戦火
(奇跡だわ)
ルゥナミアはあの夜、チロロの息が完全に止まってしまったことを知っている。
そのとき、同時に自分の心臓も止まったような気がした。
けれどその直後、チロロは生き返ったのだ。
止まったかのように思えたルゥナミアの心臓も、いつものように鼓動を続けている。
あのとき以来、チロロはまるで息をしていないかのように静かに寝ていることが多いけれど、名を呼べば顔を上げる。ときどき鳴くこともある。
(チロロは大丈夫。大丈夫に決まってる)
ルゥナミアは何度も自分に言い聞かせる。
もう、二度とあのときの恐怖を味わいたくはなかった。
――-
海は広かった。
ルゥナミアがそれを口にしたところ、「なにを当たり前のことを」とシャンが呆れた顔をして言った。しかしルゥナミアは本当にその広さに驚いていたのだ。
陸から見た海は、大きな湖だと言われたらそんなものかしら、と思えた(潮の臭いやねばつく潮風や寄せては返す波は別として)。
しかし大海原の中、四方八方海しか見えない状況になって、ルゥナミアは海の広さを実感したのだった。
あまりの広さに恐怖すら覚えた。だがそれ以上に圧倒された。
海の、そして世界の広さに。
「すごーい……」
ルゥナミアは甲板で、潮風を受けながら海を見ていた。
気候は暑すぎず寒すぎず、風も強すぎず、甲板を散歩するにはうってつけだ。
船に乗って、四日が経過していた。
「体は?」
シャンがぶっきらぼうな口調で訊く。
「大丈夫」
倦怠感が常にあった。めまいを起こす回数も増えた。
だが、まだ歩く程度ならできるし、ご飯も食べられる。
「ならいいけど。船にして良かったな」
「うん」
その点はルゥナミアも認めていた。
最初は船酔いで随分と辛い目にあったけれど、ルゥナミアが寝込んでいても船は進む。
休んでいるあいだも先に進めるというのは、なんだか不思議な感じだったが、とてもありがたかった。
乗船してニ、三日が経過したころ、船酔いは治まった。
ルゥナミアとシャンは、しばらくのあいだ黙ってその場所に立っていた。
「シャンは……」
「ん?」
「シャンのご両親は今もファフティリヤの丘の近くに住んでいらっしゃるの?」
返事はなかった。シャンを見ると、その瞳が微かに揺れている。
もし、もし自分に時間の余裕があったら挨拶に行きたかった。
ただ単純にそう考えて訊ねただけだった。
「シャン?」
「死んだんだ。戦争が始まって少し経ったころだ。ハーラス帝国の海軍がラハイ湾近海に攻撃をしかけてきた。そこから挟撃に出ようというわけだ。そしてハーラス帝国軍は勝ち進み、ラハイ湾内に侵入。ファフティリヤの丘も攻撃を受けた。そこでおれたち家族も被害にあった。両親はファフティリヤの丘で死んだ」
「え……?」
(あの、美しい丘が戦争の被害にあった!?)
そんなことは想像もしていなかったルゥナミアは驚きに目を見開いた。
ルゥナミアの中で、あの丘は何者も侵害できない、理想郷のような存在だったのだ。
記憶の中にある美しい姿で、いつまでもそこにあるものだと……。
「なんで言ってくれなかったの?」
ルゥナミアの声がかすれた。
知っていれば……知っていれば、もうちょっと配慮した行動ができたはずだった。
シャンにとって、両親が亡くなったファフティリヤの丘を目指すことは辛いことだったのではないかと不安になる。
シャンは、放浪楽師たちが奏でた『遥かなる美しきファフティリヤの丘』をどのような気持ちで聴いていたのだろうと考えると、胸が締めつけられるように苦しくなった。




