小舟
小舟は波間に静かに浮いている。
シャンは空を見上げて、息を吐いた。
空には丸みを帯びた月が浮いている。
海はもうすっかり静まり返っており、その海面は降り注ぐ銀の光を反射してきらきらと光って見える。
海は、大きな船をひとつ、そして小舟をいくつか飲み込んだことなど、すっかり忘れているかのようだった。
あの嵐の中、こんな小さな舟が無事でいられる可能性はとてつもなく低かった。
船には避難用の小舟が何隻か積んであったはずなのだが、周囲にこの舟以外の船影はない。
船にひとつだけ残されていた小舟にルゥナミアとチロロを乗せ、シャンは荒れ狂う海へと漕ぎ出した。
しかし自然のあまりにも強大な力の前に、一隻の小舟はあまりにも非力すぎた。
そしてシャン自身も。
小舟を浮かせて一気に陸まで運ぶほどの力はない。
もともと、人ひとり浮かせるだけでかなり消耗するのだ。
せめて波にのまれないように、波の上を滑るように。
それだけに意識を集中させて、小舟を移動させたのだった。
今、ルゥナミアは小舟の中で静かに眠っている。
月光に照らされたその顔は青白く、投げ出された足はかなりむくんでいる。
それでも、なんとか生き延びることができた。
当面、危険はないように思えた。
シャンは疲れ果てていた。
このままでは、ファフティリヤの丘までもちそうにない。
張り詰めていた気持ちを緩める。
舟に当たる波の音だけが聞こえている。
海の上はとても静かだった。
海面をぼんやりと眺めながら、今後のことを考える。
少しだけ休んだら、できるだけラハイ湾に近い場所へ舟をつけるつもりだった。
人目があるといけないから、浅瀬に着いたら不自然に思われないように、舟を押すふりをしたほうがいいだろう。
陸に着いてからは、どんな手段を使ってでも馬車を手に入れようとシャンは決めていた。
もしかしたら、強引に拝借することになるかもしれない――つまり盗むということなのだけれど――とも考える。
その場合は、あとで持ち主が取りに来られるように行き先を書いた手紙を残すことにする。
ファフティリヤの丘までたどり着ければ、シャンたちにはもう馬車など必要なくなるのだから。
『チィ』
チロロの鳴き声がすぐ近くで聞こえた。
「大丈夫だよ。必ず連れてゆく」
小さな声で呟く。それは決意だった。
ルゥナミアが歩けないのであれば、シャンが運べばいい。
覚悟は決めていた。
ファフティリヤの丘で力尽きるのであれば、本望だと思っている。
普段は、日常生活において物に触れられないことを補うために使っていた能力だ。
この能力を上手く使えば、実際にこの手に物を持っているように見せかけることができる。
荷物を運ぶとき、ドアを開けるとき、不自然に見えないように上手く能力を使うよう心がけてきた。
ルゥナミアは、シャンに不思議な能力があることは知っているが、シャンが全ての物に触れられないことには気づいていないのだろう。
だからルゥナミアはシャンが自分に触れることだけを避けていると勘違いしているのだ。
そのことで、ルゥナミアを傷つけてしまったことは、後悔している。
ルゥナミアに隠していることは、他にもある。
最初は隠すつもりなどなかった。
けれど一緒に旅をするうちに言い出しにくくなり、そのままずるずるとこんな場所まで来てしまったのだ。
ルゥナミアの心臓に負担をかけたくないという思いも少なからずあった。
けれど、ルゥナミアをこれ以上傷つけるのは、耐えられなかった。
ファフティリヤの丘に着いたら全てを話そう。
シャンはそう心に決めた。




