旅立ちの丘
ここでやる全てのことが、おそらくルゥナミアにとって最後のことになる。
泣きながら、ルゥナミアはファフティリヤの丘に小さな穴を掘った。
そっと動かないチロロを寝かせて、土をかぶせた。
ここなら、きっと寂しくないから。
ふいに、嵐の中、船でシャンが狂ったように笑ったときのことをルゥナミアは思い出した。
あのとき、ルゥナミアはシャンに、チロロを連れて逃げてほしいと言った。
だがシャンは、ルゥナミアに向かってこう言い返したのだ。
『自分がどれほど滑稽なことを言っているのか、気づいているか?』と。
ルゥナミアは、今になってようやくその意味に気づく。
あの時点で、生きているのはルゥナミアだけだったのだ。
だからシャンはその皮肉さを笑った。
死者を助けようとする生者を見て。
唯一生きているルゥナミアが、既に死んでいるはずのシャンとチロロが助かることを望んでいる矛盾を知って。
あのとき、きっとシャンもぎりぎりだったのだろう。
互いに追い詰められ、切羽詰まっていた。
「なんだ……」
「え?」
「なんだ。わたし、みんなのところに行くだけなんだね」
病のことを知って以来、ルゥナミアにとって死は確定事項で、避けられるものではなく、受け入れるべきことだった。
ルゥナミアの母親も、自らの運命を受け入れ、ルゥナミアに看取られながら、静かに旅立っていった。
だから自分もそうするべきなのだと、自らの病を知ったときからずっと覚悟を決めていたのだ。
それなのに、シャンと共に旅をしているうちに、シャンと別れたくないという気持ちがどんどん強くなっていった。
もし病が治ったら――という、とっくの昔に諦めていたはずの夢を見ることもあった。
シャンに自分の想いを告げて、もしシャンがルゥナミアの気持ちを受け入れてくれたら、これからもずっと一緒にいられるのではないかと思ったりもした。
母親の遺髪をまいたら、シャンが育った家を見に行きたい。
シャンの子どものころを知る人が近くに住んでいたら、シャンたち兄弟の話を聞かせてもらえないだろうか。
シャンに近くを案内してもらうのも楽しそうだ。
そんな風に、妄想は膨らんだ。
旅はもうおしまいだから、ファフティリヤの丘の近くで、シャンと一緒に暮らしたかった。
病気さえ治れば、家のことをしっかりとこなす自信がルゥナミアにはあった。
母親が死んだあと、ルゥナミアはひとりで全てのことをやっていたのだから。
夕飯の支度をしながらシャンの帰りを待つ。
体の心配はしなくていい。
つまみぐいをしようとするチロロを叱りながら、玄関の扉が開くそのときを今か今かと心待ちにしている自分の姿を思い描く。
それは考えるだけで胸の弾む、とても幸せな夢だった。
絶対にそんな日は来ないとわかっていたのにも関わらず。
(でも、そうじゃなかったのね。確かにこの世界では叶わない夢だった。わたしの病はやっぱり治らなかった。でも、わたしはこれからもひとりじゃないんだわ)
ルゥナミアをゆるやかな眠気が襲う。
「ルゥナミア?」
「シャン、わたし……」
「大丈夫だ。おれがずっと傍にいる」
シャンの言葉には、ルゥナミアを安心させる魔法がかかっている。
ルゥナミアは、微笑んだ。
死んだあとも、ずっと一緒にいられるのだと思うと、死ぬのは少しも怖くなかった。
「わたし、シャンのことが……好き、なの」
「おれも好きだ、ルゥナミア。一緒に、永遠の旅に出よう」
ルゥナミアはうなずいた。
とても嬉しかった。だから頬を伝うのは嬉し涙だと、そう思った。
哀しくなどないはずなのだから。
だが、最期のそのときに、ルゥナミアはほんの少しだけ、生きているシャンと再会できていたらどれだけ良かっただろうと考えてしまった。
もしそうだったら、旅の途中でシャンは自分に触れてくれただろうか。
手をつないだり、抱き上げてくれたりしただろうか。
もしシャンが幽霊でなかったら、ここで別れなければならなかった。
ずっと一緒にいたいという自分の夢はこれからも叶うことはなかった。
それでも――死ぬのが自分だけで、シャンが生きていてくれたら、自分は別れを我慢できたはずだとそう思った。
ルゥナミアはずっと、そのつもりで旅を続けてきたのだから。
みんな死んでいる。誰ひとり、こちらの世界に留まれる者がいない。
それがなんだかやるせなかった。
どうすることもできないのはわかっている。でも、その事実がただただ切なかった。
涙ぐみそうになるルゥナミアの頭を、ぽんぽんと優しく撫でる手の感触を感じたような気がしたのが、生きているルゥナミアの最期の記憶となった。
――――
ルゥナミアは上空からファフティリヤの丘を一望していた。
「きれいだね」
「ああ」
眼下に広がる色鮮やかな丘を、ルゥナミアは目を細めて見ていた。
花に埋もれるようにして眠るルゥナミアの体が小さく見える。
けれどやがてそれさえもやがて見えなくなる。
天に昇りながら、ルゥナミアはシャンと手をつないでいた。
互いの手の感触が、確かにあった。
ふたりは死んでようやく触れあえた。
魂と魂だけになって、初めて。
ルゥナミアの魂が肉体の中にあるときには触れられなかったのに、魂だけになれば触れられるというのはとても不思議な感覚だった。
「ルゥナミア」
「シャン……」
ふたりはつないだ手にぎゅっと力をこめた。
互いがそこにあることを確かめあうように。決して離れたりしないように。
そして空へ空へとゆっくり導かれながら、ルゥナミアとシャンはそっと唇を重ねた。
まるでこれまでの触れあえなかった時間を埋めるように。
背中にまわされた腕を、シャンの胸の厚さを、ルゥナミアは感じていた。
『チィ』
チロロがルゥナミアの肩の上で鳴く。
(寂しくなんかない。だってほら、みんな一緒なんだもの)
ルゥナミアはくすりと笑って、チロロを手に乗せた。
小さな雪小栗鼠のチロロは、これまでもそうしてきたように小さな黒い瞳でルゥナミアを、そしてシャンを見上げる。
ルゥナミアとシャンは目を見合わせて微笑んだ。
こうして、ふたりと一匹は共に地上から旅立った。
はるか彼方で待つ、家族のもとを目指して。
了




