトトト

 シュー

 低く聞こえる音。四方八方から響いてくるようだ。休憩所の自販機のかすかな唸りと、それから、何だろう。

 給湯室から聞こえる。湯沸かし器の音、蛇口から細く流れる水がシンクを叩く音。誰かが朝に水を使って蛇口の栓をきちんと締めなかったのだろう。

 少し怖いと思う。だが水を止めるだけだ。それだけだ。

 これくらいの事を怖がっていてはだめだ。

 そっと給湯室に入る。右手で栓を回した。キュ、と小さな音がした。

 …トッ、…トッ、…トッ、…トッ、…トッ

 栓が締まらない。今度は左手でギュッと栓を締める。逆に捻るのは少しやりにくい。

 こんなことさえ、上手くできない。

 誰かが見ているような気がして後ろを振り返った。誰も居ない。

 『新人?』

 『彼女は手を怪我して』

 見られている。

 もう一度給湯室の入口を振り返った。誰も居ない。

 誰も居ない夜道のような静けさ。何かが飛び出して来そうな不安。

 こんな時にいつも思い出すのは、ずっと昔に兄と一緒に深夜のテレビで見た映画だ。

 黒い車が、主人公の乗る車に追突しようと執拗に追いかけて来る。その車の運転席には誰も居ない。ハンドルだけが動き、スピードを上げてどこまでも追いかけるのだ。私は姿のない殺意を思い出すたび、夜道で足を速めたり意味もなく後ろを振り返ったりしてしまう。そんなふうに、誰かがそこに居る気がしてならない。今にも誰かに背中をドンと押されそうな恐怖、湯呑みの破片が目の前にちらついた。

 額がひやりとした。

 誰かが私の背中を押す。誰かが私の腕を掴む。

 いやだ。誰も触らないで。

 私は給湯室を飛び出した。廊下がぐらぐらと揺れている。

 誰も触らないで、誰も見ないで。

 入力室まで行けば皆が居る。そこまで行けば誰も私に触れない。

 休憩所の衝立に肩がぶつかった。「いや、」触らないで。

 廊下の壁、床、観葉植物が色褪せ、薄暗くなってきた。貧血だ、と思いながらその場に膝を突いた。何も見えない。早く行かなきゃ、と焦る一方で、もうどうしようもないとどこかで冷静に考えていた。




 目を開けると丸い光る物が目の端に見えた。天井の照明だ。私は仰向けに寝ていた。目だけを動かして横を見るとそこに休憩所があり、市川チーフが椅子に腰掛けて煙草を吸っていた。チーフ、と呼びかけると私を見て「どう?」と訊ねた。

「大丈夫です、はっきりしてます」

「貧血かな」

「はい」

「動ける?」

「動けます」

 起き上がると、私の足の下に誰かの膝掛けが厚く畳まれて敷いてあった。

「ちゃんと寝てる?」

「……」

 実のところ、あまり寝ていない。包帯が取れて以来、毎晩夜中までワープロのキーを叩いていたのだ。低血圧もあって、毎朝ひどく体が重い。

「手の事なら、あんまり気にすんなよ。それよりちゃんと寝て体調整えて出ておいで、その方が効率的だよ」

「…すみません」

「ふうむ」とチーフは頭を掻いて、隣の椅子に載せていた膝掛け数枚を寄越した。

「会議室で寝てきな、第二が空いてるから」

 チーフは苦笑混じりにそう言って「おっと行かねば」と手を振るともう入力室へ走って行ってしまった。私はバッグと膝掛けを抱えて立ち上がり、エレベーターで三階に降りた。会社で倒れるのは何回目だろう、いつからこんなに弱くなったんだろう。昔はもっと丈夫だったように思う。私はぼんやりと考えながら会議室のドアを開けた。

 十人くらいが、一斉に私を見た。

 会議中だった。「あ、」と声に出してきょろきょろと周囲を見回した。エレベーターがすぐそこだ、ここは第一会議室だ。知らない人達が、何だろうという顔で私を見ていた。矢島部長も居る。肩越しに振り返る澤田さん、椅子に凭れる古田さん、テーブルの上に腕を組む諒介。

 私は肩をすくめて身を小さくした。顔がかーっと熱い。「し、し、」舌が縺れた。

「失礼すますた」

 全員が、がくんと頭を下げた。そーっとドアを閉める時、澤田さんの肩が震えているのが見えた。ぱたん、とドアが閉まると「ぶくくくくく」と堪えていた笑いを全員が吐き出すのが聞こえた。

 隣の第二会議室の暖房のスイッチを入れて、明かりは点けずにソファに座った。靴を脱いで足を載せ、膝掛けを一枚ずつ広げて自分に掛けて横になる。壁越しに、隣でまだ笑っている声が聞こえて恥ずかしくなった。また「だめな奴」の印象を与えてしまった。失礼すますた、なんてどこの言葉だ。後で澤田さんにさんざんからかわれるんだ。膝掛けを頭まで被って目を閉じた。


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