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互いの頬に伸ばされた手

 発作は突然襲ってきた。


 ルゥナミアは服の上から心臓を押さえる。

 痛みに耐えながら、なんとか薬を口にふくむ。

 固めてあった薬が唾液で少し解けて、苦味が広がる。

 続けて、もうひとつ。


 ルゥナミアは咄嗟に御車台のほうを見た。

 幌は閉じられたままだ。


 シャンと呼ぼうとして声が出ないことに気づく。

 ルゥナミアは片手で床を叩いた。

 すぐに幌が開いてシャンが顔をのぞかせる。

 一瞬にしてその表情が固まった。


「ルゥナミア! 大丈夫か!?」


 ルゥナミアは胸の痛みに耐えながらうなずいた。

 痛みは治まらない。薬はまだ効かない。

 もしかしたら、もう効かないのかもしれない。

 このまま、心臓が止まるんじゃないかと、そんな不吉な考えがよぎる。


「もう少しだ。がんばれ」


 シャンの声が、耳もとで聞こえる。

 ルゥナミアは目を閉じた。


「がんばれ。大丈夫だ。がんばれよ」


 繰り返される声が、心地よい。

 触れてはくれない。

 でも、耳に届く声が優しく包んでくれる。

 それが、とても安心できた。


 馬車は走る。

 シャンが手綱を握っていなくても、馬はきちんと進んでいるようだった。

 やがて、揺れが止まった。


「ルゥナミア、着いたぞ」 


 シャンの声に、ルゥナミアは顔を上げた。


「動かしても、平気か?」


 ルゥナミアはうなずいた。

 心臓はまだ痛い。

 けれど、もう着いたんだ。

 そう思うと、あと少しだけならがんばれそうな気がした。


 ふわりと体が浮く。

 先に幌の外に出ていたシャンが、馬車の傍で待っている。


 外はすっかり明るくなっていた。

 東を見れば、反対側の半島の山の形が浮かび上がっている。

 いつ太陽が姿を現してもおかしくない、そんな空だ。


 シャンはルゥナミアを両手の上に浮かせるようにして、馬車から連れ出した。


 なだらかに続く丘がどこまでも広がっていた。


 朝日が丘に届いた瞬間、それまで沈んで見えていた丘が、一斉に色づいた。

 どこまでも続く青々とした草の絨毯には、色とりどりの花々が一面に散りばめられている。

 そよと吹く風に、草花が優しく揺れる。花弁が舞った。


 そこには、ルゥナミアの記憶の中にあるとおりの、美しいファフティリヤの丘が広がっていた。


 ルゥナミアは目の前の光景に息をのんだ。

 胸の痛みを、一瞬忘れた。


 視線を転じれば北には高くそびえる山々の影が見える。

 反対側を見れば、遠くに朝日を反射する海がある。

 その美しい風景にただただ見惚れて、それからようやく実感する。


「わたしたち、本当にファフティリヤの丘に着いたのね」

「ああ。そうだ」


 シャンもその場に立ち、広がる草原を眺めていた。

 ルゥナミアは用意していた包みを、そっと開いた。


(お母さん、ようやく着いたよ。遅くなってしまって、ごめんなさい)


 心の中で語りかける。


『ルゥナミア、ありがとう』


 母の声が聞こえたような気がして、ルゥナミアは周囲に視線を巡らせた。

 しかし母の姿は見当たらない。


 と、折好く吹いた風が遺髪を舞い上げた。

 遠ざかる母の遺髪を目で追う。

 けれどそれはすぐに見えなくなった。


「お母さん……」


 ルゥナミアが小さく呟く。

 その声もまた、風にまぎれて消えた。


(これでわたしの役目は終わったのね)


 ルゥナミアはほっとして息を吐いた。


「下ろしてもらってもいい?」

「ああ」


 シャンの返事に続き、体がゆっくりと地面に下ろされる。

 ルゥナミアは両足を前に投げ出して腰を下ろすと、手で草の感触を確かめた。


 草は朝露に濡れていたけれど、そんなことは気にならなかった。

 その冷たさが心地よかった。


「シャン」


 呼びかけると、シャンがルゥナミアの隣に腰を下ろした。


「どうした?」


 ルゥナミアへ視線を向けて、シャンが首を微かに傾けた。


「最期だから、触れてもいい?」


 役目を果たせたことにほっとした拍子に、本音がこぼれ出てしまった。

 恐る恐る訪ねたルゥナミアを見て、シャンが苦笑を浮かべる。


「いいよ。おれも、触れていいか?」


 あっさりと、シャンが答えた。

 その返事にルゥナミアは自分で訊いたのにも関わらず少し戸惑う。


「……本当にいいの?」

「触れられるのなら」 


 シャンがうなずきながら言った。


(触れられるのなら?)


 ルゥナミアはその答えに首を捻りながらも、腕を持ち上げた。

 ルゥナミアとシャンは、互いの頬にそっと手を伸ばした。


 あと少し。

 触れる直前でルゥナミアは躊躇する。


 ようやくという思いと共に、なぜか恐怖を感じたのだ。


 触れたくて、でも触れられなかったシャンの肌。

 ルゥナミアは勇気を振り絞って更に手を近づけた。


 そしてルゥナミアは驚きに目をみはった。


 指先が、するりとシャンの頬をすり抜けてしまったのだ。

 びくりと体を震わせて、ルゥナミアはとっさに手を引いた。


 シャンは哀しそうな瞳で、ルゥナミアの頬のあたりを見つめている。

 ルゥナミアの頬に伸ばされたシャンの手も、触れることなく、すり抜けてしまったのだとわかった。


 シャンの口もとに苦い笑みが浮かぶ。


「シャン……」

「ずっと黙っていて悪かった」


 名残惜しそうに手を引き寄せながらシャンが詫びる。

 ルゥナミアはシャンのその手を掴もうとした。

 しかしやはり触れることは叶わなかった。


 なんの感触もなく、少しの抵抗もなく、すり抜けてしまった自分の指先を、ルゥナミアはきゅっと握った。


「そういう、ことだったのね……」


 ぽつりと呟くように言う。

 シャンは黙ってうなずいた。

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