出会い2
正しい判断だ、とルゥナミアは思った。
行き倒れている人が疫病に罹っていないという保障はないのだから。
ルゥナミアはゆっくりと皮袋に手を伸ばした。
袋をつかんで自分のほうに引き寄せ、震える指先でなんとか袋を開けて水を口に含む。
水が体にしみこんでゆく。
ルゥナミアは目を閉じ、その感覚に身を浸した。
微かな音が聞こえてそちらを見ると、チィが木皿に口をつけているのが見えた。
シャンがチロロ用の水も準備してくれたのだ。
水を飲みながらも警戒は怠っていないようで、チロロの耳がぴくぴくと動いている。
「大丈夫か?」
「……ええ。ありがとう」
今度は擦れてはいるものの、なんとか声を出せた。
ルゥナミアはなんとか笑顔を作り、礼を言った。
ルゥナミアの顔を見たシャンが、僅かに目をみはる。
「そうか。それならよかった」
視線を逸らしながらシャンが言った。
せっかくきれいな顔をしているのに無愛想な人だな、とルゥナミアは思う。
いつまでも寝転がってるわけにもいかず、ルゥナミアは体の具合を確認しながらゆっくりと立ち上がった。
頭痛はまだ残っているが、めまいは治まっていた。
心臓の具合も、今のところ心配はなさそうだと判断する。
「わたしはルゥナミア。とても助かったわ」
顔や服についた汚れを払ってからルゥナミアは名乗った。
「おれはシャン。うろついていたら、たまたま君を見つけたんだ。生きてるならなによりだ。早く家に帰れよ」
「そうするわ」
ルゥナミアは笑顔で嘘をついた。
「じゃあ」
短く言うと、シャンはルゥナミアに背を向けた。
角を曲がったシャンの姿は、すぐに見えなくなった。
水を飲み終えたチロロがルゥナミアに駆け寄る。
手を差し伸べると、腕を駆け上がってきたチロロが定位置である左肩の上にちょこんと乗る。
「今度こそお財布を取り返さないとね」
チロロに話しかけながらルゥナミアは歩き出した。
「おい」
突然声をかけられ、ルゥナミアはびくりと肩を震わせた。
角を曲がったすぐそこで、シャンが壁に背を預けて立っていた。
「家に帰れって言っただろ」
苦々しそうにシャンが言う。
ルゥナミアの声が、聞こえていたようだ。
「家には、帰れないもの……」
ルゥナミアの口から、つい本音が漏れた。
「どんな事情があるのかは知らないけど、命には代えられないだろ。なにか食べないと、本当に死ぬぞ」
「なにか食べるために、お財布を取り返すのよ。それに、わたしの家はずっとずっと遠い場所にあるの。お財布を取り返さないと、家に帰り着く前に間違いなく死んでしまうわ」
ルゥナミアの答えを聞いたシャンが息をのむ。
「わたしは旅の途中なの。お母さんは病気で死んだし、わたしも同じ病気でもうすぐ死ぬわ。でも、その前にやらないといけないことがあるの。だから家には帰れないし、帰るつもりもない。死に場所は決めているわ」
シャンは黙ったままルゥナミアを見て、それからチロロを見たかと思うと、再びルゥナミアに視線を戻した。
そして軽く頭を振りながら、小さく嘆息する。
「……財布を取り返すって、いったいなんのことだ?」
シャンに訊かれて、ルゥナミアは正直に事情を話した。
ここまで話した以上、隠す必要はないと思ったからだ。
聞き終えたシャンは、目を閉じてしばらく何事かを考えていたが、やがて目を開け、ルゥナミアを真っ直ぐに見た。
「……わかった。おれが手伝ってやる。せっかく助けたのに、その辺で死なれたら後味が悪いからな」
シャンの言葉に驚いたルゥナミアは、目をみはった。
予想外の展開だった。
この少年を信用してもいいものなのかどうか判断しかねたけれど、ルゥナミアとチロロだけで財布を取り戻すのは不可能に近いということには、薄々気づき始めていた。
それに、行き倒れていた自分を助けてくれたのだから、悪い人ではないだろうと、そうルゥナミアは結論づけた。
シャン以外の誰も、倒れているルゥナミアには近づいてさえ来なかった。
声をかけてくれたのも、助けてくれたのも、シャンだけだった。
「お礼はあまりできないけど……」
「構わない」
申し訳なさそうに言ったルゥナミアに向かって、シャンは興味なさそうに答えたのだった。
「で、財布を取り戻したらどうするんだ? どこに向かってるって?」
「丘に行きたいの。お母さんの故郷なのよ。昔、わたしも一緒に行ったことがあるわ。お母さんは死ぬ直前まであの丘のことを話していた。そして、遺髪をあの丘にまいてほしいとわたしに頼んだの。とても美しい丘よ。どこまでも続く草原、風に揺れる色とりどりの花々、遠くには一年中その山頂に雪を戴く美しいシーリン山脈が見えるわ」
「シーリン山脈……」
シャンの瞳が、微かに揺れた。
「その丘は、ミシェンバール王国の南西に位置するタギ大公領にあるんじゃないのか? 丘の名はファフティリヤ」
ルゥナミアは目を丸くした。
シャンの口から出たその名は、まさに彼女が目指している丘の名前だったからだ。
「あの丘を、知っているの?」
「……おれの、故郷だ」
今度はルゥナミアが息をのむ番だった。
(こんな偶然が、本当にあるというの?)
ふたりは見つめあったまま、その場に佇んでいた。
ふいに痛みを感じて、ルゥナミアは思わず胸を押さえた。発作だった。
シャンがはっとした表情を浮かべ、一歩ルゥナミアのほうに踏み出す。
その顔が昔の記憶に僅かに残っている人物の影と重なった。
あ、と思った次の瞬間、ルゥナミアの体は傾いていた。
しかし地面に倒れる前に、体は動きを止めた。
体を支えられる感覚にほっとしながら、ルゥナミアはまた意識を失った。
――それが、今から半年ほど前の出来事だ。




