馬車
ルゥナミアをミハディエの宿に運び込んだとき、シャンは疲労困憊だった。
自分に残された時間もあと僅かなのだな、とシャンはぼんやりと思った。
ひとりでミハディエの町をさまよう。
とにかく、なんとしてでも馬車を探し出さなければならなかった。
ミハディエの細い道に石は敷かれておらず、久しく馬車は走っていないのだろう、轍も残っていない。
まるで、これからシャンがしようとしていることが、いかに困難かを知らしめようとしているようだ、などと自虐的に考えてしまい、自嘲する。
通りの両脇には肩を寄せ合うように木造の家々が並んでいる。
しかし町の外れまでゆくと、壊れたまま放置されている家が何軒もあった。
ここまで大砲の弾が幾つか飛んできたのだという。
そのために亡くなった者もいたらしい。
シャンは町の外れに立ち、来た道を振り返った。
ミハディエの町に宿屋は一軒だけ。
しかもシャンたちの他に客はいない。
町で若い男の姿を見かけることも少なかった。
町の男たちの多くは戦争で命を落としたのだという。
生きて戻ってきた者は多くなかったらしい。
そしてそんな男たちも、今は漁のため海に出ているのだという。
町には年寄りと女子どもだけが残り、細々と生活しているようだ。
馬車どころか、馬の一頭すら見かけることはなかった。
シャンは町の中で馬を探すことを諦めて、街道まで出ることにした。
ルゥナミアは今、薬を飲んで寝ている。
シャンが部屋を出ようとしたとき、また発作が起きた。
いつものように薬を飲ませたけれど、一向に発作の治まる様子がなくて焦ったが、多めに服用することでなんとか治まった。
ルゥナミアの発作をこれまでに何度も目にしているシャンでも、今回ばかりはさすがに背筋が寒くなった。
なんとかもちこたえたけれど、次に発作が起きたらもうもたないかもしれない。
そんな予感がした。
シャンは、ルゥナミアに相談して所持金のほとんどを持って宿を出て来ていた。
馬代には遠く及ばないだろうが、馬の賃借料になればと思ってのことだった。
宿代は既に払っているし、ファフティリヤの丘までは馬車をとばせば半日で着く。
ここから先、金が必要となることはないように思われた。
ファフティリヤの丘に着いたあともまだ生きていられたなら、それからのことはそのときに考えればいい。
シャンの親戚なり知り合いなりを訪ねてもいい。
驚かれるだろうことは間違いないけれど。
それも、無事ファフティリヤの丘に着けたらの話だった。
シャンは街道の脇に佇んでいた。
しばらく待っていたのだが、通り過ぎるのは歩きの旅人ばかりだった。
(ルゥナミアは大丈夫だろうか)
離れている時間が長くなればなるほど、不安が募る。
なによりついさっき発作を起こしたばかりなのだから、本来なら傍にいてやるべきだった。
だが、傍にいたところで、病が治ることはないのだ。
ここで待つよりは、大きな都市まで行ったほうがいいのはわかっている。
しかしそのためには内陸に入って行かなければならない。
ここから近い都市まで、シャンひとりでも片道半日はかかる。
そんなに長いあいだルゥナミアをひとりにしておくのは、危険すぎた。
それに、一日という時間が、今のルゥナミアにとってはとても長い。
一日。たった一日後ですら、ルゥナミアがまだ生きているという保証はないのだ。
時間が無為に過ぎてゆく。気持ちばかりが焦る。
シャンは空を見上げた。
黄昏時だった。
西の空が、茜色に染まっている。
ふいに、一台の馬車が近づいてくる音が聞こえた。
幻聴かと思い耳をすませたが、確かに聞こえている。
突如、目の前に現れたのは、幌の張られた立派な馬車だった。
どこから現れたのか、どこへ行くのか、どんな人が乗っているのか。
そんなことを考える余裕などシャンにはなかった。
シャンはその二頭立ての馬車の前に飛び出した。
この機会を逃してはいけないと、そう思った。
怒鳴られるのを覚悟していた。
けれど馬車は、まるでシャンが現れるのを知っていたかのように、シャンの手前で静かに止まった。
「すみません。どうか一日だけ馬車をお貸しいただけないでしょうか」
シャンはその場で頭を下げた。
無理は承知している。
こんな、なにもない小さな町の傍で馬車を貸してしまったら、馬車の持ち主が困るだろうことは目に見えている。
それでも、シャンはこの馬車を借りなければならなかった。
膝をつき、頭を垂れ、それで貸してもらえるのなら安いものだと思った。
ところが――。
「兄さん」
御車台から投げかけられた声に、シャンは弾かれたように顔を上げた。




